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サンド
 
見て・聞いて      

仏教は、さまざまな説き方があります。
南無阿弥陀仏の教えは、その中の
一つです。

仏説無量寿経に説かれる阿弥陀如来の
本願のはたらきで、すぐれた功徳を、
すべての衆生に与え、「南無阿弥陀仏」
一つで、救われることを、教えてくださった
のが親鸞聖人です。

親鸞聖人を、宗祖と仰ぐ、浄土真宗の
本願寺派。
そこに所属する九州・佐賀の一寺院で
製作しているのがこのホームページです。

「南無阿弥陀仏」の味わいを、電話で
お話ししています。毎週木曜日に、
内容を変更しています。

法話原稿をこのページに掲載して
います。ここで、「見て、聞いて」 ください。
メールマガジン始めました 
「こんな話を聞きました」。

             

0952
 -24-1800

(佐賀局  ニシ  ホンガンと
記憶してください。)

24はニシ、西。 本願は、18願。
そこで、24-1800は、西本願



第1630回 よろこぶ こころ みにうれば

令和6年 4月25日~

 お料理の店を開いていた板前さんは、
自分がつくった料理を 美味しい、美味しいと
食べてもらうのが、一番うれしかったと。話してくださいました。

 現役を退いた今でも、材料が手に入るとドレッシングなどを
大量につくって、近所の人に配っていますと、私も一ついただきました。

 まるで、仏さまのようですね。
仏さまは、お浄土へ生まれるのだと知った人が、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と喜んでお念仏をしている姿を見るのが、最もうれしいと、
喜んでおられるといいますからね。

 私たちが子どものころから受けてきた教育は、新たな知識を得ることで
表には現れていない、いろいろの事実を発見し理解出来るようになり、
より多くの喜びを感じることが出来るようになるものです。

 それに対して、宗教は ごく普通の当たり前のもの、平凡な出来事を、
ちゃんと見て、気づき、感じる力を 育てていこうとするもの
でしょう。

 仏さまのお話を聞くことで、この私のためにどれだけ
多くの人々が ご苦労いただいているのかを、感じとる力が、
育て
られていくと、どこにでもある平凡で、当たり前の、
普通の出来事が
実は、大きな意味、 素晴らしい存在であり、
有り難いことであると
気づき感じ取ることができるようになるものです。

 そうした力が、身につき始めると、私の人生は 平凡で、
つまらないものではなくなり、とても有り難く意義あるものであると
感じられてくるものです。
鈍感な私に その真実を知らせ、感じ味わうことの出来る力を 
育ててくださるのが、南無阿弥陀仏の教えでしょう。

 南無阿弥陀仏のお念仏は、自分で経験する前に、失敗する前に
その真実を、有り難さ豊かさを気づかせるはたらきがあるものです。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、お念仏の教えに遇うことで、
大きな力が、はたらきがあることを、知らせることによって、
普通で、当たり前にしか見えないものを、出来事を、本当は
とても有り難く、素晴らしいものであることに気づかせ、
それを感じ取り、感動する能力を育てていただくのです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を聞き、口にする生活は、
その感受性が
身につき、育てていく、はたらきがあるのです。
お聴聞することで、親たちが最も喜んでくれる生き方が、
知らされるのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 は 仏さまの願い 親たちの願いです。








第1629回 視点が変わると 世界が変わる

 令和6年 4月18日~

 本願寺派の宗門学校 中央仏教学院には、通信教育があります。
そのホームページに、「通信教育で学びませんか」と、
福間学院長のこんな誘いのことばがありました。


 ネットにこんな話が載っておりました。
あるサラリーマンが真夏に出張に出かけ、電車を降りてバスに乗りました。
するとバスは満員ですごい熱気でした。

「しまった、タクシーにすれば良かった。」でもバスは動き出し、
もうどうしようもありません。

すると赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。もう最悪の状況です。
彼は思いました、「ああ最悪のバスに乗ってしまった。」すると、
その泣き声が近づいてきました。
赤ちゃんを抱いたお母さんがバスを降りようと、入口近くにいる
彼に近づいているのです。

良かった、煩わしいのが下りてくれる。」と思っていたら、

バスの運転手が下りようとしているお母さんに聞いたそうです。
「その赤ちゃんはどうされたのですか?」
「熱があって泣いているのです。」
「でも大学病院はバス停が3つ先ですよ。」
「この子が大泣きして迷惑をかけているので、ここから病院まで
  歩いて行こうと思うのです。」
こんな会話がすぐそばの彼に聞こえてきたそうです。

 するとバスの運転手は、やおらマイクで乗客に語りかけました。
「この赤ちゃんは熱があるそうです。あと3つのバス停で病院です。
  それまで我慢していただけませんか?」と。
その後バス内は大拍手が起こったそうです。
お母さんは泣きながら乗客達に有難うとお礼をしたそうです。
その時サラリーマンは思ったそうです、
「自分は最高のバスに乗った。」と。


 この運転手の言葉の働きが仏法です。
視点が変わると世界が変わるのです。
仏法の視点を持つ時、今までとはまったく異なる世界が広がります。
閉塞した世界が広い世界に転じられるのです。

 みなさんも通信教育で仏教を学びませんか。
家事やお仕事をされながらでも学ぶことができます。
まず、いつでもどこでも短時間で仏教・真宗が学べるようにと、
スマホやタブレットで学習できる入門課程を用意しています。・・・・と


 損得勝ち負けだけの価値観で生きていますが、
仏教の教え、お念仏の教えに出会うと、違った世界が見えてくるものです。
お聴聞 お聴聞といいますが、新たな価値観を知らされていくのです。
それがお念仏の教えです。











第1628回 仏さまは 忘れずに

 令和6年 4月11日~

 こんな話を聞きました。
浄土真宗には 有り難い学者さんが沢山いらっしゃいますが、
昭和の初期に 広島に是山恵覚 (これやま えかく) という
和上 (わじょう) さまがおられました。

 たくさんの書物を残されており、また、たくさんのお弟子さんを
お育てになった有り難い方です。

 しかし、晩年には残念ながら認知症になられ、毎朝お勤めして
おられた正信偈でさえも、最初の「帰命無量寿如来……」は
出てくるものの、次の二句目が、どうしても出てこないことも
ありました。

一緒にお勤めをしておられた坊守さんは、
「昔は、難しいことばでも、みんな暗記し、すらすらと書かれて
いたのに、いまでは、お正信偈も出てこなくなって……」と、
悲しそうにつぶやかれました。

 それを聞いた和上さまは、
「私が忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、大丈夫じゃのう」
坊守さまに向かって、「私はあんたの顔も忘れていくじゃろうし、
この口から、なまんだぶつのお念仏も、出てこなくなってしまうかもしれん。
それでも、大丈夫。大丈夫。


私は何もかも忘れても、私を忘れてくださらん仏さまが、いまここに
いらっしゃるじゃないか。なまんだぶつの仏さまが、いまここに
おられるから、何の心配もいらん、私のお浄土参りに、何の問題もない」と。


 いのちの長い短い、死に方の良し悪しも一切問題ない、
あなたの生き方に、何の要求もされない。あなたの身の振る舞いに、
何の注文もつけない。今後あなたがどのような生き方になっても、
どのようないのちの終わり方になっても、決して見捨てたりはしない。

 いまこの私のいのちと、ご一緒に、歩みを運んでくださるお方が
阿弥陀さまという仏さま。何があっても、お浄土に一歩一歩、
一緒に足をお運びくださる、仏さまです。

苦難の多い人生ですが、南無阿弥陀仏の仏さまとご一緒に、
生き抜いていける道が、ちゃんと整えてあると味あわさせていただきます。









第1627回 体の中では 変化が

 令和6年 4月4日~

 こんな話を聞きました。
誰かに親切にしたことを、思い出せますか ? 」と
質問すると、多くの人が なかなか思い出せないものです。

ところが、親切をしているという自覚がないまま、
人とすれ違う時に道を譲ったり、道に迷っている人を案内したり、
氣づけば普通にしているものです。

『親切は 脳に効く』(デイビット・ハミルトン著、サンマーク出版刊、
2018530日初版発行)という本があり、そこには
親切な行為を、科学的に検証してみると、本人にも他人にも社会にも
プラスの副作用を もたらすと書かれています。

 気遣いや親切は、日本人には当たり前の話で、先祖代々受け継がれ、
遺伝子に組み込まれたもののひとつでしょうが、親切な行いが
気持ちがいいのは 脳内ホルモンのオキシトシンが、増量され
炎症を抑える作用や、心臓を強くし、血圧を下げ、老化を遅らせ、
うつ症状を治すなど、大きなはたらきがあるからだといいます。

 あの人は、とても若く見えるとか、どうも老けて見えるなど、
その人の見た目の印象も、親切や・やさしさに包まれた生活を
しているのか、そうでないかで、違ってくるのでしょう。

 日頃、親切にすることが出来る人は、自分に対しての親切や、
思いやりにも、敏感に気づくことが出来、感謝の気持ちを
持てるものです。
ありがとうと思う時、脳内では、幸せホルモンのセロトニン、
集中力・意欲アップや幸福物質とも呼ばれるドーパミン、
絆ホルモンと呼ばれるオキシトシン、免疫アップなど脳内麻薬とも
言われるエンドロフィン等が分泌されると言われています

 南無阿弥陀仏のお念仏は、私のことをいつでも、どこでも、
思っていてくださる方があることに、気づかされ、感謝することばです。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と聞えてくると、数々の思いやりや、
親切に気づかされ、いつも見守ら、励まされていることを実感し、
感謝の気持ちが起こるとき、私の体の中では、大きな変化が起こって
いるのです。

 お聴聞をして、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にする生活は、
ここちよく、ありがとうございますと、よろこびを感じられるのは、
こうした体の中の変化が起こっているからなのでしょう。










第1626回 これさえ残せば

 令和6年 3月28日~

 墓地の草を取っていると、高齢の男性がお参りになりました。
今日は 父親の命日で お参りにきましたと、50回忌もとうに終わり
80年前になくなった父親です。

 その方がおっしゃるには、日にちと時間を知らせる目覚まし時計で
起こされたのですが、今日が父親の命日であり、また外孫の
一人の誕生日であることに気づきました。

ご院主さんに教えていただいて、今ユーチューブで、ご本山の
ご晨朝に、毎日あわせていただいていますが、お勤めの後、御文章を
聞きながら思いました。とお話しくださいました。

 一年365日ですから、確率は365分の一でしょうが、たまたま
孫が私の父親の命日に生まれています。父から見ればひ孫にあたるのですが、
その孫が、これからの長い人生、どうか喜び多い豊かな人生を送って
くれるようにと願うものの、遠くに住む孫に対して、経済的に
援助してやれるだけの財力もなく、何かしてやりたいものの、
どうしてやることもできません。

 そう思っていると、私が子どもや孫を思うように、私の父親や
祖父母も同じように私のことを思っていてくれているのだろうなあと、
思い当たりました。

ご本山の、御文章の拝読を聞きながら、これこそが、親たちが
私に当てた手紙であり、そして、私が子どもや孫に伝えたい内容であることに
気づきました。

お念仏の教えにさえ出会ってくれれば、老病死、いかなる苦しみの時も、
きっと力強く生き抜いてくれるに違いない、これさえ残しておけば
間違いないと思いあたりました。

そこで、孫や子どもが、間違いなくお念仏に出会うことができるように、
はたらきかけてほしい、ご縁をつくってほしいと、お墓参りにきたのです。と。










第1625回 みんな違ってみんないい

 令和6年 3月21日~

こんな話を聞きました。
日曜学校の子どもたちに、
赤い丸いものをイメージしてくださいというと、
それぞれに違ったものを教えてくれます。

真っ赤なリンゴ、トマト、イチゴ、太陽、信号機、日の丸の旗、など
いろいろなものをイメージして発表してくれます。
同じ、ことばでもそれぞれに違って受け取るものであることを
教えてくれます。

私たちは自分と同じことをみんな思っていると、ついつい思いがちですが
そうではなく、みんなそれぞれに違った受け止めをしていることが
分かります。

いくら説明しても、あの人はどうして分かってくれないのかと、
悩みをもつものですが、それぞれに個性があり
自分とは同じではないことを、理解しておきたいものです。

そういう自分自身でも、時とところと、時代が変われば同じ言葉でも
まるで違ったものを想い浮かべています。
子どもの頃から、正しい答えは一つと、思い込んで成長してきましたが、
大人になってみると、答えは沢山あるものです。

 お経には、青い花は青く輝き、黄色の花は黄色く、赤い花は赤く、
白い花は白く、それぞれに、すばらしく美しく、その香りは気高く
清らかであるとお浄土のことが説かれています。


それぞれの花がいのちをもっていて、自らの色そのままで輝いて
咲くことが尊いことであると語られています。


花の色は、人間の個性をあらわしており、この世の中に
たった一つしかないかけがえのない尊いものです。

他と比べて優劣がつけられるものではありません。

私が私に生まれたということ、そのことが尊く思え、
そして一人ひとりが今、輝いている。
みんな違ってみんないい、そう味わえる人生を
送らせていただきたいものです。










第1624回 いつも 私を

 令和6年 3月14日~

 知り合いのお嬢さんの結婚披露宴に出席しました。
新郎新婦の紹介が、写真を大きく映しながらありましたが、
新婦さんが、こんな風に話してくれました。

アルバムを開き、多くの写真を見ながら、
どの写真を使おうかと、選び出していたとき、気づいたことがあります。

 赤ちゃんの時から、幼稚園、小学校といろいろの行事、
そして、遊園地や海水浴、旅行と家族揃って写った沢山の写真に
兄弟や母親は、写っているのに、父親の姿が、一つもないのです。

 知らない人が見れば、父親の居ない家族と思われるでしょうが、
車を運転して、いつも連れていってくれたのは、お父さんでした。
そのお父さんが、どこにも写っていない。
それは、いつも父さんが写真を撮ってくれていたからです。

 そう思って、写真を選んでいると、どの写真も、
ただの記念写真ではなく、お父さんのまなざしの記録であるということに
思いあたりました。

 当たり前になっていましたが、
いつもあたたかいまなざしの中に、生かされていたことに
写真を選びながら、はじめて気づきましたと
父親への思いとお礼のことばがありました。。

 これを聞きながら、
私の周りの多くの人々も、阿弥陀さまも、
どの写真にも写っていませんが、いつも私を見守り、励まして

くださっているのに、気づいていない私がいることに。

 私が気づかなくても、いつも見守って応援し、サポートして
くださっているのに、気づかなければ、何でもないことですが、
気づくと、本当に有り難いことだと、感じさせていただきました。

当たり前で終わらずに、多くの思い、はたらきかけに、
気づくか気づかないかで、私の人生は 大きく違ってくることを。











第1623回 はたらき続ける

 令和6年 3月7日~

 先日 お寺の年忌法要をお勤めしました。そこで、こんな
挨拶をしました。

 西蓮寺さま 光明寺さま そして、ご参列くださいました
みなさまのお陰で 前住職の25回忌 前坊守の7回忌法要を 
おつとめすることができました。誠にありがとうございました。

 次の 33回忌は 8年後、 13回忌までは 6年もありますので、
これは、若い方に、よろしくお願いしたいと思います。

 若いといえば、今 若い人の将来の人気の仕事は、ユーチューバー
だそうですが、このひと月 私も ユーチューバーをやっておりまして、
ユーチューブに画像をアップしておりました。

 内容は、電話で法話をしておりますものを、動画にしたもので、
親鸞聖人のまとめていただきました、『教行信証』によれば、
お釈迦様が説きたかった、仏さまのはたらきは

お浄土へ往生させる 往相と、 仏となったら、この私たちを導く
還相のはたらきがあるということだとあります。

 どんなはたらきか、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と耳に聞こえる
仏さまとなってはたらきかけておられるとあります。
ですから、今日、ずうーうと、はたらきかけ続けていただいていた、
そうした内容を 四、五分でアップしたものを、30本ほど、
現代語訳のお聖教と合わせて120本ほど、アップしております。
 一日、300回ほどアクセスはありそうです。

 

 これは、1000人の登録があれば、コマーシャル料の一部を
いただけるそうで、それを期待していますが、現在 521人の段階です。
どうぞ、ご協力くださればありたたいことです。

 本日は お忙しい中、みなさま誠にありがとうございました。
孫、ひ孫、ヒイヒイ孫も、参列しておりますので、
仏さまに成られた お二方も喜んでいただいていると思います。

別室で、おときを準備いたしておりますので、そちらへどうぞ、










第1622回 諦めず呼び続ける

 令和6年 2月29日~

 大阪に行信教校という 浄土真宗の専門学校がありますが、
その卒業生の方が 在学中の校長先生のご法話を思い出して
こんな話をされました。

 まだ携帯電話が珍しい頃のこと、新しいもの好きのこの先生は
早速購入されたそうです。しかし、携帯電話の電源はいつも
切ったままだったと言います。
それは、どこからか電話があるのが、イヤで、自分の方から電話を
するとき以外は、電源を入れることはなかったといいます。

 ある日、先生が 外出中に、お寺に急ぎの電話があり、
坊守さんは住職さんに、連絡をとりたいものの、いくら電話をかけても
つながらない。
それでも、諦めないで、繰り返し繰り返し、電話をされ、いつか電源が
入るときに、気づいてもらえるように、かけ続けられたそうです。

 そして、ついに、重要な急ぎの連絡がとれたことがあったといいます。
そのことを、校長先生は、ご法話で、有り難いことだと気づいたと。
阿弥陀さまも、こっちが電源を入れていなくても、気づかなくても、
絶えず、呼び続けていただいている、いつか気づいてくれるだろうと、
諦めず呼び続けていただいているということに、
携帯電話を通して、阿弥陀さまの有り難さを 改めて
味わわせていただいたとのお話だったといいます。

 「心配いらない必ず救う お浄土に生まれさせ 仏にするぞ」との
はたらきかけに気づかずにいるのが 私たちなのでしょう。
それでも、あきらめることなく南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
呼び続けていただいている。

いつかは気づいてくれることを願いながら、そして、先だった父、母、
祖父母は、阿弥陀さまと一緒になって、一日でも早く気づいてくれ、
気づいてくれと呼び続けていただいている。、

 そして、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏の呼びかけに気づくことが出来れば、
平凡なつまらない、当たり前の人生ではなくなりますよ。
仏さまになるこの身であることに気づかされ、人生の受け取り方が、
生き方が違ってくるものですよと、
はたらきかけ続けておられるのです。
私のことを、諦めず呼びつつけていただいているのです。

自分だけのいのちではなく、仏さまになる尊いいのちを今
生かされているのですと。











第1621回 ける かるのご法話

 令和6年 2月22日~

こんな 話を聞きました。
「ける・かる」という お話です。

 ある法座で、連続してご法話があり、最後のご講師の
時間が無くなってしまいました。
そこで、ご住職さんは、大変申し訳無さそうに、
終わりの時間も迫っていますので、ご法義を短く、一言で
お願い出来ませんでしょうか、お頼みしますと。

 その先生は分かりましたと、うなずき登壇されました、そして、
ご門徒を一通りご覧になり、
「ける、かる」とおっしゃって、「肝要は ご文章で」と、
ご文章を拝読され、降壇されてしまいました。

 一瞬の出来事に、ご門徒は唖然とするばかり、
驚いたご住職さんが、あわてて講師控室に伺って
誠に申し訳ありませんでした。ご無理を申して、でも
どうゆう意味なのでしょうか。「ける・かる」とは、恐縮しながら
お尋ねしました。

「一言でとのことでしたから、一言で話したまでのことですよ」と、
ご住職は、どういうことでしょうか。と
ご講師は、「ける」とは、阿弥陀様のお喚び声、はたらきです。
それは、私の行為や努力に関係無く、必ず救ってくださる。
阿弥陀様は、助けるの仏さま、つまり、【助(ける)】の、けるです。

 そして、「かる」とは、私の側の話です。
その阿弥陀様のお救いに私たちの疑いや、はからいを、持つ余地もなく
南無阿弥陀仏で、私は、ただ助かるのです。
つまり、私の方は【助(かる)】、ただ助かる(救われる)だけ。
ですから、かるです。

阿弥陀様は、私を助けるのける、
私の方は、 助かる、かるです。
そこで、「ける、かる」と一言お話いたしましたと。

これ以上短い法話はないでしょう、これこそが浄土真宗の神髄です。

「ける、かる」に込められた阿弥陀様のお心、すべての人を救うという
阿弥陀さまのはたらきのお話です。









第1620回 赤ちゃんに聞く

 令和6年 2月15日~

 西本願寺のお晨朝のご法話で、こんな話に出会いました。

ある布教使さんが、布教のため海外に出かけられた時のこと、
ご法話の後に、質問の時間があったそうです。
そこで、ある若いご婦人が、「お任せする、阿弥陀さまに任せる」
ということは、どうゆう事ですかとの質問があったと言うことです。

 外国の人に、どのように説明すれば理解していただけるか、
一瞬迷ったものの、質問した方が赤ちゃんを抱いているのに気づき、
「その答えは、抱っこしているあなたの赤ちゃんに聞いてみてください」と
答えられたということです。

 赤ちゃんは、母親を信じ切って、すべてを任せて安心して抱かれています。
お腹がすいたら泣けば、間違いなくおっぱいがもらえます。
何の疑いもなく母親に任せきりで生活しています。
同じように 私たちも、阿弥陀さまにおまかせして生活するのが、
浄土真宗の教えとの味わいでしょう。

 ところで、思い出すと、赤ちゃんも成長し、少し知恵がついてくると、
なかなかそうもいきません。
小さな子どもを、遊園地に連れて行ったとき、ジャングルジムにつかまり、
年上の子をまねて、どんどんと登っていき、一番高いところにまで登りきり。
振り向いて、親がいることを確認し、自慢げに一瞬笑顔をみせますが、
その高さに気づき、怖くなって、ついには泣き出してしまう子がいます。

「大丈夫、自分で登れたんだから、ゆっくり降りて来なさい」といっても、
怖がって、棒にしがみつき固まってしまいます。
親が、いくら呼んでも、泣くばかりで身動出来ずにいます。
親が上まで登っていき、体を支え、手を持って棒を持ち変えさせてあげると、
一つずつ、ゆっくりゆっくり、降りることが出来るものです。

 阿弥陀さまは 南無阿弥陀仏と私を呼び続けておられます。
心配要らない大丈夫、今やれることを精一杯やればそれでいい、
南無阿弥陀仏を口にして生活をしなさい。間違いなく救うから安心しなさいと。
怖くて立ち止まり、どうすることもできない時も、大丈夫 大丈夫と
呼びかけていただいています。

高いところに登って怖がっている子どものように、立ちすくみ心配して、
動くことが出来ない時でも、その声に励まされ、次へ進むことが出来るのです。


 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の声は、大丈夫、大丈夫と
阿弥陀さまと一緒になって、父も母も、南無阿弥陀仏と
呼びかけてくれているのです。

貴方と同じように、悩み苦しみ 悲しみながら、母さん達も
生きた来たんだよ、大丈夫、南無阿弥陀仏で大丈夫だから、
心配せずに大丈夫だよと、呼び続けていただいているのです。











第1619回 遺伝に加えて

 令和 6年 2月8日~

  間違えて、うかつにも別のお宅にお参りする途中で気づき、
慌てて、本来のお宅に電話をして遅れて伺うことになりました。


  たまたま土曜日で 80歳代のご主人と 隣の住宅に住む 
50代の息子さんが一緒にお勤めをしてくださいました。


「会社の方はどうですか、若い方は なかなか大変でしょう」と
話しかけると、「今の若い人は よく分かりませんよ、
男までも 髪をそめるし、爪にまで色のついたマニキュアはしてくるし」
と、笑いながら答えられました。

「手は汚れる仕事ですか、手袋はするんでしょう。」
「油が付くので 手袋はしていますが、どうも理解出来ない」と。

 でも、考えると ライオンも鳥たちも メスより 雄の方が
立派で 目立つようですね。
動物は 本来 雄の方が 目立つように 選ばれるように頑張るものかも
しれませんね。と話しながら おもいました。

 動物たちは 本能 遺伝子で、生き抜く智慧を、次の世代に伝えて
いくでしょうが、人間はそれに加えて、言葉を使って 文字を使って、
より多くのことを伝達してきたのではないかと思いました。

 それが、現代は 表面的で利己的な動物的な本能は伝わっているかも
しれませんが、精神的なこころの有り様の伝承は はたして出来て
いるのだろうかと思えてきました。

 宗教というものは、特に 南無阿弥陀仏の教えは、人間が動物ではなく
人間として 生きがいを持ち よろこびを感じ、協調して生きていく
その力を 次の世代に伝えようとするものであり、それが、はたして
現代は うまくいっているのか。
だんだんと、動物的な本能をむき出しにした、価値観が中心になって
いっているのではないかと、思われます。

 すべての人が、人間として充実して喜び多く、生きていることが、
有り難く感じられる、そうした価値観が忘れられ 消えつつあるように
思えてなりません。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 先輩達が伝え残したかった、
人間の本当のよろこびを 感じ味わう力を受け継ぎたかったのだろうと
思います。
もっとも大事なものを 残し相続してほしいと。











第1618回  遠くて 近いのは

 令和6年 2月 1日~

 日頃 車でばかり移動していますが、忘年会や新年会
お酒を伴う会合では 自分の車で出かけるわけにはいきません。
研修会など、1時間以上かけて遠くから参加される方、
特にお酒の出る会合では 悩まれることだろうと思います。

 先日、久しぶりに、ひとり、てくてくと歩きながら、
一休さんと 蓮如上人の逸話を思い出しました。

浄土三部経の一つ 「仏説阿弥陀経」には、
「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、
極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる
がおられて、今現に教えを説いておいでになる。」と

説かれています。

そこで、一休さんは
 極楽は十万億土と説くならば 足腰立たぬ婆は行けまじ と
読まれたと伝えられています。

 お念仏の教えは、阿弥陀さまのはたらきである他力というが、
お浄土までが、十万億の仏の国々を超えた世界であるのならば、
とても、老人ではたどりつくことができないではないか、との
皮肉がこめられた歌とも取れます。

それに対して 蓮如上人は
 極楽は十万億土と説くなれど 近道すれば南無のひと声

 一休さんは 修行してさとろうとする 聖道門の方ではありますが、
阿弥陀さまの他力のお念仏の教えに 好意的で 理解されていたのだと
思います。

そこで、庶民の疑問をうたでよみ、蓮如上人がどのように
答えてくれるのかを 楽しみに 問われたのでしょう。
お釈迦様の教えも お弟子さんの問いに答えて説かれたものが
ほとんどと言われます。

 仏教の教えは 問題意識 問いがなければ とても伝えることのできない
大きく深い教え、漠然と聞くのではなく、人生、毎日の生活の
老病死をはじめ、苦悩の中で 問いを持ってお聴聞すると
私のための教えであったと 納得いくものです。

 どんなに遠くにあろうとも、南無阿弥陀仏のお念仏一つで 仏の国に
生まれ、今度は 人々を救うはたらきに従事するのだよ、待ってるよと、
私の大切な人々が 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 見守りながら
よび続けていただいているのです。











第1617回 梅は こぼれる 菊は 舞う

 令和6年 1月25日~

 早いもので 境内の紅梅、白梅ともに 開きはじめました。
日本語には 豊かな表現があり、梅の花は 丸く咲き ちょうど
涙のように見えるので 花が散ることを 涙がこぼれるようだと
梅の花は こぼれると言うのだそうです。

昔から〝桜散る こぼるる梅に 椿落つ 牡丹崩れて 舞うは菊なり“と
この他 朝顔は しぼむともいいます。
「しぼむ」、「落ちる」「くずれる」等、花びらの変化を表した
味わい深い表現です。

 では どうでしょうか、私たち人間の最後は……? と聞かれると 
私たちはついつい「死ぬ」と答えてしまいます。
また「人間死んだら終わり」ということも耳にします。
しかし、いのちの終え方は「死」や「終わり」だけではなく、
違った言葉があるものです。それは 「往く」という表現です。

 花の終わりも、言葉で雰囲気が違って聞こえるものですが、
私たちの終わりも、表現することばで、大きく違ってくるものです。
「往く」の元になっている言葉は、「往生」です。

 私たちのお仏壇のご本尊、阿弥陀如来が、私たちの為に開かれた
救いの世界、お浄土に往き生まれることを「往生」と言います。
人間がいのち終えることを、「終わりだ」「死だ」と表現するのは
私たちの見方。

一方で、阿弥陀さまは「仏としてのいのちの始まりだ」
「生まれるんだ」と、私たちに呼びかけておられるのです。


  阿弥陀さまは、死で終わりではないよ、自分の国、
お浄土に往生させ、仏さまのいのちへと実を結ばせたいと

願いを発して、はたらき続けてくださっています。

  私たちは、美しく咲く花だけしか見ていませんが、花は 咲きほこり 
やがて枯れて、散ることで、実を結ぶことが出来るのです。

その果実が、次のいのちを生かしてゆく、重要なはたらきをするのです。

 仏さまへと実を結ぶと、今度は 慈しみをもって多くのいのちを包み、
育み、導いていくはたらきが出来るのです。
先立って仏さまと成られた方々の ご苦労で はたらきによって、
お念仏に 南無阿弥陀仏に 出会えたのが、この私なのです。

そう考えると、人間に生まれて、今 花をさかせていますが 
南無阿弥陀仏のお念仏で、やがてお浄土に往生して、仏に成る、
そして人間の時よりも、もっと大きな 重要な はたらきができる世界に
生まれるのです。


今、まだ助走中で これからが 本番、大事なはたらきが、
本来のはたらきができる日も近いのです。












第1616回 渋柿の渋

 令和6年 1月18日~

  渋柿の 渋がそのまま 甘味かな
という句があります。

 私どもの寺院の境内に 甘柿と渋柿の木があります。
青い間は甘柿も 渋くてとても、食べられませんが 赤く色づいてくると
渋味が取れて、食べることができるようになります。

一方、渋柿の方は 赤く色づいても渋がのこり、完全に熟してぶよぶよに
柔らかくなってしまうまで、渋みが残っています。

 色づいた渋柿をもぎ取り、皮をむいて 軒先に干していると だんだんと
甘みが出てきて、甘柿以上に甘みが強い 干し柿が出来上がります。
干し柿の渋がぬけるのには、太陽の光や冷たい風、夜露などの力
自分の力ではなく 大きな自然の力、はたらきによって 
変えられていくのです。


 ご和讚に

 罪障功徳の体となる  こほりとみづのごとくにて

 こほりおほきにみづおほし  さはりおほきに徳おほし

           (『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)

 氷が多ければ多いほど とければ水が多いように、渋が多い渋柿の方が、
甘柿にくらべて甘みが強くなるものです。
私たちも 悩み苦しみ悲しみ、怒り腹立ち煩悩が多い人ほど よろこび多い
人生へと転じられて、味わい深い人生に変えられていくことでしょう。

 仏さまのはたらきを 光であらわしますが、干し柿も 光や風のはたらきで
大きく変化させてもらうのです。
氷も 光や風 暖かさでとけてくるものです。
仏さまの大きなはたらきを 繰り返し聞かせていただき お念仏の生活を
はじめてみると、煩悩一杯の私が、渋一杯の柿が、少しづつ甘みが強くなる
うに、変化していくのが、味わえてくるものです。


 渋が甘みに変えられていくように、煩悩が喜びに変えられていくこの教えを 
素直に受け取って 悩み苦しみ悲しみから 転じられ、有り難い充実した
人生を 南無阿弥陀仏とともに 送らせていただきたいものです。











第1615回 ただ念仏して

 令和6年 1月11日~

 これまで 私どものお寺での ご正忌報恩講では
御絵伝を写真にとって プロジェクターで投影しながら
親鸞聖人のご苦労を、四幅の絵像を、二日間にわけて 
解説していました。


 今年は、本願寺派の総合研究所で作成された 「はじめての歎異抄講座」
を、アレンジしてのご正忌報恩講にしたいと 今 準備しています。

歎異抄の魅力についての項目や 歎異抄の概要と構成などの説明につづき
歎異抄誕生の背景 親鸞聖人のご生涯から という項目があり、その中に、
比叡山で厳しい修行をし、煩悩を無くして、さとりを開こうと
親鸞聖人は、20年間、努力されてきたものの、どうしても煩悩を
無くすことが出来ず、悩まれていました。

 そして、得度した青蓮院の近く、吉水の法然聖人の元を訪ねられると、
そこでは、比叡山とはまったく違って
「阿弥陀仏の救いの前では、煩悩は邪魔にはなりません。
  阿弥陀仏は どんな人もわけへだてなく、お救いくださるのです。」と
そして、命懸けの厳しい修行するのが仏教の常識であるのに、
「ただ念仏して阿弥陀仏に救われ往生させていただくのですぞ」との
ことばに 非常に驚かれたことでしょう。

 そこには、比叡山とはちがって、僧侶ばかりではなく、
商売をする普通の街の人たち、女性も その話を聞いて、
よろこびお念仏をしている人たちがいたのです。

 仏さまは すべての人を救おうとされる、すべての人を
救うには、誰でもできる方法、それはこれしかないと、お念仏に
生きる道を選ばれたのです。

 自分の力で さとりを開くのが仏教ということを信じて、
励んでこられたのに、人間の力を頼っては、すべての人が
すくわれることはなく、
仏さまのはたらきによらねば、お念仏でなければと
確信されたのです。

 阿弥陀さまは 信じさせ お念仏させて お浄土に往生させたいと
はたらき続けておられることを、親鸞聖人は、かずかずの書き物を残し、
私たちに 教えていただいているのです。










第1614回 生かされている不思議

 令和6年 1月4日~

 こんな話を聞きました。
築地本願寺の朝の法話で ある布教使さんが
お話しいただきました。

あるお寺にうかがった時 有り難い尊い方とお会いしました。
それは、ご年配の方ではなく、20歳の青年でした。
ご法座が始まるまでの 短い時間でしたが、
その青年は 自分が生まれたときのことを話してくださいました。

 わずか八百グラムの未熟児として誕生したのだそうです。
そして、すぐに集中治療室に入れられ、無事成長出来るかどうかわからない
退院出来ても、何歳まで 生きておれるか分からないと、
両親には告げられたということです。

 その私が 20歳を迎えることができたのです。
これは みなさんのご苦労、多くのご縁のお陰です。ですから、
私は、みなさんへご恩をお返していくことが、勤めだと感じています。
こう青年は 話してくれたそうです。

 生きていることが当たり前で 感動もない人生をおくって
いますが、その青年の言葉に、今日まで両親をはじめ 
自分の知らない多くの人々のお陰で 今 生かされているということに、
改めて気づかせていただきました。

 そして、その青年は そのご恩返しをするのに 
自分が出来ることは何かというと、
お聴聞することだと思っていますと言わて
また驚ろかさせられたといいます。

 ご恩返しに何が出来るのか それはお聴聞することだと思と
その20歳の青年は いうのです。
仏さまのお話を聞かせていただくことが、ご恩返しであると。

 言われてみると、お聴聞することで、気づかないでいる
多くのご恩に気づかせていただく、そうすることで
自分がやるべきことが見えてくるのは確かだなあと感じました。

 南無阿弥陀仏のお念仏を聞く度に 私に はたらきかけていただく
数々の力に 気づかせいただくことで、この人生は もっともっと
有り難く 素晴らしいものであることに気づくことが出来、
平凡な人生ではなく、当たり前の人生ではなく なんと多くの願いに
包まれて これまで生かされてきたのかを
改めて 味わわせていたくことが出来るのです。










第1613回 卒業式 入学式

 令和5年 12月28日~

 こんな話をききました。
お通夜は 人生の卒業式、お葬式はお浄土の入学式。
という お話です。

 年末の忘年会の帰り ある人は 今年も もう終わりかーあ
この一年早かったなーと 言う人
まもなく新年か 準備をはじめるかあという人もあり様々です。

春が来て 卒業式。
友だちと別れるのが悲しいと 感傷的になる人があります。
これから、中学校や 高校 大学 あるいは就職と 
新たな世界へ旅立っていくのだと、新たな未来を思う人もあります。

 これと、同じように、この世で いのちが つきてお別れするのも、
これですべてが終わってしまったのではなく、阿弥陀さまの国
お浄土への旅立ちをするのだと、思える人もあります。
お浄土へ生まれたら、自己中心の私でも、他の人のために頑張るのが
よろこびの利他的な仏さまのはたらきが出来ると喜ぶ人もあります。

 死ぬんじゃないよ、生まれていくのだと。
仏さまの国(浄土)に生まれる、いのちの故郷に、
父母がまっていてくれる世界に往くのです。
往き生まれるのです。

 生まれるのですから、めでたいことです。
現在でも滋賀や福井のある地域では、お通夜に赤飯を炊くところが
あるそうです。
お通夜は亡き人の死を悼み、ご苦労さまでしたと、
そのご苦労をたたえていく人生の卒業式。
そして、お葬式はお浄土の入学式だというのです。

 死んで終わる人生は 寂しいものです。
人生の行き先がはっきりしなければ、いのちの行き先が

見えなければ不安でしかたがありません、真っ暗闇です。
それでは、寂しく虚しく死んでいくしかありません。

 念仏者は光の国であるお浄土に生まれるのですから
安心して命終えていけるのです。
懐かしい人と再会出来る、倶会一処のお浄土に
生まれていくのですから、先に往き生まれた方々と
また会うことができるのです。

 「待ってたよ」「ご苦労さん」「お帰り」と迎えてもらえる、
いのちの故郷に生まれていくのです。
そう味わうと、歳をとることも喜びとなってくるものです。
明るい未来が 開けてくる、
期待され待たれている私であることを 感じ取れるのです。









第1612回 育ち盛り ~いつも私を~

 令和5年 12月21日~

 2歳になる外孫が 時々訪ねてきます。
先月 妹が誕生して 誰もが 自分の方を見ていたのが
今は、赤ちゃんの方へも みんなの目が向かっていきます。
母親が赤ちゃんのお世話をするのを、横目でみながら、
ちょっと淋しそうです。


 母親を独占して遊んでいるとき、赤ちゃんが泣きだすと 
慌てて 赤ちゃんのお世話に向かう母親に あまえて 
「抱っこ抱っこ」と だだをこねています。

自分の方を向いてほしい 赤ちゃんよりも自分を大事にしてほしいと
ぐずり出します。

 夕方 父親が仕事から帰ってくると、その父親を独占して とても
嬉しそうです。自分だけを抱いて、食事の世話をして、遊んでくれる父親が
一緒なのがとても嬉しく、満足そうに見えます。

 これを見ながら 大人になっても 自分のことを一番大事にし、
自分をいつも見守ってくれる人がそばにいると、とても安心なの
だろうと思います。

 高齢の方で、歳をとると いろんなものを失っていきますが
歳を取ることによって、はじめて気づく、目覚めることも
あるのですね。とおっしゃる方がありました。

 仏教を聞くことで、お聴聞することで、仏さまにお育ていただいて、
70歳で気づくこと、80歳でわかることもあるもので、
自分は 今、子どもの時のように、精神的には
ずうーと 育ち盛りだと感じています。
年を重ねることが、今は喜びとなってきましたと。

 南無阿弥陀仏を聞くと ひとりぼっちではなく、 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは、 先だった親たちと一緒になって
いつも一緒だよ、ここにいるよ、
南无阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼びかけてくださっている。

 姿は見えませんが、触ることはできませんが、ここにいるよ
かあさんはここだよと、子どものころに聞いた声を思い出しています。
運動会のときの 応援の声のように、暗闇で怖いとき
大丈夫だよと、声をかけてもらった時のように、
いつも 私を見守っていて 一緒に居てくださるように思えています。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 私を呼び、応援してくださる
言葉です。

 一人で淋しいとき 困ったことがあったとき 嬉しいことがあったとき
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏が聞こえると もう一人ではなく
いつも私を見守ってくださっている方が 一緒であるように 
思っていますと。

お話下さった方がありました。








第1611回 何がしあわせ

 令和 5年  12月14日~

 あるお寺の掲示板に

 何のために生まれて  何をして 生きるのか
   答えられないなんて    そんなのは 嫌だ! 

と 書かれていました。


 これは 仏教のことばのようにも聞こえますが
もう何十年も前から 子どもたちに 人気のマンガ
アンパンマンの挿入歌の一つ

「アンパンマンのマーチ」一節です。

 その歌の出だしは
 そうだ うれしいんだ  生きるよろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも  とあります。

 人生は それぞれの受け取り方で大きく違ってくるものです。
何が しあわせで 何が よろこびか 
探し求める 一生を みんな送っているのでしょうが、
それが分からずにいる人が 現代は 多いのではないでしょうか。

先輩たちは それを 宗教で確認していたのでしょうが
本物の宗教を知らない人が多い 現代の人々は 
一生わからないまま 終わっているのではないでしょうか。

「終活」という言葉が、よく聞かれます。
「子どもに迷惑を かけないように」と、自分の世代で
すべてを解決して終わらせておこうということでしょうが、
一番大事なことは 子どもたちに しあわせとは何かを 
確認する方法を しっかりと残え残しておくことでは

ないでしょうか。

 いろいろの宗教がありますが、自分の親たちが口にした
南無阿弥陀仏の教えを 子どもたちに、伝え残すことが
父や母、そして祖父母や 多くの先輩が最も喜んでくださる
ことではないでしょうか。

 お念仏の人は 死んで終わりではなく お浄土へ生まれ
仏となって この私をずうつと導いてくださっているのです。
それに気づかずにいる私ですが、お聴聞をすると、
仏さまのお話を聞くと、そのことを
繰り返し 繰り返し 教えてくださいます。

 それは 先輩たちの呼びかけ、阿弥陀さまと一緒になって
私が進むべき方向を、目標を 生きる目的を知らせていただいて
いるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞くことで
何のために生まれ 何が幸せかを はっきりと確認し
生きるよろこびを ほんとうのしあわせを 知ることが出来るのです。










第1610回 自分が居なくても

 令和 5年 12月7日~

 60年前 希望を持って会社に入り、3ヶ月ほど新人研修を受けました。
現場から来て講義してくれる先輩、研修所の教授として、系統だって
専門教育をしてくれる先生、それぞれの経験を精一杯伝えてくれました。

 そんな中で、こんな話をした方があります。
「君たちは 自分が居なくてもちゃんと動く組織を作りなさい。
 何でも自分でやっていると、そこに塩づけになって
 出世できないぞ」

 チームにとって、無くてはならない有能な
社員になろうと思っているのに
どうゆう意味だろうかと、疑問に思ったものです。

 創造的な能力を発揮するチームは
知識も技能も経験も優れた者が責任者となりますが、
やがて、その技能を超える力を持つ者が現れてきます。
その時に、自分の立場を護ろうとする責任者は
折角育ったその後輩を評価せずに、はじき出してしまうものです。

 一方、自分と同じ能力を持つものが育ってきたら
自分がそのチームを譲り、次のチームを作るために
離れていけば、実行力のある素晴らしいチームが
もう一つ新たに出来てくるものです。

 人間は自分の立場に固執したいものですが、
そこに安住せずに次を目指せ、それが組織全体を強くする
そう言いたかったのではないかと、今思います。

 いつも自分が中心で、周りをリードするのは 
心地良いものですが、そこに安住せず、次を目指して
新たな挑戦をしてほしいとの願いだったのでしょう。

 お寺には、住職や女房役の坊守さんがいますが、
次の世代が育ってきたとき、どう引き継いでいくのか
前任者は完全に手を引くのではなく、今まで出来なかった
個々のご門徒との接触を密にするなど、新たな仕事を開発して
いくように努力することが大事ではないか。

 考えると 阿弥陀さまは、すべての人を救うには、
自分と同じ能力を持つ仏をつぎつぎと新たに作り、
一緒になって人々を、救うはたらきを続けようとされている。
そう考えると、私の出来ることは、まだまだあるはず、
救われていない人が沢山いるのです。阿弥陀さまの仕事は 
そして、それを助ける諸仏の仕事は、完結することなく
永遠に続くのです。











第1609回 里帰り 「あら お帰り」

 令和 5年 11月30日~

 西本願寺の朝のおつとめ、ご晨朝をユーチューブで拝見し、
こんなご法話を聞きました。

 あるお寺の掲示板に こんな言葉がありました。
「里に帰れば 親がいるのではない 親が居るところが 里である。」
 里とは ふるさとのことで、親というのは、両親はじめ 
  お世話になった なつかしい方々のことでしょう。

 父親が亡くなって、実家には 母親が一人で 住んでいました。
その母が、ひと月ほど入院したことがありました。
その時、実家に帰り、ゴミ出しや掃除をしていて、母のいない実家は
いつもと違って、とても淋しく感じたものです。

 コロナ感染症の流行する以前のことで 病院は自由に見舞える時でした。
病室を訪ねると
「ごめんね、忙しいのに、こめんね ごめんね」と、何度も口にしながら
迎えてくれました。

 何度か病院を見舞ったある日のこと、母親は穏やかな顔をしていましたが
私の顔を見るなり「あら、お帰り」と声をかけて、笑いながら、
「ここは 病院やったね、おかしかね」と。
「こめんね」の言葉より、「お帰り」の言葉に、こころ和みました。

 私は、顔を会わした時だけしか、母のことを思っていませんが、
母の方は いつも私のことを思っていてくれていて、
帰ると、「お帰り」と おやつを出してくれたことを思い出しました。

 この母親とおなじように、阿弥陀さまは
私が忘れていても、いつも私のことを心配し、思って
くださっているのだといいます。

 母を亡くした今、「お帰り」と迎えてくれるのは、
故郷ではなく、お浄土にいる親たちでしょう。
こちらが忘れていても、私のことを思い、そして、お帰りと
迎えてくれる 母が、父が 祖父母が 待ってくれている
お浄土があることを 有り難く感じています。

「里に帰れば親がいるのではない、親がいるところが里である」

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏とお念仏するとき、
阿弥陀さまは そして、お浄土の親たちは いっしょに 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけ
私が元気に活き活きと生活していることを、よろこんで
お浄土で、待っていてくれることでしょう。










第1608回 プレゼンの原語は

 令和5年 11月23日~

 こんな話をききました。

現在は プレゼンテーション、プレゼンの時代。
相手に正確に情報を伝え、商品を買ってもらったり、
仕事の発注を受けたり、受取り手が、何らかの行動を
起こしてもらえるように、働かけすることが
重要とされています。

 プレゼンテーションの語源は英語の「present(プレゼント)」で、
動詞としては、「提示する」「示す」「進呈する」という意味を持ち、
相手に渡して 喜んでもらうもの、相手が幸せになるものを
送ること、伝える言葉であるといいます。

 プレゼントは 相手が 欲しかったもの、期待していたもの、
予想もしなかったもので 頂いて喜んでくれるものでないと、
意味がありません。
ですから、プレゼンは、受取り手、聞き手の立場に立って、
分かりやすく伝えることが重要となるのです。

 「聞き手の要望をしっかりと認識し、伝えたい内容を
分かりやすく説明する」
「聞き手に自分が望む意思決定を行ってもらうためにも、
 それに見合った明確な提案」をするなど配慮が必要です。

 浄土真宗のご法話も 一つのプレゼンテーションでしょうが、
はたして聞く相手が喜ぶもの、期待しているものに
なっているでしょうか。

 阿弥陀如来さまは、私たち全員に、もれなく プレゼントを
贈っていただいているのです。
それは、ものではなく、南無阿弥陀仏という言葉で、是非
聞いてほしいと、はたらき続けてくださっているのです。

 私たちすべてのものを必ず救う、お念仏を口にして、
お浄土へ生まれさせ、仏にしたいと、呼びかけ、はたらきかけて
いただいているのです。

 そのことを、みんなにわかるように、お取り次ぎ
しているのが、ご法話です。

お話を聞いている人が、自分の為の贈り物であり、
自分が目当てであり 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で、
間違いなく 親も祖父母も行っている、お浄土へ生まれることが
出来ると、喜べるようにとお話しているのです。

 聞いていてくださる方に、それが届くように、言葉のプレゼント
お浄土への招待状を配達し、南無阿弥陀仏のお念仏を
お渡しているのが、浄土真宗の
ご法話です。







第1607回 逃げ回る 落ち葉

 令和5年 11月16日~

 門前の駐車場をアスファルトで舗装し、大型の量販店のように
車と車の間に、U字の二重の白線を引いていただきました。
身近なコンビニのように、たびたび、いつでも、お寺にお参して
いただけるように、高齢者でも、駐車しやすいようにと、
車の間隔も、少し広めにとってもらいました。

 これまでの砂地の駐車場ですと、松葉箒で落ち葉も簡単に
集められましたが、真っ黒のアスファルトは、落ち葉やゴミが目立ち、
追われるようにたびたびお掃除をしています。


 雨の後、紅葉した葉っぱが一面に広がり、小さなホウキで
掃除をしている時、風に吹かれて逃げ回る落ち葉や、
地面に張り付いて、なかなか動こうとしない、
しぶとい濡れ落ち葉などを、掃き集めながら思いました。

 わずか10数台の駐車場でもこんなに苦労しているのに、
阿弥陀さまは、ありとあらゆる人々を、一人残さず救いとると
はたらき続けておられるのに、私たちは、逃げ回り、
そっぽを向いて、従わないものばかり、とても大変だろうなあと、
味わいました。

 阿弥陀さまだけではなく、私の父母、祖父母、曾祖父母、みんな
そろって南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、呼びかけて
いただいているだろうに、忙しい忙しいと聞く耳を持たず、
素知らぬふりをして、逃げ回っていることで、大変、
ご苦労が多いことだろうとつくづく感じます。

 今度は、私が仏になって、子どもや孫、多くの人々へ
はたらきかける立場になるということですが、
濡れ落ち葉のように、地面に張り付いてなかなか動かぬものや、
ひらひらと風にあおられて逃げ回る、木の葉のように、
それでも、一つ残さず、一人残さず、救わねばおかぬと
はたらきかけることを、遊ぶように、生きがいをもって
はたらきかける、そんな仏さまにしていただくと思と、
今、ご苦労をかけていることに、申し訳なく
感じています。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 風に吹かれて逃げ回る
落ち葉のように、どうしようもないこの私を、間違いなくお浄土へ
生まれさせて、仏さまにするというはたらきを味わい 
有り難く喜ばせていただきたいものです。









第1606回 まだ 間に合う

 令和5年 11月 9日~

 こんな話を聞きました。
腰が曲がった高齢の住職が、導師を勤められた葬儀でのこと。
朗々としたお勤めの後、振り返り 持っている中啓で、
喪主のご長男さんを指して

「お前さん お前さんは 親孝行したかい」と
 おっしゃったといいます。

東京に住む長男は、なかなか郷里へは帰れず、今回も
お父さんが亡くなったとの知らせを受け、慌てて
帰ってこられたのです。
突然の住職の言葉に、喪主の長男さんは、肩を震わせて、
泣きはじめられたそうです。

「お前さん、まだ間に合うぞ、親孝行はな、これからでも
  間に合うぞ・・ 大丈夫じゃ。

 お前さん、お念仏したことあるかい。
 お浄土で 仏になられたお父さんはな、
 お前さんが、南無阿弥陀仏を口にしながら、阿弥陀さんと
 一緒に生きていく姿をみるのが、一番嬉しいんじゃ。

 大丈夫、まだ、親孝行は出来る まにあうぞ 」という
 有り難いご法話だったといいます。

 親が一番喜んでくれるのは、遠く離れていても
子どもが生きがいをもって、活き活きと生活していることです。
それには、阿弥陀さまの願いを聞いて、願いにかなう
生き方をすること。

 お浄土へ生まれた、両親やご先祖は
子どもや孫たちが、活き活きと、喜び多い人生を送ってほしいと
はたらきかけておられるのです。

今からでも、まだ間に合うのです。
南無阿弥陀仏を口に、阿弥陀如来の願いを聞き、
親が喜んでくれる生き方をすること
それが、私に今、出来る親孝行なのです。










第1605回 組織は 人で

 令和 5年 11月2日~

 2年に一度、組の総代会の会員の追悼法要の会所になりました。
今回は、4人の方々を ご縁とする法要でしたが、こんなお話をしました。

 みなさまは、これまで いろいろな組織に所属してこられたことと存じます。
自営業の方もいらっしゃりましょうが、会社であったり、地域、ボランティアや
趣味のグループなど、さまざまな組織の中で活躍され、あるときは責任者だったり、
二番手であったり、実務的な立場であったり、いろいろの経験をお持ちのことと思います。

 私も 僧侶 30年以上勤めておりますが、その前に 厚生年金が頂戴できるほど
サラリーマンをしておりました。
たびたび転勤をいたしましたし、さまざまな職場、多様なプロジェクトに所属しましたが、
組織は、まさに人でありまして、その所属メンバーの構成によっては、
いろいろの対応に迫られたことを思い出しております。

 普通の組織ですと、管理能力が高い者を もっとも経験豊かな者を
責任者にいたしますが、
お寺の場合は そうはいかないことも多く、世間のことに、どちらかといえば、
精通していない、世間に うといご住職であったり、
あるいは若い住職だったり、こうした責任者を、なんとか支えて、財政面でも、
人を集めることでも、総代の皆さま方、並並ならぬ ご苦労をかけているであろう
と存じます。

 これが、営利目的の会社などでしたら、目標の設定や、成果を測ることができますので、
みんなで同じ方向へ向かって進んでいけますので、ある面、運営がやりやすいものでしょうが、
目的が、ご門徒のみなさんをまとめ、念仏繁盛をめざすという、
宗教団体は なかなか難しく、また、昔のようにご門徒のみなさんも、純粋、純朴では
なくなってきましたので、総代のみなさま方に大変ご苦労をかけていると思います。

 今回、四人の総代さんの追悼法要ですが、この後、それぞれの方の思い出も
ご披露いただくようですが、どの方も、陰になり日向になり、本当によく
ご尽力いただいた方々ばかりでありました。

 ご遺族の皆さまのお宅でも、大黒柱が亡くなられて、とても大変でしょうが、
お寺でも、とても貴重な存在でありまして、おられなくなって
その後を、残された方々がカバーしていただいておりますが、
尚一層ご苦労をおかけしていることでしょう。現役の総代の皆さまも、
本当にありがとうございます。
これからも、皆さまのお力で、寺院を 護持していただけいますよう、
お願いいたします。

 とともに、ご遺族の方も、ご主人さま、お父様が がんばっていただいたように、
その意志を受け継いで、お寺のお世話役、ひいては、
総代を引き受けていただければ 誠にありがたいことだと、存知ますし、

先だった方が、喜んでいただくことではないかと、味わっております。








第1604回 今 困っても

令和 5年 10月26日~

 浄土真宗の特徴の一つは、全員で声を出して読経することです。
今から 500年前の蓮如上人が、日常の勤行を誰でも
お勤めしやすいようにと、親鸞聖人のまとめられた
教行信証の中の偈文 正信偈と、ご和讃の繰り読みに
定めていただきました。

 それまでは、一日に六回お勤めする六時礼讃という、有り難いものの
すくし難しいお勤めでしたが、みんなが容易におつとめ出来るよう
変更されたのでした。

 ご本山では 毎朝六時からご晨朝がつとまり、その様子は
ユーチューブで配信されています。
また、東京の築地本願寺では、朝7時からのお勤めも
ユーチューブで見ることができます。
ご本山では、まず阿弥陀堂、続いて御影堂での
お勤めがあり、645分ごろから
全国各地の布教使さんによる、短いご法話もあります。

 築地本願寺の場合は、7時半ごろからご法話があります。
北海道からこられた若い布教使さんが、
こんなお話をされました

 今日は 今から50年前の、日本で4人目のノーペル賞を
江口玲於奈さんが受賞された日です。
コンピュータなどで使われる半導体、ダイオードの
研究者だそうです。

 子どもの頃から大変優秀な方でしたが、なぜか中学受験に
失敗し、高等小学校へ進学、それから再度、中学校を
受験されたそうです。
その一年間に、外国から来た先生にであい、幅広いものの
見方と、英語を学ぶことが出来たことで、アメリカでの研究など、
将来大きく役だったと、後に語っておられます。

 研究でも、仲間が失敗した沢山のデータを、再確認して
いる中で、たまたま大発見をし、それでノーベル賞の
受賞につながったと。

 親鸞聖人の人生も、波瀾万丈でした。
伝統的な比叡山を降り、法然聖人の元で学ばれていた時、
念仏禁止令によって、遠く越後に流罪になられました。
この大きな災難も、お念仏教えが広がる尊いご縁だったと
味わっておられます。

 自分の思い通りになることだけを期待して、私たちは生きていますが、
今日一日、困ったことや悔しいこと悲しいことが起こったとしても
一つも無駄なことはなく、みんな有り難い尊いご縁だったと
喜べる そんな一日でありたいものですね。と








第1603回 つれていくぞの 親の呼び声

 令和 5年 10月19日~

【仏教のことば】
「生苦」は「生まれる苦」と言いましたが、
 …「誕生」がどうして苦なのでしょうか。
 仏典は主に二つの理由を挙げます。まず、
   「誕生は後の苦(老・病・死など)の原因となるから」です。
 もう一つは、②「誕生はそれ自体、苦痛を伴うから」です
    (岡本健資『季刊せいてん』124P582023912日配信

【仏教のことば】
「〈わかる〉ではなく〈聞く〉である」と聞いても、
 それを聞かずにわかろうとしてしまうのが「わからない!」
 の理由です。
(石田智秀『季刊せいてん』126号特集「信心がわからない」P48
           913

【仏教のことば】
 われ称(とな)え われ聞くなれど 南無阿弥陀
 つれてゆくぞの 親のよびごえ   (原口針水) 914

【仏教のことば】
 辛いとき、悲しいとき、嫌なとき、嬉しいとき、
 あらゆるときに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と
 念仏するならば、それによって私たちは真実に
 呼び覚まされていく。
 絶えず呼び覚ましを私たちにもたらす声が念仏である
   (梯實圓『浄土教学の諸問題』上P71)  918

【仏教のことば】
 あらゆる悪と人々を救ふ世界を見出したのが浄土真宗である
 …仏を信じたとて、病気が回復したり、貧乏が金が
 儲かつたりするやうな利益はない。
 されど如何なる境遇にありても「安らかさ」と
 「ゆたかさ」とが恵まれてある。 (梅原真隆『人生と宗教』P18
        916

【仏教のことば】
 経典にも「仏心とは、大慈悲心これなり」と出ているように、
 「慈悲の心」とは、一切衆生を平等無差別に救わずには
 おかないという、末通った深い愛情ひとすじの「仏の心」である。
  (花岡大学『親鸞へのひとすじの道』P208 917









第1602回 難しい道と 易しい道

 令和5年 10月12日~

 西本願寺の総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 仏教の重要な目的の一つは自己を知ることだとよく言われます。
 まさにそのとおりであって、仏陀とは自己を知り尽くされた人だと
 言ってもよいでしょう。
  (徳永道雄(一道)『観無量寿経を読む』P42 202391日配信


【仏教のことば】
 布教使の方によく言うのですが、自分の考えを言った時に、
 相手が共鳴してくれたら、それは…真実であることを証明して
 くれているのです。
 承認してもらえることが有り難いのですから、
 「教えてやるなんて思ったら大間違いだ」と言うのです。
   (梯 實圓『季刊せいてん』106P3992日配信


【仏教のことば】
「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、
 自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするような
 ものである。これでは人が承知するはずがない」と、蓮如上人は
 お示しになった
   (『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P6693


【仏教のことば】
 仏法には、はかり知れないほど多くの教えがある。
 たとえば、世の中に難しい道と易しい道とがあり、陸路を
 歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは
 楽しいようなものである。
 菩薩の道も同じであり、修行に努め励む道もあれば、
 仏の教えを信じるという易行(いぎょう)によって
 速やかに不退転の位に至る道もある。
  (『十住毘婆沙論 浄土論(現代語版)』P6)9月4日


【仏教のことば】
 私たちは「南無阿弥陀仏」という名号を通して、間違いなく
 お救いくださる阿弥陀さまと、いまここで出遇(あ)って
 いくのです。ですからお念仏を称えながら阿弥陀さまを
 探す必要はありません。
 (赤井智顕『なぜ?どうして?浄土真宗の教学相談』P995


【仏教のことば】
 私が疑わないことに決め、私が信心する。
 その私が残っている事が問題なのです。
 …深く信ずるとは…如来回向の信心のことです。
 自分が信心によって救いを掴もうとする立場から、この身
 このままを如来に摂取されて行く立場に転換されることです。
    (井上啓一『真宗の法話』P2398








第1601回 溺れる人がいれば

 令和5年 10月5日~

 今回も 本山総合研究所から届けられた言葉です。

【仏教のことば】
 人びとは、ややもすると他力の救いということを、他人をあてにし、
 自分は何もしないでなまけていることのように誤解するのですが、
 決してそうではありません。
 他力とは仏の願力をいうのであって、仏力を主体として、真実に
 生きることをいうのであります。
         (『山本仏骨法話集』2P30· 2023825日配信


【仏教のことば】
 他力の教えは、自分で悟りを開けないもののための仏道であり、
 そのための仏が阿弥陀仏なのです。
 川で溺れている人と、土手にいる人とがいれば、溺れている人を
 救いますよね。(釈 徹宗『歎異抄 救いのことば』P72 826日配信


【仏教のことば】
 懺悔は単なる道徳的反省の心ではない。
 それは光によって映し出された相であることにおいて、
 そこにはすでに光の中にあったという法悦(ホウエツ)と、しかも
 常にその光に背きつつあるものという慚愧(ザンギ)の心とが
 交錯するものである。(村上速水『親鸞読本』P182) 829


【仏教のことば】
 唯円房があやまっている人たちを、…打ち破ってしまえば
 それでいいのだというような裁きの態度でかいたものでなく、
 …そのあやまれるものを抱きしめて歎かずにおれないところに
 「歎異抄」全体に流れている持ち味が知られると思うのであります。
      (山本仏骨『歎異抄のこころ』P22830

【仏教のことば】
 今、諸君たちは現実的に宗教を必要としないかもしれない。
 しかし今、君たちは宗教に対して決して無関心であってはならない。
 何が正しい宗教であるか、また何が誤った宗教であるかを
 見極める目を今の時期に養っておかねばならない。
    (淺田正博『私の歩んだ仏の道』P32) 831









第1600回 私の生活の中に

 令和 5年9月28日~

 ご本山 総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 お浄土に往かれたわが父や母は、往きっぱなしではありません。
 お浄土より娑婆に還り来て、私たちをみまもり、私たちが
 お念仏申すところ、共にお念仏を唱和して、私たちによびかけ、
 阿弥陀仏の大悲をあおがれているのであります。
  (普賢晃壽『阿弥陀仏の救い―人生の帰趨―』P233)
        2023815

 浄土真宗の特徴は 往相廻向 還相回向の教えです。
正信偈の意訳には、
 蓮華の国にうまれては 真如のさとりひらきてぞ
 生死の園にかえりきて まよえる人を救うなり とあります。
どうか、お念仏の教えに出会ってくれ、この教えに遇えば、
これから迎える老病死の苦しみも、素直に受け入れることができ、
生きがいある人生を味わえますよと、はたらきかけて
くださっているのです。


【仏教のことば】
 私達は平素から、見えるものだけに夢中になって、
 見えないものの恐ろしさや、有難さを忘れているのでは
 ありますまいか。 (井上啓一『御文章の味わい』P53)
          ·  816

 親や周りの人の思い、多くの人々のはたらき、仏さまのはたらき
見えないものを、感じられるように育てられると、この人生は
有り難く、すばらしいものへと変化するのですよと。


【仏教のことば】
 如来の心に触れ、これまで如来さまを泣かせて来たことに気付いたのなら、
「もっと泣かせてやろう」と思うでしょうか。そうではなく、
「もうこれ以上、泣かせることはすまい」と思うはずです。
 (「悪人正機」について)(満井秀城『季刊せいてん』110P55·
              819

··

【仏教のことば】
 阿弥陀仏は私の心に信心の喜びを与えてくださるばかりでなく、
 更に、私の寿命のある限りは称名念仏の声として、
 私の生活の中にいつでもどこでも現われましょうという
 お慈悲から「乃至十念」の称名をお誓いくださった
 ものであると味わわれます
    (
灘本愛慈『やさしい安心論題の話』P177)
 821









第1599回 子どもや孫の将来を思うと

 令和5年 9月21日~

 ご門徒のお宅へお参りし、自動車を止めた途端
吠え出す犬がいます。そしてお勤めの間中 泣き止まず
吠え続ける犬がいます。

一方で、必ず玄関まで出迎え、歓迎の挨拶を一通りすまし
お勤めを始めると、静かになり、お勤めが終わると、
また近づいてきて、触ってほしいと催促する利口な犬もいます。

 近頃、うるさい犬が増えたのは、犬の種類や性質が
変わったのかと思っていましたが、飼い主が しつけをせず、
ただ甘やかすだけなのではないかと聞かされました。


 そう考えると、人間の子どもも、少し前までは、
多くの人の前では余り騒がず、おとなしくしていたように思います。
近頃は、小さな子どもが法要に参加すると、走りまわり、騒ぎ出し、
保護者が耐えかねて、外に連れ出すケースをよく見ます。

 子どもや ワンちゃんが変わったのではなく、親が、飼い主が
甘やかしてばかりいることが原因ではないかと思われます。

 核家族化が進み、2世代3世代で生活する家庭はごく希で、
年寄りたちが口をだすチャンスもなくなりました。
怖いおじちゃん、うるさいおばちゃんの存在もなくなり、
友だちのような優しい祖父母、両親、おじさんおばちゃん
だけになったようです。


 子どもや孫の将来を考えると、心を鬼にして、言うべきことを
ちゃんと
言い、嫌われても、うるさがられても、大人の役割を
果たすべきだとは
思ものの、なかなかそうはいかないものです。

 ご法事を勤めながら、仏事は、自分が生きている間に、子どもや
孫に言えることが出来なかったことを、自分が亡くなった後に、
仏教のお話を通して、人間として最も大切なことを、代々伝えて
きたのではないかと、思います。

 子どもの将来を考えると、仏さまの事だけは、ちゃんとしてほしいと、
伝えておくことが大事だと思います。

子どもに迷惑をかけないようにと、葬儀も法事も、墓地も仏壇も
無くしてしまう人いますが、自分に変わって、人間に必要なこと、
やるべきこと、そして、老病死を恐れず、受け入れていく力を、
伝えてきた伝統が、仏事、法事だったのではないか。
それを護り、繰り返し伝えていくことが、残された
子や孫にとっては有り難く、大事なことだろうと、痛感しています。

 伝承してきたことを、取りやめることで、自己本位で
わがままな生活、それは、心豊かな生き方には、決して
つながらないと感じます。











第1598回 さとりの身となって

 令和5年 9月14日~

 今回も 本願寺派総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 念仏の行者とは、わたしを念仏の行者たらしめている
 本願力の不思議を信知し、感動しているもののことである。
         (梯 實圓『教行信証の宗教構造』P72· 202387

【仏教のことば】
 「この源空(法然聖人)の信心も、阿弥陀さまからいただいた
  信心じゃ。そして、善信さん(親鸞聖人)の信心も、
  阿弥陀さまからいただいた信心。だったらまったく同じ、
  一つと言うべきでしょうな…」
         (『いつでも歎異抄』P71「後序」意訳) 202388


 毎年のご正忌報恩講で 親鸞聖人ご伝絵をご紹介していますが、
法然聖人のところで、先輩同僚と 信心についての論争のところです。
自分の努力で起こす信心ではなく、阿弥陀さまからいただいた信心
そこで、師匠の法然聖人の信心も、お弟子の信心もみな一緒のくだりです。


 【仏教のことば】
  ほんとうの宗教はこの自分の中に最も危ないものを
  蔵していることが知らされることであります。
  浄土真宗の御念仏とは正しくこの私の中に鬼を
  見出すことといえます。
  危ないことを危ないと知らされると、危ないことに
  気をつけることとなります。
         (稲城選惠『人生の道標』P158· 202389

 【仏教のことば】
  浄土真宗の仏事は、阿弥陀仏のお徳を讃えるとともに、
  亡き人を、阿弥陀仏と同じさとりを開かれた仏さまとして敬い、
  そのお徳を讃えるということでもあるのです。
  追善供養ではないからといって、亡き人への思いを
  軽んじるということではありません。
     『季刊せいてん』115P52· 2023811

 【仏教のことば】
  仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。
  仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、
  私をみまもっていてくださる。このお盆を縁として、
  すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。
     (『拝読 浄土真宗のみ教え』P53· 2023812


 【仏教のことば】
 「…私が死んだらお浄土へまいらせていただきます。
  …けっして遠いところへ離れていくのでもなければ、
  子供と別れていくのでもありません。
  ほんとうのさとりの身となって永遠に子供のうえに
  生きることができるのです…」(山本和上のお母様の言葉)
     (山本仏骨『親鸞人生論』P222) · 2023814









第1597回 さるべき業縁のもよほさば

 令和5年 9月7日~

 今回もご本山総合研究所からの【仏教のことば】のご紹介です。
どの言葉を見ても、お念仏の教えに遇えた人の有り難い言葉です。

【仏教のことば】
人間というのは自分が思っているほど一つに決っていない。
固定的な善人、悪人というようなあり方にはなっていない。
…状況や環境次第で、この私自身がどちらにでもころぶのである。
       (相馬一意『本物に出あう』P138 2023731日配信


 新聞やテレビで見る容疑者を見て、悪人と批判していますが、
一歩間違えば 誰もが同じ過ちを犯すのかもしれません。


【仏教のことば】
経典を読む(読誦)ということは、本来、清らかな悟りの世界から
ひびいてくる仏陀のよび声を聞くことであり、それによって
真実の何たるかにめざめしめられることである。
  (梯實圓『浄土教学の諸問題』下P278 202381


【仏教のことば】
よく、成仏というと死ぬことだと思われていますが、それは違います。
「仏に成る」ことを成仏と言うのです。
  (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P22) 202382


【仏教のことば】
必ず浄土に往生する人生を生きるということは、尊い命を
生きるということです。
そこには感謝と喜びをもって生きることができる、これこそが
浄土のこの世におけるはたらきといってよい、私はそう思います。
 (勧学寮編『今、浄土を考える』P70 202383


【仏教のことば】
諸行無常という言葉を、知らない方はいないと思います。…
しかし、それは知識として知っているだけではないでしょうか。
本当にこの世は諸行無常なのだということの納得がなかなかできないのです。
       (淺田恵真『お念仏の真実に気づく』P91 · 202384










第1596回 疑り深い私のために

 令和5年 8月31日~

私たちは 疑い深い性質を持っています。
常識の範疇だと素直に受け入れるものの、常識を超えていると
そんな馬鹿な だまされるものかと、疑い拒否します。
そんな私を 何とか信じさせようと、
お釈迦様は いろいろと苦心して 教えを説いて
いただいています。

 仏説無量寿経の中には、
これまで沢山の仏さまが、この世に出て多くの人々を
救っていただいたこと、そして世自在王仏という
仏さまの時代に 一人の国王が、すべての人々を一人残らず
救いたいとの大きな願いを建て、
その理想の国をつくるために 多くの仏さまの世界を
手本にしたいと、さまざまな仏さまの世界を見せてもらったこと。

 その数が 1020ではなく、210億もの仏さまの国を
見せてもらい、その中から特に優れたものを選び取るのではなく、
疑い深い 私たちのために、五劫という長い長い宇宙的時間
考えに、考えて、48項目の設計図を建て、その完成のために
また宇宙的長い間修行して これまでにない最も優れた
お浄土が完成したと説かれています。

 その設計図の17番目には すべての仏さまが、
自分(阿弥陀仏)のことを、誉め讃えるような 最もすぐれた
はたらきができる仏に成りたいというのです。

 過去の仏さま 現在の仏さま すべての仏さまが
実現できなかった、努力出来る人も出来ない人も、すべての人を、
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」の名号を口に
するものを 自分の国・お浄土へ生まれさせ 仏にしたいと。

 ですから、私がご縁を頂いて 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
お念仏するとき、もう仏さまと同じ はたらきをしている
ことになります。


阿弥陀さまの偉大さ、そのはたらきが、分かっていなくても
お念仏する私は もう仏さまと同じ阿弥陀仏を讃嘆する
はたらきをしていることになるのです。

 疑り深い私がどう思と お念仏する時は、もう
仏さまと同じように 阿弥陀さまを讃嘆するはたらきを
しているのです。

 ですから、今は 悩み多い人間ですが、やがて いのち終われば
お浄土に生まれ 引き続き 阿弥陀さまを讃嘆する仏さまの
はたらきをさせていただくのです。
もう 今は 仏さまの仲間なのです。










第1595回 物差しを変える

 令和5年 8月24日~

 今回も本願寺派の総合研究所のツイッター【仏教のことば】のご紹介です。

【仏教のことば】
 信心を得る以前は いわゆる常識という物差しで社会を生きてきました。
 しかし信心を得るというのは、いままでの常識の物差しを捨てて、
 法という新しい物差しの世界へ生まれ変わるのであります。
       (霊山勝海『聖典セミナー親鸞聖人御消息』P86
           配信 · 2023726

 私たちは 学校で長年教育を受け、社会での経験を元にした常識で
今まで生きてきました。
しかし、学校教育では ○か×か、採点できることが中心であり
社会では 損得勘定を基本にして、いかに上手に生き抜くか、
老病死を嫌い否定する、価値観で生きてきました。

しかし、現代の科学ではなかなか評価、証明出来にくい、
先輩たちが受け継いできた、大人の智慧、仏法があることを
知らないままでこれまで生きて来たようです。

 キリスト教を基本とした西洋的な考え方、ものの見方を
現代人は常識として生きているようです。
そうした、世間の常識を超えた価値観が日本には存在していたこと、
そうした物差しを知り、その世界を体験し、生きていくこと、
それが仏法という新しい物差しの世界に生まれ変わることなのでしょう。

 すべてのものを救いたいという仏さまの願い、はたらきを 
繰り返し聞き、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞き 
どこへ向かうのか、それはお浄土へ向かって力強く生きていく
世界があることを、教えていただいているのです。


【仏教のことば】
 仏道を歩むとは…人間の逃れられない根源的な苦悩を乗り越えていく道を
 目指すのであり、仏陀の説かれる「苦悩を除く法」とは、「生老病死」の
 苦悩を除く法なのである。
 親鸞聖人が目指された仏道も、生老病死の苦悩を乗り越えていく道であった。
      (勧学寮篇『親鸞聖人の教え』P14 配信 · 2023727

 医学や科学が進み、あたかもこれが万能であるとの誤解があります。
「生老病死」の苦悩を除くには、薬を飲む、手術を受けるなど、
外側からの何らかの治療を受けることでしか、解決法は
ないと信じこんでいます。

 しかし、先輩たちは、科学だけに頼るのではなく、仏法を通して
内側からの、精神的な解決法を受け継いできたのです。
そうした世界があることを 教えていただいているのです。


【仏教のことば】
 死の問題の解決こそ、同時に生の問題の解決でもあるわけで、
 ほんとうの幸福とは、お念仏によって生死の問題を超えさせて
 いただく以外にはないと思うのです。
   (村上速水『道をたずねて』P27 配信· 2023728

  ともありました。










第1594回 受け継がれていくもの

 令和5年 8月17日~

お盆の間 境内にあるお墓に 子ども連れの見知らぬ若い家族の姿を
多く見受けました。
本堂にお参りする家族、直接お墓にお参りする家族さまざまですが、
年配者が一緒ではなく、自分たちでお参りしているのを見ると、
子どものころに大人に連れられて 参拝していた世代が、
夏休みに帰省して子ども連れでお参りしているのだろうと思います。

 大人と一緒に 本堂にお参りしていた家族は、本堂へ上がり
お墓だけの家族はお墓だけ帰る、こうして次の世代に受け継がれて
いくのだろうと、感じています。

 さて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所【公式】から
送られてくる【仏教のことば】に
こんな内容がありました。

【仏教のことば】
 わが身の善悪にとらわれて、これで助かるだろうとか、
こんなことでは救われまいと思いわずらうことを、
自力のはからいというのです。
そのはからいをやめて「必ず救う」のおおせ一つをあおいで、
おおせに安んずることを安心とも信心ともいうのです。
 (梯實圓『妙好人のことば』P226· 2023721日配信

【仏教のことば】
仏教というのは世界の見方を変えてくれる教え…
その教えに一度出会うと、出会う前のものの見方に戻ることはありません。
毎日、大量に消費され廃棄されていく情報とは違う、
出会うとその人の人生をも変えてしまう…それが「仏教」です
 (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P4)
            
· 2023723日配信

 【仏教のことば】
仏教は道徳ではありません。
私の窺い知る(うかがいしる)ことのできない「仏の世界」を
学ぶのです。道徳と同じレベルで学べば大きな誤りを犯します。
(淺田正博『生かされて生きる―どうして人を殺してはいけないのですか?―』P28
           2023724日配信

【仏教のことば】
本堂においては、すべて本尊を中心にして語られる。
前後、左右というのも、本尊の前後、左右…であって、
私から向って左右ということではない。…あらゆることがらを
自己を中心として考え、行動している日常的な意識が
堂の中では逆転する…。 (梯實圓『浄土教学の諸問題』下P165)
                  725日配信












第1593回 この世に無駄なし

 令和5年 8月10日~

 毎日送られてくる 【仏教のことば】 そこに こんなことばが
ありました。

【仏教のことば】
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
 この世に無駄なしということなのですね
 (鈴木章子『癌告知のあとで―なんでもないことが、こんなにうれしい』P134
     2023717日配信

 北海道のお寺の坊守さんで 癌で亡くなられた鈴木章子さんの残されたことばです。
 (※摂取不捨=摂(おさ)め取って捨てずという、阿弥陀如来の救い)のことですが、
 私たちは 役にたつもの、有益なものだけが 有り難く感じていますが、
 この世には 何一つ無駄なことはなく、私たちが忌み嫌っている、老病死も
 みんな平等に訪れてくるもの、それをどう捉えることができるかで
 人生は 大きく変わってくるものでしょう。

  限られたいのち、毎日毎日をどう味わって生きるかで 私の人生は素晴らしいものに
 転じられていくのです。
 長い命だけが素晴らしいのではなく、健康だけが素晴らしいのではなく、
 何一つ 無駄なことはない、ひとつひとつ 味わい深い毎日を
 送らせていただきたいものです。

  またこんなことばも 送られてきました。

【仏教のことば】
「自由」とは何でしょうか。多くの人は、「自分の思い通りになること」と
考えるでしょう。しかし、仏教では、「自分の思い通り」とは、欲望という
煩悩に支配された「不自由」に過ぎないと見ます。

 (『いつでも歎異抄』P51 2023719日配信

【仏教のことば】
慈悲深い両親だからといって、その両親の前で悪事を行って、はたして喜ぶだろうか。
嘆くに違いなく、それでも見捨てないだろう。
また、大切に思ってくれても、悪行については許せない思いのはずだ。
如来の思いも、まったく同じである。(法然聖人の言葉)
   (『季刊せいてん』110P54)  2023722日配信









第1592回 仏法は 聴くべきもの

 令和5年 8月3日~

 毎日 ご本山の総合研究所からツイッターで送られてくる 
「仏教のことば」その中に こんなことばが ありました。

【仏教のことば】
 世界はこんなに苦しいけれど、解決していく道はきっとある。
 月並みな言葉ではありますが、仏の教えというのは、
 この苦しい世界での希望なのです。
     (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P52)

  仏教は 生老病死の苦しみを解決するために説かれたとも言われます。
  生きるということは 苦しみの連続 その苦しみを解決するために
  お釈迦さまが説かれ 多くの先輩たちが その味わいを
  具体的に説き 伝えていただいたものが 仏の教えなのでしょう。
  先輩が残していただいた、折角の教えに 気づかないでいることは 
   もったいないことです。
  浄土真宗は お聴聞 その教えを 聞くことが大事だといわれます。

【仏教のことば】
「仏法は毛孔(けあな)から入るものである」ならば、
  わたしの心身をあげて聴くべきものであろう。
  わたしの生活行動を通して、教えのまことを確認する
  という意味を含むであろう。
     (村上速水『親鸞教義の誤解と理解』P112)

【仏教のことば】
「本尊」とは帰依尊重する本仏をいう。
  この本尊が教法の根源であり、また礼拝の対象である。
      (『浄土真宗本願寺派「宗制」解説』P43

【仏教のことば】
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、
  煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火(ともしび)となる。
  この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」
 「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
       (『拝読 浄土真宗のみ教え』P3

  【仏教のことば】毎回 短いことばですが、お念仏の教えを
    味わうには 誠に貴重なことばです。








第1591回 しあわせ 幸せ 仕合わせ

 令和 5年 7月27日~

 私たちは「しあわせ」を 追い求めて、生きています。
その「しあわせ」を「幸せ」と書くことが多いものですが、
ひと昔前までの辞典は「仕合わせ」と 表記されていました。                
「幸せ」の「幸」とは「山の幸・海の幸」の 恵みを意味します。
人間は  その山や  海の恵みを  有り難い 恵みと受け取ることが出来ず、 
思いのままに乱獲し、乱開発してきました。


 「幸 多かれと・・ 」の「幸」も「恵み」の意味でしたが、
今では、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものと受けとられています。 
「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という  欲望の意味や 
「むさぼる」をも 意味します。 
「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、
「足ることを 知らない」ということです。  
そんな私たちが「しあわせ」を  望んだとしても、むさぼり続けるだけで、 
いつも満たされず、不平・不満ばかりを いいながら生きています。
自分の思い通りにならず「愚癡(ぐち)」を こぼし、
「憤り( 瞋恚・しんに)」を  感じるしかありません。  
そんな私たちに、本当の「しあわせ」は あるのでしょうか。


 一方、「仕え合う」と書いて「しあわせ」は、お互いが  相手や
周りのために  仕え合うことを「仕合せ」と言うのです。
欲しい 物が  手に入り、自分の思い通りになることに満足するのでなく、
信頼している人に 喜んでもらえることを「仕合せ」だというのです。
作家の司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人に
つかえること」だそうです。


 自らの生命をかけて  仕えるべきものに出会うことです。
生きている中で、辛いこと・苦しいことなどが あったとしても、
自分の「めぐりあわせ」言いかえれば  不思議な「出会い」が 
ぴったり合う因縁を「仕合せ」というのです。


 私たちは人間として  この世に命を恵まれました。
しかし、生まれてきたことを当然のこととして、また、恵みを恵みとして
受けとめていない 私がいます。 
そうして、命の営みの中で、多くの恵みや 出合いがあるのに

まったく気づかず、生かされている「しあわせ」も 生きている慶びも
味わえないままでいます。

 親鸞聖人は、法然聖人と出会えたこと、そして阿弥陀如来のご本願に
出合えたことを「仕合せ」だったと慶ばれています。
親鸞聖人の生涯は、決して幸せであったとは言えないものです。 
幼い頃 両親を亡くされ、念仏禁止令で遠く越後に流罪になり、

晩年は、ご長男の善鸞さまを 義絶せねばならないなど、苦難の連続でした。
しかし、親鸞聖人は その不幸を 嘆くのではなく、お念仏とともに

慶びをもって力強く生き抜かれました。 

 それは 法然聖人と巡り会えたこと、そして何と言って
阿弥陀仏のご本願に遇うことができ、人間として生まれてきた
不思議と、慶びを味わうことが出来て、とても仕合せだったのだと思います。
それが、教行信証の総序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、
真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」
という言葉として 表れているのだろうと味わえます。

 お念仏の教えに遇うことが出来れば、当たり前なこと、平凡なものが、
不思議で有り難く、しあわせに感じられるようになることを、
教えていただいています。







第1590回 仏教のことば

 令和 5年 7月20日~

 コンピュータを開くと いろいろな情報が入ってきます。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所から
「仏教のことば」も、定期的に 送られてきています。

 その中に こんな言葉がありました。

 お説教というのは、私を中心にした世俗の領域から如来を中心とした
聖なる領域へと、人びとの心を転換させることでしょう。
                 (梯實圓『平等への視座』P132)

 私たちは 人間中心の損得勘定の生活をしていますが、
そうした価値観だけではなく、仏さまの価値観があることに 気づかせ
そして、現実を正しく見る力を得らさせようという はたらきなのでしょう。


また、 こんな【仏教のことば】もありました。

 仏さまの教えによって、新しい心の視野を開いていただくことを、
お救いにあずかるというのです。
                  (梯實圓『仏の願いに遇う』P52)

という言葉もありました。

こんな【仏教のことば】
   話を聞くということは、こちらがものを考えておったら、聞えません。
  こちらを空っぽにし、素直に向うのいうことを受取ることであります。
              (桐溪順忍『他力ということ』P27

また、

  私の手のつけようのないような広大な世界に、私は
つつまれているのだなということが味わえてくるようになりますと、
わからないというわかり方がわかってきます。
                 (梯實圓『仏の願いに遇う』P37)

私たちは 目の前の現実に目を奪われ、一喜一憂しながら
生きています。
仏教の教えに出会うことで、その悩み苦しみが少しは違って見え、
感じられてくるものです。
そうした 仏教の教えがあることを 先輩たちは 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と口にして聞く、お念仏の教えとして 
私たちに残してくださっているのです。








第1589回 仕合わせな人生を

 令和5年 7月 13日~

 今でこそ どこの家にも空調が備わっていますが、
30年ほど前までは 扇風機と団扇の時代でした。
お盆のお参りなど、勤行する私の後ろで、ずうっと団扇で
あおいでくださっていたおばちゃんがあったものです。

 それから、しばらくして 冷房だけのエアコンが
付けられるようになりました。
ある冬 寒い朝の月忌参り、玄関で声をかけると、
さっさと二階の仏間に上がってお勤めを開始
慌てて奥さんが飛んで来てエアコンを付けてくださいます。

 ご自分の部屋は、冷暖房のついた空調でしょうが、
仏間は冷房だけの古いタイプ、「もうちょっと待ってくださいね。
もうすぐですから」と、言い訳しながら、リモコンを持ち、
空調の風に手をあてて ゴメンナサイねと声をかけられます。

 この部屋は冷房しかないことを知っている私は、
エアコンを止めてくださいと、手で合図しながらお勤めを続けます。
冷気が真横から いきよいよく吹きつけます。
時間がたつに従って、ますます冷え込んで来ますが
お勤めを止めて、冷房を断る訳にもいかず、
冷凍室のような極寒の中でのお勤めでした。

 お勤めが終わり、ありがとうございます。
ここは 冷房しかないようですからと、断ると
アーそうでしたねと、慌てて、石油ストーブを 運んでくださいました。

その奥さんが、先日97歳でご往生になりました。
家業を手伝いで早朝3時からの働きづめのお母さんでした。
お姑さんが厳しい方でしたから、ご苦労も多かったでしょうが、
これが自分に与えられた仕事と、腰が曲がった姿で
にこにこしながら、はたらいておられた様子を思い出します。

 都合のよいことも、不都合なことでも自分のやれることを
精一杯勤めさせていただく、それが仕合わせであると、
教えていただいたよな、有り難いお念仏の方でした。
こうした有り難い方が 一人また一人お浄土へと生まれて行かれます。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を聞くとき、あの方々が
阿弥陀さまと一緒に 呼びかけていただいていると、
味わい 私もこの世の勤めを、自分で出来ることを
にこにこしながら精一杯、果たしていきたいと思います。








第1588回 きく・菊・聴く・聞く

 令和5年7月6日~

 幾たびか お手間かかりし 菊の花
   加賀の千代女の俳句とも言われています。

 菊つくりというのはなかなか手間のかかる作業らしいです。
大輪の菊を一本仕立て、三本仕立て、断崖仕立てなどの鉢に
育てるまでには
大変な苦労がかかるようです。

春先から、挿し芽をし、苗を育て、ある程度の大きさになったら、
鉢に植え替える。
鉢を植え替える前には、土作り。川砂、腐葉土、赤玉土などを混ぜ、
どの肥料も入れるのか・・・・

2週間ほどなじませ、その後、鉢の下に網をしき、・・・・・
水やり、施肥、わき芽摘みなど、花を咲かせるまでには、こうして
かなりの時間と手間がかかるのです。

  幾たびか お手間かかりし 菊の花

の俳句の中には、菊つくりの手間ひまにかけて、私たちの今の仏縁を
いただくまでの手間ひまを込めて詠んでおられるのです。
「菊」は私たちが阿弥陀さまのご本願を「聞かせていただく」身に
お育てをいただいた、その「聞く」に通じるものです。

そして「花」はその聞かせていただくことによって阿弥陀さまの
お慈悲に気付かせていただくことができたよろこび、すなわち
「信心の花」を咲かせさせていただくことができたよろこびを
表していると味わうことができます。

「きく」という漢字もいろいろありますが、代表的なものは
3種類あります。「聞く」と「聴く」と「訊く」です。
『聞く』は、音・声を耳で感じとる。耳に感じて、知る。
という意味で、「鳥の鳴き声を聞く」「話し声を聞く」「うわさを聞く」
というように使われます。

『聴く』は、耳を傾け、注意して聞き取る。という意味で、
「ラジオ講座を聴く」「講義を聴く」「名曲を聴く」と
いうように使われます。
『訊く』は、たずねて、答えを求める。問う。相手に質問する。
という意味で、「訊問(じんもん)する」というように使われます。

 親鸞聖人が「教行信証」に書かれている「きく」は「聞」です。
「聞即信」「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて
  疑心あることなし。これを聞と言うなり」と示されます。

 私たちの五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のうち最初に
身につく感覚は「聴覚」と言われています。
お母さんのお腹にいる時からお母さんから呼びかけられている
「声」を聴くとはなしに聞いて、生まれてからも
「あなたのお母さんよ」と呼びかけられている声を
聞いて育っていくのです。

物心ついて、こちらから真剣に物事を把握しようと
耳を傾けて一生懸命に聴いていきます。
そして、学びを深め人生の幅が広がって行きます。
しかし人生50年ないし100年の間に学び尽くすことは不可能です。
そして、いのちの最後のぎりぎりまで残る感覚も「聴覚」と
いわれています。

阿弥陀さまのお慈悲に出遇うこともよく似ています。
はるか昔から、阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」
(あなたの真実の慈悲の親は阿弥陀であるよ。)と、
呼び続けていただいたのであります。

有る時、仏縁をいただいて「南無阿弥陀仏」とはいったい
なんだろうと疑問に思った時に、こちらから仏法を聴く
(求めていく)ご縁をいただくのです。
その聴聞のご縁の中で、私の方が聴きに行っていたのでは
なかった。阿弥陀さまから呼びづめに呼ばれていたのだと
(聞かされていたのであったと気付かされる)お慈悲の
大きさを知らされるのです。

阿弥陀さまの「呼び声」は、耳に聞こえる聴覚だけでなく
「こころ」の底の底まで、響いて下さる救いの響きなのです。

    淨教寺さま ホームページより 奈良県奈良市








第1587回 人は 誰しも いつかは

 令和 5年6月29日~

 コロナの前まで、月に一回「浄土真宗の常識 勉強会」を
開いていました。沢山の方にお参りいただいていましたが、
この3年間はお休みし、今では、老人施設に入られた方や、
お亡くなりに
なった参加者の方もあります。
坊守さんが作る 毎回違った 手作りおやつが楽しみと
言われながら
続けていました。

 先日、その参加者の親戚の方から電話がありました。
参加していたお母さんではなく、その息子さん71歳が お亡くなりに
なったとのこと、息子さんのお宅は知らず、慌てました。
お母さんは老人施設に入られ、お寺からの連絡の葉書や手紙は、
息子さんのところへ住所変更になっていたことを思い出し、駆けつけました。

 肺癌の告知を受けてからも、8年間 仕事を続けながら
病気と闘っておられたとのこと、ご本山で おカミソリを受け
ご夫婦で 法名を受けられたことは聞いていましたが、
病気のことは内緒にされていたとのことでした。

 一人息子だったご本人は、自分が癌になったことを、母親が知れば
どれだけ悩み苦しむか、絶対、親にだけは知らせたくない、
頭髪が抜ける治療は避けてほしいと、頼まれていたそうです。

 通夜、お葬式、初七日が済み、二七日の席で、喪主の奥様から
こんな本を残しています、よろしければ読んでくださいと、
160頁ほどにまとめられた癌告知からの8年近くの治療の内容や
さまざまなエピソードが、克明に記録された立派な本をいただきました。

 その記録を読ませていただくと、癌告知から2年ほどたって、
母に病気のことを内緒にしておくと、もしもの時、家族がきっと
責められるだろうと、母親あての手紙を書き残していたとのこと。

4年ほど経った頃、一人住まいだったお母さんが自宅で転倒、
救急車で運ばれ、今後は老人施設がいいだろうと
医者に勧められ、介護施設に入所されたものの、毎日荷物をまとめて
自宅に帰りたいと言い、面会した息子さんは声を荒げることも
あったといいます。

 ついに母親に、自分が癌であることを告げたところ、
お母さんは「人は誰しもいつかは死を迎えることとなる、
最後は痛くないようにしなさいよ」との返事に
話の内容を理解出来ていないのか、はたまた90歳を過ぎた
老人の卓越した心情なのかと、困惑したと書かれています。

 息子さんは、母親が認知症で正確に理解出来ていないと受け取られた
ようですが、毎月、毎月、仏さまのお話、老病死は避けられないと、
聞いて来た人の言葉だったのだろうと、有り難たく感じました。
仏教の話を聞くことがなかった息子さんには、それが理解出来なかった
ようです。

 そして、息子さんが数日後、自分の病状を再び話しても、反応が乏しく、
「風邪をひかないように」と、言うだけだったと書かれています。
親としてはどうしてやることも出来ない、悩み苦しみながらも
四苦八苦を受け入れることが出来る人と、仏縁のなかった息子さんとの
違いだろうと思われます。

 仏教は 死んでからの話ではなく、生きている間に聞いておくべきもの、
この息子さんに、お聴聞するご縁がなかったことが お聴聞を勧めることが
出来なかったことが、誠に残念でなりません。
ほんの数回でも良いから 仏さまのお話、お浄土のお話、聞いておられたら、
また違った味わい深い闘病生活になっただろうにと、残念に思いながら
癌告知後の揺れ動く心を、読ませていただきました。








第1586回 ちゃんと見られている

 令和 5年 6月22日~

 ご門徒と一緒に 記念行事などの準備をするときに思います。
歳を重ねたせいか、若い住職たちが 若者独特の派手な衣装で
参加していたり、お勤めの稽古を始めたのに、布袍を着用しなかったり、
ついつい気になるものの、口に出せずに見過ごしています。

 どうして、気になるのだろうかと、考えました。
会社勤めをした経験を思い出すと、ボーナス査定や昇進、転勤などのために、
責任者は自分のチームの人たちの人事評価を書く必要があります。
また、どこに異動させるのか、その適性を見て判断し、最適な所への
配置転換の案、移動の案を出さねばなりません。

本人の希望が優先されますが、上司がそれに賛同して推薦しなければ
希望どおりの部署への移動は成立しません。

 若いときには、人事部などが勝手にやっているのだろうと思っていましたが、
実は、一番近い上司が、その人の人生を、将来を左右しているものなのです。
それはちょうど、プロ野球の監督が自分のチームの選手の特性を見て、
試合に起用するか、起用しないか、自分のチームに残すのか、他のチームに
放出するのかを、毎試合 毎試合見ているようなものです。

 お寺は、そうした競争がありませんから、大丈夫と気を許していますが、
ご門徒の方々は、こうした世の中で生活していた人たちです。
取引先のこの若者は信用できるか、ちゃんと上司に伝わるか、もう一度
相手会社の責任者に確認する必要があるのか、文書で確認しておくべきか、
ひとつひとつ見定めないと、大きな失敗につながるものです。

 ですから、多くのご門徒は、この住職の言うことは大丈夫か、信用できるか、
理解力や行動力、包容力はあるのか、
人生の岐路にさしかかったとき、相談できるか、相談しても無駄かなどと
ついつい観察し、評価しているものなのでしょう。

 そうした、ご門徒の思い、目があることを、気づき、自分を律して
いるのか、のんびりと勝手気ままに、自分のいいようにしているのかで
違いが出てくるのだろうと、思います。

 若い人たちに、それをどう伝えたらいいのか、そんなの関係無い、自分は
自分で思うようにやる、自分は他人をそうゆう見方をしないので、
大丈夫だと思うのか。

こうした、世間の厳しい目が存在することを、知っている人間は
どのように伝えたらいいのか、そのチャンスをどうつくるのか、
感じたことを、だまっておかずに、 ちゃんと知らせることが、
年寄りの勤めだろうと思いながら
 どうしていいのか分からずに、
イライラしているのだろうと、思います。











第1585回 頼まないのに 呼びかけ

 令和 5年 6月15日~

 浄土真宗は ただ一つ お聴聞を勧めます。
そして、何を聞くのかというと、阿弥陀如来という仏さまは、
一人残らず
すべての人を救いたいと、この私をお浄土へ
迎え取って仏にしたいと、

はたらき続けておられることを聞くのです。

阿弥陀さまの名前・南無阿弥陀仏を口にして生きているものを、
一人残らず間違いなくお浄土へ迎え取る。

心配しないでいい、悩やまなくていい、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏で
大丈夫 大丈夫と呼びかけ、はたらきかけておられることを、
聞き取っていくのです。
浄土真宗は、このこと一つを聞くことだと言われます。

 私が頼む前から、私のことを心配して、四苦八苦の
人間の世界を精一杯生き抜いておいで、そして、お浄土へ
生まれてきてくれ、一緒になって、悩み苦しむ人々を救うために
はたらいてくれ、そう呼ばれ続けている、そう気づかされると、
この人生は、まるで違って見えてくるものです。

 自分ひとりで頑張って、悪戦苦闘しているつもりですが、
仏さまをはじめ、親も兄弟も、周りの人々も、自然も
ありとあらゆるものが、この私を支え生かそうと はたらき
続けていることに気づいてほしいとの、はたらきかけです。

 繰り返し繰り返しお聴聞すると、限られたこの世だけが人生ではなく
いのち終わった後も、まだまだ生きがいがある はたらく場所がある。
期待されて待たれている、この私のことを認め信頼し、受け入れて
くださる世界があり、私の目的地はお浄土であると。
そう聞えてくると、わずか100年のいのちではなく、永遠のいのちを
感じることができるのです。

そればかりではなく、私の生きがいは、自分の身を、欲望を満足
させることではなく、多くの人々に、仏さまのはたらきかけを知らせ、
感じさせ、よろこびを与えること、それが、喜びとなってくるのです。

 永遠のいのち 無量のいのちの仏さまになることができる
もう仏さまの仲間であると、味わえてくると、毎日の生活が
まるで違ってくるものです。
自己本位で限られたいのちを、苦しみながら生きる日々から
仏さまの願いにかなった、、充実した、やりがいのある
喜び多い人生へと転じられていくのです。

 それが、南無阿弥陀仏に 遇えた念仏者のよろこびであり、
これこそが、充実した人生だと味わえてくるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の呼びかけを聞き、南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏を
味わい、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、と返事をし、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と喜びを口にすること、

それは、すべての仏さまとともに、すべての先輩たちと、
私も一緒になって、仏さまのはたらきのお手伝いを
さていただいているのです。

それが、南無阿弥陀仏のお念仏、仏さまの はたらき
そのものなのです。










第1584回 仏前結婚式での ご法話

 令和 5年 6月8日~

 お隣のお寺のお嬢さんが 結婚式をあげられました。
お相手は、在家の方ですが、住職坊守さんの強い希望で
本堂での仏前結婚式となりました。
ご近所のご縁で、司婚者を務めさせていただきました.
そこで、こんなご法話をさせていただきました。

 ご結婚 まことにおめでとうございます。こころからお喜び申します。
こうして、ご仏前での結婚式を挙げていただいたこと、何かと大変でした
でしょうが、本当に尊い有り難いご縁でありました。

 若いときは気づかなかったのですが、孫が出来、ひ孫ができると、
親というものは、自分のことよりも、子どもや孫のことが心配でならない。
どうか、生きがいある喜び多い人生を送ってほしいとの思いで
一杯でございます。

 きっと、ご両家のご両親はじめ、ご親戚のみなさま、そして、こちらでは
先日お亡くなりになったおばあさま、お祖父様 そして 顔も知らない
多くのご先祖も揃って、
良かった良かったと、喜んでいただいて
いることでありましょう。


 ところで、坊さんですので何をしているか、
毎日毎日家庭訪問をいたしておりますが、

本当にいろいろなご家庭があるものです。それを、大胆に分類すると
大きく二つのグループに分けることができると思いますが、一つは
有り難う、良かった、御蔭さまと、明るく楽しく生き生きとしておいでのお宅と、

 もう一つは、きつか 苦しか、ハガイか、私一人頑張ったですよ。
腹が立つ、くやしか、世の中間違っていますよ。
嘆かれるお宅との、大きく二つに分けることが出来るようです。
そして、きつか 苦しかの方々は、高学歴で、立派な家に住み社会的にも
うまくいった方々に多いようです。

どうして、そうなのか。少し分かってきました。・・・

 私どもの宗教は、浄土真宗と申します。
難しいことは求められません。ただ一つ、それは
お話を聞いてくれ、仏さまの話を聞いてくれと、それだけでいいといいます。
ところが、簡単のようで、なかなか本堂に座れないものであります。
話を聞いてくれというのは、何の話かというと、これもただ一つであります。

仏さまは、おまえのことを、一人子のように、おまえを救う、
おまえのことが心配、我に任せよ。
仏さまは、おまえのために、おまえのことが、と 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と 呼びかけておられる これだけであります。


 私たち人間は 自分がやったことは、全部憶えています。
ああしてやった、こうしてやった、一つ残らず憶えています。
ところが、同じ事を、自分もやってもらったことは、
気づきもしない、全部忘れています。親の世話になんか、なっていない
自分ひとりがんばって 大きくなったと思っています。

 おまえのために おまえのためにと繰り返し繰り返し、聞いた人は、
頑張れば頑張るほど、自分のために多くの方々が、多くの力が働きかけて
くださっていることに気づくことが出来て、ものの見方が違って見えて
くるものです。
これを、恩を感じるとか、報恩感謝とかいっていますが、
私に対する はたらきかけを気づいた人と、気づかない人とでは
大きく違ってくるものです。

 特に、社会的にうまくいった人は、自分が知らないことは何もないと、
仏さまのお話など知っていると、聞く機会がなくご縁がなく、どうも、
つらい苦しい人生で 終わっておられるように見受けます。

 夫婦の間でも、相手の思い、行動を気づかなければ、自分ばかり
苦労して、相手は何もしない、と腹立たしくなってくるものです。
相手の思い、はたらきかけに気づくと 有り難く尊敬出来る、連れ合いと
感じられてくるものです。

 この本堂での結婚式をご縁に、仕合わせを感じ、味わう力を
感じ取る力を、受け取る力を 育てていく、そのきっかけを
持たせていただいたことを、本当に尊いご縁でした。

 こうした価値観にあえれば、むなしい人生でなくなりますよ、
逆に出会わなければ、辛い人生でおわりますよと、
先輩たちは教えてくれています。

 どうか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とともに、と言われますが、
私ども僧侶は職場でも口にできますが、みなさんは職場では、
無理でしょうから、「よかった、ありがとう、おかげさま」を口癖に
味わい深い 豊かで、喜び多い人生を受け取ってくださいとの、
先輩たちの願いを、聞き取り、素晴らしい人生
有り難い人生を、味わっていただければ有り難いことです。

 本日は まことにおめでとうございました。
有り難うございました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏







第1583回 新しい領解文

 令和5年 6月1日~

 領解文を御存じですか、法座のあと、みんなで声を揃えて
唱和する 「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて・・・・」です。

 蓮如上人が定められたものといわれ、一人一人のご法義の受けとめを、
それぞれに表出する「領解文」として親しまれてきたものです。
そこには、「信心正因・称名報恩」など、浄土真宗の肝要が
コンパクトにまとめられています。
しかし、若い人には なかなか難しいだろうと、新しい領解文が
この度、作成されました。

 ところが、その内容が浄土真宗独特の内容ではなく、誤解をまねく
ところがあると、多くの学者が、問題点を指摘して、それを学ぶ、
勉強会が
各地で開かれています。

 この「領解文」は、お聖教ですから、これまで、何の疑問も持たず
声に出していましたが、
いざ新しいものが出来てみると、これまでの内容が、うまく組み込まれず、
天台宗など従来の仏教と同じように誤解されてしまう部分もあります。

現代人に受け入れられるために優しく、分かりやすくと
努力したことが、逆に、問題を残したようです。

 親鸞聖人は比叡山で20年もの長い間修行されました。
しかし、それまでの仏教では、選ばれた特別の能力ある人だけが
救われて、多くの人には関係無い、一般人には、ほど遠い教えでした。

 法然聖人は、浄土三部経の中に、阿弥陀さまの教えが説かれており、
そこには、出家も修行もできない多くの人、すべてが救われるお念仏教えが
あることを、教えていただき、それを受け継ぎ、親鸞聖人は
私たちに間違いなく受け取れるように、克明に書き残していただいています。

そこで、今、私たちはお念仏の教えに遇うことが出来たのです。
そのことを喜び、この度、親鸞聖人生誕850年、そして浄土真宗の
立教開宗800年の法要がつとまりました。
しかし、新しい領解文には、親鸞聖人以前の古い仏教と
誤解されるような表現が入りこんでいました。

 本願寺派の勧学・司教という 専門の学者さんたちは、ご門徒が
誤解し、将来、大きな間違いを犯すようなことがあってはならない、
もう一度、見直してほしいと、呼びかけておられます。

 今回、新しい領解文が出来たことで、真剣に浄土真宗の特徴を
見直す機会ができました。親鸞聖人が一番大事であると、まとめて
いただいたことを、学び味わい直しています。

 何事も尊いご縁、勝縁も逆縁も尊いご縁、私に南無阿弥陀仏を
勧めていただく、有り難いご縁だと 味わっています。









第1582回 忘れなければ 生きていけなかった

 令和 5年5月25日~

 純粋に泣けるドラマとの宣伝で 「おもかげ」というドラマを見ました。
65歳の定年を迎え、送別会の夜、贈られた花束を手に帰宅する
地下鉄の中で突然倒れ、集中治療室に運ばれた男、心配する妻や娘。

戦後の成長期に仕事一筋に生きてきたサラリーマン世代。
子どもが交通事故で入院した時も、ちょっと顔を見せるだけで、
海に行きたいという子どもの願いもそこそこに聞き、
急いで職場に戻る猛烈社員。

小さな長男は、まもなく命を終え、後悔するものの、
「ちゃんと見てないからだ」「待ってたのに、何で病院に
戻ってくれなかったの」と、妻となじりあうしか無かった
若い日の辛い悲しい過去を持つ。

 今、ウクライナでも、多くの戦災孤児が 生まれて
いることでしょうが、主人公の彼も 戦後の混乱期に、
孤児院で育った親を知らない子どもでした。

 ところで、終戦から50年たった頃 父親の50回忌法要が続く中、
こんな話を聞きました。
「父親とは 一度もあったことないんですよ。私が生まれる前に
戦死したもんで、写真でしか知らんのです」と。

 そして、御斎でお酒が入ると、
「悲しいもんで 自分が父親になって
子どもと、どう向き合えばいいのか、
よくわからんで、妻にまかせて逃げてばかりいました。
自分の子どもも、父親になって、きっと、どうしていいのか分からんで、
悩むでしょうね。
戦争は酷ですね 何世代も陰を落としていくもんですよ」と。

 ドラマでは、昏睡状態の中、戦争孤児で仲間たちと盗みをしながら
生き延びた老人や、謎の老女や女性に忘れようとしていた過去を
思いおこされ、生きぬいてほしいと赤ちゃんを地下鉄の車内に捨てる
若い母親と、
その赤ちゃんを、みんなで拾い上げる人々などを
見せられることで、


自分は捨てられたのではなく、一人で生きてきたのではなく
多くの人々に支えられ、
いままで生かされてきたのだと、
感じ取り、感謝しながら
生きていかねばと、思わされる物語でした。

 忘れたい、忘れなければ生きていけない、悩み苦しみを持ちながら
生きている人が、私の周りにも一杯いることでしょう。
原作者の浅田次郎さんは「同じ教室に、同じアルバイトの中に、
同じ職場に、同じ地下鉄で通勤していた人の中に、彼はいたのだと思う」と。


 阿弥陀さまは 私たちのことをみんな知って、よく頑張ったね、
辛かったねと見守り、はげまし続けてておられるのです。
どうか、この世を精一杯生き抜いて、やがてお浄土へ生まれて
来てほしい、一緒に、はたらいてくださいと、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけておられるのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 阿弥陀さまの呼び声、一緒に
私の親たちも、よく頑張った、辛かったね。苦しかったね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、呼びかけて おられるのです。







第1581回 お経を聞くと アルファー波が

 令和5年5月18日~

 経験豊かなベテランの僧侶が座禅を組むと、脳波に変化が出る
という研究を
聞いたことがありますが、東京の築地本願寺で、
ユニークな動画が
出ているということで見てみました。
その内容は

 築地本願寺の本堂では、毎日のお勤めの際に僧侶のお経をききながら、
リラックスして座っている方が大勢いらっしゃいます。
中には朝ということもあり自然とウトウトしている方も…という光景も
珍しくありません。

 実際に、「お経を聴いて眠くなったことはあるか?」と
一般の人500人に調査した結果でも、60%が「眠くなったことがある」と
回答しました。

 そこで築地本願寺の僧侶ではない4名の職員に、お経を聴いてもらい、
その時の脳波を測定してみたところ、α波(アルファー波=
脳がリラックスしているときに出る脳波)の振幅の増大が見られました。

 この結果について予防医学を研究されている亀井勉先生に
検証してもらい、
以下のコメントを頂きました。
「お経を聴いている最中は、アルファ波の振幅の増大が見られました。
α波が増強している状態では 心身ともにリラックス状態になり、
ストレスケアや免疫力の向上、良質な睡眠の促進など様々な
健康促進効果が期待されます。

 このような実験結果からも、昔から伝わる日本人の叡智である、
お経を生活に取り入れることは、現代人にとっても有効な
リラクセーション手法になると言えます。」

 築地本願寺では、これらの検証結果をドキュメンタリー動画にし、
さらに、「お経」×「築地本願寺の風景」をミックスさせた動画を
制作いたしました。
ぜひ築地本願寺YouTubeチャンネルからご視聴ください! ・・・・・

とありました。

 ここでは、お経を聞くだけでの調査ですが、浄土真宗では
自分でお経を読むことがおおく、自分で読み、それを自分で聞くと
もっと変化が、効果が多きかもしれません。

 蓮如上人いらい 真宗門徒は 朝と晩とに 正信偈とご和讚を
くり読みし、御文章を拝読するのが
決まりです。
時間をつくって 挑戦してはいかがですか、健康食品を飲むより
ことによると、効果があるのではないでしょうか。









第1580回 葬儀をなぜするの?

 令和 5年 5月11日~

 連続研修会の講師担当で準備していましたら、
前回の巡番報恩講の時に作ったパンフレトに
浄土真宗の特徴を 項目別にまとめたものを発見しました。
その中に 葬儀はなぜするの? という項目がありました。
そこには こんな文章を 掲載していました。

 葬儀は なぜするの?
 葬儀は、大切な方の死を厳粛に受け止め、あらためて
命の不思識を感じ、亡き方をご縁に、阿弥陀如来の
救いの真実を学ばせていただく最も尊いお念仏の行事です。

 亡くなった方のための仏教行事と思っている方も
ありましょうが、むしろ、亡くなった方に、本当の人生とは
何かということを、私たちが学ばせていただく場なのです。
生あるものは必ず死ななければならないという諸行無常こそ、
絶対の事実であることを、亡き人が、身を以て私たちに
教えてくださる一生一度の無言の説法の場です。

 亡くなられた方の真の願いを受けとめて、老病死を
解決できる真実の教えに遇い、念仏を称えることの出来る身に
していただくこと、そのことこそが、葬儀の本義なのです。
迷惑を掛けるので簡単に直葬、家族葬で済まそうなどと考えずに、
たった一度の尊いご縁を大切にお勤めしたいものです。

 特に、親元を離れて、都会で生活している方は、
通夜・葬儀で父母の友人や近所の人たちと言葉を交わすことで、
亡き方が心豊かな人生を送られていたそのことを確認出来る
貴重な機会です。

 また、自分の性格や特徴の多くが、実は親から受け継いだ
素養であったことも、発見でき、気づいていなかった
自分の真の姿を見つけ出すチャンスでもあります。

 とありました。

 一生一度の 親の葬儀 そして自分の葬儀 人生最後の
大切なご縁です、意義あるものにしたいものです。








第1579回 問題は内側に

 令和5年 5月 4日~

 民族宗教の場合には、人間は自分の外の自然との関係において
考えられています。
たとえば雨が降らずに飢饉が起これば、神々に雨乞いの祈りをする
など、外的環境にどう対処していくかという問題が
民族宗教のすべてです。

 けれどもお釈迦さまの教えはそうではありません。
人間の苦しみの出てくる元は、外界にあるのではなく
自分の内部にあるということの発見から、仏教は始まったのです。
つまり世界は自分の外にだけあるのではなくて、
自分の内面にもあります。

 それまでの人類が知らなかった、このような内的宇宙と
いうものに覚醒するということをはっきり教えられたのが、
お釈迦さまです。
お釈迦さまの覚りというのは、どこまでも自分の内へ入っていく
徹底的な内省の道の果です。

 そしてついに苦しみの元が、自分の存在の奥底にある衝動的な
執着心にあるということを発見された。
真っ暗な自己愛が苦悩の原因だったことの発見とともに、
苦しみの元が断たれた。

 苦しみの元を発見したら、苦しみの根本が断たれたことになります。
苦の元がわからないから迷っていたのです。
それがわかったということは、苦しみからの解放、解脱であり、
大きな平安です。

 これは決して神秘的なことでも、異常な神懸かりでもありません。
それまでの人類の誰も知らなかった、人間精神の一番深みに対して
初めて覚醒した現実的な経験であります。

 ブッダになったということは、心の目が覚めたという意味です。
それまでいろいろなことに迷っていたけれども、迷いの元が今わかった。
今思えば、私は我執にふり回され、真実が見えなかったのだ。
目が覚めてもう迷わなくなったという大きな平和を経験されたのです。
そうして、世界中の生きとし生けるものはみな光かがやく仏性を
持っているのだといわれた。
仏教という世界宗教は、お釈迦さまのこの覚りの経験から生まれたのです。

 阿弥陀の本願にまかせる生きとし生ける衆生はことごとく救われて
仏に成るという、『仏説無量寿経』の根本思想は、お釈迦さまが
覚りの心境のなかで発見された真理であります。
弥陀の本願や往生浄土はお釈迦さまの自覚の内容です。
親鸞聖人はこの真理に直行され、お釈迦さまがこの世に
お出ましになったゆえんは、ただ弥陀の本願を説くためであった
とおっしゃっています。

 これは逆に言えば、お釈迦さまの説法が真理であるのは、
阿弥陀さまの本願が真理であるからだということを意味します。
だから、浄土真宗というのは特別な人びとが信奉する宗派の
名称ではないのであって、宇宙の語りを聞いたお釈迦さまの
仏教の根本精神だということをいわれているのです。

 召喚する真理 正像末和讚を読み 下 大峰顕著 本願寺出版社











第1578回 親のよび声

 令和5年 4月27日~

 小さな女の子が山の中で迷子になる事件がありました。
家族と遊びに来て、一人で道に迷ったのです。
警察や消防、近所やボランティアの人たちで探しますが、
夕方になってもなかなか見つかりません。

 そしてとうとう夜になり、「今日はもうダメだ。
これ以上は暗くてあぶない。明日また探そう」と誰かが言いました。
結局その日はあきらめて次の日の朝ふたたび集まることが決まり、
捜索隊は一時解散しました。

 ところが捜索が打ち切りになった後も、探すのを
やめなかった人がいます。
「どこにいるの、お母さんはここですよ」大声でさけびながら
必死になって探し続けたのは、その子のお母さんでした。
みんなが帰ってしまった後も、決して探すのをやめません。

 真っ暗な中さみしくて泣いているに違いない、
お腹を空かせてひもじい思いをしているに違いないと
子どもの身を案じ、心の底から心配をしているのです。
お母さんは子どもが見つかるまで心が休まることはありません。

その子を胸に抱きしめて安心させるまで、けんめいに探し続けます。
絶対にあきらめない、決して見捨てることができないのが
本当の親なのです。

 みなさんには自分のことを本当に心配してくれる人がいますか。
つらい思いをした時、悲しい気持ちになった時、声をかけて
くれる人はいますか。

 私たちの仏さまは「アミダさま」と言います。
アミダさまは「南無阿弥陀仏」という言葉になって、
今も私のところに来てくださっています。

「声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字と
 姿をかえてわれに来る」これは高松悟峰というお坊さんの言葉です。
 「南無阿弥陀仏」は、変な呪文やまじないの言葉ではありません。

  アミダさまのよび声です。
「ここにいるよ、ひとりじゃないよ。

 わたしはあなたを見捨てたり見放したりしないからね。」
アミダさまはこれまでもこれからも、ずっと私を
よび続けてくださいます。

「ナモアミダブツ」と大きな声で返事をしましょう。
アミダさまのまことの言葉をいただいて、疑いが晴れて
安心することを信心といいます。

道に迷った山の中で、親のよび声が聞こえたとき、
その声を疑う人はいませんね。
「南無阿弥陀仏」と声に出してとなえることは、
アミダさまのたしかさ、たのもしさをよろこんでいくことなのです。

        本願寺派 少年連盟 ホームページ 松月英淳師









第1577回 法事の参拝者は 招待客ではありません

 令和 5年 4月20日~

 仏事のイロハという本の中に「法事の参拝者は 招待客ではありません。」
という文章がありました。
【法事に参画を】と説かれた所にです。

 法事は、主催者である施主とその家族が中心となって準備をし、
営まれるわけですが、同時に、案内を受けて参拝する人たちも
法事を営む一員であることを心得ていただきたいものです。

 なぜこんなことを言うかといえば、「法事はもっぱら施主が勤め、
我々がそこに招待された者だ」という意識が、参拝者の中にあるように
思えるからです。

 すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された“ 客 ”である
というふうに対照的に捉えがちなのです。
しかし、法事の趣旨からいうと、それは間違いです。

法事は 故人に縁ある人たちが参集して、僧侶を招き、ともに
仏法を聞き
味わうところに意義があります。
ですから、施主も、参拝した人たちも同じ立場にあるわけで、
法事に集まったすべての人々が、法事を営む一員だということです。

 もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が
行うことに
なりますので、参拝者は側面から協力することになります。
たとえば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を
分担してもよいでしょうし、参拝者全員に配る「お供養」の品を
負担しあったりしてもよいでしょう。 ()


 参拝者が、当日お備えするものとしては、一般的に金封の「御仏前」や、
お菓子、果物といった供物類があります。
「御仏前」が施主へのお礼でないことはいうまでもありません。
報謝の心から仏さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
いずれにしても、参拝者も積極的に法事に参画してください。

 【法事の意味】の項目では 

 法事は、仏事ともいいます。意味するところは、縁ある人々が集まって
ともに仏さまを敬い、その教えを聞き、僧侶を迎えて、仏道を
実践していく
行事のことです。
浄土真宗でいえば、阿弥陀仏を敬い讃えて、その本願のはたらきである
お念仏のいわれを聞き、お念仏の人生を歩むことを確認し合う集い、
といえましょうか。 (略)

 ところで、この法事、亡き人をご縁に務めることから、「亡き人のために」
行うものと思われがちです。
いわゆる「追善供養」です。すなわち、亡き人のために私たちが法事を行って
善を積み、その功績を亡き人に振り向けて、少しでも良い世界に生まれて
もらおうという考え方です。

 しかし、浄土真宗の味わいでは、亡き人は阿弥陀仏の救いによって
すでに 浄土に生まれ、仏さまになっておられます。
ということは、こちらから善を振り向ける必要はないのです。
法事はあくまで、参拝者一人ひとりの「私のために」催される
仏教行事なのです。

 仏さまとなられた亡き人を偲ぶ時、亡き人は私たちに
「いつでもどこでも、どんなことがあっても、けっして
見放されない阿弥陀さまを依りどころにして、たくましく人生を
歩んでくれ、そして、私のいる浄土に生まれて、再び会おうよ」と
願われていることでしょう。
その願いを聞くのが年忌法要の大切な点です。・・・

  とあります。









第1576回 すれ違い 行き違い

 令和 5年 4月13日~

 門徒推進員養成の連続研修会を開いていますが、その研修の中心は
一つのテーマを元に話し合う、話し合い法座です。
ところが、受講者の発言を聞いていると、時々話がすれ違うことがあります。

 どうしてだろうかと思い、考えると、浄土真宗へのご縁の違いにありそうです。
私たちは この世の中で生きています。
この世間で、この世の中で、豊かな生活を求めて悪戦苦闘しています。
そして、この世の中が全ての世界だと思って生活しています。

 ところが、お釈迦様は この世では解決できない問題がある。
老病死をはじめとして、どうしても人間の力では
解決出来ない問題がある。
それをなんとか解決したいと、世間を出て、出家して、
厳しい修行を積み、悟りを開かれました。

 ですから、仏教は、この世の論理ではない、世間を超えた
世間の価値観とは まったく違う考え方の教えなのです。

 その仏教も、お釈迦様のように努力することよって、煩悩をコントロールして、
人間の力で 安心を得るものだというイメージが強いものです。

 ところが、今から800年程前、鎌倉時代に、法然聖人の教えを受けた親鸞聖人は、
人間の力を頼りにしていては、落ちこぼれが出る。これでは
すべての人が救われることはない。
人間の努力だけではなく、仏さまが先に、すべての人を
救おうとはたらいておられるという教えが、説かれていることに気づかれ、
他力の 仏さまのはたらきの、南無阿弥陀仏のお念仏によって
すべての人が、必ずお浄土へ往生して 仏になれる教えがあると、確信して
勧めていただきました。

 ところが、これは、現代人には なかなか理解出来ない考え方です。
努力することが素晴らしく、頑張れ頑張れ、成せば成ると育ってきた
現代人には、なかなか理解出来ない教えです。

 話し合い法座に参加された方が、どの位置で、発言されているのか。
世間の価値観で、この世がすべてとの考えの方、
仏教は 自分の力で努力しなければならないと、受験生のような考えの方、
そして、よくお聴聞されて、他力のお念仏、仏さまのはたらき、仏さまの
願いがあることに出会われた方、こうした三つの立場の違いがあり、
話がかみ合わないことがあるのではないかと、感じました。

 仏教は 世間の論理を超えた価値観であり、その仏教にも
人間の力、努力がすべてであるという、聖道門の仏教もあり、
もう一つは、親鸞聖人が勧めていただく、我々よりも前に、私のために
仏さまが、はたらき呼びかけていただいている、南無阿弥陀仏の
お念仏の教えがあることを、もう一度 整理し見つめ直してみると、
話の行き違いが 少なくなるのではないかと、感じています。









第1575回 信心よろこぶ そのひとを

 令和5年 4月6日~

本願力にあひぬれば  むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
  煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし(『註釈版聖典』五八〇頁)

 阿弥陀如来は いつも私に呼びかけ はたらきかけておられると
気付かされた人は むなしい人生で終わることはありませんよ。
煩悩一杯のこの私に 南無阿弥陀仏の功徳が満ち満ちて 
仏さまの仲間としての生きがいある 人生を送ることができるのです。

 親鸞聖人が お読みいただいたご和讚ですが、
お念仏の教えに出会うことが出来ると どうして
むなしい人生ではなくなるのか、
南無阿弥陀仏の功徳は いつどのように この身に
入る込んでくるのだろうかなどと
科学的な思考をする私たちは ついつい疑問に思ってしまいます。

 お釈迦さまは 「一切衆生悉有仏性」 すべての生きものには
仏になる種 仏になる性質 能力、 その種が宿っていると説かれています。
親鸞聖人も ご和讚に 

  信心よろこぶ そのひとを 如来とひとしと ときたまふ
   大信心は 仏性なり  仏性すなはち 如来なり  と 

 味わっておられます。


 阿弥陀さまは すべてのものを もらさず救おうとの願いを樹て
自分で厳しい修行をして、今から十劫前に仏となって 
はたらき続けておられる。
いつでもどこでも 絶えず はたらいておられる、それは、
私の外側からだけではなく
すべての生き物の中に、私の中でも はたらき つづけておられると
いうことなのでしょう。

 それなのに 私たちは それに気づかず 自分中心で 
一喜一憂しながら生きています。

赤ちゃんを見ていると 自分と他人との区別がなく、大事なものでも 
素直に相手に手渡すことができています。
しかし、少し知恵がつくと、これは私のものだと、おもちゃの
奪い合いが始まります。

 私たちは 学校教育を何年も受けてきて、競争心が芽生え
努力すると成果があがることを知り、損か得か 勝ちか負けか
という感情が膨らんで 損得勘定を基準に、生きています。

 ところが、この私のことを 一人子のように心配し、
なんとか喜び多い 生きがいある 人生を送らせ
やがては お浄土に生まれさせ 仏にしたいという阿弥陀さまの
願い はたらきを聞かせていただくことによって、 私の中にある仏性、
仏になる性質を持っていることに気づかされ、今までと生き方が
少しずつ変えられてくるのです。

 煩悩一杯の私のままで、仏さまになれるような能力が 開発されていき
それによって、ものの見方や行動が変わり、 私の人生は、
大きく違ってくるのです。


 お聴聞を勧めるのは、仏様の話を聞くことで、私のために はたらきかける
大きな力があることを、この真実を知らされ、気づかされて、
自分の進むべき方向 目標 生き方が 変えられていくのだと思います。

 両親や祖父母、多くの祖先たちが、阿弥陀さまと一緒になって
このお念仏の教えに遇い、南無阿弥陀仏を口にする生活をしてほしいと
期待して はたらき続けていらっしゃるのでしょう。

 やがては私も仏となって、子や孫だけでなく、多くの人々の幸せになる方法を
呼びかけ続けていくことができる。
死んだら終わりの人生ではなく、まだまだ 仏さまになって活躍できる未来がある、
明るい喜び多い人生を受け取ることになるのです。

 私の中の煩悩に支配され、わがままな自己中心的に生きていくのか。
それとも 阿弥陀さまの仲間として、生きがいある喜び多い
明るい未来を味わえる人生に、気づかせていただくのか。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にして 耳に聞くたびに、
有り難い人生であることを 味わい感謝の毎日を送らせていただきたいものです。








第1574回 お浄土も人手不足か

 令和 5年 3月30日~

 現在は あちこちで人手不足のようで、なかなか思うように
優秀な人が集まらないということです。
この世で お聴聞の人が少なくなってきて、お浄土でも、
人手不足ではないかと思われます。

 阿弥陀様は 全ての人を救いたい 仏にしたいと、
はたらき続けておられますが、なかなか気づく人が少なく
ご苦労が多いようです。

 阿弥陀さまは、もとは国王で 自分の持つ政治権力で
すべての人を幸せにしたい ひとりもらさず救いたいと
努力されていましたが、思うようにはいかない。
あるとき、仏様の話を聞いて この教えであれば すべての人を
仕合わせに出来ると、王様の地位を捨て、修行者となり
法蔵と名乗ったと お釈迦様おっしゃっています。

 理想の国とはどんなものか。 お師匠様に頼んで210億の
仏様の国を見せてもらいましたが、どこにも完全な国はなく、
それから五劫という長い間考えに考えて、48項目の理想の国の設計図を
樹て、その願いを完成するために、また永劫という宇宙的長い時間修行して、
今から10劫前に阿弥陀仏と成られたと、仏説無量寿経にはあります。

 阿弥陀様は、苦しむ人々に実践することを求めても 
何もしない怠け者の私たち。
それでも、なんとかして救わねばならないと。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と自分の名前を呼び、
そして阿弥陀さまの国、お浄土へ生まれたいと思うものを
全員生まれさせて仏にしたい。
仏になったら、自分と同じ能力を持つ仏として 一緒に活躍させたい
と、はたらき続けておられると説かれています。

 私たちは、仏様のことに気づきませんが、仏様がこの私に
何とかお浄土に生まれ仏となって、自分と一緒に はたらいて欲しいと
呼び掛け続けておられるのです。

 一人残らず救いたい、それには まずは貴方がぜひ必要だ。
あなたを仏にして、一緒になって、人々を救おうではないか。
一緒に はたらいてくれよと、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
呼びかけておられます。

 ですから、私が仏になるは、私が楽をして楽しむ為ではなく。
阿弥陀さまと一緒になって みんなを救う はたらきを
してほしいと、私たちの頼んでおられるのです。

 仏になるのは 私のため 私の喜びのためでなく
まずは大切な子どもや孫、そして みんなを救うためのはたらきを、
私にしてほしいと期待され、望まれているのです。

 その呼び声を聞き取った人は、
阿弥陀さまと同じ力を持つ仏になることが決まっていることを
喜び 驚き 今 自分がやれることを、精一杯勤めさせて
いただきたいものです。

 阿弥陀さまは 南無阿弥陀仏で 人々を救いたい、ですから、
今 この世界で出来ることは 南無阿弥陀仏のお念仏を
口にしての生活をさせていただくことです。
それが、必ず仏になるお念仏の人の 今できることです。








第1573回 合格通知が届きました

 令和5年 3月23日~

 3月に入ると、親子連れの方が、本堂や墓地へ参拝される姿を
よく見かけます。
ある日、きょうは特に多いなあという日がありますが、
どうも高校受験や大学受験などの受験生が、親子揃って
お参りしておいでのようです。

 受験といえば、学問の神様 太宰府天満宮が有名ですが、
神様は、どの子にもみんな平等に応援してくれるのに対し
仏様となると、自分の祖父母や多くの先祖が、少しは親身になって
応援してくれるのではないかと、そういう思いもあるのか、
本堂やお墓にお参りされるのではないでしょうか。

 桜の花が咲く頃に 合格が決まると、それまでの苦労がむくわれ
あとは 4月になって、学校に登校するだけ。
行先がはっきりすると もう安心です。

  ある法座で、テレビの今日の運勢のことが話題に出ました。
何気なく見ていても、今日が いい日。
私にとって良い日とわかると嬉しいもの。
逆に 悪いことが起こると聞くと、気になってしまうもの。
何の根拠もありませんが、それを聞いた瞬間 嬉しかったり、
悲しかったりするものです。

 浄土真宗のお念仏の教えは、必ずお浄土へ生まれますよ。
一人残らず生まれさせる。ですから、貴方も間違いなく
お浄土へ合格していますよ。
これから、どんなに悲しいこと、苦しいこと 辛いことがあろうが、
必ず、あなたはお浄土へ生まれます、合格ですと呼びかけられているのです。

 今日の運勢のように、今日だけではなくて、
一生涯大丈夫、命ある間だけではなく、いのち終わっても大丈夫。
そのように聞き取ることが出来ると 合格通知をもらった時の、
あの喜びと、安心感が得られるものです。

 合格が決まったら、入学するその日まで、遊びほうけるのではなく、
入学してから みんなに遅れず、ついていけるように、
毎日、精一杯準備をしておきたいものです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は あなたは合格しました。
必ず仏になる人ですから、その覚悟でこの人生を送ってくださいとの、
呼びかけです。

 仏壇の前で お勤めをするのは、合格の後、学校や会社から届く、
入学までに、やるべきことが記された、連絡の文書を 声を出して
繰り返し読んで確認しているのに似ているのではないでしょうか。

 これから、入学までどういう気持ちで生活すればよいのか。
さあこれから新しい夢と希望を膨らませて、今やれることを、
楽しみながら取り組む毎日を送りましょう。
お浄土へ生まれるまでに出来ること それは お念仏の毎日を送ることです。

これが、南無阿弥陀仏の呼び声ではなのでしょう







第1572回 お育ていただくと

 令和 5年 3月16日~

 毎日、毎日、月忌参りや年忌法要で 家庭訪問をしていますが、
お念仏の教えに まったくご縁のない方とお話ししていると
非常に疲れてくるものです。

 お勤めの後、仏さまのお話をして、いかがですかと、世間話になると
「毎日の生活がきつい 苦しい くやしい 歯がゆい 腹が立つ
 私一人苦労したのに 誰もわかってくれない。
 子どもを一生懸命育てたのに
 全然わかっていない。
 ほんとうに 世の中間違っている。」などと
 ぼやかれる方が多いものです。

 どうも、自分でやったことは 一つ残らず全部憶えているのに、
自分が、同じように誰かにやってもらったことは 気づいていない、
感じていない人がおられるものです。
つまらない むなしい人生を送っておいでの方々です。

 これに対して、本堂の法座によくお参りで お話を聞いておられる方、
お念仏の教えにご縁のある方は、にこやかに、
「気づいたら もう親の歳を越していました。
  お蔭さまで こうして、この歳まで元気で生かされています。
  私は幸せ、有り難い人生だった」と。

 お聴聞している人は、周りがよく見えて、
多くのはたらきに、気づき感じ 感謝することが出来る方が多いようです。

 自分の方からの 一方的な見方だけではなく、仏さまの目を通して
物ごとを見ることができる、見る力が身について、ご恩を感じとり、
ささえられた素晴らしい人生であると気づいておられるようです。

 そして、もっと仏さまのお話を聞いておられる方は、それに加えて、
やがて、お浄土へ生まれ 仏として活躍できる。
先だった親たちは 私のために、今もずっと はたらき続けてくれている。
死んでしまったらすべてが終わりではなく、やがてお浄土に生まれ
今度は私も仏さまとなって、はたらくことができる、
これからまだまだ活躍出来る 明るい生きがいある未来を
感じておられるようです。

 元気で若い頃の 青春時代のように 夢と希望がわいてきて
明るい未来をイメージしておられる、高齢でご病気であっても
明るくにこやかに、すごされておられる方があるものです。

 お聴聞してお育ていただき、多くの働きかけを味わう能力が
身についたお陰で、すばらしい人生だったと思える 
有り難い人生を送っておられます。

 お念仏に遇えば 平凡なつまらない人生ではなく 喜び多い
豊かな 有り難い人生であることに 気づくことができると
教えていただいているとおりです。



 




第1571回 願いを伝えていく

 令和 5年 3月9日~

 お経や七高僧の論釈が 漢文で書かれているため 
一般の人には難しいので、親鸞聖人は それを七・五調の
今様形式である
和讃にして 数多く読んでいただいています。

 その一つ、お葬式の時に節をつけて 拝読するのが
 本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 
   功徳の宝海 みちみちて
煩悩の濁水 へだてなし 
       という高僧和讃です。


 その意味は、お念仏の教えに出会えれば 南無阿弥陀仏の功徳が 
この身に満ち満ちて 煩悩一杯のこの私も むなしい人生では 
決してない、喜び多い豊かな人生と味わえるようになるものですよ。

 裏返すと お念仏に遇うことが出来なければ やがて迎える 
老病死の
苦しみ一杯の、むなしい人生で 終わりますよ
是非 お念仏の価値観に出会ってほしいと 先だち仏になられた方が 
残された人々に 呼びかけていただいているのでしょう。

 皆さんの中には、子どもころ 日曜学校に参加された方 
おばあちゃんに手を引かれ本堂に座り、お聴聞されたことのある方など、
子どものころにお念仏とのご縁をいただいた方もあるかと思います。
ほとんどの方が お仏壇のある家で 育ってこられたのではないでしょうか。

 しかし今、ふと気づくと 二世帯 三世帯で生活しておいでの家は
少なくなって、現代は、お仏壇ない家で 育っている子どもの方が
多いのではないでしょうか。


 また、お通夜やお葬式も 多くは自宅で行ったいたのが、
現在は 駐車場や家に広い部屋がない造りなどから、
葬祭場で行われるのがほとんどになってきました。

 自宅での時には、近所の人々がみんな集まって、食事の世話をはじめ
すべて雑用は、地域のみなさんや親戚が、受け持ってくれていました。
そこで、伝統、しきたり、仏教の教えなど、地域で伝承してきたように
思います。

 それに加えて、コロナ流行のために、近所や親戚も、案内しないで
家族だけで ひっそりとお葬式をするケースも出来てきています。
うるさい親戚や地域の長老たちの出番がなくなり、密かに簡単に
送ることが許されるようになって、これまでの伝わったきたことが 
ほとんど消え去っているように思えます。

 そのため、みんなで伝えていた仏さまの教え、親たち共通の願い、
人間として最も大事な、人と人とのつながりなども
次の世代には 伝わっていないように思います。

 お葬式で 本願力にあひぬれば むなしくするつひとぞなき・・・
いろいろな価値観があるものの、お釈迦様が説かれ、多くの人が
受け継いできた お念仏の教え 南無阿弥陀仏の教えに出会ってさえいれば
これから訪れる 老病死の苦しみも 乗り越えていける。

 そして、仏となった親たちは 一番大事な子どもや孫のために
引き続き見守り応援し、お念仏の教えに遇うことで、
この人生が 意味ある 豊かで 尊いものとなることを
伝えたいのだと味わいます。

 どうか、親の願いを受け取り、お念仏の教えを受け取り 次へと
相続してほしいとの呼びかけを聞き取り、お育ていただき、
次へ受け伝えていただきたいものです。









第1570回 還相の菩薩さま方

 令和5年3月2日~

 私どもの教えは、浄土真宗の教えといいます。
自分の力ではなく 仏さまの力 はたらきでお浄土へ
生まれさせていただく教えです。

地獄や極楽に行くという言葉もありますが、 お念仏の人は 極楽ではなく
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただくのです。

 お釈迦さまは 数多くの教えを説いていただいていますが
もっとも説きたかった教えが、この 浄土真宗、お念仏の教えであり、
この教えを説くために この世にお生まれになったのだと、
親鸞聖人は味わっておられます。

 日常お勤めしている 『正信偈』には 
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
このお念仏の教えを説くために、お釈迦さまは
この世にお生まれになったのだと。

 全ての人を、一人残さず 救い取りたいという 願いがはたらいており
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と阿弥陀さまの名前を口にし
阿弥陀さまの呼びかけを 聞くことが出来た人は、
お浄土へ生まれて行くことができる。
そして阿弥陀様と同じさとりりを開き、仏となって活躍出来るのだと。

 仏説無量寿経に説かれている、お念仏の教えについて
親鸞聖人は 教行信証の教の巻きに
「如来より二種の相が回向されるのである。 一つには、 わたしたちが
  浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、
  二つには、 さらに迷いの世界に還って衆生を救うという
  還相が回向されるのである。 ・・・・」と

 親鸞聖人は お師匠様の法然聖人が、往生されたことを
本師源空は、「浄土にかへりたまひにき」、あるいは、
「浄土に還帰せしめけり」と 和讃に読まれています。

 同じように お釈迦さまが 阿弥陀如来のお浄土のことを
事細かに具体的に説かれているのは、お浄土から来られた
菩薩さまだから、還相の菩薩さまだからだとの味わいです。

 そして、この私が お念仏に遇うご縁をつくっていただいた祖父母、
両親、兄弟、友人などなど、お浄土へ生まれていからた多くの方々も、
同じようにお浄土から来られ、私に教えを伝え お浄土へ帰られた、
還相回向の菩薩さまであったかもしれません。

 その証拠には、この私がお念仏に遇わせていただいたのは、
あのお方のお陰だからです。
そして今度は この私がお浄土へ生まれ、一番大切な子どもや孫のために
還相の菩薩として はたらかせていただく番です。

 ですから、お浄土から帰って来た人がいないのではなく、
沢山にいらっしゃるのに 気づいていないだけなのでしょう。
私の周りは みんなお浄土から来られた菩薩さまだと
味わっておられる方もあるのです。








第1569回 等しく  ~すべてのものを~

 令和5年 2月23日~

 お経には「一切衆生 悉有仏性」というお示しがあります。
これはすべてのいのちあるものは、みな仏になる可能性を
持って、生まれてきているという教えであります。

 また、阿弥陀如来様は、「十方衆生」を必ずすくうと誓い、
はたらいて下さっております。
十方というのは、東・西・南・北・北東・北西・南東・南西の
八つに、上下を加えたすべての世界です。
この十方のいのちあるものを、必ず仏にすることができなかったならば、
阿弥陀如来とは名告らないと、誓い、はたらいて下さっているのです。

 ですから、私たちは気付いていなくとも、どんな生き方をしていても、
すべて仏となるべき“いのち”を生きているのであり、願われて
生きているのです。
換言するなら、私たちは、阿弥陀如来様にすくわれるべき“いのち”を、
生きているということができるのです。

 人間に生まれさせていただいた尊さに目覚めるというのは、
このように仏となるべきいのちを生きているということへの、
目ざめ、気付きなのであります。

 大切なことは、この私の“いのち”が願われているだけではなく、
すべての“いのち”が、阿弥陀如来様にすくわれるべく、
今生きているのです。

 ややもすれば、日常の生活の中で、ともすれば“いのち”の尊さ、
如来様のはたらいて下さってある“いのち”であったということを
忘れてしまい、どんなにか“いのち”を粗末に扱っていないでしょうか。

 私が尊い“いのち”、如来様のはたらいて下さってある“いのち”を
生かされていることに気付く時、初めて、すべての“いのち”が等しく、
尊いと気付かされるのであります。

 同じ阿弥陀如来様が、はたらいて下さってある尊い“いのち”でありました。
同じ阿弥陀如来様のお浄土で遇わさせていただく“いのち”でありました

と目覚める、すべての“いのち”への共感もめばえ、
「たがいに敬い、たすけ合う」という人間関係が成立し、
南無阿弥陀仏にいかされる私の人生が展開していきます。

 南無阿弥陀仏のみ光りは、ときもところもこえ、人種や、
肌の色の違いや、家柄・・・・・・、そんなもの、何の関係もなく、
等しく“いのち”を育てて下さってあるのです。

『聞法 1996(平成8)年  著者 小林 顯英師より







第1568回 お浄土への道

 令和 5年 2月16日~

 迷いとは、進むべき道を見失っているということです。
よく電話で、「お寺へ行きたいのですが、どの道を行けば
いいのですか、迷っています」と話されています。
進むべき道がはっきりすれば、生きる方向が定まります。

 私たちの人生、どの道を歩むことが、悔いなく
力強く歩める道でしょうか。
仏教は、生死(迷い)をこえていく道を教えていますが、
仏教の中でもさまざまな道があります。
どの道が私にふさわしい道かを知るには、
私の現在地を知ることが必要です。

 「進むべき道がわかりません。迷っています」という方に、
私は「現在地はどこですか」を聞き返します。
現在地がわかれば進むべき道を指示することができるからです。

  仏法を聞くとは、阿弥陀さまの光に照らされ私自身の姿、
即ち現在地が明らかになると同時に、阿弥陀さまが、
私たちの進むべき道を指示してくださっていることが
明らかになるのです。

 私は安心して迷える道、安心して
間違えてもいい人生の道を進みたいです。
迷ったらいけない、間違ったらいけないと
力んで生きる道はとてもしんどいし、疲れて長つづきしません。
また自分の思い通りにならなくても悔いなく生き、
私がこの人生に生まれて良かったと心から思える
人生の道を歩みたいです。

 二河白道の譬に、限りなき煩悩によって
苦しんでいる旅人が、前にも進むことができず、
後ろにも下がることができず、またとどまることも
できない状態の中で、お釈迦さまが
「汝ただ決定してこの道を尋ねて行け」と示され、
阿弥陀さまが「汝一心正念にして直ちに来たれ」と
私たちにお浄土への道を歩みなさいとよびかけられています。

このお浄土への道を歩む人は、霊やタタリの迷信に
振り回されることもありませんし、いくら私が間違っても、
間違うことのない阿弥陀さまが私の生きる依りどころと
なってくださっているから安心です。

「この道より我を生かす道なし」です。
どうか皆さまと共にこのお浄土への道を歩みたいものです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』
   (著者 : 不死川 浄師)より










第1567回 はたらき続ける仏さま

 令和 5年 2月9日~

 車でお参りしている途中、 サイレンを鳴らした 救急車、消防車
パトカー。 血液センターや 電気やガス会社の車と よく出会うことがあります。
生命に関わる 緊急時。 サイレンを鳴らし救助に 向かっている 緊急車両です。

 ところで 浄土真宗の教えは、 すべての人を必ず救う。
一人残らず救うという。 阿弥陀如来の願い はたらきが 説かれた宗教です。

救急車両の場合は 誰かが電話をして、はじめて、救いに来てくれるものですが、
阿弥陀さまは 電話しなくても 頼まなくても いつでもどこでも誰にでも
平等に 救わずにはおかぬと はたらき続けておられるというのです。

 北原白秋の郷里 柳川地方では 年に一度 子どもたちに地獄絵を見せる
行事があると、昔テレビで見たことがありますが、死んだら終わりと
理解している人が多い現代では、地獄へ行くことや、地獄の苦しみから
救われるというイメージは なかなか持てないものです。

 ことによると、地獄のような苦しみは 将来ではなく死んだあとの話ではなく
今 ここに存在しているのに、医学や経済的な解決だけに頼って、
もうどうしようもないと 諦め落胆してしまっているのが、
現在の多くの人々であるようです。

 仏教は、お念仏の教えは、日常の生活に疲れ、 悩み苦しむ 人々を
頼まなくても呼ばなくても 必ず救おうと、はたらきかけがあるのに
それに気付くこともなく、溺れ苦しんでいる人に
その苦しみの原因が何によるのか、また、その
痛み苦しみ悩みを 和らげ解決する方法を 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 
呼びかけ 教えておられるのです。

 救われるのは、この自分であると気づいたとき、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の呼びかけは、自分を救いに
救急サイレンの音が 近づいてきた時のように、
ほっとし
 安心感が得られるのです。

 仏さまの教えに出会い、南無阿弥陀仏の呼びかけの意味を 
仏さまの願いを聞き 味わうことが出来れば
生きがいや 喜びが与えられ 私のこころと体に 
大きな変化が起こってくるのです。











第1566回 最も度し難いのは この私

 令和5年 2月2日~
 

お姉さんの結婚式の朝 お内仏の前で撮った笑顔いっぱいの
家族写真を見せてもらいました。
その大切な写真が、お内仏の前で撮られているということに驚きました。
日頃から仏前に座り手を合わせてきた
家族だったから、その場所を
選んだのでしょう。


 七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし (『註釈版』562頁)

 これは親鸞聖人が作られた「浄土和讃」の一首です。
「講堂」とは 聞法の道場であり、お寺の本堂や家庭の
お内仏を意味します。
親鸞聖人はこの「講堂」の字の横に、小さく「ナラウイエ」と
書かれています。

 いったい何を習うのでしょうか。それは自分自身を習うのでしょう。
喜び、悲しみ、腹を立てる自分自身の姿です。
その姿は時に目を覆いたくなるような愚かしいものかもしれません。
しかし、その見たくないものをしっかりと見て、習う。
それが本堂やお内仏という場なのです。

詩人の相田みつを氏は、「じぶん/この/やっかいなもの」
  (『いのちいっぱい』ダイヤモンド社)と、他者ではなく、
自分こそが一番煩わしい者であると教えてくださいます。

 私の目はありのままの世界を見ているにもかかわらず、
「自分」は勝手な解釈でもって、ものごとを常に選り好んで
生きています。

周囲の人を、親を、連れ合いを、子を、そして自分自身さえ
ありのままにいただくことなく、事実をねじ曲げ、
そのうえ不平不満を言って生きているのです。

 そのような私が、本当の私自身を見ることができる場として
聞法の道場があるのでしょう。
その確かな依り処を大切にして欲しいという仏さまの願いを、
お内仏の前に座る家族の姿をとおして、あらためて
教えていただいたことでした。

 稲城先生の法語「世の中に最も度し難いものは他人ではない この私」
この法語は、不確かな目で見たものを絶対化するどうしようもない私を
言い当てられた言葉です。
いかに我が身中心の思いで生活しているのか。
それさえも厳しく教えられないとわからない。
そういう我が身の愚かさを教えていただくのが道場です。
その自分が最も救われなければならないものであると目覚めたとき、
頭は自然と下がるのです。

                  松江 長親師を参照








第1565回 親は 子どものために

 令和5年 1月26日~

 テレビ放送開始70周年記念ドラマ として
「大河ドラマが生まれた日」を 2月上旬に放送するという
PR番組をみました。

 昭和39年の東京オリンピックの直前、テレビの躍進を脅威と感じた
映画会社は 所属の俳優をテレビには出演させない協定を結び、
テレビと対抗していた時代のことです。
映画に負けない新しい連続大型時代劇を自分自身で制作できないかと
奮闘する中、映画俳優の 佐田啓二が出演することを了解してくれて、
第一回大河ドラマ「花の生涯」が、スタートしたという物語のようです。

 この記念ドラマには、佐田啓二の息子 中井貴一が、大河ドラマを発案した
芸能局長の役で出演しているということです。
ところが、中井貴一のスケジュールがなかなか取れず、
たまたま空けてあった一日、父の祥月命日に、収録をしたとい
うコメントもありました。


 もう40年も前を思い出しています。
夜の8時台の総合テレビ 報道や教養番組がほとんどとなった中、
やはり娯楽時代劇が必要と急遽制作することになりました。
作品は 藤沢周平さんの原作と決まっていましたが、あとは白紙
毎週一回の放送ですから、週5日間のスケジュールが必要ですが、
主役級の俳優は 2年3年先まで、予定が入っており、なかなか
いい人が見つかりません。

 そんな中、訪ねてきた中堅どころのプロダクションのマネージャに
「時代劇 主役 新鮮な若者 いませんか?」「いますよ」
「え、誰、どこに」「佐田啓二の息子さん」「今何をしている人」
「大学3年か4年生ですよ」「経験はあるの」「映画連合艦隊に出てましたよ」
「会えるかなー」「段取り取ってみます」

 放送センターの西口前の喫茶店で会うことになりました。
約束の時間に行くと、恰幅がいい母親がひとり現れて、本人はクラブ活動で
少し遅れますとのこと。
内容を説明すると、主人の佐田啓二さんが夜の8時台のドラマ収録のために
蓼科高原(たてしなこうげん)から帰る途中、自動車事故で亡くなった。
その同じ8時台に
息子に主役の話があり、あとは本人次第との感じでした。

 真っ黒に日焼けして、ラケットを持ち、練習着のまま現れた青年は
自分は父親と別の道を行きます。大学のテニス部のキャプテン、先輩の
紹介で、就職は大丈夫。ゴメンナサイとの強い決意でした。

「そういわず、卒業前の思い出づくりに 一本だけやってみない」
「とても無理です、大きな大会もひかえていますから」
「今結論を出さず、後で返事を・・」で別れました。
ちょっと無理かなあーが印象でした。
しかし、数日後 出演したいとの返事が届き思いました。

 親は子どもや孫の幸せのために 心配りをします。
亡くなっても親は子どものことを一番に考えてはたらきかけて
くれているのだろうと
しかし、なかなかそれに気づかずにいるだけ、
この父と、子どもの映像をテレビで見ながら、この場合は 
それを感じ取ることが出来、受け入れただけだと、つくづく感じています。

親はいつも 子どものことを応援しているのです。
阿弥陀さまは すべての人を我が子のように、いつもいつも
私に任せなさいと、見守っておられるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 呼びかけ見守って
おられるのです。










第1564回 酔っぱらって

 令和 5年 1月19日~

 
朝から 赤い顔をし 酒臭く 二日酔いで苦しんでいる人がいます。
たばこを切れ間なく吸い、指先は黄色く 近づくと匂う人もいます。
酒やたばこや賭け事に酔いしれている人たちに比べると 
自分は真面目で
まともな人間であると思っていますが、
自己中心で 行き先もわからず、 道に迷っていながら 
それに気づかず、生きている人は 酔っ払っている人たちと 
同じように 無意味な人生を送っていると 言われます。

何のためにこの世に生まれ どこへ向かって、生きているのか 
考えもしないで、毎日をすごしていることを、
むなしい人生であると 仏教では 言うのだといいます。

 蓮如上人の御文章には

 八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を
 愚者とす、たとい一文不知の尼入道なりというとも・
 後世をしるを智者とすといえり・・・・  とあります。

 希望したわけでもなく、気づいてみると、この世に生まれていました。
そして 追いかけられるように競い合って
勝ったと言って喜び、負けたと言って悲しみ
得をしたとはしゃぎ 損をしたと悔しがり、一喜一憂しながら
無我夢中に走り続けているのが私たちです。

 親鸞聖人の ご和讃には

 本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなし
 功徳の宝海 みちみちて 煩悩の濁水へだてなし  と

 阿弥陀如来は、一人も漏らさず救い取る、人間に生まれたことを
喜び、生きがいある人生をまっとうさせたいと願いを立て
完成されました。

 この本願の教えに出会えれば、この人生は 喜び多い
すばらしいものになること間違いないと、お釈迦さまは
教えていただいています。

 この私は 今は 自分本位で 自分の家族や仲間のことしか
考えられない生き方をしていますが やがて  多くの人々の幸せのために
生きることが喜びとなる 仏になって欲しいと
阿弥陀如来は呼びかけておられるのです。

どうか 仏となって みんなのためにはたらく そうした目標をもって、
この人生を 送って欲しいと呼びかけておられます。

難しいことを言っても何もしない できない私たちに 代わって
自分が 苦労して修行して、南無阿弥陀仏と自分の名前を
信じ 口にするものを、一人残らず 自分と同じ能力を持つ
仏にしようとはたらいておられるのです。

 無理なことは言わない 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏だけで良い 。
私たちの 父 祖父母 多くの先輩たちも 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
と、一緒になって はたらきかけておられます。

 何のためにこの世に生まれ、何のために生きるのか、
そのことがはっきりすることで、この人生は まるで違って
見えてくるものです。

 あなたも酔いしれて 虚しい人生を送るのではなく、どうか、
喜び多い 生きがいある人生があることに気づいてほしいと。
お念仏の教えに出会えれば、 生まれた目的 進んで行く方向
本当の喜びが はっきりと見えてくるのです。










第1563回 最も確実な親孝行は

 令和5年 1月12日~

 今年も お精進がはじまりました。
ご本山 西本願寺では、1月9日から、親鸞聖人の御命日の法要、
ご正忌報恩講が始まりました。

 お寺だけではなく ご門徒のお宅でも、この期間中、お精進をして
肉や魚を食べるのを遠慮していたようです。
お正月が終わり、ご正忌報恩講が近づくと、生ものを煮炊きした鍋や釜を、
丁寧に洗い、
ご正忌報恩講の準備をしていたということです。
京都では 昔、この間 魚市場もお休みだったと聞いた事があります。

 親鸞聖人は お釈迦さまが説いていただいた、数多くの教えの中で
無量寿経にある阿弥陀さまのお念仏の教えこそが、真実の教えであると
味わっておられます。


 全てのひとを一人も漏らさずに救うには どうすればよいのか
五劫という長い長い間 考えに考えて 48願をたて、
お念仏ひとつで お浄土へ救い取り もれなく仏にしようという
願いを完成するために 大変 大変 ご苦労いただきました。
親鸞聖人は 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。」と 味わっておられます。

 教育テレビでは 子どもさん向け番組で  「えほん寄席 寿限無」
というのが 放送されているようで、字も読めない 小さな子どもさんが
寿限無 寿限無 五劫のすりきれ・・・・と 暗記しているようです。

この寿限無は 無量寿経の 無量寿でしょうし 五劫のすりきれは
法蔵菩薩の 五劫思惟のご苦労のことを 知った人が 
このお話を作り、お念仏を喜ぶ人々がそれを受け入れてきたのでしょう。

 親は 子どもの幸せを願い 立派な名前を考えて寿限無 寿限無という
長い長い名前を つけてやったのでしょうが、
すべての親は 子どものために 子どもの幸せのために 頑張り苦労しています。
その親がもっとも喜んでくれるのは、子どもが喜び多く 生きがいをもって
自分のためだけではなく、多くの人のために 頑張って生きてくれることでしょう。

 それには、お念仏の教えに出会うことで、その方向性 進むべき道
やるべきことが見えてくるものです。
どうか、両親や祖父母を喜ばせるには お念仏の教えに出会っていただくことが
最も早く 最も確実な親孝行ができることでしょう。

 ご正忌報恩講は、そのご縁を結んでいただく チャンスです。
ご本山の ご正忌報恩講は インターネットでもライブ配信されています。
どうか、一日でも早く お念仏のご縁をいただいていただきたいものです。









第1562回 深い深い思い
 
 令和 5年 1月 5日~

 『大無量寿経』には、阿弥陀仏が仏に成られる前、
法蔵菩薩であられたとき、世自在王仏のもとで教えを
受けておられましたが、教えを受けるなかで、菩薩は、
“浄土を建設して、悩み苦しむ人びとをすべて救いたい”と
願うようになられたのでした。

 そのために、他の仏の浄土の成り立ちを教えていただきたいと、
世自在王仏に懇願されたのです。
世自在王仏は法蔵菩薩の願を聞き入れて、多くの仏の浄土を
お示しになりました。

 菩薩は、諸仏の浄土とそれらの浄土に生きる人びとのありさまについて、
みなことごとく見究きわめられたのでした。
そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を
実現したいという、殊のほか勝すぐれた願いを発こされたのです。

 殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながら
それに気づかず、教えに背を向けているために悩み苦しむ凡夫、
いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を
実現したいという願いであったのです。

法蔵菩薩は仏になろうと志しておられましたが、もし、
その願いを成就させることができないのであれば、むしろ
自分は仏には成らないとまで誓われたのです。

 凡夫は、ものの道理がわかっていないのです。しかも、
ものの道理がわかっていない、そのことも、実はわかっていないのです。
それなのに、自分自身にこだわって、自分はわかっていると思い、
わかっていると思っていることだけが道理だと思い込んでいます。

このような凡夫が浄土に生まれるなどということは、通常は
あり得ないことです。
浄土というのは、自分にこだわって思い上がるなどという、
そのような汚がれがまったくない世界だからです。

 法蔵菩薩は、そのように浄土に往生できるはずのない凡夫を、
どのようにすれば自分が建設しようとしている浄土に
導き入れることができるのか、それを深く深く思案されたのだと、
『大無量寿経』に説かれています。

そのことを親鸞聖人は「五劫思惟し」(五劫、これを思惟して)と
述べておられるのです。
「劫」というのは、気が遠くなるような、途方もなく永い時間
をかけて法蔵菩薩は思案されたわけです。

 私たちも、時には、真剣に思案することがあります。
けれども、どんなに真剣に、誠実に思案したとしても、
必ず、自分とか、自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。
そのような思案とはまるで違った、純粋な思案、どうにもならない
凡夫を救うための思案を深く深く重ねられたのです。

その思いの深さを「五劫」という時間の永さで言い表わしてあるのです。
つまり質の深さを量の多さによって表わしてあると考えることができるのです。
それほどの深い思い、大きな願いが、私ども凡夫に差し向けられて
いるわけです。

 ここであらためて、親鸞聖人のお言葉が思い起こされます。
『歎異抄』によりますと、聖人は、「弥陀の五劫思惟の願を
よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と述べておられます
これほど深い願いがご自分に差し向けられていることに
感動しておられるのです。

「たすかるはずのない凡夫を何とかして たすけたいというこの願いは、
実は、自分に向けられているとしか思えない」と言っておられるのです。
ここには、ご自分を救い難い凡夫であると、真っ正直に厳しく
見据えておられる聖人の眼差しがうかがわれるのではないでしょうか。
そして、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを
表明しておられるのではないでしょうか。

 法蔵菩薩は、深い思案のすえ、たすかるはずのない凡夫をたすける手立ては
これしかないと、思い当たられたのです。
そして、四十八項目からなる誓願を選び取られたのです。
そのことを「摂受(しょうじゅ)」(摂さめ受ける)と説かれているのです。
             
           九州大谷短期大学長 古田和弘師









第1561回 遇い難くして 今遇う

 令和4年 12月29日~

「お釈迦さまが この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の
本願を説くためであった」と、親鸞聖人は 正信偈に
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と著していただいています。
今から 800年前 鎌倉時代のことです。

 八万四千の法門といわれるようにお釈迦さまは 人々の問いに答えて
数多くの教えを お説きいただいています。
しかし、その教えの多くは強靱な精神と強固な体力を持つ 
優れた一部の人しか実践することが出来ない難しい教えでした。

 ところが、全ての人がもれなく救われる お念仏の教えがあることを
法然聖人から聞かれた親鸞聖人は、 お釈迦さまの目的は
本当に説きたかったのは、この念仏の教えであったと これこそが
仏教であると 受け取られたのです。
そして、この教えでなければ 自分は救われないと 
『教行信証』をまとめていただきました。

 それから 800年 令和五年が 本願力の念仏の教えである浄土真宗の
立教開宗の年であり、親鸞聖人ご誕生850年にもあたります。

 生涯をかけてまとめていただいた『教行信証』のはじめに 
この教えに 「遇ひがたくして いま遇ふことを得たり」と
なかなか会うことのできないこのみ教えに 遇えた喜びを
お念仏の教えに遇えた喜びを述べておられます。
お念仏の教えに遇えたお陰で 喜び多い人生を受け取ることが出来た。
もし、遇えなければ 無意味で 虚しい人生で終わったであろうと
 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき・・・」と
ご和讚に読んでいただいています。

 親は 子どもや孫の幸せを願っています。
自分のことよりも子供たちのことを心配し続けています。
生きている親だけではなく この世の命を終えお浄土に生まれた
先輩たちも 子どもや孫が 充実した生きがいある生き方をして欲しいと 
願い呼びかけ続けておられることでしょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏に遇い、信じ 生きてほしい、どうか
お浄土へ生まれて来て欲しいと はたらきかけでおられることでしょう。

 お釈迦様は 本願力のお念仏の教えを説くためにこの世にお生まれになったと
親鸞さまは 味わっておられますが、その教えがあることを
お念仏一つで 救われお浄土へ生まれ 仏になれることを私たちに
教えていただいたのは 親鸞さまであり、多くのご縁のあった方々であった。
親鸞さまのお陰、また直接のご縁を結んでいただいた方々に、
有り難うございます。お蔭さまで、南無阿弥陀仏と お礼を申したいものです。









第1560回 何事も お念仏の助縁

令和 4年 12月22日~

 仏教でいう信心、親鸞聖人の信心とは、
「イワシの頭も 信心から」というような、自分勝手な
思い込みや、かたくなになって信じ込むような態度とは、
まったく違う心のありかたです。 

仏教にご縁を得る、仏さまに出遇うということは、今まで
見過ごしていたもの、気づいていなかったことに
気づかされて、ああそうだったなあ、常に仏さまはいらっしゃるのに、
この私は気づいていない生き方をしていたなあ、
という実感を恵まれたところに成り立っていると言えるでしょう。

 同じものが、その時その時、自分が体験することを通して、
今まで気づかなかった深い尊いものとして見えてくる、
知れてくるのならば、私にとって、仏さまに出遇うきっかけと
なったものは何でしょうか。

 身近な所でいえば、仏壇、本堂、名号(南無阿弥陀仏)、
仏像、法座(お聴聞)、最近ならオンライン法話などです。
ところが、ものの見方を変えてくれるのは
そればかりではありません。

 今まで、無駄で、邪魔で、無価値で、無ければよいと
思っていた出来事も、実は、私を気づかせるきっかけになっています。
多くの人にとって、家族との別れ、仕事の失敗・挫折、自分の老い・
病などなど、自分の思い通りにならない事実とのであいが、
目覚めることのきっかけになることがあります。

 さらに考えると、私が念仏を生活習慣として
称える身に育てられていなかったならば、このような深い
実感は生まれてこなかったでしょう。
その時に、苦しみ悩みも 私を育てるものと気づかされます。

「この世のできごとは 何事も何事も お念仏の助縁とおもうべし」
(信
楽峻麿、元龍谷大学学長)〔※助縁=助けとなってくださるご縁〕
という法語を改めて思いおこします。

 この世の出来事 都合の良いことも 不都合な出来事も、
お念仏を称える尊いご縁、助縁となるのです。
お念仏を軸として、お念仏称えることにより、気づかされる
心の世界や生き方が恵まれます。

 そこに先立っていった人びと、思い通りにならない出来事と
改めて出遇いなおしが生まれてくるのではないでしょうか。

           参照 万行寺 本多 靜芳師 








第1559回 お仏壇の前で

 令和4年 12月15日~

 毎月 毎月 月命日に 月忌参りをしています。
つくづくと。 時代の変化を感じるようになりました。
お仏壇に供えるお花は どの家でも自分で育てたものか、
野菜や魚など売り歩く行商のおばさんが運んできた
素朴な花が多かったものです。

住宅地では 大きな音楽をならしながら、小型トラックで商品を
売る、移動販売の花もありました。
しかし、現代は、近くの店で簡単に買えるようになったのか、素朴な花から
色鮮やかな洋花が ほとんどになってきました。

 また、お勤めを始めようとして、キンのバチが 
見当たらないことがよくありました。
小さな子供が お仏壇の前で遊んで、どっかへ行ってしまい みんなで
探すこともありました。
一昔前までは、子供や孫が、一緒に生活したり、よく訪ねてきて
お仏壇にお参りしていたためでしょう。

 しかし今 ほとんどの家では、年寄りは年寄りだけ、若い人は若い人と分かれ
同居といっても、別棟に生活する時代になったようです。
このため、お仏壇のある家で育つ子供はだんだんと
少なくなったのではないでしょうか。


 リンの棒で、リンのバチで思い出すことがあります。
リンの当たるところが、削れてささくれ立って、くびれていたお宅が
ありました。
朝晩毎日お参りして、リンを強く打ち くびれてしまった有り難い棒です。

 ご主人を戦争でなくし、お子さん三人を立派にそだてあげ、
同居のお舅、お姑さんを看取られた方でした。
そっとリンを打つのではなく、感情にまかせて力一杯たたかれた
その結果だと思います。

 怒り、腹立ち、苦しみを日常生活の中では素直に表すことが出来ず、
せめてお仏壇の前で 抑えきれない思いを 力一杯 強く
たたかれていたために、年がたつにつれてえぐられ、くびれていった
ものだったと思います。

 そのおばあちゃんが亡くなられると、その思いのこもったリン棒も
手垢のついた膨れ上がったお経本も、消えてしまいました。
若い人から見ると、古くなって使い物にならないものだったのでしょう。
いつのまにか美しい新しいものに変わってしまいました。

 ぐっとこらえ 耐えて生きる時代ではなくなってきたのではないでしょうか。
お仏壇の前だけが、感情むき出しにしても大丈夫な、安心できる、
こころやすらぐ場所だったという時代は、もう
遠くなったように思います。








第1558回 伝え 伝えて

令和4年 12月 8日~

 令和5年の春から 親鸞聖人御誕生850年と、浄土真宗 立教開宗800年の
慶讃法要が、ご本山・京都 西本願寺で30日間勤まります。
それを前にして、お待ち受けの法要を、私どものお寺では 11月の上旬に。
組では 12月の上旬。
教区では11月の末に 近くの文化会館大ホールで勤まりました。

 コロナの影響で、 人数制限しての開催でしたが、それでも、
たくさんの方が参集され、新しく制定された法要作法の 
新しい節で、正信偈を みんなでお勤めしました。
親鸞聖人の説き示してくださった浄土真宗の教えに出遇うことがなければ、
今の私はあり得なかったという聖人への感謝と、
その教えに出遇えたことの喜びを込めて、聖人のご誕生を祝い、
『立教開宗』に感謝する」法要です。

 ご法話は、熊本地震で本堂が倒壊したという、特別講師の方が 
コロナには ワクチンを打ち、免疫を高めているが、
南無阿弥陀仏をちゃんといただいて、すべての人間が、受け取らねばならない
苦悩である、老病死への免疫を 高めたいとのお話がありました。

 最後の アトラクションでは、近くのお寺の若院さんの
バイオリンの演奏でした。
僧侶も いろいろの特性を持つ専門家いますが
音楽大学でバイオリンを専攻 プロの演奏者の方です。
この方が、小学生の時のピアノの先生と一緒に演奏されました。

 残念ながら仏教讃歌はありませんでしたが、ポピュラーな音楽とともに
最後には 演歌にも挑戦いただき感動的な演奏会でした。
よくお寺の報恩講などでも 演奏しておいでとのことですが、
多くの方から そのバイオリンの値段は、とか 古いものでしょうねと
質問されるとのこと、バイオリンの値段は、企業秘密ですが、
このバイオリンは、273年も昔に製作されたものだそうです。

 これまで多くの方々が、 大切に使い
それを、受け継いで 今自分がこうして演奏させもらっている。
何代にも渡って、大切に大切に使ってくださったお陰で、
いまここに私は 使わせていただいて演奏している、大変なものです。

 273年というのは 大変古いものですが、後ろにあるパネルには
立教開宗800年とある、このバイオリンよりも もっともっと前から、
800年前にから、それぞれの時代、その時代の方々が、
ちゃんと受け取り、次に伝えていただいた。
そして、今の私たちに伝わっている。
私たちも、お念仏をちゃんと受け継ぎ 次の世代に確実に
伝えていかねばならないと、感じています。
と話を結ばれました。


伝統というものは、それぞれの時代 時代の方々が
精いっぱい、それを受け取り、次の世代へ伝えていただいたもの。
バイオリンも お念仏の教えも先輩たちのお陰で、今日の私たちに
伝わってきている、私たちには 大きな責任があるのだと、
つくづくと味わわせていただきました。

お念仏を 相続するといいます。ちゃんと受け取り、確実に
次の世代に 受け継き、豊かな人生を受け取ってもらいたいものです。








第1557回
お念仏は 公の言葉


 令和4年 12月 1日~     

 お念仏の教えは、簡単な教えですけれど、簡単であるから
誤解しやすいのです。

法然聖人の教えは、じつに簡単ですよ。これはどんな人でも
分かる、分かりやすい教えです。


法然聖人からどういう教えを聞いたかを、親鸞聖人は
ひと言で仰っておられます。(『歎異抄』)

 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
   
よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

と、仰ったのです。これだけです。
「お願いだから、どうぞお念仏を申して、お浄土に生まれてきてくれよ
 というのが阿弥陀様の願いだ」。
この願いのお念仏とは仏様の願いのお念仏です。
人間の願いの念仏とは違います。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、仏様に何かを
お願いしようなんていうのは、大変愚かなことなのですよと。

「南無阿弥陀仏」とお願いするのは、私ではなく仏様なのですよ。
仏様は誰を願っているかというと、この私を願っているのです。
仏様は私を願ってくれているのに、私が仏様を願ってどうするのですか、
仏様の言葉を 私ごとに使ってはいけません。

 だいたい、仏様の言葉を私ごとに使うというのはおかしいですよ。
何でもそうでしょう。公の言葉は公に使わなければいけない。
お念仏は公の言葉です。「生きとし生けるすべての人に、
どうぞこの『南無阿弥陀仏』と申して、そしてお浄土へ生まれてきてくれよ」と
お願いくださるから、「有難うございます、仰る通りお念仏を申して
お浄土へ生まれさせていただきます」と言って、「南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏」と、皆さんは仰っているのではないですか。違いますか。
もし違っておられたら今日限りあらためてください。
そうでなかったら浄土真宗の門徒ではないですよ。


 そういうことで、お念仏のお謂われというのは これだけのことです。
善人であろうと悪人であろうと、賢くあろうと愚かであろうと、
男だろうと女だろうと、如来様は分け隔てはなさらない。
戒律を保って清らかな生活をしていようと、ふしだらな生き方をして
それしか生きられなかった人であっても、如来さまの願いを聞き入れて
「有難うございます。それではとお願いを申して、あなたの所へ
  帰らせていただきます」と言ったら、如来さまは一番喜んでくださるのです。
 それだから法然聖人はお念仏申しなさいと言われるのです。


 法然聖人のもとに集う在家の信者の方々は、「私みたいなものに、
そこまで言われているのですか」と、出家、在家の区別なく、
聖人の温かいお念仏のお諭しにしばしば感激されていました。
そして法然聖人は、聖人のところからお念仏して帰る人の姿を
ご覧になって「ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを
御覧じては、『往生必定すべし』とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき」
(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七七一頁)と仰っておられます。

 にっこりと微笑んで必ず浄土に生まれていく人だなと言われたのです。
田舎の爺さんがお念仏申しながら帰っていったら、法然聖人が喜んで
くださったということが書かれているのです。

         梯實圓師 「浄土から届く 真実の教え」 自照社出版








第1556回 人間にわかる言葉で

 令和4年 11月24日~

 教行信証の「教」というのは 何かというと、「大無量寿経」のことです。
この経はお釈迦様の言葉ですが 阿弥陀様の言葉でもあるのです。
阿弥陀様がお釈迦様となってこの世に現れてくださり、
私たちにわかる人間のことばに直して、 阿弥陀様のこころを
私達に説いて知らせてくださったのです。
それが大無量寿経というお経なのです。

 ですからこのお経はどこから出てきたかというと、お浄土から
出てきたお経なのです。 大無量寿経に このことが書かれています。
浄土の蓮華の華が、一つ一つの華が、それが一体一体の仏様となって、
そして十方の世界にかぎりなく開けていくというのです。

その仏様が、浄土の覚りの光が仏様となって、十方の世界に
あらわれてくるのがお釈迦様であり、十方の諸仏だというのです。
その仏様たちが、光の言葉を持って光の世界を人びとに説き、
人びとの暗闇のこころを明るく開いてくださる、それがお経なのです。

 だからお経となって仏様は届く、仏様というのはお経となって
届いていらっしゃるのです。

 私たちがお経を読誦する時は、お経本を頭の前にまず頂いて
拝読しています。
ただ本を読んでいるわけではないのです。
私の前に、私のわかる言葉で、仏様のおこころを知らせてくださっている、
仏様のお言葉であるということです。
そのお釈迦様の説かれた『大無量寿経』というお経が、
仏様の真実の言葉となって それが届けられているのです。

 その『大無量寿経』の内容を言いますと、「南無阿弥陀仏」という
名号を疑いなく受け容れてくださいと説いています。
疑いなく受け容れることを信心と言っています。

名号というのは仏様の名前で、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀様の名前です。
「南無阿弥陀仏」は姿も形もありませんが、言葉だけがあるのです。
姿も形もないということはどういうことかというと、
私たちにはそれを見る眼がないのです。

これは眼を入れ替えなければならないのです。
仏様の言葉、如来様の世界を私たちが受け容れられる言葉となって、
言葉として私に届いてくださるのです。
言葉を超えた世界が、言葉となって響いてくるということです。

その言葉をとおして、私たちは言葉を超えた世界に気づかせて
いただくということが大切なのです。
そのために仏様は、名号となってあらわれてくださるのです。
名号というのは名前です。

「南無阿弥陀仏」という名前となって現れて、私に
呼びかけてくださってい
ます。

     梯實圓師 「浄土から届く 真実の教え」 自照社出版







第1555回
 言葉で 救う


 令和4年 11月17日~

 人間は 言葉によって 喜び 悲しみ 苦しみながら 生きています。
合格の通知 孫が誕生したという連絡や、大切な人が
事故にあった 病気になったなど、言葉で知らされ
慌てたり悲しんだり喜んだりしています。

人間は 言葉によって 絶望し、また未来に希望を持ち
言葉によって 人生は大きく 左右されています。

 お釈迦様は 人々が生きがいを持ってこの世を生き、
悔いのない一生を終え やがて 今度は人々を救うはたらきが
出来る仏に成ることが出来ると、言葉で教えていただいています。

 しかし、その多くは、努力できるもの、 いいことが出来る人、
選ばれた特別の人だけは救われ、 平凡で怠け者の人々には
関係無い ほど遠い仏さまでした。

 ところが、一人の国王だった 法蔵菩薩は
善人も悪人も 努力できる人も 、できない人も、 全ての人を
救う方法はないかと、大きな願いをたて、すべての人に
代って 自分で永い厳しい厳しい修行をして、阿弥陀仏となり
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」の 言葉で あらゆるものを
救うことができる強力な能力の仏さまになられたと。

 その阿弥陀さまの国、お浄土に すべての人を生まれさせ
自分と同じ能力を持つ仏にして 一緒になって
一人残らず救い尽くそうとされているのだと。

そのお浄土の様子も言葉で表現し、教えていただいています。
苦しみ、悩みのない 理想の国  お浄土に
この私を、そして全ての人を 生まれさせ、
ともに 仏として 活躍しようと呼びかけ続けておられるのだと。

 そのことを説くために お釈迦さまは この世にお生まれになり
言葉で説き また阿弥陀様の国へと帰っていかれたのだと。

先だった祖父母、親たちも 南無阿弥陀仏でお浄土に生まれ、
今 南無阿弥陀仏の仏様としてはたらき、この私を
お浄土へと 導いてくださっています。

 浄土真宗は 言葉の宗教 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏を 
疑いなく信じさせ、一人残さず救い取るという阿弥陀さまが
すでに、はたらいておられると、言葉で教えていただいている
教えです。







第1554回 誓いと願い ~如来の功徳で 仏道を~

 令和4年 11月10日~

 如来のご本願を仏願・弘誓などと表現することがありますが、
特に「誓願」という言葉にはお念仏の教えの特色が
よく表れていると思います。

 ご本願(第十八願)には、人びとが信心をいただいて
浄土に往生することを願われ、また、それができなければ
さとりに至らないと誓われています。
願われているのは衆生の往生、すなわち衆生の仏道であり、
誓われているのは如来自身の正覚、すなわち如来の仏道で
あるといえるでしょう。

 そして、衆生の往生には信心をいただいて(至心信楽して
わが国に生ぜんと欲ひて)ただ念仏せよ(乃至十念せん)と
願われているだけであり、ほかに何も条件がつけられていません。

 ここに示されているのが如来回向であリ、衆生から見れば
他力ということなのです。
仏の国へ往生するなどの果を得るには、功徳が必要です。
功徳とは良い方向へ進ませる力のことですが、
ご本願に功徳が往生の条件として示されていないのは、
その功徳を如来が準備して衆生に回施してくださるからです。
それが如来回向ということです。

 衆生のありようのすべてを見そなわし、無条件で浄土に
往生せしめるという願を建立するには五劫の思惟が必要でした。
そして十方の衆生を無条件に救うための膨大な功徳を
獲得するには兆載永劫の行が必要だったのです。

 衆生の側から見れば、仏教で救われるということは
私が間違いない仏道を歩む、ということです。
平たくいえば、間違いなくお浄土に往生し仏となる道と
してこの人生を歩むということにほかなりません。

出家者の仏道は、自ら行を修め功徳を得て仏果を目指す道です。
在家者の仏道は、自ら行を修め功徳を得ることはできませんが、
その功徳は如来が回施してくださるのです。

私が修めた功徳ではなく如来の修めた功徳をもって
仏道を歩んでいく、そのことを他力というのです。

 我が名よ届け、と喚びかけてくださっている如来さま。
念仏申しつつ歩む私の人生の道は、如来さまがともに
歩んでくださる仏道なのでした。

   本願寺出版社 「如来とわたし」 安藤光慈師著より








第1553回 片道か 往復か ~還相回向が特徴~

 令和4年 11月3日~

 コロナの流行で みんなで マスクをし、手洗い うがいに検温。
病院や 介護施設では面会禁止と、国民全体で 気をつけたせいか、
コロナ流行の初年度は、お亡くなりになる方が 非常に少なく。
平均寿命がまた延びた、感じがしていましたが、
流行して 3年目を迎えて、努力のかいもなく高齢の方が次々と
亡くなられて 例年以上の忙しい秋を迎えています。

 お寺の住職や坊守さんも例外ではなく、組内のお寺で門徒葬があり
七条袈裟をつけ出勤しました。
 ご親戚代表がお礼の挨拶で、 「またお浄土で 会える。今度会った時に
 恥ずかしくないような生き方をしたいものです」との お言葉がありました。

 阿弥陀経には、倶会一処という言葉があります。
お浄土でまた必ず会うことを楽しみにということでしょうが。
浄土真宗の教えは、お浄土に往生するだけではなく、
仏に成っての還相回向がはっきりと説かれています。

 お浄土へ行ったきりではなく仏に成って必ず帰って、人々を救う、
片道ではなく往復の教えであると。
ですから、お念仏の人は、日付がなく、いのち終わった日に有効になる
往復切符を既に受け取っているようなものでしょう。
お浄土で仏になったその瞬間、もう自由にこの世に還って
人々を教化するはたらきができると、説かれているのです。

 2008年に。 本願寺派では「浄土真宗の教章」が 改正されました。
そして、その教義には、「阿弥陀如来の本願力によって、信心をめぐまれ
念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となり
迷いの世に還って人々を教化する」と はっきりと還相回向が明示されました。

 それまでも お正信偈の中では、「蓮華の国に うまれては 真如のさとり
 ひらきてぞ 生死の園にかえりきて まよえる人を 救うなり」とか、
 「往くも還るも他力ぞと」などとありましたが、
信心でお浄土に生まれることが強調されて、還相回向については、
教義の上では ハッキリと書かれていませんでした。

 そういう意味では、お浄土に生まれて仏となった方は
お浄土でじっと待っていてくださるのではなく、
この私の所に 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏となって
呼びかけ お浄土への道を歩んでくださいと導き、はたらきかけておられるのです。
往生のその日から、そのときから、お浄土を出て私たちに
はたらきかけていただいているのです。

 お浄土へ生まれ 今度お会いした時には、どうも有り難う
ございました。御蔭さまで、こうしてお浄土へ生まれることが出来
ご一緒に 活躍することが出来ますと、ご挨拶をするのです。
亡くなった方は、過去完了形の仏さまではなく、現在進行形の
仏さまとなって、今、ここに働いていただいているのです。







第1552回 朝のどまんなかに

 令和4年10月27日~

北御堂 大阪の津村別院のホームページの 「法語を味わう」に
こんな法話がありました。 (2022年10月)

まっさらな
朝のどまんなかに
生きていた
いや
生かされていた   (東井義雄師)

 東井義雄師の「目がさめてみたら」という詩の最後の一節です。
皆さんは「目がさめてみたら生きていた」ことに驚きや感動を
持ったことがありますか?


 生きていることが「当たり前」と思っている私たち。
そうした私たちに仏さまは「当たり前ではない、
多くのご縁によって生かされている」ことを教えてくださいます。


 この詩の最後は「生きていた いや 生かされていた」と
結ばれています。
新しい朝を迎え、今日も「目を覚ますことができた」
「生かされていた」という感動が伝わってきます。
「当たり前」と思っていたことが、「当たり前ではなかった」
という気付きです。


 昔、テレビで活躍をされたある司会者の方は、
「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」
という言葉を大切にされていたそうです。
これは仕事で悩んでいた時に、お父様から送られた言葉だそうです。


「今日もまた新しい朝が来た。お前のために朝が来たんだから
粗末にするんじゃないぞ。」


 朝目が覚めたら生きていたという不思議。
もしかしたら目がさめなかったかもしれない。
その「いのち」が今日もまた、生かされていたという感動。
その不思議と感動を深く味わうところに、
また今日も新しい朝が来た、力強く精一杯に
歩んで行こうという喜びが湧いてくるのではないでしょうか








第1551回 かけがえのない君へ ~みんな違ってみんな良い~

 令和4年 10月20日~

 子どもさん向けの法話、吉村 隆真さん著です。


 クイズ番組の解答に目からウロコが落ちました。
クレヨンの「肌色(はだいろ)」は、今では「薄橙(うすだいだい)」や
「ペールオレンジ」と呼ばれているのです。
といっても、小中学生の皆さんには、すでに常識かもしれませんね。
その証拠に、わが家でも正解できたのは小学生の息子だけでした。

 日本では、肌の色に近いことから、あの色には長い間「肌色」
という名前が使われてきました。
私自身も子どもの頃だけでなく、大人になってからも何の
疑問も持たずに平気で「肌色」と呼んできました。
しかし、考えてみれば、肌の色は国や地域によって違います。
「肌色」は一つではないのです。

ケンカ・いじめ・差別・戦争......これらの問題は、お互いの違いを
認め合えないことから始まります。
そのような態度が、いつも自分は「正しい」とし、
相手を「まちがい」にしてしまいます。

 音楽は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の7つの
音階の組み合わせですから、どれ一つ欠けても演奏できません。
言葉も同じで、英語は「A~Z」の26字、日本語は「あ~ん」の
50音で成り立っているので、一つでも欠けてしまうと
文章や会話になりません。

人間も同じです。地球上にはたくさんの人びとが生きていますが、
同じ人間などどこにも存在しません。
あなたも私もただ一人です。
それを別の言葉で「かけがえのない」といいます。
その事実に気づくことができて初めて、自分だけでなく、
相手も大切にできるのです。

お互いを認め合い、お互いが支え合い、お互いに
照らし合える世の中は、どんなに素晴らしいでしょう。









第1550回 しあわせな人生  

 令和4年 10月13日~

ネットのご法話で、こんな話を聞きました。

いろいろと多くの人にお会いし、いろんな方の人生をみさせてもらいますが、
なかなか この人は しあわせな人生を送っておられるなあという方は
少ないものですよ。

 皆さん方は、自分が しあわせな人生を歩んでいると思えますか。
もういっぺん人生をやり直すことが出来るとしたら、何をしますか。
ちょっと違うことをしたいなあと思いますか。

 それは、今の自分の人生に満足していないと言うことです。
もういっぺん 人生やり直すことが出来るとしても、今とまったく
同じ人生を送りたいなあと、こころから思える人は
しあわせな人生を歩んでいる、送っている人であるといえましょう。

 そして、その しあわせの一番の根幹は 何かというと
お念仏に 出会えたかどうかということに つきる。
お念仏以外のものは みんな壊れていきます。
お念仏だけは ただいまからお浄土の世界まで
壊れることなく、このわたくしを教え導き 育てて
くださっている世界がある。

そういう世界に出会えたといえることが、 私の人生が 
しあわせな人生であったということができるのではないか。

 恩徳讃にある 報謝ということは、如来さまが
成就してくだったお念仏を、そのままにいただいていくこと、
それ以外にないということ。

お念仏を そのままいただいていくこと、それ以外に報謝はない、
仏さまの教えを、お念仏をそのままにいただけたこと、
それこそが、私の人生は しあわせであったといえるのではないか・・
・・・と



 幸せな人というのは、 どういう人なのか。
次に また人間に生まれることができるなら、もう一度
今と同じような人生を送りたいと思える人でしょう。
それは お念仏に出会えた人。

お念仏出会え、そのままいただけた人は

どれひとつ、何一つとして無駄なことはなかった。
みんな意味のある ありがたいことであったと。
この人生が最高であったと思える人に、育てられていくのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の人は  私の人生は
有り難い人生だった と思える人 ではないかと味わえます。









第1549回
 お母さんの写真が

 令和4年 10月6日~

 日曜学校など 子ども会の全国組織 少年連盟のページにあった
子どもさん向けの ご法話です。


 「お母さんの写真が、 笑っているときも泣いているときもある 」
   龍尾 一洋師

 沙紀ちゃんが小学校三年生の時に、お母さんが亡くなりました。
お母さんが亡くなってからは、朝夕必ず仏さまにお参りします。
そしてお母さんの写真に話しかけるのが日課になりました。


あるときお父さんに言いました。
「今日はお母さんの写真が笑ってたよ」
「どうして」
「今日は算数のテストで百点だった。家にかえって
 お母さんの写真を見たら笑ってたよ」


知らない人が聞けば、写真が笑うはずはないと言うかもしれません。
しかし沙紀ちゃんには、自分のことを心配しながら亡くなっていった
お母さんの心が見えていたのです。
お母さんの心の中には、喜んでくださっている自分の姿がありました。

またあるときは、悲しませてしまっていた自分の姿がありました。

お母さんの心は、沙紀ちゃんのことでいっぱいで、いつ思い出しても、
沙紀ちゃんのことを心配してくれて、笑ってくれたり泣いていたり
しているのです。


アミダさまは、私のことを心配してくださって、かならず
仏にしますとおっしゃいます。
いつ思い出しても、忘れているときでも、アミダさまの心は
私のことでいっぱいなのです。
いつでも私と一緒にいてくださるのです。








第1548回 驚いたこと  ~意外と多い武士門徒~

 令和 4年9月29日~

 突然 自分の先祖のことを調べてほしいとの電話があります。
関東にお住まいで、東京のお寺に墓地があるが、自宅の過去帳に
郷里のお寺に埋葬した先祖の記録があるので、調べてほしいと。

 お寺の古い過去帳を持ち出して調べましたが、日にちは二日違うものの、
確かに記載がありました。
しかし、明治20年代に作成された墓地明細記には、その記録がなく、
明治維新後 東京へ移られたご家族のようですと、返事をしました。

 その墓地明細帳には、武士であったか、農業などの町人であったかが
記載されていることに気づきました。
浄土真宗はどちらかというと、庶民の宗教、武士の多くは
禅宗など聖道門が多いと思い込んでいましたが、意外や意外、
「士族」との記載が多くあり、驚きました。

お寺が、武士が住む城の近くであり、 藩主が建てさせた寺院のため
なのかも
しれませんが、関心を持って、その台帳を詳しく調べてみました。

 290余りの墓地の記録があり、よく判明しないものを除き
275の墓地の内、武士だった方のお墓が106と、その四割近くあり、
埋葬された総数、701人中 318人が武士の家族で 
四割六分 半分近くであることに驚きました。

 エリザベス女王の国葬で、イギリス連邦の参加者が多いのを見て、
キリスト教を先頭に植民地化していった時代があったこと、
それなのに日本は どうして仏教国のままでいられたのか。

 その一つには、鎖国制度を取ったこともあるでしょうが、
外国との入り口、長崎の出島を守る仕事を、佐賀鍋島藩と、
福岡の黒田藩が担当し一年交替で、1000人以上の武士が、
長崎を警護してきたようです。

 何世代にもわたって、出島を通して、外国の情報 キリスト教と仏教の違い、
宗教と植民地政策など、多くの武士集団は、見聞してきたのだろうと、思います。
また直近の大きな戦いが、島原の乱への出兵、キリスト教との戦いでした。
そうした経験が、明治政府での宗教政策の主導的な立場をとったのが、
鍋島藩出身者だったとのお話を彼岸法要のご講師に聞かせていただきました。


 キリスト教の宣教師が出島から本国に送った手紙に、朝晩、庶民の家から
お勤めをする声が聞こえてくるとの報告があるといいます。
生活に根付いた宗教があったために、日本は仏教国として
生き残ったのでしょうが、はたして現代はいかがなものでしょうか。








第1547回 お世話したのか されたのか ~感じ取る力~

 令和4年 9月22日~

「闘病中の母が亡くなりましたが、葬儀はせずに簡単に済ませたい」
という趣旨の電話があり、対応した坊守さんは 
生み育てていただいたお母さんでしょう。
ちゃんとなさった方が良いですよと、強く勧め、ご自宅へ
枕経にうかがいました。

 小さなお仏壇前の介護ベットで、息を引き取られたとのこと、
訪問看護を受け、ご自宅で療養されていたとのことでした。

 翌日、往診の先生の電話番号が大きく張り出させている台所と、
介護ベットをかたづけた部屋でのお通夜には、
お子さんと三人のお孫さんが参列されました。
13年前、父さんが亡くなられ時 お葬式の後、
自宅での七日七日の法要で、亡きお母さんがお勤されていた正信偈を、
持参していった経本を持ち、みんなで一緒にお勤めをしました。

 人間は、自分の行動、してあげたことは、全部憶えています。
高齢で弱られたお母さんの介護をしたことは、よくおぼえていますが
赤ちゃんのころ、おっぱいを飲ませていただき、おむつを
替え育てていただいたこと。
成長しても、毎日毎日食事を作ってもらったことは、
当たり前で一つもおぼえていません。

 いろいろと親にしてあげたことをおぼえていますが、
お世話していただいたことは全部、忘れています。
お世話をした私、ではなく、お世話いただいた私であったことに
気づくことが出来ると、今までとまったく違った思いが
わいてくるものです。

 恩徳讃を歌ったり、報恩講をお勤めしたり、浄土真宗は 
恩を感じる力を育てていこうという宗教なのではないでしょうか。
自分がお世話した記憶だけでなく、忘れてしまっている
お世話いただいた多くの出来事を思い出し、感じ取る力が
育っていくと、人生はまったく違って、味わえるようになるものです。

 してあげただけではなく、していただいたことに気づくと、
お世話をかけ、ご苦労かけ、育てていただいた私だったと、
ありがたく、喜び多い感謝の人生となるものです。
それを気づかなければ、私一人苦労した、いいことは何もなかったという
不満一杯の辛い苦しい人生で終わってしまうのでしょう。

 有り難さを感じる力を育てていくことで、喜び多い人生へと
転換していくことが出来るものでしょう。
喜べるか、喜べないか。感じる力を育てるか、育てないかで
それは決まってくるものでしょう。

 お念仏は 私のことをいつも思い、見守り励まし、
そして、お浄土へ生まれさせようと、はたらき続ける仏さまに気づき、
感じる力を育ててくださる
 はたらきがあるのです。
そして、私に対する多くの思いはたらきに気づく力が育つか、
育たないか。

 お聴聞することで お世話いただいいていることを
感じ取る力を、気づく力を養うことがでていくのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞きながら・・・。









第1546回 健康寿命日本一  ~ お聴聞の人は~

 令和4年 9月15日~

私ども佐賀県の女性は 健康寿命が日本一になった
とのニュースを見ました。

健康でしかも長生きしたいのが多くの人の願いでしょうが、
国民健康保険中央会が発表した2020年の平均自立期間(健康寿命)で、
「要介護2未満で、日常の動作が自立している期間(年齢)」を示しており、
佐賀県の女性は全国平均(84・4歳)を0・8歳上回り、
5位だった前年より0・6歳延び日本一になりました。
同じく一位は 大分県と長野県だということです。

 WHO(世界保健機関)が2000年に 心身ともに自立し、
健康的に生活できる期間健康寿命を提唱して以来、寿命を
延ばすだけでなく、いかに健康に生活できる期間を
延ばすかに関心が高まっています。

 この記事を読みながら 南無阿弥陀仏とご縁のある方は 
長寿の方が多いことに思いあたり、マイクロソフトの
エクセルに打ち込んだ過去帳で お聴聞の人の平均寿命を
計算してみました。

この10年余り 女性の方で 阿弥陀さまのお話を
よく聞いていたご婦人を抜き出しましたが、その数、30人あまり、
その平均寿命をだすと、なんと96歳余りであることが分かりました。

 仏教は 老病死の苦悩を解決するものといわれますが、
阿弥陀さまのお話を聞いている人は その老病死に適切に対応する
能力が高まっていくのではないでしょうか。

 南無阿弥陀仏とのご縁のない方とお話していますと、
「あの時、ああしておれば良かった、あれがいけなかった」と
過去のことにこだわり、またこれからどうなるだろうかと未来の
不安に悩み苦しんでおられる方があります。
過ぎ去ったことは いくら反省して悔やんでも、もうどうすることも
できませんが、過去にとらわれる心から苦しんでおられるものです。

 お念仏の教えに遇えた方は、過去は過去として、今自分でできることを
精一杯取り組み、成るようにしか成らない。
これで良いんだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と未来を見つめ
やがて、お浄土へ生まれて 仏さまにならせていただく身であると
おおらかに、のびのびと、悩まず苦しまず 生きておいでの方が多いものです。
それが 健康寿命の長さにつながり 長寿につながっているのだろうと、
味わっています。

 先日96歳で亡くなった エリザベス女王が、今から70年前、国王になるとき
「いのちが長かろうが短かろうが、生きている限り
国民のために奉仕します。」という趣旨の言葉を述べたということですが、
私たちも、いのち長かろうが、短かろうが、命ある限り、
報恩のお念仏して、いきいきと、のびやかに生きていきたいものです。








第1545回
 いつも一緒のアミダさま ~名前を知ると ~

 令和4年 9月8日~

皆さんは「ケイトウ」という植物を知っていますか?
名前の由来はニワトリの頭(トサカ)に似ているから、
鶏頭(ケイトウ)というのですね。

 ケイトウという名前を知ると、急に身近に感じるように
なりませんか。

俳句の先生である山本純子さんがおっしゃいます。
「名前を知らない植物に出あったら、植物図鑑などで
調べてみるとよいですね!名前がわかると、急に友だちが
ふえたような気分になりますよ。
草も木も、その名前を覚えると、たちまち友だちになりますよ」と。

 名前というと、皆でおとなえする「ナモアミダブツ」という
言葉は、実はアミダさまのお名前なのです。
皆さんは自分がどうして「お父さん」「お母さん」と
呼ぶか考えてみたことはありますか?
それは赤ちゃんのころから「私があなたのお父さんだよ」

「お母さんよ」とずっと呼んでくださっているからです。

 それと同じように私たちが「ナモアミダブツ」と
お念仏する時には、もうアミダさまが私たちに
呼びかけてくださっているのです。

 うれしい時さびしい時、「ナモアミダブツ」と
お念仏してみましょう。
アミダさまは、うれしい時には「私も一緒によろこんでいますよ」と、
さびしい時には「心配しないで。あなたのいるところには、
いつも私が一緒にいますよ」とおっしゃいます。

 学校で仲間外れにされた時、病気で一人寝ている時にも、
アミダさまは私たちに「私がいるよ。一人じゃないよ」と
呼び続けてくださっていますよ。
「ナモアミダブツ」が身近になってくれたらうれしいな。

                        佐藤 知水師










第1544回 知ろうとすること わかろうとすること
 
            ~子どもへのメッセージ ~

 令和4年 9月1日~

どうして他の人は私の気持ちをわかってくれないの、と思います。
だけど、そんなふうに思っている私は、
他の人の気持ちをどれほどわかろうとしてきたでしょうか。
そして、どれほど知ることができたでしょうか......

笑顔の奥に隠されていた深い悲しみがわからなかった。
強がる振る舞いに隠された悔しさがわからなかった。
明るさの後ろにあった辛さがわからなかった......
私には、その本当の気持ちを知ることはできませんでした。
だから、私の本当の気持ちも知ってもらえないことは無理のないことです。

誰にもわかってもらえない 私のかなしみ
誰にもわかってもらえない 私のくやしさ
誰にもわかってもらえない 私のつらさ

そのすべてを阿弥陀さまはわかってくださいました。
すみからすみまで知ってくださいました。
だから、強く決心してくださいました。
ひとりぼっちにはさせないと、絶対さみしくさせないと......

ナモアミダブツ「安心なさい」
ナモアミダブツ「大丈夫だよ」
ナモアミダブツ「一緒だよ」

そんな阿弥陀さまは、もうここにいらっしゃいます。
ナモアミダブツと私をしっかりと抱きしめてくださっています。
だから、決して、ひとりぼっちではないのです。

かなしみを知ろうとしたい
くやしさを知ろうとしたい
つらさを知ろうとしたい

きっと、本当のことはこれからもわからないことでしょう。
だけど、たとえ不十分でもわかろうとしたい、と思うのです。
知ってくださり、わかってくださる阿弥陀さまの
温もりに抱かれているからこそ......

                 花岡 静人師









第1543回 人の為は 偽

 令和4年8月25日~

 ネットでこんな法話を 発見しました。

 「人の為」という 文章です。

 漢字で偽(いつわり)という字は、人の為と書きます。
人の為にするということは偽ということでしょう。

 よく私たちは子どもの為、家庭の為、友達の為とかいいますが、
内容をみつめてみると、自分の都合が多いようです。
私も子どもの為、子どもの為と言いますが、親のエゴを
押しつけていることが多いようです。

 ある小学生の詩に、「お母ちゃんありがたいと
思わないことはないが少し口うるさい。二言目にはお前のため、
お前のためという。それは愛情の押し売りだ」とありました。
私たちも自分の都合で、愛情の押し売りをしていないか
問うてみなければいけません。

 以前学生が、「私の人生は保母として、子どもの為にささげます」
といった時、「本当か」と問い返したことがあります。
「子供の為といいながら、結婚したらすぐにやめる人は多いし、
また結婚しても続けるのは、この仕事が好きだからとか、
経済的理由からとか、ほとんど自分の都合なのです。

子どもの為というより、自分のできる限りのことを
精一杯つとめさせてもらうだけではないか。
自分がつとめさせてもらったことに、子どもたちが喜び、
結果的に子どもの為になってくれたらこの上ない喜びだ」
と話したことです。

 人の為にと力んで行い、その心が相手に通じなかった場合、
私たちはすぐに「せっかくしてやったのに」と愚痴がでます。

 そうですから、たといボランティア活動でも、
苦しんでいる人の為にするのではなく、私が、私自身の
つとめとして私のできる限りのことをさせていただくだけなのです。
相手にお礼を言ってもらう為にするのではなく、
私がさせていただくだけなのです。

 『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』より
      (著者 : 不死川 浄師)









第1542回 見えないぬくもり

 令和4年8月18日~

 突然の雨の中、あるパチンコ店の前を通りかかった。
青いレインコートを羽織った店員が、ずらりと並んでいる
雨にぬれた自転車のサドルをぞうきんで丁寧にふき、
ビニールをかぶせていた。
私は、その姿に驚きと感動を覚えた。


 私は普段、「目に見える気遣い」しかできていない
のではないだろうか。
電車で席を譲る、学校で係の仕事を手伝う、家で母に
頼まれた手伝いをする......
役に立ちたい、喜んでもらいたいという気持ちがあるのと同時に、
どこかで「ありがとう」と言われるのを期待している気がした。


 その自転車の持ち主はこの気遣いに、もしかしたら
気づくことはないかもしれない。パチンコには負けるかもしれないが、
お尻がぬれることなく、気持ちよく帰れるだろう。


 気遣いとは、「やってあげるという意識のもとでやるものではない」
と言われたことがある。

 私も「見えない気遣い」ができる人間になりたいと思う。
  (「見えない気遣い」に感動 毎日新聞 2018114日)

私はドキッとしました。人前ばかりでいい格好をしている自分の姿に。
そして温かい気持ちになりました。
気付かなかったけれど、たくさんの「見えない気遣い」に
支えられているのだなぁと......
やがて恥ずかしくなりました。
その「見えない気遣い」のほとんどに、お礼の一つも言った
記憶がないからです。


見返りを求めることなく相手のしあわせを願い、私が求めるより先に
相手の立場になりきってはたらく「見えないぬくもり」を「慈悲」
と言います。
阿弥陀さまは、そんな「慈悲」のおこころが満ち満ちた仏さまです。

私が忘れている時も、やさしい眼差しが注がれています。
私が気付かないときも、温もりいっぱい抱きしめてくださっています。


 私の心を豊かに育んでくださる阿弥陀さまの
「見えないぬくもり」に、「ナモアミダブツ」と
手を合わさずにはおれません。
   

     少年連盟のホームページより  藤本 文隆








第1541回  大丈夫は優しい言葉 

 令和4年8月11日~

テレビなどで人気の「アンパンマン」では、度々「大丈夫」
という言葉が使われます。

ひとりぼっちで寂しがっている友だちがいると、
「ぼくが一緒にいるよ、大丈夫だよ」と寄り添い、
時には、何かに恐れ怖がっている友だちがいると
「ぼくが一緒にいるから、怖がらなくていいよ、大丈夫」と励まします。

「大丈夫」この言葉に、私たちは励まされ続け
生きてきたのではないでしょうか。
言葉もわからなかった赤ちゃんの時、「大丈夫、大丈夫、泣かないで」
と優しく包んでくれた人たち。

病院が怖くて行きたくない私に「一緒に行ってあげるから大丈夫」と
手を引いてくれた人。
学校で仲間はずれになりそうな時、「私が、ぼくが仲間だよ、大丈夫」
と言ってくれた友だち。
振り返ってみると、たくさんの「大丈夫」に支えられてきました。

そして、人だけではなく、私たちの「いのち」に
「大丈夫」とはたらいてくださる阿弥陀さまがいらっしゃいます。

私たちは、「自分がいなくなったらどうなるのか」と
考えると不安で、怖くてたまらないものです。

そんな私たちに、阿弥陀さまは「私が一緒、
浄土という世界に連れて行くよ、大丈夫、大丈夫」と
私を包んでくださいます。

「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ」とは、阿弥陀さまが
私たちに「大丈夫、大丈夫」とはたらいてくださるお言葉です。

阿弥陀さまの「大丈夫」にであった私たちは、
阿弥陀さまにありがとうございますとお礼をします。
その言葉も「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ」です。
いつも、「大丈夫」そして「ナモアミダブツ」に
支えられている私でありました。
                 藤江義昭師






第1540回
 かくれんぼ ~ 忘れずに いつも一緒~

 令和4年 8月4日~

日曜学校や子ども会などの 全国組織である
少年連盟のホームページに こんな法話がありました。

 子どもへのメッセージ「かくれんぼ」

「かくれんぼするもの よっといで」
「じゃんけんぽい あいこでしょ」
「あ! まーくんがおにだ! まーくんがおにになった!」
「もういいか~い」「もういいよ~」
はなちゃんは一番に見つかってしまい、くやしさいっぱいです。

ゆいちゃんは物置の中にかくれていました。
でもちっともみつけてくれないので、さみしくなりました。
早く見つけてほしいな、みんなこのまま帰ってしまったらどうしよう......

そのときです。
「ゆいちゃん み~つけた」
ゆいちゃんは、見つかったのにとってもうれしくなりました。
まーくんやみんなが、自分のことを忘れないでいてくれたことが、
とってもうれしかったのです。

アミダさまは、いつも見ていてくださる仏様です。
アミダさまは、忘れないでいてくださる仏様です。
アミダさまは、いつもご一緒してくださる仏様です。
   
                           野村法宏師








第1539回 仏さまになって ~おばあちゃんの願い~
 
 令和4年 7月28日~

いつも町内を散歩しておられたおばあちゃんが、往生されました。
小学生のかわいい男のひ孫さんがいつも 一緒でしたが、
高齢になると看護師さんだったというお嬢さんと、ゆっくりゆっくり
近くの道を毎日、毎日歩いておられました。

体だけ丈夫ではだめで、頭もしっかりしていなければと、
子どもさん用の計算ドリルや 漢字ドリル等に毎日挑戦されて
いると、噂で聞いていました。


 毎月一回、お寺では勉強会、お念仏の教えを学ぶ会を開いて
いましたが、毎回出席され、みなさんと楽しくお茶の時間を
過ごされていました。

健康で長寿でありたい、そんなみなさんの憧れであり、
目標でもあった方でした。


 その勉強会の出席簿を見ると、154回まで、○印が
付いていました。

103歳だったということですが、最後まで自宅で
介護されました。

枕経に伺った時には ことによるとご門徒で
最高齢かもしれませんと、お嬢さんやお孫さんたちに
話して帰ってきました。

 お寺の過去帳を、マイクロソフトのエクセルに
整理して打ち込んでいます。

親子や兄弟、親戚など、関係する方の法名や命日を
調べるには、とても便利で、すぐに探し出せます。


その過去帳で、年齢欄を中心に、並び替えをしましたら、
数えで106歳の方がお二人、105歳の方がお一人おられ、
1000人あまりの方々で、このおばあちゃんは 
4番目の長寿でした。


そして数え歳100歳以上の方が なんと12人もおられ、
そのお名前を見ていると、ほとんどの方が、お寺の法座で
よくお顔を拝見する方々でした。


 お通夜の席では、沢山のお孫さんたちと、おばあちゃんも
お勤めされていた正信偈を、一緒にお勤めをしましたが、

その経本の表紙には、浄土真宗と書かれています。

科学的な頭の現代人は、人間をはじめ生き物は、いのちが終われば
すべて終わりと理解していますが、お念仏の人は
お浄土に生まれ、阿弥陀さまと一緒になって、はたらく
仏さまになるのだと、お話を繰り返し聞いていただいた方でした。


ですから、私たちを導く南無阿弥陀仏の仏さまとなって、
今もう ここに働いていただいているのだとお話しました。

 元気な時のおばあちゃんは、可愛いみなさんが、
生きがいをもって みんなと仲良く、頑張っている

そんな姿をみるのが 一番の喜びだったのでは、ないでしょうか。

そして、仏さまになられた今も、お孫さんたちが、みんなに支えられ
喜び多い人生を送っていただくことが 一番喜んでいただける
ことだと思います。


どうか、南無阿弥陀仏を口にして、思う存分生き抜いてください。
南無阿弥陀仏の仏さまとなったおばあちゃんは、今、ここに、身近に
はたらきかけ、呼びかけ、応援していただいていると味わいます。
・・・・と・・・・









第1538回 半 眼 ~内側も見る~

 令和4年 7月21日~

 今回も 子どもに聞かせたい法話 
~ 心に響く 三分間法話 ~ (法蔵館発行)からです。


 皆さんは片目をつむって片足でどれくらい立っていられますか。
けっこう難しいものです。
片目は両目の半分ですが、もう一つ半分の目があります。
仏さまの「半眼」です。

 京都・広隆寺の弥勒菩薩を写真などで見たことのある人は
知っているでしょうが、皆さんのお寺やお仏壇の仏さまの両眼を
よくごらんなさい。
どちらも半分しか開いていないでしょう。

 それには訳があります。
半分は外の世界、人間の苦しみ悩んでいる姿を見ておられ、
あと半分の眼で人々を助けるにはどうしたらよいかと 
わが内を見ておられるのです。
半分は外を見、半分は内を見る、これが仏さまの半眼です。

 ところが、人間はふつう外ばかり見ています。
たしかに外もしっかり見ないといけません。
信号などとくにそうです、交通事故になりますから。
それに他人のこともよく見るでしょう。
人がずるいこと、悪いことなどをしたら、すぐに見つけて攻撃します。

 しかし、自分のこと、自分の心の内はどうでしょう。
自分にも悪い心がありますが、それをどれほど見ているでしょう。
自分の内側はあたりまえにしていて、ほとんど中を
見ていないのではないでしょうか。

 やはり仏さまのように、外も内もしっかり
見ることのできる子どもになりましょう。
それには朝晩、仏さまにお参りをすること、そして仏さまのお顔、
半眼をよく拝み、「なもあみだぶつ」と称えることです。
きっと半眼のお心がわかるでしょう。

 というのは、「あみだぶつ」というのは
「ひかりといのちきわみなき仏」という意味ですから、
その「光」をいただく(「なも」する)のが、

内を見ることになるからです。
                 藤枝宏壽師








第1537回 サラダ記念日 ~特別な一日~

 令和4年 7月14日~

「この味がいいね」と君が言ったから 
 七月六日はサラダ記念日

  (俵万智さんの歌集『サラダ記念日』より)を思い出します。

 ちょうどこの本が出版されたころ、東京から福岡へと転勤しました。
各専門部門から代表を出している百数十人もいる大きな組織でしたが、
人事異動の時には 大会議室で、担当役員を中心に、
お別れ会を開いていました。


私のセクションは 広島に帰る人と二人でしたが、代表が一言づつ
挨拶する決まりでした。その時 こんな挨拶をしました。

「いま話題は 衛星放送で 100万台すでに突破したようです。
 もう一つ、サラダ記念日という本が、これも100万部突破したようです。

 この本の中に、こんな詩がありました。
  上り下りのエスカレーター 
    すれ違う一瞬 君に会えてよかった

   上り下りのエスカレーター
    すれ違う一瞬 君に会えてよかった

 という詩がありました。 みなさん どうも、
  有り難うございました。」


  予想外の大拍手でした。

  次の方々が 挨拶しずらかったようですが、
  立食の時には 多くの人が声をかけてくれました。
  君とは 自分のことかと 別れるにも、心地良かったのかしれません。

  多くの言葉よりも 短い言葉で 表現される強さを感じたものです。

南無阿弥陀仏は 短い言葉で 君のことを第一に考え 見守っているよ
大丈夫 大丈夫 自分でやれることを やればそれで良いのだよ
心配しなくて良い、私利私欲ではなく必要と思って行動したのだから
失敗なんかない、君がガンバッタことは 知っている。
今は思い通りの結果は出ていなくても、やがて君の思いは実現する
大丈夫 大丈夫 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

一人漏らさず 救うから 大丈夫 大丈夫 出来ることしなさい。
南無阿弥陀仏でいいんだよ、こう呼びかけていただいているのです。









第1536回 命の代表選手


 令和4年 7月7日~

「 仏の子を 育てる会 」という福井の浄土真宗寺院の
住職さんや坊守さんが 福井新聞の宗教コラムに書かれたものを まとめた

子どもに聞かせたい法話 ~ 心に響く 三分間法話 ~ (法蔵館発行)
 その中に 「命の代表選手」という 文章がありました。

 自分の「命」のことを 少し考えてみましょう。
私たちは今、生きています。
生きているということは、命があるということです。

それでは この命は、誰からもらったのでしょう。
そう、お父さん・お母さんからいただいた命なのです。
でもそのお父さんやお母さんにもそれぞれ両親の命がありました。

私たちからいうと、四人のお爺ちゃん・お婆ちゃんの命です。
そのお爺ちゃん・お婆ちゃんにも、それぞれ両親の命がありました。
つまり私たちからいうと、八人の大爺ちゃん・大婆ちゃんの命が
あったわけです。

こんなことを計算機で 二十八回繰り返すと、私一人の命の
誕生のために、一億三千四百万人をはるかに超える
祖先の人たちの命が必要だった
ことになります。
なんと、現在の日本の人口に近い数です。

 いやいや、これだけで驚いてはいけません。
私たちは今日まで、無数の命を食べてきました。
米・野菜・果物・卵・魚・肉、みんな動・植物の命なのです。

しかも私が食べた命だけが、私の命になっているのではありません。
両親・お爺ちゃん・お婆ちゃんはもちろん、無数の祖先が
食べた無数の命までもが、私の誕生のために必要な命だったのです。

 こんなことを考えると、私の命は私だけのものではなく、
私は無数・無限・無尽の「命の代表選手」として、
人生というトラックを走っているのです。頑張らなければなりません。

 もちろん、人をいじめるなど、絶対ダメです。
その子も「命の代表選手」なのですから。

                      (安野龍城師)








第1535回 歩くカラス ~生きるということ~

 令和 4年 6月30日~

 子どもに聞かせたい法話 ~ 心に響く 三分間法話 ~ という
法蔵館発行の本を手にいれました。「 仏の子を 育てる会 」という
福井の浄土真宗寺院の住職さんや坊守さんが 福井新聞の宗教コラムに
書かれたものを まとめた本です。


 皆さんは 鳥が歩いているのを 見たことがありますか。
鳥は 飛ぶよりも 歩く方が 楽なのだという話をききました。ですから、
飛ばなくても いいときには、できるだけ 歩きまわるのだそうです。


 この夏、私の家のまわりには 十数羽のカラスが 毎日歩きまわっていました。
何をしているのだろうと  よく見ていると、カラスは、地面の中から
はい出てくる セミの幼虫を待ちかまえ、かたっぱしから食べていたのです。
ですから家のまわりには、セミが出てきた穴が  たくさんあるのに、
セミの鳴き声は ほとんど聞かれませんでした。「 ミーン  ミーン 」とか
「 カナ カナ 」という声が  あまり聞こえない、さみしい夏でした。


 セミは、何年もの長い間、地面の中にいて、やっと地上に出て、
羽化して  セミになっても、せいぜい十日ほどの  いのちだそうです。
その十日ほどの  いのちが、カラスに 奪われてしまうのです。
「 かわいそうな セミ、にくたらしい カラス 」と 私たちは  すぐに思って
 
しまいます。

しかし、カラスには「 セミ 殺し 」などという 罪を犯したという気は
まったくないでしょう。
きっと餌不足の中で、生きるために セミの幼虫を  待ちかまえるように
なったのだと思います。


実は、そんなカラスと  同じことをしているのが  人間なのです。
直接 手をくだすことはないけれども、動物や 植物のいのちを奪って
生きているのです。
ただ、カラスと違うのは、人間は  そのことに 気づくことができる
ということです。
そのとき、私たちの口から「 ありがとう 」「 ごめんなさい 」
「 いただきます 」の声が出て、そして 手を合わせる心が 生まれて
くるのです。

皆さん、食事のときには  かならず手を合わせて、みんなで
「 いただきます 」を しましょう。 
                    (佐々木俊雄師)

生き物が 生き物を  殺すことは、大変悲しいことです。
しかし、生きていくためには 他の いのちを頂かなければ、生きていくことは出来ません。
カラスが 蝉の幼虫を 食べることをかわいそうと思う私たちも、自分には
寛容でいます。
近頃店頭の野菜は 虫に食われたものが一つもありません。
虫の餌でもある野菜に、農薬をかけ  人間が奪っているからなのでしょう。
蚊に刺されないようにと打ち殺すことも、悪いこととは思っていません。

人間ほど 自分本位で罪深い生き物は 他にはいないようです。
仏さまの願いを、お聴聞することで 本当の姿に気づかされていただくのです。
「 いただきます 」「 ありがとう 」を、忘れては 申し訳ないことです。










第1534回 ただ 『今』 を生きる

 令和4年 6月23日~

 こんなご法話をネットで見つけました。  

 ただ『今』を生きる

 阿弥陀さまの「必ずあなたを救いとる」という願いは
「いつでも、どこでも、誰にでも」届いています。
と言うことは『今、ここで』私ひとりの苦悩の上に常に
はたらいてくださっているのです。


 私自身の姿を思う時 つの見え方があると思います。
一つには「私の知らない私」自分の事は自分が一番よく
わかっているつもりですが、自分では気づけない嫌なところも
たくさんあると思います。
きっと周りの人は知っているのだけど、知らないふりをして
くれているのかも知れません。


 次に「私しか知らない私」私は心の中で どれだけの欲や
腹立ちの心を持ち、人を妬んだり羨んだり差別していることか。
しかし それを他人に知られるわけにはいかないので隠しながら、
自分でも気づかないフリをしながら 日々を過ごしているのでしょう。


 そしてもう一つが「仏さまに見抜かれた私」
阿弥陀さまは「あなたの欲の心も、怒りも愚かさも知っているよ」
とおっしゃるのです。
それだけでなく「あなたの悲しみも知っているよ、苦しいね、
辛いね、寂しいね」と私とともに、いや私に先んじて
悲しんでくださる仏さまなのです。


 ずいぶん前の事になりますが、若くしてお連れ合いさんを
亡くされた男性のご門徒さんがお寺にお参りくださいました。
小さな子どもさんを お一人で育てておられるのです。
最初は笑顔でお話をされていたのですが、帰る間際に
阿弥陀さまの前にすわり、そのうちに肩を震わせて涙されたのです。

大きな声で亡き お連れ合いさんの名前を呼びながら涙を流されました。
子どもたちの前で泣くことも出来ず、いつも笑顔のままで
心の中でだけ、涙を流してこられたのでしょう。


 そしてこうおっしゃったのです「今日はお寺に来てよかった、
お寺って泣いていい場所だったんですね」と。
安心して泣ける私の居場所がある、そう教えてくださいました。


 阿弥陀さまは私がいかに隠そうとも すべてをご存知、
つまり私の正体がバレてしまっているのです。
隠し事をしていると、もしバレたらどうしようかと心配になりますが、
バレたらもう隠さなくて良いのですから安心です。
本当の安心が そこにあります。
だからこそ阿弥陀さまの前では 安心して涙を流すこともできるのです。


 今の私にどれほどの苦悩があろうとも、そのままに
包み込んでくださる阿弥陀さまがご一緒です。
安心して、ともに歩ませていただきましょう。


                    宮崎県高千穂町 浄光寺 岩尾 秀紀師









第1533回 一番上等のお供え  ~喜んでいただくのは ~

 令和4年 6月16日~

 鹿児島別院のページのご法話に こんなお話がありました。
お仏壇に いろいろなものをお供えしてあるのを目にしますが、
最上のお供えは一体何なのかを 教えていただいたというお話です。

 思うこと一つかなえば また一つ

 山口県長門市俵山に深川倫雄という和上さま(僧侶)がおいででした。
この和上さまがご門徒のご法事に参った際、そのお宅のお仏壇の前には
一升瓶の日本酒が供えてあったそうです。

「今日は日本酒をお供えしたんじゃな」
「そうです。この日本酒は主人が大好きな日本酒でした。
 だから今日、主人が喜ぶかと思い、この日本酒をお供えしました」
この言葉を聞いたとき、和上さまの表情が曇りだしたそうです。

 そしてこう仰せになられた。
「なぁ、奥さん。あなた早く、主人を仏さまにしちゃれよ」
「あれ?和上さまはいつも仰せではないですか。如来さまが
  南無阿弥陀仏の名の声となって、私のところまで来てくださって、
  命終わっていくときに私を極楽浄土まで連れ帰ってくださると。
  主人は今極楽で浄土の仏さまとなっておるんじゃないんですか?」

「奥さん、あなた先ほど主人が喜ぶと思って日本酒を
 お供えしたと言っただろう。
 ということは、主人はまだお酒が好きなところにおるのだな。
 だからまだ主人は仏さまになっていないのではないか」

「そんなことを言うなら、一体何をお供えしたら主人が
 一番喜ぶんですか」

「それはね、奥さん、あなたのお念仏だよ。
  あなたが『南無阿弥陀仏』とお念仏をお供えしたら、
  仏さまとなった主人が、『あぁ、お前もその南無阿弥陀仏に
  出遇ってくれたのか。
  お前の命も死んでしまいの命じゃなくなったね。
  私と同じ極楽に参って、私と同じ浄土の仏となる
  尊いいのちを生かされているんだね。
  離れ離れになるのではないね、よかったよかった』と
  喜んでくださるんだよ。
  だからね、お仏壇には南無阿弥陀仏をお供えするのが
  一番上等なんだよ」

 と和上さまが仰せになったといいます。
 お仏壇には色々なものをお供えするかと存じます。
  その中で最上のお供えは何か、それは『南無阿弥陀仏』の
  お念仏です。
           山口県防府市 万行寺 石丸 涼道師著


 お仏壇には、生前好きだったものなど、お供えしておられる方が
ありますが、今はもう 仏さまとなられた方です。
一番に喜んでいただくのは、食べるもの飲むものではなく、ただ
南無阿弥陀仏のお念仏だということを、教えていただきました。









第1532回 あじさいの花 ~土壌によって変わる色~

 令和4年 6月9日~

 本願寺派の別院や各地の教務所には、ホームページが開設されています。
そこには、いろいろの行事予定や ご法話が掲載されています。
鹿児島別院のページに、こんなご法話がありました。

 日ごとに変わる あじさいの花

 あじさいには「七変化」という別名があるようです。
それは花の色が日ごとに変わっていく様に由来するのでしょう。
そのメカニズムは育った土の環境と花の色素が関わっているそうで、
つまるところ育った土壌によって変化するそうです。

 同じ花が、薄紅色になったり水色になったりと色を変えていく様子は
何とも神秘的ですが、一方、その花言葉に「心変わり」があるのも
頷けます。

 仏さまの教えを聴聞いたしますと、どうやら私の心も
あじさいに負けてはいないようです。
離れることのできない煩悩のもとに、欲の心をおこして、
今ある幸せに満足しなかったり、怒りの心で他人どころか
自らをも傷つけてしまったり、無関心なものには
冷淡をもって接したりと、様々に心変わりさせながら
苦悩の日々を過ごしていることを知らされるからです。

 相田みつをさんの『はずかしい』という詩には、
「あじさいの花をみているわたし あじさいの花に

  みられているわたし 花にみられてはずかしい 
  にんげんのわたし」とあります。

 私たちは阿弥陀さまの教えを聴聞させていただくところにこそ、
初めて我が身の愚かな心に気づかされます。
だからこそ、そのような私を「決して見捨てない」と
ご一緒にくださる大きなお慈悲に「ありがとうございます」と
お念仏申します。

 また私の本当の姿を知らせてくださる真実の智慧に
「お恥ずかしいことでした」とお念仏を申します。

 ちなみにあじさいには、花の集まりが人と人との
結びつきを表しているように見えるため「仲良し」という
花言葉もあるそうです。
私たちも仏法の土壌に育てていただいているからには、
仏さまのような穏やかな心を忘れないようにしたいものですね。

       広島県広島市 圓正寺 久留島 法暁師

 私どもの玄関先のあじさいが 今盛りです。
あじさいに見られている私、仏さまに見ていただいている私
雨の季節も 植物と一緒に 潤いを喜こべる一日を送らせて
いただきたいものです。








第1531回 浄土真宗は 讃嘆の教え ~ものの本質を知る~

 令和4年 6月2日~

「佐賀の念仏者」という お念仏の人を紹介する本の
第2集が完成しました。
コロナのため、みんなで集まることが出来ず、こんな時に出来ることは
ないかと、身近な念仏者を紹介する本の 続編の出版です。

 第一集は 20年前に出版されていますが、
改めて読み直してみますと、こんな文章がありました。

 「立派ですね。素晴らしいですね。有り難いですね
  ~讃嘆の手本を示してくださった 藤木法舟師

「近くにお参りに来ましたので、ちょっとお邪魔します。」と、
にこやかに静かに玄関に入ってこられるなり、
「これは綺麗な花が生けてありますね。花瓶も
  めずらしい、素晴らしい。」と、つぎつぎに、
ほめ言葉を連発されます。

 ご本尊へのご挨拶は長く、お茶のご案内の声が
なかなか掛けられません。
やっと座っていただいても、「このお茶はおいしい。
いれかたがお上手なのでしょうか。おいしいですね。
あーおいしい。あー、このお茶碗も立派で・・・・」
見るもの聞くもの、手にするものすべてを、ほめて頂きました。

 いよいよ、お帰りの時にも、そのほめ言葉が次ぎ次ぎと続くために
玄関に到着することが出来ず、玄関でもまたほめ言葉で、
なかなかお別れ出来ませんでした。

 最初の頃は、物珍しく笑ってお相手をしていましたが、
立ち寄られる度に、毎回 毎回、一度や二度でないと、だんだんと
引きこまれていきます。
今になって思えば、讃嘆する手本を示していただいたのだと思います。

 当たり前のことを、当たり前に見るだけではなく、その美しさ素晴らしさを、
何とか表現しようではないかとのご指導だったように思います。

 とかく値段や肩書や経歴など、第三者の評価を基準にして、
ものを見る習慣を身につけていた私に、自分の目で見て、
そのものの素晴らしさを発見することの重要性を、
どんな小さな物にも、それぞれに素晴らしい部分があることを、
しっかり見つめるようにとの教えではなかったかと、やっと
思えるようになりました。

 よくみれば、それぞれに素晴らしいものなのに、何も感ぜずに
見過ごしていることを、先輩として伝えていただいたのだと、
味わっています。・・・・

 という文章です。浄土真宗は 讃嘆の宗教 すべての仏さまは
南無阿弥陀仏,南無阿弥陀仏と、讃嘆されていると聞きます。
身近な人、もの、はたらき、見るもの聞くもの触るもの
その本質を見いだし、有り難く味わい喜ばせていただきたいものです。








第1530回 初めての道を行く ~親たちと同じように~

 令和4年 5月26日~

 宗祖降誕会のご案内を郵送しました。
電話で問い合わせがあり、降誕会のことをコウタンカイと
一般的な読み方をされる方がありました。

常識的な読み方だと、降誕会の降の字は、降下するの降ですから、コウ、
会の字を エではなく カイと発音されていました。
仏教が日本に伝わったのは、中国の漢の時代より古い呉の時代でした。
そこで、発音は漢音ではなく、呉音で読むことが多いものです。

世間の常識は、知っていても、仏教のことについては
聞き確かめないと、読み方も内容も分からないことが
たくさんあるものです。

 ところで。 宗教は 吊り革と同じ効果があると、
教えていただいた先生があります。
電車やバスで、座席に座れずに立っていて、カーブや急停車で
車体が揺れても、吊り革につかまれば安心です。
もしものときに ちゃんと吊り革につかまることができれば、
大抵の危険は
避けられるものです。

 ただ その吊り革と同じはたらきをする宗教の場合には、
本当に頼りになるものと、そうでないものとがあります。
老病死を迎え、どんな時でも頼りになる宗教を 
ちゃんと確かめ持っておくことが、生きていくには、
重要なことだと言えましょう。

 バスや電車でも よく知っている慣れた道ですと、危ない場所は
だいたい予測出来ますが、初めての道の場合は、予想がつきません。
車内アナウンスで「この先 大きく揺れます」と教えてもらえば
準備できますが、 たまたま揺れが予想より小さければ、
次も大丈夫と油断して、対応していないと事故につながります。

 ゆうまでもなく、私たちは、今、初めての人生を歩んでいます。
経験したことのない 初事ばかりが 次々に起こってきます。
考えてみると、親たちも、私と同じように初めての人生を送り
悩み、苦しみ、反省し、私と同じように 初めての人生を送った人です。

自分が経験したその苦労や悩みを、自分の子どもや孫が、
早めに気づいて大きなショックを受けなくてすむように
困難を避けることが出来るように 教えておきたい、そうした思いを 
宗教を通して、伝え残してくれたのではないでしょうか。

 バスや電車の車内アナウンスと同じように、先輩たちの
呼びかけを聞く努力をすれば、 私の人生は どんな悪路であっても
乗り越えていける
力を受け取ることができるのでしょう。

 宗教は先輩たちが 経験して気づいた問題を 後輩に伝えて
同じ過ちを犯さないようにとの思いやりではないかと 味わいます。
親や先祖の願いを確かに聞き取る力を、お聴聞することで育てていき
苦難多い中でも喜び多い、 豊かな人生を 送らせていただきたいものです。
それが先立った親たちが もっとも喜んでくれることではないでしょうか。









第1529回 仏縁を結ぶ ~真実へ導いていく~

令和4年5月19日~

 ユーチューブには お念仏の教えの法話が数多くアップされています。
直近のご法話ばかりではなく、数十年前の懐かしいご講師のお話も
聞くことが出来ます。

 そうした中に、こんなお話が、残念ながら、どなたのお話だったか、
思い出せませんが・・・、


 浄土真宗は 祈らない宗教と言われます。
これは、一般の仏教常識からすれば、特異なことであり、
なかなか受け入れてもらえないものである。

 この度の新型コロナウイルスの流行で、疫病退散 
鎮静祈願とか 終息祈願
など、仏教 神道が一緒になって
お勤めされているとのニュースを聞きます。


 ところが、浄土真宗だけは、祈らない宗教ということで、
そうした祈願をしないのはどうしてなのかと、質問されることがある。
病気で苦しむ人々の悩み苦しみを解決するのが、
宗教であるはずなのに
何もしないのはどうしてなのか。

 浄土真宗の僧侶が、護摩を焚き祈願なさる僧侶の方に、
「お祈りの効果があると信じて祈られているのですか」と、
ぶしつけな質問したのに対して、
「浄土真宗では、祈祷など、おやりにならないようだが、
  祈願にお見えになるのは、浄土真宗の方が多いですよ。」
との答えが返ってきたそうです。

「自分たちが祈祷するのは、仏縁を結ぶため、
  ご依頼があれば、お祈りします。
  それで、こころが落ち着けば、それもご縁ですし、
 いくら祈っても
思い通りにならないと、また、
 お見えになる、そうしたご縁を繰り返す
ことで、
 仏縁を得ていただく方が出てくるものです。」


 悩みを持って訪ねてきた人を、門前払いをせずに、
相手の立場になって、
悩み苦しみに真摯に向き合って
いるのですよとの、お答だったといいます。


比叡山の千日回峰行の最後は、京都の町中に出て、
待ち受けている人々に
行者が念珠を一人ひとりの頭に
かざしていく、あれは仏縁を結ぶため、
いつか、
教えに出会っていただく、そのご縁を作っているのだ
というのです。


 仏さまの願いに叶わないことをいくら願っても、
実現することはない。

それでも、悩みを解決して欲しいと訪れた人に、最初から
真実の教えを説いても、理解出来るものではない。
まずは、悩める人と向き合い、共に苦しみ悩み、
解決できるよう対座する。


そうした関係を繰り返しながら 真実の教えへと導いていく、
それを
方便、真実に導くための手立てだといいます。

お釈迦様の教えの大半は、なかなか理解出来ない真実の教えへ
誘導するための
方便の教えであると、おっしゃっていた
先生もありました。


 まずは、仏縁を結ぶためには 相手の悩み苦しみと 
素直に向き合っていき
真実の教えへと導いていくことが、
今大事なことではないか、という、お話が
ありました。








第1528回 お寺 楽しいーん ~孫の質問に~

 令和4年 5月12日~

「じいちゃん ようお寺に行きよるけど 何んが楽しかと。」 ・・・
こう聞かれた八十代のおじいちゃんは しばらく考えて、
「学校は 楽しかろう、友だちいるもんなあ、知らんことを教えてもらうし
  毎日行っても飽きやせんやろうが。
  お寺も 友だちいるし、知らんこと聞けるし、そりゃあ楽しかもんよ。

  でん、学校とお寺は ちょっと違いはあるなあ。
  学校は おぼえなならんことが沢山ある、いやな試験が待っとる。
  お寺は、知らんことを聞いても、おぼえんでもよか 試験もなか。
  そりょーあ、気楽なもんたい。遊びといっしょ。

  知らんことを知るといっても、そうーやなあ。
  今まで、当たり前と、何んにも感じなかったことが、いつのまにか、
  当たり前でなくなり、有り難いこと めずらしいこと なかなかないこと
  と気づくことが多くあって、普通の何でもないことに喜びが感じられ、
  わくわくすることがあると。

  爺ちゃんも 若い頃には おまえたちと同じように、
  夢もあった、希望もあった、ああもしたい こうもしたいと。 
  それが、年取るにしたがって、だんだん未来がなくなってくる、

  ところが、お寺で仏さんの話を聞いとると、なぜか 若いときのように、
  未来が明ろおなってくる。
  まだまだ やることが沢山見えてくる 生活に張りが出てくるもんなあ。

  もう八十にもなったと 思っとったが、まだ、八十歳、
  これからが、楽しみ、あれもこれもと やるべきことを、
  思いついてくる。
  この世だけではなく、いのち終わってからでも、やることが見えてくる。

  今思うと、もっと早よう、子どものころに、お寺で話し聞いときゃ
  よかったと、思うことがあるが、
  若いときには 聞いても分からんやっただろうなあ、
  そうやねえ、おまえが、学校が楽しかように、今、爺ちゃんは、
  お寺がたのしかとよ。」 と。







第1527回 19願 20願 ~弥陀のまごころ~

 令和4年 5月 5日~

 この世のことは、「まごころ」こめてたちむかえば、
どれほど困難なことがあろうが、どうにかなるものだと
考えている人は少なくありません。
親子・夫婦・友人関係等にしましても、うまくいかないのは
誠意(まごころ)が足りなかったからで、誠意をもってあたれば、
どれほどこじれた関係でもいつかは解きほぐれると信じているのです。

 仏にしても、神にしても、「まごころ」こめて祈れば、
きっと私たちの願いをかなえてくださるはずである。
願いがかなえられないのは、私たちの「まごころ」が
まだ足りないのであって、さらに一層「まごころ」をこめて
祈れば、必ず願いをかなえてくださるにちがいない。

この世の中に、「まごころ」の通じない相手はいないと
思っています。
果して本当にそうでしょうか。

 私たちの相手を思う「愛」の中味も、よくよく考えてみますと、
自我愛(エゴ)そのもの、私たちの仏や神を信じる
という「信心」の中味も、よくよく考えてみますと、
我欲(エゴ)そのものであったりするのです。

 結局、私たちに「まごころ」があるということは、
一種の幻想でしかないのではないでしょうか。

親鸞聖人が、
 浄土真宗に帰すれども  真実の心(まごころ)はありがたし
 虚仮不実のわが身にて  清浄の心(我欲のない心)もさらになし
                    (愚禿悲歎述懐)

といわれたのが、私たちのあり方であります。

 「まごころ」のない私が、阿弥陀如来の「まごころ」
(至心)によって生かされて生きる、そのことを誓って
くださったのが、第十八の願であります。
すなわち、阿弥陀如来の「まごころ」をよりどころに、
この苦難の人生を生きぬけというのが第十八の願であります。
この第十八の願を、私たちが素直に受けとることができたら、
第十九の願や第二十の願はいらないのです。

 本当は、自らの「まごころ」などをふりまわして頑張らなくとも、
すでに、阿弥陀如来の深く大きな「まごころ」に抱かれているのに、
それが受けとれないので、どうしても自らの「まごころ」に
しがみつき、如来の「まごころ」に身をゆだねることが
できないのです。
すなわち、第十八の願を受けとることができないのです。

 なかなか、第十八の願を受けとれない私たちにむかって、
阿弥陀如来は、切り捨てるようなことをされないのです。


 第十八の願が受けとれないのなら、受けとれないでいい。

 自らの「まごころ」を信じるなら、その信じている自らの
 「まごころ」をこめ、功徳を積んで、この人生を生きなさい。
 そうすれば、あなたの臨終には必ず私(阿弥陀如来)が
 迎えにいきます。

と、誓ってくださったのが第十九の願であります。

 どうしても自らの「まごころ」を否定することの
できない私たちすらも捨てることができなくて、
第十九の願を誓ってくださったのです。

 頭から、相手の思いを否定するのでなく、
「それならこうしてごらん(第十九の願)」
「それならこうしてごらん(第二十の願)」と、
相手の思いに従って実践させながら、本人が
気づくのを待ってくださるのです。

 阿弥陀如来の「まこと」(かわることなく私を
ささえてくださるお心)を、なかなか素直に受け取らない
私たちさえ、「もう知らないよ」と見捨てることのないのが
阿弥陀如来であります。
この阿弥陀如来のお心が、第十九の願となったのです。

  人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より







第1526回 私がここにいるよ ~南無阿弥陀仏のこころ~

 令和 4年4月28日~

如来のお心が明らかになるとは、時代が変わろうが
人が変わろうが、何がどう変わろうが、変ることなく、
「私がここにいるよ、どのようなことがあっても
  私がひきうけてやろう」と呼びつづけてくださる
阿弥陀如来の確かな大慈悲心が明らかになることです。

 どうしたら明らかになるのかといいますと、それは、
ただ聞くことによってのみ明らかになるのです。
聞くことによって はじめて 明らかになるのです。

 信心とは、あてにならない私の心と、変ることのない
阿弥陀如来の確かなお心が明らかになることです。
あてにならない私の心が本当に明らかにされれば、
あてにならない私の心を「私が、私が」とふりまわせ
なくなります。

 確かな阿弥陀如来のお心が明らかになれば、
私が真によりどころにすべきは如来のお心であると、
如来のお心におまかせするばかりです。

 自らの心を「私が、私が」とふりまわさず、
如来のお心に随順するということが「信じて」
ということであります。

 岩もあり木の根もあれど、さらさらと
  たださらさらと水の流るる。

と、うたってくださった先生もありますが、
小石があってもつまづき、小枝があっても
ひっかかっているような私たちが、この人生を
お浄土まで生き抜く道は、あてにならない自らの心を、
「私が、私が」とふりまわさず、阿弥陀如来の
「力いっぱい生きなさい、どんなことがあっても
 私がいます」と呼びかけつづけてくださる大慈悲心に
随順して生きる、信心の道しかありません。

 そのことをよくよく見抜いて、阿弥陀如来が
私たちのために選んでくださった本願が、
第十八の願なのです。それで、親鸞聖人はこの願を、
「選択本願」と呼ばれたのです。


  人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より 







第1525回 こころころころ ~第18願のこころ②

 令和4年 4月21日~

「信じて」といいますと、何か阿弥陀如来に
しがみついてというようにとられそうですが、
そのような意味ではありません。

 私は信心の「信」を、親鸞聖人の「信は審なり」(教行信証)の
ご指南によって、“あきらかになること“ ”はっきりすること“ 
であると頂いております。

 「審」とは、おおいの意味の「うかんむり」と、
ものをこまかくわける意味の「番」とから成り立ち、
おおわれて明らかでないことを明らかにするという意味の字です。

 私は信心の「心」については「二種深信」のお示しを通して、
一つには私の心、二つには阿弥陀如来のお心と頂いています。
ですから、信心とは、明らかでない私の心が明らかにされ、
明らかでなかった如来のお心が明らかになることであります。

 では、私の心がどう明らかになれるのでしょうか。
私たちは「他人の心ほどあてにならないものはない、
あてになるのは自分の心だけ」と思っています。
しかし、本当のところどうでしょうか。
確かに他人の心はあてにならないかも知れませんが、
自分の心もあまりあてにならないのではないでしょうか。

 今年こそはこれを、今日中にこれだけはと決心しても、
状況が変ればすぐ変ってしまいます。
「こころころころ」とはよくいったものです。
私たちの心は、縁にふれたらどちらにでも、
ころころところがっていきます。
それも上手に理由づけしながらころがっていきます。

それで、他の人の心変りを「うらぎり」というお互いが、
自分の心変りは、「うらぎり」と思わないのです。

 あてになると思っていた私の心が、あまり
あてになるものでないということが明らかにされるのが
信心の一面です。


   人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より 





第1524回 考えに考えて選ばれた道 ~第18願のこころ① ~

令和 4年 4月 14日~

 一般的に最も得意とするものを十八番といいます。
十番でも、十五番でもいいように思いますが、
なぜ十八番かということになりますと、この第十八の願に
関係しているようです。

 第十八の願は、四十八の願の中でも、最も大切な願です。
親鸞聖人の師である法然聖人は、

 四十八願の中既に念仏往生の願(第十八の願)を以って
    本願中の王となすなり。   (選択本願念仏集)

とまでいわれています。
それで私たちは、第十八の願を王本願とよんでいます。

 また、本願寺八代目の蓮如上人がまるで金銀の山に
入るようであるとよろこばれた『安心決定鈔』という書物は、

 浄土真宗の行者はまづ本願のおこりを存知すべきなり、
  弘誓は四十八なれども第十八の願を本意とす、
  余の四十七はこの願を信ぜしめんが為なり。

の言葉ではじまります。蓮如上人ご自身も、

 信心獲得すといふは第十八の願を心得るなり。(御文章)

 と、いいきられています。

親鸞聖人は、第十八の願を、

 この大願を「選択本願」と名く、亦「本願三心之願」と名く、
 復「至心信楽之願」と名く、亦「往相信心之願」と名く可きなり。

とあきらかにしてくださいます。

「選択本願」とは、選びに選びぬかれた本願ということです。
生れ難い人間に生れ、多くの生命を犠牲にし、また
多くの人やもののおかげを頂きながら、つまらないことばかり
しでかしてウロウロし、周りの顔色や言葉にドキドキし、
未来の不安にぶっかってオロオロする私たち。
そんな私たちが、この人生をお浄土に向って、ただ一すじに
のり超えていく道がどこにあるのでしょうか。
そのことを
考えに考えぬいてくださった方が阿弥陀如来であります。

 考えに考えぬいた末に、私たちのために選んでくださった道が、
ただ阿弥陀如来の 「どんなことがあっても私たちを捨てることがない」
という
お心を信じて生きる信心の道であります。

      人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より








第1523回 新しい会を 開きたいと ~今後のことを 男女混合で~

 令和4年 4月7日~

 お寺には いろいろな会があります。
仏教婦人会や仏教壮年会、子供会や仏教青年会などです。

 ところで、子どもは別として、大人の会は 
女性だけの会、男性だけの会と、男女が別れて活動することが
多いものです。
大きな行事などでは、実行委員会を立ち上げ男女の区別は
なくなりますが、日頃は 女性だけ、男性だけと
男女が別れて活動をしています。

 そこで、男女混合の会を作ったらどうだろうかと
いま、企画しています。
仕事をしている現役の世代は、昼間の会はなかなか参加出来ずに、
どうしても
夜の会合が多くなるものです。
一人ではなく夫婦で出かける方が出やすいのではないかとも感じます。

 さて、会の名前はどうしたらよいのか、一つの案としては、
今後、これから未来の今後、それに 男女混合のコンゴーを
掛け合わせて、コンゴの会としてはどうかと思っています。

 そして、会合へのお誘いの文章には、・・・・

 物の豊かさに加え、心の豊かさを 感じる力を養うために
ご先祖は、浄土真宗を 選んでいただいています。
老い病いが近づく世代、これからの人生を どのように 
生きていけばよいのでしょうか。

 子どもや孫の将来、そして自分の未来のために今 
何が必要なのか、共に考える会を 男女混合で、 
4回程度 土曜の夜 ご講師を招き開催します。・・・・・・

1回 喜び多い生き方とは ?
       人間に生まれて 何をやればいいのか
  第2 親や先祖の思いを 受け取っているか 
      お念仏を相続するといいますが

  3回 報恩講 恩徳讃など 恩の宗教といいます
      知ることで 何がどう変わるものか
  4回 仏教の話を聞くと どう変化するのか
       私の生活にどのように影響するのか  等など

 1回は、 101日(土)19時半~ スタートできないかと
    これから、みなさんのご意見を集めていきたいと思います。
     ご意見を聞かせてください。









第1522回 限られた情報だけでは  ~真実には出会えない~

 令和4年3月31日~

 限られた情報だけでは、真実に出会えないと、つくづく感じています。
ウクライナの、つらい悲しい映像が毎日、飛び込んできます。
一昔前までは、遠くの出来事は、数枚の報道写真だけでしたが、
今では、スマホを持つ人が自分で見た有様をそのまま発信して、
戦争が いかに残酷なものかを痛感しています。

 ところが、これは 西側の世界だけで、 戦争を仕掛けた
ロシアの国民は
限られた情報だけで、真実には気づいていないと言います。
病院や学校が爆撃されている映像を見ても、ロシアの 国営テレビでは、
ウクライナの軍隊が、ロシア系の住民を無差別に攻撃している。
こうした、暴力をやめさせるために、 ロシアは 正義の戦いをしている
のだと聞かされているようです。

 多角的な情報を受け取れる人は、その真実に近づくことが出来ますが、
情報が統制され、都合良く解説されると、真実から遠のき
まったく違った理解をしてしまうものです。

 ウクライナの現状を見ながら思いました。
私たちは 毎日テレビや新聞を見て、 全て何でも知り、わかっていると
思いこんでいます。
そして 健康で、我が身を喜こばせることこそが、素晴らしく、
老病死など 人間の苦しみ、悲しみについては

できるだけ見ないように、避けて通ろうとしています。

 しかし 人間は、老病死から逃れることは出来ません。
お寺で お念仏の話を聞く人は、自分の置かれた立場を
正確に理解して、どうすれば豊かな人生を送ることができるかを
知ることが出来るのです。

 私たちは、死んだら終わりだと、思っていますが、仏さまは、
私をお浄土に生まれさせ仏にするぞと 呼びかけ続けておられると言うのです。
生きている時には、自分中心の生き方しかできませんが
お浄土に生まれれば、みんなのために頑張ることのできる仏様になる。
お浄土に生まれさせる、必ず来いと呼び続けておられるというのです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 仏さまの呼びかけであるとの、
真実に出遇うと、私はもう仏の仲間であり、これから、
どんなに年を取ろうと
病気しようが、いのちが終わろうが心配ないと。

 そして、先立った親や祖父母、それに友人や仲間達がみんな仏様となって
今、働いていただいている。
やがてお浄土に生まれて仏になる。明るい未来が開けてくるのです。
未来がハッキリと見えてきて、安心と喜びが受け取れるのです。

 世間の限られた情報では 死んだら終わりですが、
多くの情報に積極的に出会い、 仏様の呼びかけを素直に聴くことが
出来れば、 私の未来ははっきりとしてきて、何が起ころうと
慌てず騒がず 堂々と生きていける、そんな人生を受け取ることが
できるのです。


 どうか限られた情報だけではなく、多くの情報を手に入れて
この世だけではなくて、仏様が先輩たちが、この私のために
働いていただいていることに気付かしていただきたいものです。

 ロシアの国民のように限られた情報で、
真実に出会えず、苦しく、むなしい人生で終わるのではなく、
多くの情報に触れて、真実の教えに出会い、豊かな人生を
送っていただきたいものです。








第1521回 第17願 ~仲間が同業者がほめたたえる~

 令和 4年 3月24日~

 どこのお医者さんが信用できるかどうかを
一番よく知っているのは、仲間の医師でしょう。
お店にしましても、信用できる店、信用できない店を
一番よく知っているのは、同業者でしょう。
同じ立場にいるものが、一番きびしい目で仲間を
見ていますから、いいも、悪いも、一番よく知っているのです。


「私の店の製品は、どこのものより安くていい」と
いわれても、私たちは信用できません。
しかし、同業の人から「あの店の製品は優秀で安い」と
すすめられれば信用するものです。


 こんな私たちの性根を見抜いて、阿弥陀如来は
自ら名のらず、諸仏を通して名のらせるのです。


 私たちならば、疑うのは疑う方が悪いのだから、
ほっておけばいいと考えます。
しかし、阿弥陀如来はそんな冷たい方ではないのです。
どうしても、私たちを見捨てることができないという
大悲の心が、諸仏を総動員して、南無阿弥陀仏を
私たちに受けとらせようとしてくださるのです。

私たちのことを思ってくださる阿弥陀如来の大悲の深さが
しみじみと知らされます。


「十方世界の数かぎりない諸仏が、ことごとく
 わたしの名(南無阿弥陀仏)をほめた
たえ」るままが、
 大悲の躍動する相なのです。
 それで、第十七の願を「大悲の願」

と、親鸞聖人はよろこばれるのです。

 この南無阿弥陀仏をほめたたえることが称揚であり、
称名であり、咨嗟でありま
す。
それで、第十七の願を「諸仏称揚之願」「諸仏称名之願」
「諸仏咨嗟之願」と名
づけられるのです。

 この「諸仏がほめたたえる」ことのほかに、大悲躍動の
はたらきはないのです。
して、それはまた、南無阿弥陀仏が十方世界にひろまって
いく相でもあります。
この
ことについて、親鸞聖人は、

 凡そ十方世界にあまねくひろまることは法蔵菩薩の
 四十八の大願のなかに第十七
の願に
「十方無量の諸仏にわが名をほめられ称へられん」と
 誓ひたまへる一乗大
智海の誓願を成就したまへるによりてなり
                               (唯信鈔文意)
 と、よろこばれています。

 このような大悲のお心と はたらきによって、私たちは、
真実のよりどころである南
無阿弥陀仏に遇うことができるのです。
そして、南無阿弥陀仏に遇った私たちが、南
無阿弥陀仏を
ほめたたえるという、諸仏のお仕事のお手伝いをさせて頂くのです。
仏申すことにおいて、諸仏のお仕事のお手伝いをさせて頂く私たちを、
釈尊は、「私
の善き親友」と呼んでくださるのです。

 そこに、「諸仏と等し」とほめたたえられる私たちの生活が
ひらけてくるのです。
れらはすべて「大悲の願」よりでた南無阿弥陀仏の
はたらきによって実現するのです。


      藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より







第1520回 選択称名の願 ~第17願のこころ ~

 令和 4年 3月17日~

法蔵菩薩の48願の中の 第17願のことを
親鸞聖人は、大悲の願とか、諸仏称揚之願、諸仏称名之願、
往相廻向之願、それに選択称名之願などと味わっておられます。

 では、選択称名というのはどういうことなのでしょうか。
選択とは、多くのものの中から、いらないものを捨てて、
私たちになくてはならないものを、ただ一つ選び取る
ということです。

私たちになくてはならないものとは何でしょうか。
それも、 ただ一つとはなんでしょうか。

 あれもあった方がいい、これもあった方がいい、というのが
私たちです。
腹の底から信頼できるものをもたない私たちは、
もしかの時のことを考えると、あれも離すことができない、
これも捨てることができないということになります。

しかし、私たちが離すことも、捨てることもできなくて
にぎっているものは、本当に最後の最後まであてたよりに
なるものでしょうか。

 いざとなったら「てたのみおきつる妻子も財宝も
   わが身には一つも相添うことあるべからず」(御文章)
ということになりますよ、といわれた蓮如上人のお言葉を
思い出してください。

 一時しのぎにしか役立たないものを、あれもこれもと
かかえこんで、結局は、それらを逃がさないように、
失わないように、ビクビクしながら、エネルギーを
消耗させているのが私たちではないでしょうか。

 せっかくの人生、手にしたものを管理するだけで
終ってしまうならば、これほど悲しいことはありません。
本当に信頼できるものを、どんなことがあっても、
私を裏切ることのないものをもたないから、このような
萎縮した人生になってしまうのです。

 何がなくても、これがあるから、私はこの人生を
精一ぱい生きることができる。
どのような苦難にであっても、これがあるから私は
へこたれずに、この人生をのり超えていける。
ただ、これ一つあれば、私の人生は大丈夫といえるもの、
それが南無阿弥陀仏なのです。

 「どのような失敗をしようが、他人が何と言おうが、
私がいるよ」と、私たちを励まし、ささえつづけてくださる
南無阿弥陀仏があれば、どのような人生をも、のり超えて
いくことができます。

 苦しくて逃げたくなったら、南無阿弥陀仏のみ名を
称えればいいのです。
「私がいますよ。頑張ってごらん」という南無阿弥陀仏の
はげましの声が聞こえてきます。
悲しくて、ついうつむきかげんになったら、南無阿弥陀仏の
み名を称えればいいのです。
「元気を出せよ。私がついているではないか」という力強い声が
聞えてきます。

 自らとなえる南無阿弥陀仏の称名が、阿弥陀如来の
力強く私をはげましてくださる南無阿弥陀仏の名号となって、
わが耳にとどいてくださるのです。

 常に行き詰って、右往左往し、戦々恐々としている私たちに
なくてはならないもの、それもただ一つのものとは、いつでも、
どこでも、だれでもが易くたもつことのできる南無阿弥陀仏です。

  煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は万の事みなもてそらごと・だわごと・
  真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて(おは)します(歎異抄)
と、親鸞聖人は、最後の最後まで私たちの人生をささえてくださるものは、
「ただ念仏のみ」とよろこばれています。

 念仏申すこと、すなわち称名が、私たちになくてはならないものであると
諸仏までも総動員して、選びとってくださったのが第十七の願であります。
それで、親鸞聖人は、この第十七の願を「選択称名之願」と
名づけてよろこばれたのだと、私はありがたく頂いているのです。

   人となれ 仏となれ 藤田徹文著 永田文昌堂刊 より








第1519回 念仏者の生き方 ~親の思いが届く時~

 令和4年 3月10日~

 ご本山発行の『大乗』に、こんなお話がありました.

 春 旅立ちの季節ですが ボクサーでタレントの
ガッツ石松さんは、中学を卒業、ボクサーを志して
東京に旅立つ朝、お母さんが働いている現場に
行きました。

お母さんは家族6人を食べさすため、
男たちにまじって
日給240円の道路工事で働いていました。

「かあちゃん、じゃあ行ってくるから」と言うと、
お母さんはツルハシの手を止めて、ポケットから
クシャクシャになった泥の付いた千円札を出して
持たせてくれました。

 以後、ガッツ石松さんは、どんなに貧しくても決して
その千円札は使ってはいけないと思ったそうです。
その千円札にはお母さんのありったけの思いが詰め込まれて
いるからです。
そして、つらい時、悲しい時、いつもその千円札を

手にしたそうです。

 これと似た話があります。親から仕送りのない友人がいました。
授業をまじめに受け、夕方からは毎日アルバイトをしていました。
夏休みは工場に泊まり込みで働き、彼が遊んでいる姿は
見たことがありませんでした。

そんな彼が三年生になった時、親からの仕送りが始まりました。
しかし、彼は変わることなく、卒業までずっとアルバイトを
続けました。

「親の仕送りが始まったのに、なんでアルバイトばかりしているの」
「父親が血を絞るようにして作ったお金、僕は絶対にこのお金は使えない、
 まだアルバイトした方が楽だ」と。

この友人とガッツ石松さんには、お金と同時に親の思いが
届いているのです。
そしてそこには感謝の喜びがあるからこそ、二人とも自らに
厳しいのです。

阿弥陀仏は 南無阿弥陀仏の六字の中に、すべてを 注ぎ込んで、
どのような罪悪があろうとも必ず救うと
はたらいておられます。
その阿弥陀仏の呼び声が届けば、甘えるのではなく、
自ずと喜びの中に自らに厳しくこの人生を歩んで ゆくことになる。

それが念仏者の生き方となってゆくのだと
味わわせて
いただいております。(原文を 大幅に省略させていただきました)


       大乗 福間義朝師 広島・教専寺住職 著 

親の思いが、仏さまのご苦労が味わえたとき、生き方は
大きく変えられてくるものです。
お聴聞することで、仏さまの願いを聞き、そのご苦労を、
ご恩を感じ取り、味わう力を育てていただけるのです。

そして、ご恩を知ることで、感謝の喜びの人生が、与えられるのです。








第1518回 総代さんへの弔辞  ~門信徒会長さんのことば~

 令和4年 3月3日 ~

 先日 往生された 総代さんに 門信徒会長さんが、
次のような 弔辞を読んで
いただきました。

 弔 辞

聞信徒会を代表して、お礼と哀悼の意を表します。

総代会の中でも ベテランであるあなたが
ご往生されたこと、総代一同 驚きと悲しみで一杯であります。

 あなたは お父様が亡くなられた昭和の終わり頃から
仏教壮年会の会員として、また総代会の一員として
私どもの寺の護持発展のために 物心両面で
多大なご尽力をいただきました。

 春の彼岸の法要、五月の門信徒総会・降誕会、お盆、秋の彼岸
十一月の法要には 必ず 参加して 率先してお世話をし
お聴聞いただきました。

また、十二月の餅つき大会では、自分で作った餅米や、道具一式を
準備して、頑張っていただきました。

これからは、男も料理が出来ねばと 男の・「おんじさんの
料理教室」にも 専用のエプロンをつけ・マイ包丁を持ち、
毎回欠かさず 参加していただきました.

総代会や壮年会の仲間では、毎月一回夜、本堂でお勤めをして、
仏さまのお話を聞き、会食をしていましたが、いつも温厚な
あなたの姿は、仲間を安心させ、なごませ、存在感ある方でした。

 七十六歳、こんなに早く お別れするとは 思いもしませんでしたが、
日頃聞く、浄土真宗では 死んだら終わりではなく 今度は お浄土で
仏さまとなって 還相廻向のはたらきをすると聞かせていただいています。

 三年後には 佐賀組の巡番報恩講の当番が 巡ってきます。
どうか、仏さまになられても、一緒になり、尚一層はたらいて
いただくだろうと期待しております。

 これまでの門徒総代としての長年のご苦労、ご協力に深く感謝して、
門信徒会を代表して こころより御礼を 申し上げます。
長年にわたり、本当にありがとうございました。
ご苦労さまでした。ありがとうございました。

          令和 四年 二月十八日  門信徒会長

総代さんの葬儀で このような弔辞を読んでいただきました。








第1517回 総代さんのお通夜  ~お祖父ちゃんは ・・・ ~

 令和4年 2月24日~

 一昔前までは、三世代同居は 珍しくありませんでした。
現在、毎月お参りしているご門徒で、三世代同居されているのは、
この215日に亡くなられた総代さんのお宅だけです。
小学生の元気な3人のお孫さんがいます。
そこで、お通夜では、そのお孫さん向けにこんなお話をしました。

 ただいまは、仏教でお通夜のお勤めをしました。
仏教は お釈迦さまが説かれた教え。
今から2500年前の48日に誕生されました。
そこで,48日は 花まつりの行事をします。
そして、厳しい修行をして、128日におさとりを開かれた 
これを、成道会という行事をします。

それから、およそ40年あまり、悟られた内容を説き広め
八十歳で亡くなられたのが、 2月の15日で、
涅槃会といいます。涅槃に入られた 涅槃会といいます。

私どものお寺の総代さんをしていただいた お祖父ちゃんも 
お釈迦さまが亡くなられた日と同じ、

この二月十五日に 七十六歳で この世の人生を閉じ
阿弥陀さまの国、お浄土へ 誕生していかれました。

 私たちは、こうして親しい大切な人を亡くすと 
もうあえなくなるし、話もできなくなるので、さびしくてつらく
悲しんでいます。
お釈迦さまは、どんなに愛する人であっても 必ず別れねばならない 
愛別離苦を、はじめとした四苦八苦の苦しみから、人間は
逃れることはできないものだと。

 どんなに立派な方であろうと、どんなにお金持ちであろうと、
人間は 生まれてくれば、必ずいのちが終わるもの。
どんなに科学が進み 医学が発展しても、この老病死
歳を取り老いること、病気になること、いのちの終わること
大切な人と別れねばならないことは
私たち人間の力では どうすることもできません。
人間には、思い通りにならないことがあるのだと。

こうした、人間の苦しみ悩みを乗り越える道・教えを
お釈迦さまは説いていただいているのです。

 仏教の数多い教えの中で、親鸞聖人は 南無阿弥陀仏の教えで、
南無阿弥陀仏を口にする生活をすることで、いのちが終われば
すべてが無くなってしまうのではなく、お浄土という
阿弥陀さまの国に生まれて阿弥陀さまと同じさとりをひらき、
残された人々のために仏さまとなってはたらき続けることが
出来るのだと、教えていただいています。

 お祖父ちゃんが、いつもいつも、お寺にお参りされていたのは、
お念仏の人は 間違いなく仏さまに 成れるということ。
仏さまは 私のために、いつもはたらいていただいているということを、
繰り返し 繰り返し、はっきりと聞きとるためでした。

生きているときのお祖父ちゃんは、自分のことより 
みんなの幸せのために頑張っていただく方でした。
お仕事の農業でも、JAの仕事も、地域のお世話も、消防団でも 
お寺のことも、いつも一生懸命に 取り組んでくださる方でした。
そして、お祖父ちゃんの願いは 何よりも子どもや孫、ご縁のある方が 
喜び多い人生を送ってくれることでした。

 今 いのちが終わって仏さまとなっても 
かわいい孫や子どもや 多くの人々のためにはたらいて
いただいているのです。
仏になった今も 子どもや孫のことを
一番に思い 
心配していただいているのです。

生きているとき以上に 私たちのことを応援し、
導いてくださっているのです。

 そのお祖父ちゃんに、心配かけず、喜んでいただくには、
どういう生き方をすれば、よいのか、それは、
お祖父ちゃんが、よくお寺にお参りして、聞いておられたように、
仏さまのお話を聞き、仏さまの願いを聞くことで、少しずつ、
はっきりとしてくるものです。

 この度は、悲しいご縁でしたが、亡くなったお祖父ちゃんは 
仏さまは、私たちに何を望み、期待しておられるのか、その願いを、
仏さまの願いを はっきりと味わえるようになり、仏さまになられた、
お祖父ちゃんが、最も、よろこんでいただけるような
生き方をさせていただきたいものです。

 明日のお葬式 そして、火葬のあと、揃ってお寺にお参りする
三日参り その後、七日七日のお勤めを通して、お祖父ちゃんの願いを、
仏になられたお祖父ちゃんは、残された私たちが、どのような
生き方をすれば、よろこんでいただくのかを聞き取っていきたいものです。

南無阿弥陀仏を口に生活するというのは どんなことを意味しているのか。
仏になるとは、仏さまのはたらきとは、どういうことを
言おうとしているのか。しっかりと、確かめていきたいものです。
そのことが、仏に成られたお祖父ちゃんが最も喜んでいただくことでしょう。

       ・・・・・・

 総代さんのお通夜で、残されたお孫さんに、こんなお話をしました。








第1516回 信心をいただくということ ~御文章の内容は ③ ~

 令和4年 2月17日~

 御文章ほど「信心をとれ」ということを、いわれているものは
他の聖教には余りありません。
信心をとるとか、いただく、もらう、獲得するということが
一般に多く用いられていますが、いかなることでしょうか。

二の二の御文章によると。
「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして
  無間地獄に堕在すべきものなり」とあります。
しかれば、信心をいただくということは、どういうことでしょうか。

先づ信心をいただくという場合、他力の信心には私の側に
ものがらが出来るとアウトになります。
というのは、宗祖聖人の主著教行信証には、どの巻でもはじめに
出体釈が出ていますが、別序まである最も大切な信巻だけは、
出体釈がかけているのであります。

信巻では、はじめから大信心の十二嘆徳の文しか出ていません。
これによると、他力の信心は私の側にものがらが別に出来ると、
自力の信心となり、往生の因とはならないこととなります。
もし他力の信心のものがらを求めると、前巻の大行であり、
名号六字の法であります。

他力の行と信の関係は、あたかも水と波の如く、波そのものは
水のほかにものがらはあり得ない、水のままが動いている相が
波であります。

信心とは名号がこの私の上にはたらいでいる相であり、
この私を場所として活動している法であります。
それ故、私の側からはプラスするものも、マイナスするものもなく、
ただ与えられたそのままといわれるのであります。

しかれば、この信心をいただくということは、いかなることでしょうか。
このことを最も端的に、誰でもわかる表現をされて述べられているのが
御文章であります。
この場合、多くは「雑行雑修自力の心をすてて一心に弥陀をたのめ」とあります。

自力の心をすてることは、私の側からは不可能であります。
それはあたかも、自らの眼によって眼を見んとするような業と等しいのです。
自力の心のすたることは、一心に弥陀をたのむほかにないのであります。
「一心に弥陀をたのむ」という一心は、ひとすじにという意味であり、
たのむはおまかせすることであります。

それ故、私の側のたすかる、たすがらない心配はすべて、
すっかり弥陀の仕事であり、弥陀のはからいであるから、
私の仕事は、すべておかざるを得ないのであります。
ここでは はたらいでいるものは、弥陀の仕事しか残りません。

それ故、たすかる証拠は、六字の他にはありません。
自らの側に証拠を求めるところに、間違が生ずるのであります。

かつて讃岐の庄松同行はオカミソリの時、法主の袖を引っぱり、
「アニキ覚悟はよいか」といったといわれる。
その時、法主の側から逆に「お前さんの覚悟はどうか」ときかれた時、
「オレのことは知らん、アレに聞け」というこの一言、銘記すべきであります。

          市原栄光堂 宗教CD 「御文章のこころ」より









第1515回 信心正因 ~御文章の内容は ②

 令和4年 2月10日~

 蓮如上人ほど信心を強調された方はないようです。
どの御文章でも信心や安心について述べられています。
この信心は勿論「聖人一流の御勧化のおもむき」であり、
「祖師聖人一流の肝要」であるからであります。

この信心一つにて浄土往生は決定するので、信心の有無は
この私の往生の鍵となります。
しかし、蓮如上人のいわれる信心は、現代どの宗教でも
いわれるような「信じたらたすかる」とか「信じたら幸せになる」
というようなものではありません。

宗教改革者のマルチン・ルターのいう「ただ信心のみ」
という信心とも異なるのであります。

 それは御文書に、しばしば出ているように「他力」という
言葉が頭に冠している他力の信心であるからであります。
他力の信心は、世界のどの宗教にも通じない、仏教一般の上でも
通じない、浄土真宗の独特の信心といえます。
この他力の信心の内容を最もよくあらわしている
機法一体の蓮如上人の解釈をみることにしましょう。

 機法一体は元来西山義の用語であり、西山では南无の機と、
阿弥陀仏の法とが、一つになり合うということが一体の
意味となります。

しかるに蓮如上人は南无の機 又は信と、阿弥陀仏の法又は行とが
一つであるという一体の解釈をされているのであります。
一つになる場合は双方の歩みよりを前提とします。
信じたらたすかるということをよく聞きますが、
自らが信ずるという動作によって、たすかる法が
活動することとなります。

それ故、自らの動作をみとめなければ救いは成立しません。
しかるに一つであるという一体は信心と名号、信と行は
全く一物の異名であります。
あたかも波と水のようにその言葉が異なることは意味も異なります。

しかし、いかに大きな波が立っても水のそのままであり、
水のほかに波はありません。
波は水のそのままが動いている相であります。
それ故、信心の波とは名号の水がそのままこの私(機)の上に
はたらいでいる相であり、はたらいているものは名号の
法のほかにはありません。

それ故、浄土真宗では信心のことを無疑と釈せられるのであります。
自らのはからい、自力心はすべて否定されざるを得ないのであります。
自らのプラスになるのもマイナスになるものもすべて否定され、
与えられた六字の法のままに生かされることとなります。

それ故、他力の信心のものがらは名号六字の法であります。
名号はこの私の上では因法として与えられているので、
信心が正因といわれるのであります。

   市原栄光堂製作宗教CD 「御文章のこころ」より






第1514回
 平生業成 ~御文章の内容は ① ~

 令和4年 2月3日~

 ご法話のCDを購入しました。その中に、次のような
解説文が入っていました。稲城選恵先生の文章です。


 蓮如上人の書きのこされた御文章は現在 帖内、帖外を合すと、
約二百六十通以上あります。
これらの数多くの御文章の一貫していわれていることを
一言にして表すと、平生業成の四つの漢字に
おさめることができます。

 蓮如上人は この平生業成の義を、一文不知の尼女房にも
通ずるように かみくだいたのが御文章であります。
現代わが国の仏教の中で最も大きな教団になったのも
この平生業成の義が徹底したからであります。

平生業成は臨終業成に対する言葉であり、当時最も
盛んであった浄土宗鎮西義の臨終業成に対する
言葉であります。
臨終業成は臨終の時、聖聚(仏さまや菩薩衆)の
お迎えによって、はじめて浄土に往生することが
決定するのです。

これに対し、浄土真宗では親鸞聖人も「未灯鈔」の
はじめにあるように、「来迎は諸行往生にあり、
自力の行者なるがゆえに、臨終といふことは
諸行往生のひとにいふべし。・・・

真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に往す。
このゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり・・・。」
とあり、臨終には全く用事がないこととなります。

しかし、一応平生とは臨終に対する言葉でありますが、
厳密な意味においては臨終も平生も包んでいるので、
いつでもということであります。
いつでもということの具体的なものは今ということであり、
今はここという空間と自己同一の場にあります。

更に今こことはこの私の存在する場所であります。
私のたすかるか否かという問題の決定する場は
私の存在する今ここの外にはあり得ないのであります。
というのは自らの側が求めるに先行して既に
救いの法が与えられているからであります。

それ故、お聞かせにあづかった今ここのほかに
救いの法はどこにもあり得ないのであります。
御文章にしばしば「一念発起平生業成」とか
「一念発起入正定之聚」といわれるのは正しく、
お聞かせにあづかった今ここが私のたすかる場所で
あることをいうのであります。

ここでは救われようと救われまいと自らの仕事でなく、
すべて仏の側のうけもちであります。
それ故「仏のかたより」とか、「如来わが往生を
さだめたまいし」と、しばしば述べられているのであります。

   市原栄光堂製作宗教CD 「御文章のこころ」より








第1513回 遇い難くして 今遇 ~ 生まれた意味は ~

 令和4年 1月27日~

三つの宝ものがお寺にはあると、 仏・法・僧の  三宝がそれで
この三宝 に あうことを

 南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧

仏法僧の僧とは、僧伽(サンガ)仏法を信じる仲間のこと。
そして、日常勤行集の最初には 『華厳経』(浄行品第7)を元に
作られた 礼讃文 ~三帰依文~ があります。


 礼讃文 ~三帰依文~
 人身受けがたし、今すでに受く。 仏法聞きがたし、今すでに聞く。
 この身今生にむかって度せずんば、 さらにいずれの生にむかってか
 この身を度せん。
 大衆もろともに至心に 三宝に帰依したてまつるべし。

 みずから仏に帰依したてまつる。 まさに願わくは衆生とともに、
 大道を体解して無上意をおこさん。
 みずから法に帰依したてまつる。 まさに願わくは衆生とともに、
 ふかく
経蔵に入りて智慧海のごとくならん。
 みずから僧に帰依したてまつる。 まさに願わくは衆生とともに、
 大衆を
統理して一切無碍ならん。

 無上甚深微妙の法は、 百千万劫にもあい遇うことかたし。
 われ今見聞し受持することをえたり。 願わくは如来の真実義を
 解したてまつらん。

とあります。

生まれ難い人間に すでに 人間に生まれており
遇い難い 仏法に  今 遇えている このことを 有り難く 
感じることが  出来るか 出来ないかで、私の人生は
大きく違ってくるものです。

この三帰依文は 仏教各宗派共通ですが、最後の部分だけは
浄土真宗だけで他のご宗旨では使われません。

 無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。
 われ今見聞し受持することをえたり。
 願わくは如来の真実義を 解したてまつらん。


お釈迦さまは お弟子に、ガンジス川の砂を手ですくわせ
多くの生き物がいても、人間に生まれることが出来るのは、
その手の砂ほど、人間に生まれても 仏法に出会えるのは

親指の爪に乗せた砂ほど ほんのわずかである。と

生まれがたい人間に生まれ 遇い難い仏法に出遇えたのは、
私の力ではなく、多くのご縁によるもの、お聴聞すればするほど
人間に生まれた意味と、生まれた
喜びが味わえてくるものです。






第1512回 のんのさま ~まもり導く仏さま~

令和4年 1月20日~

 ご本山のご正忌報恩講 コロナウイルスの影響で、
全席指定席にして参拝者を限定、15日の奉讃演奏会・通夜布教も
事前に
映像を収録して行われました。
その演奏会に仏教讃歌の「のんのさま」(地球の子どもの子守歌)も
歌われました。
  東村美穂作詞 中村八大作曲

  ノンノンノンの のんのさま この子のいのち まもりゃんせ
  この子の明日 まもりゃんせ  この子の未来 まもりゃんせ
 ノンノンノンの のんのさま  この子の友だち まもりゃんせ
  この子の地球 まもりゃんせ  この子の夢を まもりゃんせ (くりかえし)

  七つの海に 橋架けて   世界をつなごう 手をつなごう
  橋は橋でも 虹の橋    世界の子どもが あそぶ橋

 私どもの巡番報恩講の時、お寺の周りを稚児行列した時 この讃歌を
流して歩いたことを思い出しています。

 すべての子どもを すべての人を守り、救うという阿弥陀さま、
救うべき人があまりにも多くて大変だろうと思いますが、
阿弥陀さまと同じはたらきをする仏さまが、数多くいらっしゃることに
気づきました。

 親鸞聖人の御命日は ご正忌ですが、よく考えると、この日に
お浄土にお生まれになり、即、仏さまとしてはたらき始めていただいたのです。
ですから、ご往生の日は、仏さまとしての誕生日。

 私たちは、祖父母や両親の命日に、年忌法要を行いますが、
仏さまの仲間だった肉親が、この日に仏となって、活動しはじめた
おめでたい記念日でもあるのです。

お念仏の人は 往生即成仏 といわれますので、
一周忌、三回忌、などと言っていますが、本当は 一周年記念
二周年記念というお祝いごととして、受け取っても
よいのではないかと、味わえます。
赤い・朱蝋燭を使うのも そのことを意味しているのかもしれません。

 仏さまになられた方々は、まずは我が子や我が孫を
最初に導いてくださっている。
そう考えると、ご縁のあった多くの仏さまが私を見守り、導いて
いただいていると、感じられます。

 生きている時だけではなく、仏に成っても、一番心配で
ならないのは、身近な子供たち、幼い子どもだけではなく
成人し、歳をかさねた、この私のことを、思い心配していただいていると・・。

この詩は、子どもだけではなく、大人の私の為でもあると思うと
味わいが違ってくるものです。







第1511回 よろこぶこころ 身にうれば ~もう 仏の仲間 ~

令和 4年 1月13日~

 御正忌報恩講、またコロナが流行してきましたので、正信偈は行譜で
お勤めしたものの、六首引きではなく、後半、恩徳讃と回向句と短めに
お勤めをいたしました。


その回向句の最後には、「よろこぶこころ身に得れば 
さとりかならずさだまらん」
とあります。
阿弥陀さまの願である、「お浄土に生まれさせ仏にするぞ」との
呼びかけに答えて、
南無阿弥陀仏を口に お念仏をよろこぶことが
出来るようになれば もう仏の仲間、
お浄土に往生することは
間違いない、と教えていただいているのでしょう


 お勤めの後 ご絵像をスクリーンに映しながら親鸞聖人の
ご一生を 今年も語らしていただきました。

その絵像、1幅目の 1番上には お弟子さんの蓮位さんが
自分のお師匠様は
阿弥陀様の化身である。
観音菩薩の化身である聖徳太子が礼拝されるのは 阿弥陀様が
姿を変えて
教えを説いていただいた。
と夢で啓示を受けたと、あります。


2幅目の一番上は 親鸞聖人のご絵像を写させていただきたい
と思う
入西というお弟子さんに、七条あたりに住む、絵師に
頼んだらどうだと許しを得て、

その絵師が来ると 昨日夢で見た 尊いお坊さんとそっくりだ。

そのお坊さんは誰かと聞いたら 善光寺の阿弥陀様である
と言われた。

そのお顔とそっくり、これは驚いた。 昨日は お顔だけをと
いうことだったので、
お顔だけでいいですねと言って。
不思議なこともあるものだと。驚きながら描いた
という。
縁もゆかりもない1人の絵師が、親鸞聖人は阿弥陀さまの化身だと。

 3幅目は 越後から関東常陸に移られて。 山伏の弁円さんが。
ただ念仏だけで救われるという教えは、人々の 不安を
取り除く山伏さんには自分たちの仕事を妨害する者、

大変に不都合であると、親鸞聖人を 亡きものにしようと
したものの。

うまくいかず。 ついにその舘に乗り込んで来て そこで
親鸞聖人と対面し
お話しを聞くうちに お弟子さんになった。

いのちを奪おうとした 山伏までもお念仏の教えに引き入れた。
まさしくこれは仏さまのはたらきであると。

 お念仏の人は 必ず往生して お浄土で仏になり、
還相の菩薩として
 この世に還り教えを説く、まさに
親鸞聖人は 阿弥陀さまと同じようにはたらく、

還相の菩薩さまであると、描かれているのでしょう。

こう考えると、 こうしてお念仏の教えにご縁を作って
いただいた方々は
近いところでは、父母 祖父母であり、
身近な善知識であり、親鸞聖人
七高僧 お釈迦さま 
みんなこの私のためにご苦労いただいた還相の菩薩さま
であると
味わえます。

 ご正忌報恩講は、お釈迦さまが説かれた教えの中で、
末法の時代でも間違いなく
お浄土へ生まれ仏になれる教えを、
説き残していただいた親鸞聖人への
報恩の法要です。

おかげでよろこぶこころをいただきました。とお念仏し、
赤い蝋燭をともし お礼を申し上げる、よろこびの法要です。








第1510回 伝絵には比叡山が ~描かれていない理由~

令和4年 1月6日~

 ご正忌報恩講には 4幅のご絵伝を元に パワーポイントを使った
プレゼンテーション方式で、毎年、お話をしていますが、
その絵像の一幅目の最初は 「出家学道の図」です。

 桜の花が咲く京都・青蓮院の門前に、御所車、引いてきた牛、
乗ってきた馬、
お供してきた人々などが描かれています。
その上の図には 9歳の親鸞聖人が おじさんの日野範綱郷に連れられて、
九条兼実の弟である、慈円慈鎮和尚の前に座り、得度を依頼する図が
15歳にならないと出家できないのに、無理強いして得度を願い、
特別に許されて
その夜、燈をともして剃髪する姿が描かれています。

 それから20年の間 比叡山での修行に励まれることになるのですが、
その比叡山での修行については、ご伝鈔では源信和尚の流れをくむ
「楞厳横川で 四教円融を修められた」とあるものの、伝絵の方では
比叡山の絵がまったくなく、次の図は、
吉水の法然聖人を訪ねられる絵へと飛んでいます。
20年間の厳しい修行、努力の姿が一切描かれていません。

 考えてみると、このことが浄土真宗のお念仏の教えの特徴を
表しているのだと、思えます。
仏教といえば、お釈迦様と同じように、厳しい修行をして、
自分の煩悩を無くして
さとりをひらく、そして、お釈迦さまの
ようになりたいというのが一般の仏教です。


 ところが、吉水の法然聖人は その修行する仏教を捨てて、
比叡山を降り、
浄土三部経の仏説無量寿経に説かれている、
お念仏の教えを
一般の人に伝えておられたのです。
それまでの仏教とは違う教えであることを、強調するために、
比叡山の絵は描かれていないのでしょう。

 修行は、お念仏の教えに、必要な条件ではないのです。
そのことは、次の六角夢想の図に、 聖徳太子 ご縁の六角堂で、
還相の観音菩薩の言葉として
表してあるのでしょう。
すべての人が、男も女も、僧侶だけではなく、日常の生活をするもの
すべての者を救うという、阿弥陀如来の本願によることを、
絵像と、文章で書かれているのです。

 800年近くの間、ご正忌に、こうして絵像で伝えていただいたおかげで、
この私に伝わってきているのです。
常識の仏教とは違って、私が願う前に、阿弥陀如来さまが必ず救うという
願いを立て、南無阿弥陀仏と呼びかけていただいている、
そのことに気づき、お念仏の生活をはじめると、人生は
まるで違ってくるもの
お念仏の教えに、遇ってほしいとの
多くの願い、誠に有り難いことです。










第1509回 人間の力の限界 ~お任せする世界~

令和3年12月30日~

 今年も、コロナに悩まされた一年でしたが、1918年、今からちょうど
100年前にも
スペイン風邪が大流行したということで、
昭和初期のニュースフイルムをみると、
小さな穴の開いた
黒いマスクをつけた男性の姿が映っています。

日本の人口が、5500万人のころ、その半数に近い人が感染し、
38万人以上の人が死亡する、大きな災難だったと言われます。

 私どものお寺が出来たのも、350年程前に、流行病の疱瘡で
亡くなった鍋島藩の若君と、その後継者選びがご縁で建立されました。
これまで、何度となく災害や疫病に襲われ、それを乗り切ってきたのです。

 ところで、100年前と 現代の違いについて、ある方が講演され、
100年前のスペイン風邪の時には、神事や仏事が例年以上に 
とても盛大に勤められたが、今回は、神事も仏事も率先して中止されたと。

 村祭りをはじめ、お祭りというのは 疫病退散、災難逃れを祈願して
はじまったものも多く、人間の力の及ばないことは、神さまに
何とかして欲しいと、
みんな揃って賑やかに華やかに
勤めていたもののようです。

スペイン風邪で多くの人が亡くなった後の、お盆の行事も
例年になく盛大であったとの
ことです。

現代に比べると、科学的な知識がとぼしい時代、人間の力を超えたことは、
神や仏に祈り、諦め みんなで納得しようとしていたようです。
それに比べて、今回のコロナウイルスは、科学的な知識が格段に増え
多くの人が集まることや、飲食をともなう行事をすべて
自粛させてしまいました。


 細菌よりも小さなウイルスの知識を知ったことで、何でも科学の力で
解決出来るような錯覚を持ってしまったようにも思います。
ところが、まだまだ科学の力の及ばないことも沢山あるものです。
どんなに注意しても、逃げ回っても感染することもありますし、
高齢者だけではなく、健康そのものの若者が発病し、
いのちを落とすこともあります。


まだまだ人間の力の及ばないことが、沢山あるもの、
老病死、どれ一つとっても、科学が進んだ今でも、まだ、
思い通りになるものではありません。


 お念仏一つでお浄土へ生まれさせるとの教えは、
人間の力が及ぶことは、
精いっぱい努力するものの、
その後は、お任せするしか仕方が無いことを、

教えてくれているようです。

 歳をとり、身体の自由がきかなくなることも、耳が遠くなり、
よく聞こえないことも、
目がよく見えなくなることも、
人間が順調に成長し、成長しすぎた結果、
衰えていくのであり、
それを止めてしまうことは、難しいこと。


 自分にとって都合のよいことも、自分に不都合なことも、
みんな与えられたもの、
逃れることなく、嘆くことなく、
堂々と受け取り、生き抜いていくこと、

それが、お浄土への道を歩んでゆくことにつながるものだと、
味わいます。


死んで終わりと思えば、淋しく悲しく耐えられませんが、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏の人は、一人も残らず
お浄土に生まれ、
仏になれる。
私が はじめてではなく、父母ばかりではなく、祖父母も、
その前の曾祖父母たちも
みんな同じ道を歩み、
いまお浄土に生まれ、心配いらない、大丈夫大丈夫

ちゃんと、お浄土がある、心配しないで、この道を
歩んでおいでと、
呼びかけてくれているのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は、その呼び声、お前のことを
ちゃんと見守り、
応援し、やがて一緒に仏になって働こうと、
呼びかけ語りかけていただいているのです。


やるだけやったら、後はお任せ、何の心配もいらない、
一番良い方向へ向かっているんだよ。

みんな揃って待っていただいているのです。








第1508回 ご縁がある人 ない人 ~人生は違って見える~

令和3年 12月23日~

 毎年年末、ご参拝の方に、真宗教団連合のカレンダーをお渡しています。
有難いご法話が書かれたカレンダーですが、今回、その中に 
豊島学由師の
こんな言葉がありました。

 失ったものを数える人あり 与えられたものを感謝する人あり

  令和45月の分の法語です。

 この言葉は、お念仏にご縁のある方と ご縁の無い方との違いを 
はっきりと表した言葉であると味わえました。

仏教は 人間の苦しみ、老病死の苦悩を解決するために
説かれたものだと言われます。
人間に生まれれば必ず、全員、歳を取り、病気になり、やがては
いのち終えていくものです。
その苦悩を解決するための教えであると。

 どんなに世間的に立派な方であろうと、どんなに経済的に豊かであろうと、
間違いなく老病死は、遅かれ早かれ、すべての人に平等に訪れてきます。
そのことを しっかりと受け止めることが出来る人と、受け容れられずに
悩み苦しみ続ける人との違いがあるのです。

 仏さまのお話、お念仏のお話を聞くご縁のあった方は、老病死が
必ず訪れてくることを、早めに知ることが出来て、その時が来ても
慌てずに
堂々と対応する力を持つことが出来るのでしょう。

一方、仏教とご縁のない方は、周りに 老病死の苦しみが数多くあっても、
それに目が向かず、気づかず、突然のことと慌てふためく人があるのです。

 また、自分の思い道理になることだけを期待して生きて来た人は、
だんだんと無くしていくばかりで、やがてすべてを無くす
最悪の状態で一生を終わってしまうものです。 

仏さまにご縁のあった方は、健康や若さが少しづつ無くなっていくことで
多くのものがすでに与えられていること、生かされていることに気づかされ、
喜び感謝の人生を歩むことが出来るのです。

 これまでが、余りにも自分の思い通りに成っていたのであり、
思い通りにならないことを通して、与えられていた多くのことに
気づかせていただき、有難く味わえる人生を受け取りたいものです。
このお念仏の教えにさえ出会えば 人生は、素晴らしいものとなるのです。
これさえ知れば、自分の人生は満足いくものだったと味わえるのです。








第1507回 すべての仏さまが 讃嘆される ~諸仏称讃のお念仏~

令和 3年12月16日~

仏教をお説きいただいたお釈迦様のことを、
親鸞聖人は、どういう方だと
 受け取られたのか。           

まとめていただいた「教行信証」の中の、正信偈には

 如来所以興出世 唯説弥陀本願海
 教主世尊は弥陀仏の 誓い説かんと生れたもう 

お釈迦様は、このお念仏の教えを、 阿弥陀さまの教えを説くために、
この世においでになった
 と書かれています。

お釈迦さまは、数多くの教えを説いていただきましたが、
浄土三部経こそが、
最も説きたかった教えであると、
その浄土三部経の一つ大無量寿経の中には、
遠い昔から53人の仏様がこの世にお出になって
人々を救って 世をさられた。

その後、世自在王仏という仏様が この世にお出になった時
1人の国王が、教えを聞いて、自分も仏に成りたいと、
修行者となり法蔵と名乗った。
それからお師匠さまに210億の仏さまの国を見せてもらい、
その後、五劫という長い間考えに考えて、48の願を立てて
理想の国を建立したいと、厳しい修行をはじめた。

その48願の内容は、
第一願には、自分の国、お浄土には、地獄餓鬼や畜生の者がいない、
からはじまり、
17番目に 諸仏に超え優れて、 ありとあらゆる仏様に超え優れた、
そして、すべての仏様が
自分のことを褒めたたえるような
仏になりたいという願があります。

どの仏さまも成し遂げられないことを・・・

それは、18番目の18願に 念仏一つで自分の国に生まれさせたい。
全てのものを念仏一つで救いたい。
難しいことを期待しても 誰も満足な修行はできないだろうから、
ただ、念仏を口にさせて、
仏にしたい。 こういう願いを立てられた。

それから永劫の修行、宇宙的長い期間 修行して、
いまから十劫という昔に、これが完成して阿弥陀仏となって、
今働いていただいていると、説いておられます。

お釈迦様は、厳しい修行をして悟りを開かれ 仏となられた。
仏となると。 過去・現在・未来の仏様と自由に 交信できる、
想念ができる。仏と仏とが想念出来る。

仏仏想念といいます。

 そして、 多くの仏さまの願いに会える。
これまでのすばらしい、仏さまの願いに会うことができる。
お釈迦さまは、仏になられて、 阿弥陀さまの願いに出会うことが出来た。
そして、この教えなら、一人も残さず、すべての人々を救える。
これだったら間違いなくすべてを救えると、
これだ、これが最高だとお釈迦様は感動されて、それを説かれた。

すべての仏さま方が、みんな 南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と、阿弥陀さまを讃嘆しておられる。
阿弥陀さま あなたが1番、すべてを救うのは、
とても私たちはできませんと
褒めたたえていらっしゃる。
あなたはすばらしい。

すべての人を救うことができるのは、
この教えであると 説き残してくださったのだと。








第1506回 ご本尊は お釈迦さま 阿弥陀さま  ~お念仏の教えの始まりは~

 令和3年 12月 9日~

 例年、仏教壮年会では、年末、近くの飲食店にでかけ、
忘年会を開いていましたが、 コロナの影響で、今年も
お寺での忘年会となり、お勤めのあと、
こんなお話を
パワーポイントのスライドで行いました。


 お寺にあまりご縁なない方々は、 お釈迦様が説かれたのが仏教。
仏教は、お釈迦さまから始まっている、そこで、仏教の寺院は
どこもみんな、お釈迦様がご本尊であると思っていらっしゃる方が
多いようです。

 ところが  ご本尊が違うところがあります。
私どものご本尊はお釈迦様ではなく、阿弥陀さまです。

 今からおよそ800年前、私どもの親鸞聖人は
お釈迦様が最初じゃなくて、阿弥陀さまが始まりであると
お考えになり、
ご本尊は阿弥陀さまに、それも、
そのはたらきを表す言葉である。

帰命尽十方無碍光如来とか、南無阿弥陀仏、
南無不可思議光如来
などと、言葉の本尊、
名号本尊であったといいます。


 そこで、今でも木像、絵像ではなくて、こうした
名号がご本尊のお宅が
ございます。

 一般に仏教というのは、お釈迦さまのように
厳しい修行をして、お釈迦様と同じように
さとり、
仏になりたい。これが仏教の基本であります。

ところが、それと違って、
自分の力、人間の力ではなく、仏の力、仏のはたらきで、
お浄土に生まれ仏になる。
修行ではなく、お念仏で仏に成る道があると親鸞聖人は 
受け取られました。・・・。

親鸞聖人が 自分で勝手におっしゃったわけじゃなくて、
本堂の余間にあります。七高僧、インド、中国、日本の先輩方が、 
お釈迦様のお説きになった、阿弥陀様の教えをずっと
伝えていただいていた。

その最後の法然聖人に直接お会いになって確信された。

毎年、御正忌報恩講の時に、ご絵像使ってお話ししておりますが、
一副目 一番右の、ちょうど中ほどに。
その法然聖人に出会われた時の絵がございます。
比叡山に登って20年、29歳の時。 吉水の法然聖人を尋ねられた。

 法然聖人は、40歳年上の比叡山の大先輩でありますが。
智慧の法然房と言われるほどに、よく勉強された方
だったといいます。

この法然聖人に出会うことによって、それまでの修行する仏教、
修行してお釈迦様みたいになりたいという仏教から。
お念仏の阿弥陀さまの教えに出会われることで、生き方が変わられた、
その阿弥陀さまのことは  大無量寿経というお経に詳しく書いてあると。
確認されたのでした。

                        つづく

          ユーチューブで全体を









第1505回 釈尊も南無阿弥陀仏 ~お念仏で すべての人を~

 令和3年 12月 2日~

 釈迦・弥陀は 慈悲の父母 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

と、善導大師を讃嘆されたご和讚にあります。
「二河白道の譬え」では 西の岸のお浄土から阿弥陀さまが、
その道を来い、後ろからは釈尊が その道を行けと勧めて
いただいていると言われます。

 お釈迦さまと 阿弥陀さま、一般の仏教では お釈迦さまから仏教が始まり
お釈迦さまが説かれた 阿弥陀さまの教えであると、受け取られているようですが、
親鸞聖人の受け取り方は そうではないようです。


 今から2500年前にお釈迦さまは、厳しい修行の結果 さとりを開かれ、
阿弥陀さまの教えに出会われた。そして、その阿弥陀さまの教えを
私たちに分かるように 説き残してくださった。それがお経であると。


 お釈迦さまのおかげで、七高僧の方々も 阿弥陀さまの本願に出会われた。
それは、十劫も前から ずっと呼びかけ続けていただいた
阿弥陀さまのはたらきによるものだと、

 数多い仏さま方々が、皆それぞれに願いを立て、人々を救うはたらきを
しておられるものの、それは限定的で、すべての人をもれなく救うことは
出来ていないのです。
そこで、法蔵菩薩は 南無阿弥陀仏のお念仏で、すべての人を
一人残らずお浄土へ生まれさせ仏にしたいと、長い長い修行の結果
いまから十劫前に お浄土が完成したと説かれています。

 そして、すべての諸仏方が、この阿弥陀仏の大いなる本願が
とても優れており
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と みなそろって
褒め称えておられると、お釈迦さまは説いていただいています。


 お釈迦さまも お念仏でお浄土へ生まれられた 七高僧も、お念仏で 
お浄土へ生まれ いま仏として はたらいていただいている。
そう味わっておられるのです。

 数多い教えはあるものの、南無阿弥陀仏の教えこそが、
すべての人が救われる 唯一無二の教えであると、多くの諸仏が
みんな揃って
讃嘆されている。これが、親鸞聖人の味わいといいます。

 正信偈には 如来所以興出世 唯説弥陀本願海
   教主世尊は弥陀仏の 誓い説かんと生れたもう 

 お釈迦さまは、お念仏の教えを説くために この世に お出になり
そして、この私が 人間に生まれてきたのは 南無阿弥陀仏の教えを聞き、
お浄土へ生まれて 仏になるためであったと、
そして、南無阿弥陀仏と口にしている人々は、もうすでに
仏さまの仲間であると。









第1504回 みえないものでも あるんだよ ~慈悲のはたらき~

 令和3年 11月25日~

 私たちは どうしても目に見えるものだけが存在し 見えないものは
存在しないと思い込んでいます。ところが、
金子みすゞさんの詩『星とたんぽぽ』には。

 青いお空の そこふかく、海の小石の そのように、
 夜がくるまで しずんでる 昼のお星はめにみえぬ。
  見えぬけれども あるんだよ
  
見えぬ ものでも あるんだよ。

 ちって すがれた たんぽぽの かわらのすきに だァまって、
 春の くるまで かくれてる。つよい その根は めにみえぬ
  見えぬ けれども あるんだよ、
  見えぬ ものでも あるんだよ。

 言われてみれば、見えていない、気づいていないだけと知らされます。
金子みすゞさんは、どうしてこうした こころ豊かな詩が
よめるのでしょうか。

どうも、幼くして父親を亡くして、仏教とのご縁があった
からだと思えます。

こんな詩もあるのです。


  『お仏壇』

お背戸でもいだ橙(だいだい)も、 町のみやげの花菓子も、
仏さまのをあげなけりゃ、 私たちにはとれないの。
だけど、やさしい仏さま、 じきにみんなに下さるの。 
だから私はていねいに、両手かさねていただくの。
家にゃお庭はないけれど、お仏壇にはいつだって、 
きれいな花が咲いてるの。 それでうち中あかるいの。
そしてやさしい仏さま、 それも私にくださるの。 
だけどこぼれた花びらを、踏んだりしてはいけないの。
朝と晩にはおばあさま、いつもお灯明(あかり)あげるのよ。 
なかはすっかり黄金(きん)だから、御殿のように、かがやくの。
朝と晩とに忘れずに、 私もお礼をあげるのよ。 
そしてそのとき思うのよ、 いちんち忘れていたことを。
忘れていても、仏さま、 いつもみていてくださるの。 
だから、私はそういうの、 「ありがと、ありがと、仏さま」
黄金(きん)の御殿のようだけど、これは、ちいさな御門なの。
いつも私がいい子なら、 いつか通ってゆけるのよ。


 金色のお仏壇 お礼をあげる やがてお浄土へいけるという
浄土真宗の 仏さまのお話を 年忌法要のおりに聞いたのか、
あるいは、一緒に住んでいたお祖母ちゃんに聞いたのか
目には見えないけれど、仏さまはいつも見まもってくれていることを
ちゃんと味わえていたのだろうと思います。

 風鈴の音で 風が吹いているのを知るように 南無阿弥陀仏を
聞くことで
仏さまが ここにはたらいておられることに
気づかされるものです。


 思えば、私たちの周りには、目には見えないたくさんの電波が
飛び交っています。
それを受信できるスマホやテレビがあれば 内容を確認できるように、
仏さまのはたらきを ちゃんと受信できるように 繰り返しお聴聞して
仏さまのおおいなる はたらきを知り 味わい、喜べるように、
お育ていただき、豊かで有り難い人生を 頂きたいものです。







第1503回 温泉とお念仏  ~ 身と心を喜ばす~

令和3年 11月18日 ~

 ご法話を聞くことを お聴聞といいます。
昔 お聴聞は私のためと喜んでお参りしてくださる方が
たくさんおられました。
ご法話、 お説教と聞くと、一般的に「 難しい、かたい、 人ごと」
というイメージをお持ちの方が多いようです。

確かにご法話は 仏さまのお話でありますから 人間の私たちが
一回聞いただけでは なかなか理解するのは難しいことかもしれません。

 皆さん温泉に行かれることがあるかと思います。
温泉に入りますと大抵 
その温泉の泉質、効能が書かれた看板などが
あると思います。

そういうものがあれば、一応目を通されるのではないでしょうか?
しかし、温泉からあがると、そんなこといちいち覚えているでしょうか?
温泉の効能というものは 一回入っただけではなかなか現れません。

 昔病気の人が温泉に1ヶ月2ヶ月滞在され何度も何度も温泉に入ることで
病気を治されていた湯治というものがありました。
お聴聞するということは、温泉に入る感じで、リラックスして何度も何度も
繰り返してもらえば仏さまの効能とはいいませんが、 仏さまの
願いというものがだんだんとわかっていただけるかと思います。・・・


 という若いご住職がお書きになった文章に出会いました。(定良芳信師)

 昔お教えいただいた深川倫雄和上 山口の俵山温泉の湯治客に
ご法話をされていたと聞きますし。

島根の温泉津の浅原才市さん、有福温泉の善太郎さんなどなど、
温泉とお念仏は 深い関係がありそうです。

親鸞聖人は 
「信心」 とは、 如来の本願を聞いて疑う心がないことである。
「歓喜」 というのは、 「歓」 は 身によろこびがあふれることであり、
「喜」 は心によろこびがあふれることである。
すなわち、 得なければならない浄土往生を、 必ず得るであろうと、
あらかじめ往生に先立ってよろこぶという意味である。
 (一念多念証文 現代語訳)と お書きいただいています。

 温泉にゆっくりとつかり 温かく身を喜ばす 深い大きな喜びを知り、
お聴聞を繰り返し 仏さまの願いを聞くことで 体だけではなく、
心から喜び、味わうことが出来るようになる。
それには、温泉で芯から身を喜ばすことを重ねることで 
本当の喜びを、喜びの有り難さを強く感じる力が育ってくるのでしょう。

 元気で 温泉に行ける時だけではなく、歳を重ね、病気になって
動けなくなっても、温泉につかっていた時のように、心の底から温かく
喜べる 体だけではなく、精神的に喜べる、そういう教えを
いただけ、一生涯 いのち終わるまで味わうことができるのが
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の お念仏の教えです。







第1502回 教信行証か 教行信証か ~自力か 他力か~

令和 3年 11月11日~

 仏教の基本は 「教・行・証」 教えに従って 教えの通りに 行ずる、
修行をして 証(さとる)ものです。
親鸞聖人が まとめていただいた教行信証も 正式には 
「顕浄土真実教行証文類」と書かれています。


ところが、これを 「教行証」ではなく 「教行信証」と言われてきました。
浄土真実教行証文類なのに、教行信証と、教行証に 信心の信の字が 
加えられているのです。


仏教の常識からすれば 教えを信じて、行じて 証るのですから、
もし、信心の信の字を加えるのなら、教の後に 信がくる 教信行証と
するのが仏教の考え方ですが、そうではなく 行の後に信がきて 
教行信証と言われてきました。


 ここに 親鸞聖人の教えの特徴があるというのです。
親鸞聖人も最初は 自分の力でさとりを開こうと、比叡山で厳しい
修行に励まれました。
しかし、二十年間努力しても さとりとは ほど遠いことに 悩まれました。
そのころ 40歳年上の比叡山の大先輩 法然聖人が 京都の市中で
一般の人に お念仏の教えを説いておられることが 気になっていました。

そこで、日本に仏教を最初に勧めていただいた聖徳太子の廟である
六角堂に
こもられ、夢のお告げに勧められ、法然聖人を訪ねられ 
自分の力で修行して さとる教えではなく、

仏さま、阿弥陀さまの 願いを聞き取り、
お念仏の生活をすることで、お浄土に生まれ 仏になれる 
他力の念仏の教えに出会われました。


 これは、それまでの仏教とは まったく違った受け取り方、斬新な教えです。
人間が修行するのではなく、仏さまのはたらきである 大行 
私が信じるのではなく 仏さまが信じさせる大信、 
大行・大信によって 証れるというのが、お念仏の教え、
ですから、教えを信じて修行して証るのではなく、 仏さまが
永劫の間、修行してくださった大行を 信じさせられ、それて証る、
という 、仏さまの行を 信じさせられ、悟りに至る
教行信証と言われてきたのです。

仏さまの願い、そして そのはたらきを 信じさせていただき、
この私は、お浄土に生まれることが出来、 仏になれる
これこそが、従来の仏教とは まるで違った教えです。
自分で修行してさとることが、仏教との常識の人には 
なかなか理解出来ない
納得しにくい教えです。

しかし お聴聞を繰り返していくことで、転じられていくことで
新しい道が開けてくるのです。
そこで、親鸞聖人がまとめていただいた教行証文類は 教行証ではなく、
教信行証でもなく 教行信証であると、先輩たちは伝えて
くださったのでしょう。

行も信も 私たち人間の力ではなく、仏さまのはたらきであると 
しっかりと、お聴聞させていただきたいものです。

私が称える南無阿弥陀仏は、自力のお念仏ではなく、
他力のお念仏であることを
知らせるために 教行信証と、
伝えられてきたのです。










第1501回 思い通りに ~努力とは関係無く~

令和3年11月4日~

 四十代の若さで 直接上司の方が亡くなりました。
まじめで仕事の出来る先輩でしたが、少しの間、入院し 
帰らぬ人となられました。

奥様は 大手新聞社の記者だったようですが、覚悟をされていたのか
冷静に私たちに対応してくださいました。
お通夜に 部下や仲間が集まって、思い出話をしているとき、
亡くなった方の上司にあたる 組織の責任者が こんなことをつぶやきました。

「かけごとに 誘えばよかった」と、その責任者は マージャンや競馬の話を
よくする人でした。同じ世代の仲間とゴルフコンペも定期的に
開く、お付き合いが広くリダーシップのある人でした。
亡くなった方は、そのゴルフコンペにも 参加するものの、
自分はゲームをせずに、一緒に歩いて付き合っていたといいます。

 そのお通夜の席の話を 何故か、思い出して、なんで
「賭けごとに誘えばよかった」なのだろうかと、考えています。
サラリーマンをしていると、自分の提案や、自分の思いが 
そのまま通ることは
少しで、ほとんどは、自分の主張とは
違ったことを、仕事として
取り組まねばなりません。

まじめで、仕事が出来て成績がいい人は、自分の主張が通らないと、
その原因を反省したり、くやしがったり、考え悩むことも多いと思います。
しかし、賭けごとをしている人は、うまくいくことも行かないことも
自分の能力や努力とは関係無く、勝つ時もあり、負ける時もある、
同じように人生もいろいろ、思い通りにいかなくても、さあ、次の仕事に
取り組もうと、受け流す力が育つのだろうと思います。

いくらすばらしいアイデアであろうと、最高の計画であろうと、
人間の世界では、正論だけが正解ではなく、決定権者の思惑や諸般の事情で
決まっていくことが多く、それを、素直に受け流す力を持ち、
優柔不断であれば
もっと長生きできたのではなかったかとの、
つぶやきだったのだろうと
思います。

 人間の世界では 思い通りになることは少なく、
それでもそれを受け入れて
生きていくことが必要。
でも、阿弥陀さまは 生きているときは
いろいろあっても、
必ず、お浄土に生まれさせ仏にする。


こんどは、自分の為ではなく、すべての人を救うはたらきを、してもらう。
生きがいある、よろこび多い仕事を してもらうぞと、
よびかけ、導き、そして待っていただいているのです。

この世がすべてではなく、もっと長いスパーン、お浄土まで加えて
自分の人生を考えてくれと、呼びかけておられるのでしょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 仏さまが 私へ呼びかけていただくことば、
私は 分かりました。ありがとうございますとの、返事のことばなのでしょう。








第1500回 願いが届いたところ ~ありがとうございます~

 令和3年 10月28日~

 こんな話を聞きました。

 毎年一月に行われる大学入試センター試験で、感慨深い出来事に
ふれさせていただきました。

私の勤めている学校も試験会場となり、監督業務に携わらせて
いただきました。二百人ほどが入れる大きな教室に、間隔を空けて
五十人が座って受験していました。

私の受け持ちの列があって、前から順に問題冊子や解答用紙を
配布いたします。
その中、私が配布物を置いたり解答用紙を回収したりする、
そのたびに必ず小さな声で、「ありがとうございます」と
おっしゃる受験生がいました。

シーンと静まりかえった教室ですので、その女の子の声は
聞こえるか聞こえないかの小さな声でした。ですが、
必ず何をした時も「ありがとうございます」とおっしゃるのです。


いつの間にか、私もその受験生の所に来ると、動作の時に
少しだけ頭が下がってしまいます。
もとより偉そうに行っていたつもりはありませんが、
知らず知らずのうちに「こちらこそ」、あるいは「どうぞ」。
そして「がんばってください」。
私が声に出して言うことはありませんでしたが、そのような
思いで頭を下げずにおれませんでした。


現代的な感覚でいうなら、そう言ったからといって試験に
合格するわけではない。言っても何か得するわけではない。
そんな時間があったら英単語の一つでも覚えたほうがマシ、
そのようにいう人もあるかもしれません。


それでも、一言の「ありがとうございます」が、人の動きを
変える力をもっていたのです。その方の言葉は私の心の底に、
体の中に入り満ちたのです。


そして、その方はなぜこのように、「ありがとうございます」
と言うようになったのだろうかと考えた時、想像でしか
ありませんが、その方がこれまでにかかわってきた
たくさんの方々の願いが、そこにあるのではないかと思うのです。

感謝することを忘れないでほしい、損得勘定や効率的・
合理的な考えだけではない、恩を知る人になってほしいという
願いをかけて接してこられたのではないだろうか。

その方のことを大切に思っている人の願いが、その方の心の底、
体の中に入り満ちて、「ありがとうございます」という言葉と
なってあらわれていたのではないか、
そのように感じさせていただく出遇いでした。


阿弥陀さまの願いにふれ、まことの心をいただいて、お浄土を
見据えた人生を歩ませていただくのです。
それが大いなる信心をたまわり、如来とともに歩む念仏者としての
心強い人生となるのです。

                    佐々木隆晃師 ご法話より







第1499回 平等なはたらき ~自然も 阿弥陀さまも~

 令和 3年 10月 21日~

私は 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と阿弥陀さまの名前を
呼んでいますが、名前を呼んだから あなたを 特別扱いしてやる。
という仏さまではないようです。

 すべての人を必ず救いたいと、はたらき続ける仏さま、
名前を呼ぼうが
呼ぶまいが 阿弥陀さまの方が 先に
はたらきかけ呼び続けておられる。

将棋で言えば 阿弥陀さまがいつも先手 私たちはいつも後手。
この阿弥陀さまは すべての者を平等に 救おうと、
阿弥陀さまは
みんな平等に救いたいと。

 みんな平等といえば、宇宙・自然のはたらきも みな平等です。
太陽も、空気も 水も、コロナも みな平等に 私に はたらきかける。
ただ 自然の働は 親切なようですが、実は残酷です。
この私を成熟させ続けて、やがては 命終わらせて 無にする
消えてなくしてしまいます。私を殺してしまう。


阿弥陀さまは そうではない、死んで終わりではなく、
必ず浄土に生まれさせ仏にする。すべてのものを 
お浄土に生まれさせ仏にすると呼び続けておられる。

科学的な頭の私は 「死んだら終わり」、阿弥陀さまは 
そうではない
必ずお浄土へ うまれさせ仏にする。
待っているぞ、期待しているぞ、
呼びかけておられる。

 どうでしょうか? みなさん 明日が楽しいと。 今日から楽しい。
明日が嫌なことがあると。 今日から つらく苦しくありませんか。
人間は、明日 たのしい 素晴らしいことがあると イメージ出来れば
気分は 高まり、うれしくなる。
死んだら終わりというのは、 明日がない 未来がないこと 不安。
暗いつらい 苦しい。 明日が確かであることが重要です。

若く未来がある人には、何でもないが、年をとり、未来が
なくなってきた
人には 誠にありがたい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は、 私に 未来を与える。 言葉。

お聴聞するのは、  私の未来を。 確かめていく、
お浄土の お話を聞き、
知れば知るほど。 私が活躍出来る明るい未来が。
認められ期待されている
私であったと気づくのです。

それが、お聴聞の目的、お浄土の話は 未来が明るくなる 
喜びのお話なのです。











第1498回 ご縁で人生は変わる ~仏縁に遇えるか遇えないか~

 令和3年 10月14日~

こんな話を聞きました。

人間は 素晴らしい多くの能力をもって みんな生まれてきています。
人間だけではなく、すべての生き物は 無限の能力を持って誕生します。
しかし、その能力も 育った環境、出会った縁で まったく違った成長を
遂げていきます。
ノーベル賞を受賞するような科学者になる人も、人々を苦しめる
犯罪を犯す人も、出会いによって、ご縁によって、その能力が違った方向に
開くのです。


 この私も、学者にもスポーツ選手にも あるいは経営者にも成れる
能力を持って生まれてきたのに、ご縁によって今の私があるのです。
そして、私は、実は 仏さまになれるような能力も持っているというのです。
ご縁があれば 地獄の鬼のような生き方も、やがて仏になれるような
力も持ちながら、それに気づかずに、ご縁がなく、平凡な人生だと、

思い込んで生きているのです。

 親鸞聖人は、比叡山に登り、自分の努力によって、さとりを開こうと
20年もの間、たゆまぬ努力をされました。
その後、ご縁があって吉水の法然聖人の元に行かれ、阿弥陀さまの教えに
お念仏の教えに出会われました。

お釈迦さまが説かれている 阿弥陀さまのお念仏の教えに出会うことで、
今 もう仏の仲間であり、命終われば、お浄土に生まれ、仏としての
はたらきが出来る能力があるのだとの、教えを受け、お念仏の道を
歩まれました。

 私も、親鸞聖人と同じように 阿弥陀さまの教えに出会い、
お念仏の生き方を
すれば、やがて仏になれる能力があるというのです。
それは、大きな努力や 厳しい修行などで 実現するのではなく、
仏さまの願いを聞き、うなずき、南無阿弥陀仏を口に お聴聞を繰り返し、
仏さまの願いを味わい、生きていけば、間違いなくお浄土で仏になれると、
教えていただいているのです。

 仏になる能力を持ちながら それに気づかず、つらい 苦しい 
むなしい人生で終わってしまうのか。
それとも仏さまの願いを聞いて、生きがいある喜び多い 道を歩むのか
出会いによって、ご縁によって、変わってくるのです。

親たちも、祖先たちも 阿弥陀さまと一緒になって、南無阿弥陀仏に
出会ってくれ、南無阿弥陀仏を口に、お浄土への道を歩んでくれと、
呼びかけ続けてくれているのです。

それを聞き取り、頷くか、聞き流して 一生を終わるのか、
どちらを選ぶかは
ご縁があるか、ないかで決まるものだと、いいます。

さあ、どうしますか。あなたは。仏になる道を選びますか、
それとも、つらい苦しい人生で終わりますか。







第1497回 今や 貴重な教えに ~教えを聞く人は ~

令和3年 10月7日~

 毎年「宗教年艦」が 文化庁から発刊されています。
これは 各教団が それぞれに報告したものを そのまま 
まとめたものですが、それによると、浄土真宗で、本願寺派が786万人
真宗大谷派744万人、それにその他の真宗をあわせると1600万人前後、
浄土真宗が、日本ではもっとも信者数が多い宗教のようです。

 江戸時代、日本の人口 3000万人程度で、その50パーセント以上 
過半数は 浄土真宗だったようですが、今、日本の人口は、約4倍の
12千万を超えていいます。
しかし、お念仏の人は 逆に減ってしまい、その比率は、
全国民の10パーセント程度ではないかと 思われます。
多数派だった真宗教団も、現代では、少数派の珍しい貴重な教えに
なってしまったようです。

 この本願寺派 786万人とは どういう数なのでしょうか、単純に計算すると 
それぞれのお寺では 門徒戸数を届出ていますが、門徒戸数の十倍に当たる
数字に近いようです。
門徒戸数 100軒の場合は 信者は およそ1000人程度 
門徒戸数 200軒であれば 信者数 2000人に近いのではないかと 思われます。

うちのお寺は そんなに信者が多くないよと お思いでしょうが、
日本では 毎年137万人ほどの方が 亡くなっています。
これは 全人口の、1,1 パーセントから 1,2パーセントの率になります。
ですから お葬式が 年間20件あるお寺であれば、 単純計算で
2000人程度の門信徒がいるのではないかと思われます。

 ところで、皆さんのお寺 どのくらい 南無阿弥陀仏の人が 
いらっしゃりますか。
門徒戸数 100軒のお寺で、南無阿弥陀仏の人が 仮に100人であれば 
その割合は、全門信徒の10パーセントぐらいとなります。
本堂に座られる方は 100人あったとしても 果たして、その方々が 
全員、南無阿弥陀仏の人かどうかわかりません。

 昔よく聞かれていた、お陰さまで、もったいない、有り難うございます。
という 自分の人生を、すばらしいものと喜んでおられる方は、非常に少なく 
日本人の 1パーセントぐらいに なっているのではないでしょうか。
お寺にお参りする方、念仏の人が 沢山いるように感じていますが、
実のところは、非常に少ないということになります。

ですから、南無阿弥陀仏を口にする人、お浄土へ生まれることを信じている
人は、実に貴重な存在のようです。
しかし、この教えに遇えば 老病死を乗り越えることが出来る。
何が起ころうと 堂々と生きていける そういう教えです。
お念仏に遇えたことを 有り難く喜ばせていただきたいものです。







第1496回 お念仏は讃嘆のことば ~ 諸仏と一緒に南無阿弥陀仏~

令和3年 9月30日~

 秋の彼岸会法要 沢山の方にお参りいただき 有り難うございました。
法要にお参りの方は、お気づきでしょうが、ちょっと悲しいことがありました。
選挙の時に 立会人や案内役など、ボランティア活動をよくしていただく、
ご門徒の奥様、これまで、ご法座へのご縁がありませんでしたが、
今回お聴聞に来ていただき しかも最前列に座っていただいきました。

ご講師のお話が終わり、御文章拝読のあと、ご本尊へ向かってお念仏 
振り返って「ありがとうございました。」と アイサツされた途端、
その方が間髪をいれず拍手をされました。
それに、つられて何人かが拍手をされ ちょっと気まずい雰囲気になりました。

そこで、住職のあいさつで「こうした 衣を着てお話をしたときに、
最高にうれしいのは お念仏の 声が聞こえた時です。
世間では 拍手は有り難いのですが、本堂では いままで 
お念仏の大きな声でお礼をしてきました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 最高の褒め言葉 讃嘆の言葉です。
これから、拍手ではなく 大きな声で 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
おっしゃっていただくと、阿弥陀さまもご講師さんも とても喜んで
いただくことでしょう。」と お話ししました。

 これまで新しい人は 遠慮して、うしろの方に座っておられましたが、
世の中で活躍して、世間のことを何でも知っているという 自信のある方が 
本堂に座っていただくようになると、きっとまた拍手が出ることでしょう。

 悲しかったのは、いままで南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏の
お念仏の人が、一人が拍手すると、同調されて 手をたたかれたことに、
かなりショックを覚えました。


その後、考えました。なんで拍手ではいけないのか。
音楽や 演芸や、講演など 拍手で 賞賛し、お礼を表すのが常識です。
御講師のご苦労に感謝して 意思表示をしてもいいのではないか。

でも、よく考えると お説教は 「お取り次ぎ」、阿弥陀さまの願いを
お話していただくのです。煩悩いっぱい わがままいっぱいで、
地獄にしか行くことの出来ないこの私に、南無阿弥陀仏の念仏で 
お浄土にうまれさせ仏にする。
無理は言わない 南無阿弥陀仏を口に 生きてくださいとの阿弥陀さまの
願い呼びかけを 取り次いで いただいているのです。

 拍手が起こるのは 世間的な楽しいお話でした、ありがとうと
阿弥陀さまの願いが聞こえなかったのだろうと思います。

17願 諸仏称名の南無阿弥陀仏、人間だけではなく
ありとあらゆる仏さまが 阿弥陀さまを讃嘆しておられるのに、拍手は
人間のご講師だけを讃嘆していることになるからなのでしょう。

 神社では 柏手を打ちます、私のわがまま聞いてよねと、おねだりします。
勉強が不十分ですが、是非 合格させてください。うちの娘は、わがままで
性格はよくありませんが、是非 よい縁談を・・・

浄土真宗は、私の願いのわがままを聞いてもらうのではなく、
必ず お浄土へ うまれさせ 仏にする おまえのことを見捨てぬ
ちゃんと迎え取るという 阿弥陀さまの願いを聞き取り、
うなずくこと、そして、お礼の 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にする
ことです。







第1495回 期待され待たれている私 ~行き先がはっきりすると~

令和 3年 9月23日~

 元気で生きがいを持って働いていた人が 定年を迎えると
生きがいを無くして、しょんぼりとしてしまう方があります
逆に 現役時代以上に 生き生きとしている方もあります。
その方々は、 地域の自治会やボランティア活動、趣味の仲間などに
溶け込んで、みんなとともに活躍する新たな喜びの世界を手にして
いらっしゃるからです。

会社勤めをしている間は、職場の仲間や取引先に期待され、自分の
存在が認められ、重要視される心地よい喜びがありましたが、
そこから離れてしまっても、新しい居場所を見つけ出せたからなのでしょう。

しかし、その 生き生きとした生活も  やがてはだんだんと歳をとり、
歩けなくなり、動けなくなってくると 仲間から期待されることも、
認められることもなくなって 寂しさを感じることは間違いありません。


 南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは、歩けなくなっても 動けなくなっても、
しゃべれなくなっても、認知症になっても、必ずお浄土へ生まれさせ、
仏にすると 呼びかけ はたらきかけ続けておられる仏さまです。
この私がどこに居ようと、どんな厳しい状態であろうと、見捨てることなく 
お浄土へ来いよと呼びかけ 待っていてくださる仏さまがいらっしゃるのです。
そのことに気づかされると、何の心配も無く 堂々と この人生を
生きていくことが出来るのです。


 子どものころから、努力すれば何でも出来る、成せば成ると 教えられて
それしかないと生きてきました。
しかし、どんなに努力しようと、思い通りに成ることばかりではありません。
人間の力のおよばないことも多いのです。
仏教でいう 老病死 どれ一つとっても、人間の力の及ばないことばかりです。

 しかし、この私を認め 期待し 待っていただいている阿弥陀さまがある
先だった親たちも一緒になって、呼びかけ見守っていていただくことが
信じられれば 怖いことも さびしいことも、むなしいこともなく
今を 精一杯生き抜くことができるものです。

この私は 期待され 認められ 待たれているのです。
仏となって 一緒になって人々を救うはたらきをしようと、
待たれているのです。
お浄土がある 私の行き先がはっきりしてくると、目標が出来、未来が開け
今 自分が出来ることを、南無阿弥陀仏を口に、精一杯務めさせて
いただければ それでいいのです。

明日は、間違いなく 喜び多い お浄土 活躍できる世界、生きがいある世界、
そこにいけると思えてくると いまどんなに厳しい状態にあろうとも
今から心弾む生活が受け取れるのです。







第1494回 「おぶっぱん」 子どもへのメッセージ

令和3年 9月16日~

子どもさんへのこんな法話が、ご本山のホームページにありました。
 (橘 行信師)

 おばあちゃんの家に泊まった。朝起きると、
キッチンでおばあちゃんがご飯をよそっている。
お茶わんじゃない、金色の、へんな形のうつわに。


「それなに?」
「おぶっぱんだよ」
「おぶっぱん? 」
「おぶっぱんは仏さまにお供えするご飯だよ」
おばあちゃんは、そのおぶっぱんを持っておぶつだんの前に行った。
手を伸ばして仏さまの前におぶっぱんをそっと置いた。


「仏さま用のご飯?仏さまってご飯食べるの? 」
「仏さまはご飯食べんよ」
「じゃあなんでお供えするの? 」
「お供えは感謝とお礼なんよ。
 仏さまはな、私らのいのちがどうできとるか
 教えてくれるんや。ご飯は当たり前にあるんやない。
 料理する人。食べ物買う人。それを売る人。
 買うお金をかせぐ人。食べ物を作る人。
 食べ物そのもののいのち。それを私らは食べとる。
 それだけ多くのいのちが私らのいのちを支えてくれとる。
 何も知らずに寝とる間も多くのいのちがずっと途切れず
 手間をかけ支度をしてくれとる。
 そうやってできとるのが私のいのち。つなっがとるんよ、全部」


「そっか」
「だからな、自分が勝手していいいのちなんてもんはないんよ。
 支えられて心配されて育てられとるいのちしかないんよ。
 仏さまのおぶっぱんはそれを教えてくれる。
 教えてもらったお礼せな」

 
 おばあちゃんはそう言って、おぶつだんに手を合わせた。
僕も一緒に手を合わせた。

食卓に座ると、あっという間にあったかいご飯とおかずが
たくさん用意された。僕が寝ている間におばあちゃんが
準備してくれていた。おかあさんも毎日そうなんだね。

仏さま、教えてくれてありがとう。

多くのいのちとみなさまのおかげにより
このごちそうをめぐまれました。

深くご恩を喜び ありがたくいただきます。 ・・・・・

 こどもへのメッセージ 「おぶっぱん」でした。







第1493回 お寺は どんなところ ~仏教はどんな存在~

 令和 3年 9月 9日~

お寺は、あなたにとってどんな場所ですか。
仏教は、あなたにとってどんな存在ですか。
なにかお願いごとがあるときに行くところ?
身近な人のお葬式や法事のときだけ意識するもの?

現代において、お寺や仏教は「何かがあったときだけ」の
接点しか持たない人が多いかもしれません。

けれども、特別なときだけではなく、何気ない日常において
お寺が、仏教が、あなたにとってもっと身近な存在であれたらと、
私たちは願っています。


思えば浄土真宗本願寺派のお寺は、いつも人々とともにありました。
その土地に暮らす人々が力を合わせて建て、
地域コミュニティの中心的役割を担ってきた寺院が多いということ。
他の宗派の本堂に比べて、一般の人たちがお参りする場である
「外陣」が広くとってあることからも
浄土真宗本願寺派のお寺は、
「みんなのお寺」であることがわかります。


宗教や仏教に興味があってもなくても、
悩みごとがあってもなくても、
日常のふとした瞬間に、仏教の考え方を取り入れて
もっと気持ちよく生きられるようになったり、
お寺に訪れて、自分自身や人生を見つめ直す時間を持ったり、
自分が興味を持てる地域活動やボランティア、
イベントに参加したり。


そんなきっかけをみなさんにお届けし、
浄土真宗本願寺派がもっともっと「みんなのお寺」、
「みんなの仏教」になるために
 このサイトは生まれました。

この出会いが、お寺のこと、仏教のこと、
浄土真宗本願寺派のこと、そしてあなた自身のことを
発見するよいご縁となりますように。

  本願寺派 ホームページ 初めての浄土真宗より








第1492回 本当の姿を映す鏡 ~お家のお仏壇~

令和 3年 9月 2日~

 お仏壇は、「仏さまが安置されている壇のことです。
仏さまが置かれている箱状の入れ物で、大切な仏さまが
置かれているので
一段高くなっています。

 浄土真宗では、阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)という仏さまが
安置されています。それは、阿弥陀さまを本当に尊いもの
(
本尊)として仰いでいるからです。


 お仏壇(阿弥陀さま)の前で手を合わせるのは、
阿弥陀さまのお心(願い)に出遇あわせていただくためです。

すべての人を必ず救うという阿弥陀さまの願いは、
「いい・悪い」「好き・嫌い」を超えて、すべての人が
光り輝く世界を教えてくれます。

 さらには、「幸せ・不幸」「成功・失敗」を超えて、
すべての人生が光り輝く(尊い意味がある)という世界を
開いてくれます。
そんな大きな世界が私たちを支え、正しい方向に
導いてくださるのです。
また、それは、自己中心の小さな世界に生きている
自分の姿が、明らかになることでもあります。

 お仏壇は、自分の本当の姿を映す鏡だとも言えます。
お仏壇の前に座り、手を合わせた時、自分にとって
「いい人・悪い人」と分け隔てをして、周りの人を
傷つけている自分が見えてきます。

また、自分の思い通りになると幸せ、思い通りに
ならないと不幸といい、思い通りにならない人生に
尊い意味を見出すことができないでいる自分が
見えてきます。

 そんな私たちだからこそ、阿弥陀さまを
本当に尊いものとして仰いで生きていくことが
大切なのです。
毎日鏡を見るように、毎日お仏壇の前で
手を合わせましょう。
(お仏壇のないご家庭は、ぜひ仏壇を!)

 本願寺派 ホームページ 深く知る、仏事・行事 参照






第1491回 名前を呼ぶ ~期待し待たれている私~

 令和 3年 8月 26日~

 プロ野球の審判の方が、親の後を継いで、お坊さんになった方が、
「大谷翔平、それに松井秀喜 この二人には共通点がある」
と語っていました。
これは審判でなければ 分からないことだと。

その方は 佐々木さんという方ですが、この二人は第一打席
バッターボックスに立った時、昼間だったら、「佐々木さん、
こんにちは」ナイターだったら
「佐々木さん こんばんは」と、
審判の名前を呼びアイサツするそうです。

審判も人間ですから、名前を呼ばれることで影響がでるのでは
ないでしょうか。


二人とも、きっとアメリカでも審判の名を呼んでいるんじゃ
ないですか。と言っていました。

自分の名前を呼ばれると、中立であるべき審判も こころ動く
のでしょうね。

名前を呼ぶことで御利益があるのではないか。

 ところで、私どもの 南無阿弥陀仏も 阿弥陀さまの名前を呼ぶ 
お念仏の宗教です。
「阿弥陀さまこんにちは、阿弥陀さまこんばんは、阿弥陀さま
頑張っていますよ」
いろいろの南無阿弥陀仏がありましょうが、
この阿弥陀さまは 名前を呼んだから それでは、特別扱い
してやる、守ってやる、という仏さまではないようです。


 すべての人を必ず救いたいと、はたらき続ける仏さま、
私が名前を呼ぶ前から
阿弥陀さまの方が 先に 働きかけて
おられる。

私が 南無阿弥陀仏と、お念仏しようがしまいが。
阿弥陀さんはいつも
私のことを守り続けていらっしゃるのです。

それではなんで? 名前を呼ぶのか?
それは 阿弥陀さまのはたらきに 気づくか 気づかないか
その違いではないでしょうか。
私たちはいつも 自分中心の ものの見方、考え方をしています。
自分に都合のいいことばかりを 期待し、待っています。
そして思い通りになれば喜び。 思い通りにならなければ
悔しがったり、
悲しんだりしています。

なもあみだぶつ とお念仏するとき。 私の立場だけでなく。
客観的に自分を見る 阿弥陀様の目 見方。 視線を 意識する
ことができれば。
私の思い通りにならないことも納得がいく。
そういうことではないでしょうか。


それは、阿弥陀さまは  私だけでなく、すべての者を平等に
救おうと働きかけていらっしゃいます。
私は 私だけを 特別扱いしてほしいと願っています。

しかし、それはとても無理な話。みんな平等なのです。

ですから、与えられた結果を 素直に受け取り。
それに精一杯立ち向かっていく。

すべての出来事は 私が仏になるために 必要な出来事ばかり。
あれは嫌、これは嫌。ああして欲しい、こうして欲しい と。
わがまま言っても それは無理な話。
仏になるための一番いい方向に いま進んでいるんです。

 なんまんだぶつと お念仏を知り、口にする人は そうした
摂理を
味わい感じとる。
そうすることで 何がおころうと 堂々と 毎日をおくることが
できるのです。

全てが 順調。 最高、最上の お浄土の方向へ向かっているのです。
そう味わうことができることが、 南無阿弥陀仏の方への
お念仏の働きです。


 みんな平等に年を取り。 みんな平等に病気をし。 みんな
平等に命終わる。

しかし 死んだら終わりではなく、 私には まだまだ
期待されている。
待たれている。 仏となって。 働くという
未来が あるのです。


 考えてみてください。 若い頃は 未来がありました。
夢がありました。
しかし今、 年を取ってしまうと 未来がありますか?
夢がありますか?
待たれていますか? 期待されていますか。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 期待され 待たれ 夢があり
喜びがある。

そう味わうことができる 喜びの 言葉です。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は そのことを味わい。
夢を持って 堂々と生きていける。 そうした 働きが あるのです。
良かったですね。 期待されているのです。 またれているのです。
まだまだ。 これからが 生きがいが 喜びが たくさんあるのです。
なんまんだぶ なんまんだっと お念仏をすると それが味わえてくる。


どうでしょうか? 明日が楽しいと。 今日から楽しい。 明日が
嫌なことがあると。 今日から つらい。
死んだら終わりと思うと。 行き止まり。

ところがお浄土 があり 私は期待され待たれている。
明るい未来がある。

そう味わえると。 今日から楽しい毎日となると思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 私を 励まし。 未来を与える。 言葉です。
どうか お聴聞、 仏様のお話を聞いて 私の未来を 確かめてください。
知れば知るほど。 明るい未来が 私を待っているのです。
それがお念仏の教えだろうと思います。








第1490回 たった2泊3日だけ? ~仏さまは 24時間 365日~

 令和 3年 8月 19日~

 テレビや新聞でいう夏の行事、お盆が終わりました。
迎え火や迎え提灯を頼りに ご先祖が、キュウリや ナスの乗りもので
13日にお帰りになり、三度 三度 違った料理を差し上げ 
精霊流しでお供えを送る、これが、お盆行事とされています。

 ではなぜ 13日なのか、13日は 何かの釜が開く日、
では、ご先祖は
どこから帰ってこられるのか。

親鸞聖人のことばをお弟子が記録した 歎異抄の第二条に

 とても地獄は一定すみかぞかし・・・・・・・
 [ 現代語訳 ] では、どのような行も 満足に修めることのできない 
      わたしには、
どうしても 地獄以外に住み家はない・・・・と。

 因果の道理を説く仏教では 自分で作った原因は自分で 
受け取らねばならない。

死んでも責任を問われる。そこで、数多い罪を消すだけの
厳しい修行が出来ないと
救われないという考え方です。

 親鸞聖人は、法然聖人のご指導で 阿弥陀さまの本願 
「南無阿弥陀仏」で 
お浄土へ生まれ 仏に成れる法が
説かれていることを知り、
自力修行の比叡山を下りて、
他力の念仏の教えに入られたのです。

古い仏教を離れ、新しい仏教、お念仏の教えに帰依されたのです。

 親鸞聖人のご和讚に
  安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては
   釈迦牟尼仏のごとくにて  利益衆生はきはもなし

 お念仏に遇い やがてお浄土に生まれた人は 
この濁った世に還ってきて
お釈迦さまのように、お念仏の教えを
説き広めるはたらきをすると。 

そこで、お盆行事が 有り難いのは
1、死んだら終わりでなく、行き先がちゃんとある。
  修行が出来ない人は 地獄や餓鬼へ お念仏の人は、お浄土へ。
2、お念仏に出会えず亡くなった人は、  23日だけしか帰って来れない。 
3、お盆に帰ってくる方々は  接待を受けるために(自利)
  お浄土の人は 大切な子供や 孫のために いつも
  はたらきかけている(利他)。


「 どうか、仏さまの話を聞いてほしい、お念仏に遇い
お浄土に生まれてくれ 」と 呼びかけておられるのです。


ご先祖の願いどおり、仏さまの話を繰り返し聞くと

・仏さまは 私のことを一番心配し 
・必ず救う お浄土へ生まれさせる

・お浄土で 仏の力をすべて身につけさせ 
・この世に還り人々の為 活躍させる

・期待され待たれている お浄土がある
・未来が明るいと 今から明るい

  明日 楽しいことがあると 今日から楽しい。
  明日 いやなことがあると、 今日からつらい。

「南無阿弥陀仏」を聞く生活がはじまると 私の為に 
多くの働きかけがあり
 多くの力に支えられている 
そうした 味わい方が出来るようになると 

有り難い人生であると 気づかされ 喜び多い 豊かな毎日 
明るい未来を味わうことが出来るのです。

そこで、浄土真宗では お盆のことを 歓喜会として、
お勤めしてきたのです。








第1489回
 阿弥陀さまとの出会いを伝える  ~浄土真宗とは (6)

令和 3年 8月 12日~

50歳を過ぎた親鸞聖人は、自分自身が"出会う"ことのできた
阿弥陀さまの教えを、書物に著しはじめられました。
その書物を『教行信証きょうぎょうしんしょう』といいます。
60歳を過ぎて京都に戻られた親鸞聖人は、その後も『教行信証』の
執筆を続けるとともに、その他多くの著述を著されました。
それは当時の人々だけではなく、後の世の人々に、阿弥陀さまの
"
温かなこころ"を伝えるためでした。そのおかげで今、私たちは
親鸞聖人の示された教えを通して、阿弥陀さまの"温かなこころ"
出会うことができているのです。


 お釈迦様の教え

仏さまとの"出会い"、それは人生の宝物。
あなたには、宝物がありますか?

大切な人からの贈り物、 楽しかったあの日の思い出、
思いがけずかけられた心温まるひと言......
形のあるなしを問わず、一生大切にしたいと思い、
生きていくうえでの支えとなるのが、人生の宝物でしょう。

仏教は、お釈迦さまが「この世界の真理」を見抜かれたところを
出発点としています。

お釈迦さまは、その智と慈しみの心をもって一人ひとりの
悩みや苦しみに応じた教えを説かれました。


お釈迦さまが真理に目覚め、仏さまになられてから残してくださった
"仏さまのことば"の数々は、お経という形で 今も時空を超えた
真実によって私たちを教え導き、
人生を心豊かに生きていく
道筋を与えてくれています。


仏さまとなられたお釈迦さまとの"出会い"もまた、
私たちにとって、かけがえのない人生の宝物となるのです。








第1488回 「阿弥陀さま」との出会い   ~浄土真宗とは (5)~

令和 3年 8月 5日~

 法然聖人のもとで学んだ親鸞聖人は、修行もできない
愚かで弱い自分を、「かけがえのない尊いいのち」と
大切にみてくださる阿弥陀さまという仏さまと"出会い"ました。


阿弥陀さまに"出会う"ということは、その"温かなこころ"
"
出会う"ということ。温かなこころに出会うと、生きていることの
"
意味"が変わります。


これまで生きてきた意味、これから生きていく意味、そして、
今、生きている意味......
それは「生かされて生きている、かけがえのない尊いいのち」
という意味に変わるのです。
この仏さまの"温かなこころ"のことを「慈悲」といいます。


 妻「恵信尼」との出会い

親鸞聖人は、法然聖人のもとで恵信尼さまという女性と"出会い"
結婚しました。すべてのものを棄てる「出家」という生き方を
すべき僧侶が、妻をめとり家族を持つということは、当時の
常識を覆す行いでした。しかし親鸞聖人にとっての結婚は、
単に個人的な愛という感情にもとづく行為ではありません。
夫婦・家族とともにあることによって、一層、阿弥陀さまの
"温かなこころ"をいただいて生きることができる。
そんな思いにもとづいた結婚でした。阿弥陀さまの
"
温かなこころ"に包まれてお互いが相手を尊敬し慈しむ、
そんな夫婦でした。


再び「逆境」との出会い

親鸞聖人が35歳のころ、誤解や嫉みなど、さまざまなことが
絡みあい、法然聖人の教えに対する弾圧が起こりました。
これにより法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後に流罪となったのです。
しかし、阿弥陀さまの"温かなこころ""出会った"親鸞聖人は、
これを単なる「逆境」ではなく、この出来事もまた、大きなご縁と
受けとめておられました。


これまでは法然聖人のもとで学ぶ中で阿弥陀さまの"温かなこころ"
喜ぶ毎日でしたが、これを機に「浄土の教えを仰ぐ人は、わが身の
愚かさに気づいて往生するのである」という法然聖人の言葉を受けて、
親鸞聖人は自分のことを「愚かもの・親鸞」と名のり、京都から
遠く離れた越後や関東に住む人々に、恩師法然聖人から受け継いだ
阿弥陀さまの教えを伝えていくという、新たな意義を見出して
いかれたのです。


                     (6)に つづく






第1487回 親鸞聖人を知ろう  ~浄土真宗とは (4)~

令和 3年 7月29日~

 親鸞聖人が、この世界は 生きとし生けるものすべてを救われる
阿弥陀さまという大きな存在に 包まれていることを知るまでには
さまざまな"出会い"がありました。

「逆境」との出会い

 親鸞聖人がお生まれになったのは平安時代の終わりごろ。
貴族社会から武家社会へ移り変わる中で、大きな戦さが
たびたび起こり、災害や飢饉などがくり返し発生した、

先の見えない混乱の時代でした。

そのような中、親鸞聖人は、「逆境」の幼少期を過ごされました。
幼いころに母上を亡くされ、父上とも別れて暮らすことになり、
わずか9歳のとき、出家しなければ生きていけない境遇と
なられたのです。

「深い悩み」との出会い

その後20年間、親鸞聖人は、比叡山で懸命に修行をして
「さとり」を求めました。けれど、見えてきたのは自分自身の
煩悩ばかり。修行に励めば励むほど、さとりに近づくどころか
遠ざかっていく自分の姿がありありと見えてきて、
深い悩みの中で青年期を過ごされました。

そして、比叡山での修行ではさとりに至ることができないと
思い至った親鸞聖人は、29歳のとき、比叡山を去る
決心をされたのです。

「法然聖人」との出会い

その当時、京都の吉水というところで、法然聖人という方が
「念仏一つでどんな人も救われる」という教えを説いて
おられました。
比叡山を降りた親鸞聖人は、六角堂で得た聖徳太子の言葉に
導かれ、法然聖人のもとへ向かいます。
これが、生涯の恩師との"出会い"でした。
法然聖人との"出会い"は、親鸞聖人の人生を大きく変えました。

                  (5)に つづく








第1486回 声の仏さま 「南無阿弥陀仏」 ~浄土真宗とは (3)~

令和 3年 7月22日~

「南無阿弥陀仏」をご存じですか。
もしかしたら、仏さまに願いごとを伝えるときの言葉だと
思っている人もいるかもしれません。
「阿弥陀さま、どうか私を助けてください」
南無阿弥陀仏、どうか私の願いを叶えてください」というように。
でも「南無阿弥陀仏」は、願掛けのセリフではありません。

阿弥陀さまが私たちに向かって「私にまかせなさい、
あなたを必ずすくうから安心して生きて」とよびかけている、
"よび声"なのです。
そして、そのことに気づいた私たちが手を合わせて
「南無阿弥陀仏」をお念仏としてとなえることは、
「阿弥陀さまにおまかせします。
阿弥陀さまにおまかせして人生を歩みます」という、
感謝の意味となります。

  豊かでしあわせな人生へ

 私たちの人生には、確かに苦しいことがたくさんあります。
自分自身のふがいなさに情けなくなることもあります。
でも、私たちの生きる世界を超えた大きなはたらきが
私たち一人ひとりを見まもってくれていることに気づけたら、
たとえ世界中の人から背を向けられようとも、
生きていく大きな力となります。

それが "阿弥陀さまとともに人生を歩む"という生き方です。
阿弥陀さまに見まもられながら生きていくことで、
心がやわらぎ、豊かな人生を送ることができることでしょう。

でも、ひとりではなかなかそこまでたどり着けないかもしれません。
「限りある人生を豊かに、しあわせに生きる道」。
そのことを聞くことができるのが、浄土真宗のお寺です。

そう。あなたが生きていくうえで本当に必要な「出会い」は、
もしかしたらお寺にあるかもしれません。
何かのきっかけがあっても、なくてもかまいません。
お寺に出掛けてみませんか。
人生を、そして毎日を豊かに、しあわせに生きるヒントが
得られるかもしれません

                 (4)に つづく









第1485回 ありのままの自分との出会い ~浄土真宗とは (2)~

令和 3年 7月15日~

 親鸞さまは、在家出家や老若男女を問わず、さまざまな人と
出会いながら仏道を歩んでいかれました。
そうするうちに、物欲や誘惑といった"煩悩(ぼんのう)"
右往左往する人間の姿を目の当たりにします。

 欲望のためには人をも傷つけてしまう鬼のような
恐ろしい心を持っているのが人間であり、
親鸞さま自身のことだと気づかれます。

 それは、今を生きる私たちに置きかえても
何ら変わりありません。
「ブランドのバッグがほしい」、「新しいスマホがほしい」、
「もっとフォロワーが増えてほしい」......
このような願いは、自己中心的な心から日常的に
多くの人の心に湧き起こっています。
目先のことに一喜一憂して「迷いの世界」で
欲望にふりまわされ、苦しむ姿そのものです。

このような私たち一人ひとりをすくおうと
されているのが阿弥陀さまなのだということに、
親鸞さまは気づかれました。


「あなたのままで大丈夫」。阿弥陀さまとの出会い

 鎌倉時代であっても今の時代であっても、
生きづらさを感じ、孤独に苦しむ人に向かって
「あなたのままで大丈夫」と、居場所となって
本当の安心を届けて支えてくださるのが阿弥陀さまです。

 人は社会の中で、大勢の人と関わりあいながら生きています。
ときには「誰ひとり、私のことを気にかけてくれない、
わかってくれない」と思うこともあるでしょう。
「何もかもうまくいかない」と落ち込むこともあるでしょう。

人との付き合いが苦手でも、心ない人から「負け組」
なんて言われようとも、阿弥陀さまは私たちのことを
一人ひとり大切に見まもってくださっています。
「いつも私がそばにいるよ」と、ありのままの
あなたを認めてくださるのが阿弥陀さまなのです。

                   (3)に つづく







第1484回 浄土真宗は 出会いの仏教 ~浄土真宗とは (1)~


 令和3年 7月8日~

本願寺派のホームページに 「浄土真宗とは」と
つぎのような文章がありました。

浄土真宗は 出会いの仏教

人生は出会いの連続です。
誰かとの出会いによって世界が広がったり
何かとの出会いによって新しい自分に気がついたり
苦しみとの出会いによって深く傷ついたり......
出会いによる、よろこび、悲しみを繰り返しながら
私たちは今日も生きています。

浄土真宗は、そんな出会いを大切にする仏教です。
特に大切にしているのは、阿弥陀さまという仏さまとの出会いです。

阿弥陀さまは私たち一人ひとりを
「かけがえのない尊いいのち」とみてくださっています。
どんなことがあっても寄り添ってくださる仏さまです。

阿弥陀さまとの出会い。
それは、阿弥陀さまに見まもられている
尊い自分自身に出会うことでもあるのです。

阿弥陀さまと
出会えるという、希望。
出会えたという、よろこび。
今、この時代を生きる私たちもきっと、感じることができるはずです。


 居場所に出会った親鸞聖人 あなたに居場所はありますか。

普段なかなか気づかないことですが、私たちは、家庭や学校、
あるいは社会の中で自分を受け入れてくれる「居場所」が
あるから、頑張ることができていると言えます。

 でも、頑張りたくても頑張れないときもありますよね。
元気そうに見える人でも、もしかしたら孤独や寂しさに
さいなまれて「居場所」を失っているかもしれません。
そんな思いを抱いてしまったとき、どのように生きていけば
よいのでしょうか。


 親鸞聖人(=親鸞さま)も、自分の居場所に出会うために
大変な努力をされた一人です。そして、その道のりの末に
「阿弥陀さま」という仏さまに出会われました。

阿弥陀さまは、出家して修行に励んだり、厳しい規律を
守る生活を送ったりすることができない人であっても、
どんなに辛いことを抱えている人であっても、いのち
あるものすべてをそのままに受け入れ、すくいに導いて
くださることを誓われた仏さまです。

そんな阿弥陀さまに出会われ、阿弥陀さまとともに
親鸞さまは仏道を歩まれました。
そして、阿弥陀さまの教えを私たちにわかりやすく
伝えるために、浄土真宗という仏教を開かれました。
今から約850年前、鎌倉時代のことです。


                       (2)に つづく







第1483回 背番号 17番  ~すべての人に ほめ讃えられる~

 令和3年 7月 1日~

 プロ野球のエースピッチャーの背番号は 
18番が多いように思います。

歌舞伎も十八番 「おはこ」といいますし、
カラオケなど得意なものを
「私の18番」と
言うこともあります。


浄土真宗では、大無量寿経にある48願の中の 
18願、念仏往生の願を、本願の中の本願

もっとも重要な願として、王本願などといいます。

 ところで、今大リーグで活躍中の大谷翔平君は 
背番号17です。

お経の18願の前にある第17願、これもとても
重要な願で、
諸仏称名、諸仏称揚、諸仏咨嗟の
願といわれます。


 現代語訳では、
「(十七願) わたしが仏になるとき、すべての
  世界の数限りない仏がたが、
みなわたしの名を
ほめたたえないようなら、わたしは決してさとり

を開きません。」という願です。

 すべての人を一人残らず救うという、とてつもない
大きな力を得て、
ありとあらゆる仏さま方に、
その名をほめ讃えられるようになりたいとの願を建て

絶大な努力をし、阿弥陀仏になられたと、無量寿経
にはあります。

 ちょうど、すべての選手が、すべての観客が、
評論家が
 ひとり残らず、その名をほめ讃えるように
なりたいと、努力して、
今、完成して活躍していると、
大谷翔平選手を見ているとそんな感じがします。


 普通のピッチャーは登板を終わると、休養にはいり、
連続しては
出場しません。しかし、背番号17番は、
毎日打者として出場し
大活躍しているのです。

 一昔前までは、仕事をすること、働くことは、
ハタを楽にする
自分が仕事をすることで、
周りの人が楽になるように、頑張る。

はたをらくにすると、意識されていたようです。

 しかし、現代人は 仕事は苦痛であり、だから
その対価として
給料を、手当をもらうという、
働くことは、苦しみとの感覚があります。


 しかし、背番号17の若者は、毎日出場して
楽しく活躍し、
自分が頑張ることで、周りが喜ぶ、
チームが勝利する、その姿に、
すべての人から
称讃されている。まさに17願の諸仏称名のイメージです。


私が働くことで、周りをみんな救える、まさに
17願そのものです。

これから、エースナンバーには、18番に加えて、
17番も多くなってくるのでは
ないでしょうか。









第1482回 感じ、味わう力を

令和 3年 6月24日~

こんな 内容を地方新聞の投書欄に投稿しました。

 コロナワクチン一回目を接種することができました。
佐賀県は 全国でも非常に高い接種率とのこと、
コロナへの恐怖感は、
想像以上に早く払拭される
可能性が出てきました。


 この一年余り三密をさけて、人との交流は、
極力避けてきました。

それに加えて、子どもに迷惑をかけたくないと、
親戚や、近所付き合い、
葬儀、法事など、厄介なことは、
大人たちだけで、済ませてきました。


 しかし、子どもには、迷惑をかけなければ
生きていけない、多くの人に
支えられいることを、
充分に体験させ教えておくことが、核家族が多い今、

大事であると感じます。

社会に出て、近くの仲間やお客さんの思いに気づき、
それに応える力を充分に
身につけるためにも、
子どもの頃に、大人たちの振る舞い、努力する姿を、

はっきりと見せておくことが重要だと思います。

 周りを見ていると、自己中心で、孤独な人生を
送る人と、多くのはたらきを
有り難く感じ、
味わうことのできる豊かな人生の人とがあるのを
見るにつけ、
厄介なこと面倒なことでも、進んで
取り組むことの重要さを、伝えておくことが、

子どものためであり、コロナ後に、まず実践すべき
ことだと感じます。


 以上のような内容です。

 近頃 葬儀も法事も 小さくひっそりと内々で
行うことが、良いことと
思われているように感じます。
しかし、近くに住む人 肉親 親戚 できるだけ 
一堂に集まり、
子どもや孫たちに、亡くなった人との
思い出を、語り聞かすことが
大事だと再確認したいものです。

結婚式とか 葬式とか こんな時でないとなかなか
集まらない時代
コロナの不安が無くなったら、
ご縁を大事に、若者を伴って集まっておきたいものです。










第1481回 お寺の近くに 
     
  ~親の想いを受け継いだ 土井マサヱさんの思い出 ~

 令和3年 6月17日~

 音楽の先生と結婚され、台湾にお住まいでしたが、
終戦を迎え
お子さんを連れ引き上げてこられたとのこと。

里の父親は、大事な一人息子を戦争で亡くし悲嘆し、
せめて娘達は、近くに
住まわせたいと、お寺のすぐ横の
田んぼを埋め立て、三人の娘たちに
住まわせました。

 土井さんは長女で、次女は禅宗の家に、三女は
近くのお寺のご門徒でした。

長女の土井さんは、禅宗の妹さんを伴って、
仏教婦人会に入り、法座には揃って必ず着く仲良し姉妹でした。


巡番報恩講の時など、お寺の台所だけではなく
数メートルしか離れていない
土井さんの台所も使って、
御斎づくりもをし、法中部屋などを広く使うために、
不要な机やイスなども、運び込ませていただいいました。


 住職継職法要が近づいてきたとき、記念の品をと、
冬と夏の
五条袈裟をあつらえていただきました。
前住職と相談の上だったのでしょうが、
そこには、
継職記念と年月日が刺繍されておりました。


父親が自分たちを、お寺にすぐ横に住まわせてくれたお陰で、
お念仏のご縁いただいた、その喜びを一人でも多くの人に
伝えてほしいとの願いだったのでしょう。
後で、お子さんに伺うと、早朝起き出して、ビル清掃の
アルバイトをして
五条袈裟の費用を工面していただいたと
聞きました。


 本山と同じ時間にご晨朝をはじめたとき、毎朝お参りいただく
メンバーでもありました。
亡くなられる直前、報恩講をお勤めしたいとの連絡があり、
お寺のすぐ横のご自宅で、頂戴した五条袈裟を付け、三人姉そろって
お勤めし、お念仏のお話を聞いていただきました。

「どうか 後たのみます、よろしくお願いしますと」何度も、
何度も
おっしゃっていましたのが、それが最後となりました。

 お子さんは、壮年会に入り、いろいろの行事には、
必ず手伝っていただき、
間違いなく、お念仏を受け継いで
おられます。

毎月一回開くお寺の「男の料理教室」のメンバーでもあります。
親の姿を見て子は育つもの、そして伝わっていくものだと、
つくづく感じています。





                         妙念寺       

 

電話法話一覧表へ (平成9年)~
                        

     

掲載者 妙念寺住職  藤本 誠


電話法話一覧表

  ( 平成 15年分 )  
第519回 慈しむ  1月 1日~
第520回 世界で ただ一つの  1月 9日~
第521回 マイナスもお蔭さま  1月16日~
第522回 ひずみを直す  1月23日~
第523回 世界に一つだけの花  1月30日~
第524回 何を聞くのか  2月 6日~
第525回 人間存在の意義  2月13日~
第526回 お浄土への道  2月20日~
第527回 地獄は誰のため  2月27日~
第528回 こころつながる  3月 6日~
第529回 お寺に参らぬと  3月13日~
第530回 仏法に卒業はない  3月20日~
第531回 親の願いが  3月27日~
第532回 法を聞かぬと  4月 3日~
第533回 たまたま  4月10日~
第534回 生はおどろき  4月17日~
第535回 生老病死に驚きを  4月24日~
第536回 人間はなぜ  5月 1日~
第537回 受け身では  5月 8日~
第538回 色眼鏡なしで  5月15日~
第539回 気づかなくても  5月22日~
第540回 自然と  5月29日~
第541回 私が主役の  6月 5日~
第542回 生きていますか  6月12日~
第543回 長い長い間  6月19日~
第544回 おかげさまで  6月26日~
第545回 ご先祖の願い  7月 3日~
第546回 念仏喜ぶその人は  7月10日~
第547回 縁にふれれば  7月17日~
第548回 汗をかき  7月24日~
第549回 南無阿弥陀仏をとなふれば  7月31日~
第550回 お寺に行こう  8月 7日~
第551回 お墓の清掃  8月14日~
第552回 家族そろって  8月21日~
第553回 はい 喜んで  8月28日~
第554回 おおいなるもののちからに  9月 4日~
第555回 遇えてよかった  9月11日~
第556回 一冊の本なら  9月18日~
第557回 はっとするような言葉  9月25日~
第558回 はかりなき寿と光の 10月 2日~
第559回 道具ではない 10月 9日~
第560回 本願力に遇いて 10月16日~
第561回 ハスの花が咲く 10月23日~
第562回 自力の壁 10月30日~
第563回 お蔭さまの毎日 11月 6日~
第564回 今は末法なので 11月13日~
第565回 味わえる人生 11月20日~
第566回 阿弥陀さまのおはたらき 11月27日~
第567回 焼いてしまうより 12月 4日~
第568回 自己顕示 12月11日~
第569回 十の惠み 十の念仏 12月18日~
第570回 あなたのいのちを 12月25日~
  ( 平成16年 )        
第571回 光る 光る   1月 1日~
第572回 目的のある人生  1月 8日~
第573回 阿弥陀如来は とにもかくにも  1月15日~
第574回 如来と等しい  1月22日~
第575回 また来ます  1月29日~
第576回 心を耕す  2月 5日~
第577回 唯聴弥陀本願海  2月12日~
第578回 私は代表選手  2月19日~
第579回 救いと生き方  2月26日~
第580回 人と人 人と仏  3月 4日~
第581回 鶏さん・ありがとう  3月11日~
第582回 阿弥陀さまがいっしょ  3月18日~
第583回 あいみての のちのこころに  3月25日~
第584回 念仏もうすということ  4月 1日~
第585回 重荷背負うて  4月 8日~
第586回 目覚めの宗教  4月15日~
第587回 平等 西洋と東洋  4月22日~
第588回 仏教というものは  4月29日~
第589回 内か外か  5月 6日~
第590回 宗教とは  5月13日~
第591回 いのちは誰のものか  5月20日~
第592回 誕生日祝い  5月27日~
第593回 この度の このご縁は  6月 3日~
第594回 いのちの言葉  6月10日~
第595回 如来の本願に遇う  6月17日~
第596回 親さま  6月24日~
第597回 お父さんは今  7月 1日~
第598回 南無阿弥陀仏とは  7月 8日~
第599回 お願いします  7月15日~
第600回 ほどく  7月22日~
第601回 八功徳水  7月29日~
第602回 信心まことに得る人は  8月 5日~
第603回 ただ念仏のみぞまこと  8月12日~
第604回 やるべき時に 淡々と  8月19日~
第605回 巡番報恩講  8月26日~
第606回 人は食うために  9月 2日~
第607回 献灯献華献香  9月 9日~
第608回 真宗のおとき  9月16日~
第609回 お ろ そ か  9月23日~
第610回 た の む  9月30日~
第611回 聞法の大切さ 10月 7日~
第612回 仏法の繁昌 10月14日~
第613回 如来まします 10月21日~
第614回 おまかせ 10月28日~
第615回 往  生 11月 4日~
第616回 早く 早く 11月11日~
第617回 味わえる人生 11月18日~
第618回 もうひとりの自分 11月25日~
第619回 不可思議な力 12月 2日~
第620回 あいし しあわせ 12月 9日~
第621回 伝わる 12月16日~
第622回 生活必需品 12月23日~
第623回 もったいない 12月30日~
 ( 平成17年 )
第624回 お仏飯の担当  1月 6日~
第625回 言葉添えて  1月13日~
第626回 鎌倉時代の四人の開祖  1月20日~
第627回 問いに答える  1月27日~
第628回 ようこそ ようこそ  2月 3日~
第629回 いつか私は  2月10日~
第630回 念仏に相談  2月17日~
第631回 宗祖750回大遠忌  2月24日~
第632回 まずは相談  3月 3日~
第633回 桜街道の夢  3月 9日~
第634回 仏のはたらき  3月17日~
第635回 体験してみて  3月24日~
第636回 なるようになる  3月31日~
第637回 お念仏と長寿  4月 7日~
第638回 味覚を伝える  4月14日~
第639回 味わい方により  4月21日~
第640回 重誓偈  4月28日~
第641回 神通力  5月 5日~
第642回 生きてる間に  5月12日~
第643回 お念仏申す身になったら  5月19日~
第644回 浄土真宗の救い  5月26日~
第645回 みんな生きている  6月 2日~
第646回 機法一体の  6月 9日~
第647回 残された犬とともに  6月16日~
第648回 100ペンの念仏  6月23日~
第649回 如来の信楽  6月30日~
第650回 レンコンの穴  7月 7日~
第651回 もし生きていたなら  7月14日~
第652回 永代に  7月21日~
第653回 支えられたいのち  7月28日~
第654回 みんな関わりあって  8月 4日~
第655回 大丈夫 離さないよ  8月11日~
第656回 自由に発言  8月18日~
第657回 塩 ロウソク シャボン  8月25日~
第658回 お医者さんも お念仏  9月 1日~
第659回 何がやりたいのか  9月 8日~
第660回 仏教は 人間の遺産  9月15日~
第661回 わが師の恩  9月22f日~
第662回 滅私か 活私か  9月29日~
第663回 最上の理想の国 10月 6日~
第664回 宝の山 10月13日~
第665回 今日という日を 10月20日~
第666回 遇えて よかったね 10月27日~
第667回 大切に 育む 11月 3日~
第668回 選ばれている私 11月10日~
第669回 里の母親 11月17日~
第670回 決まりを守る 11月24日~
第671回 いつも見守っています 12月 1日~
第672回 私を動かす言葉 12月 8日~
第673回 パスワード 12月15日~
第674回 私に沿って 12月22日~
第675回 大きな力 12月29日~
   ( 平成18年 )
第676回 味わえる人生  1月 4日~
第677回 祈らない宗教  1月12日~
第678回 どんな苦しみでも  1月19日~
第679回 世間の人々は  1月26日~
第680回 一つの目印  2月 2日~
第681回 デジタル時代の一つの試み  2月 9日~
第682回 来迎は諸行往生にあり  2月16日~
第683回 真実ということ  2月23日~
第684回 善悪のふたつ  3月 2日~
第685回 永遠のいのち  3月 9日~
第686回 念仏せよの呼びかけ  3月16日~
第687回 目的地は  3月23日~
第688回 肥 料  3月30日~
第689回 蓮の花  4月 6日~
第690回 今 ここに寄り添って  4月13日~
第691回 人間と動物の違い  4月20日~
第692回 善 と 悪  4月27日~
第693回 足元にある  5月 4日~
第694回 降誕会によせて  5月11日~
第695回 願いの言葉  5月18日~
第696回 生涯を疑わない  5月25日~
第697回 ありがたい  6月 1日~
第698回 好きなものだけ  6月 8日~
第699回 痛みは 呼び声  6月15日~
第700回 出る息 入る息  6月22日~
第701回 預かりもの  6月29日~
第702回 気づいてみれば  7月 6日~
第703回 誰が 救われるのか  7月13日~
第704回 誰のために  7月20日~
第705回 仏の仲間  7月27日~
第706回 二つの言葉  8月 3日~
第707回 気づくか 気づかないか  8月10日~
第708回 伝えたい  8月17日~
第709回 行き先変更  8月24日~
第710回 GNP より GNH  8月31日~
第711回 卒業記念の団体参拝  9月 7日~
第712回 積極的に参加したい  9月14日~
第713回 念仏と呪術  9月21日~
第714回 新たな価値観  9月28日~
第715回 ある遺書 10月 5日~
第716回 み仏の影 10月12日~
第717回 同じ 光なのに 10月19日~
第718回 無関心は 無責任 10月26日~
第719回 今を生きる 11月 2日~
第720回 誰かのために 11月 9日~
第721回 光と ともに 11月16日~
第722回 自然法爾ということ 11月23日~
第723回 男の料理教室 11月30日~
第724回 伝統の意味 12月 7日~
第725回 有り難い 尊いご縁  12月14日~
第726回 やはり基礎工事が大事 12月21日~
第727回 遇 う 12月28日~
    ( 平成 19年 )
第728回 賢い主婦は  1月 4日~
第729回 伝統の有難さ  1月11日~
第730回 無我について  1月18日~
第731回 後をたのみます  1月25日~
第732回 闇を破る  2月 1日~
第733回 青色青光  2月 8日~
第734回 功 徳  2月15日~
第735回 あなた この世に  2月22日~
第736回 仏に成る  3月 1日~
第737回 犬に噛みつく  3月 8日~
第738回 ご縁をいただく  3月15日~
第739回 広大なる智慧  3月22日~
第740回 照らされている  3月29日~
第741回 表面だけでなく  4月 5日~
第742回 呼び声 聞こえたら  4月12日~
第743回 更新プログラム  4月19日~
第744回 スペースができました  4月26日~
第745回 見方 考え方 味わい方  5月 3日~
第746回 アンパンマン  5月10日~
第747回 いのちの願い  5月17日~
第748回 わがまま坊や  5月24日~
第749回 応報大悲弘誓恩  5月31日~
第750回 あなたの願いは 何ですか  6月 7日~
第751回 右か 左か 1か0か  6月14日~
第752回 その名を聞くと  6月21日~
第753回 他力ということ  6月28回~
第754回 いただきもの  7月 5日~
第755回 習 慣  7月12日~
第756回 お掃除  7月19日~
第757回 人間に生まれても  7月26日~
第758回 人間と環境  8月 2日~
第759回 ハードとソフト 機と法と  8月 9日~
第760回 浄土真宗の教え  8月16日~
第761回 ベースが大事  8月23日~
第762回 深く生きるためには  8月30日~
第763回 子供が思う以上に  9月 6日~
第764回 癒しと 安心と  9月13日~
第765回 名号は 声である  9月20日~
第766回 私を救ってくださるのは  9月27日~
第767回 私にかわって 10月 4日~
第768回 学仏大悲心 10月11日~
第769回 生きている 今が 10月18日~
第770回 知らされた時 10月25日~
第771回 念仏者へのお手紙 その1 11月 1日~
第772回 念仏者へのお手紙 その2 11月 8日~
第773回 念仏者へのお手紙 その3 11月15日~
第774回 健康第一と言うけれど 11月22日~
第775回 感謝する だけでなく 11月29日~
第776回 明日に向かって 12月 6日~
第777回 ナンマンダブのマーチ 12月13日~
第778回 明日が 12月20日~
第779回 死んだら おしまい ? 12月27日~
      ( 平成 20年 )
第780回 気づくか 気づかないか  1月 3日~
第781回 電子顕微鏡  1月10日~
第782回 敬いの こころ  1月17日~
第783回 福は内 鬼は内  1月24日~
第784回 信心まことにうるひとは  1月31日~
第785回 隠れた能力  2月 7日~
第786回 ふかくたのみまいらせて  2月14日~
第787回 育ち 盛り  2月21日~
第788回 愚者になりて  2月28日~
第789回 引いたら ゼロ  3月 6日~
第790回 注意していたつもりでも  3月13日~
第791回 順調は プラスか  3月20日~
第792回 名号のほかに 何が不足  3月27日~
第793回 唯説→ 唯聴⇒ 唯説  4月 4日~
第794回 悪人正機  4月10日~
第795回 本当に可愛いのなら  4月17日~
第796回 私の歩む道  4月24日~
第797回 迷いの世に還って  5月 1日~
第798回 念仏は称えるが  5月 8日~
第799回 仏と語る人  5月15日~
第800回 無明我執の中で  5月22日~
第801回 情報操作  5月29日~
第802回 いのちの尊さ  6月 5日~
第803回 自他ともに 心豊かに  6月12日~
第804回 この世も  6月19日~
第805回 奥の座敷には  6月26日~
第806回 目的は  7月 3日~
第807回 見る人の能力で  7月10日~
第808回 いま はたらいて  7月17日~
第809回 自然のはからい  7月24日~
第810回 いのちに組み込まれた  7月31日~
第811回 功徳の宝海  8月 7日~
第812回 これでいいのだ  8月14日~
第813回 恥ずかしいこと  8月21日~
第814回 報いは 自分自身で  8月28日~
第815回 仏教もさまざま  9月 4日~
第816回 感じる能力  9月11日~
第817回 ウイルス対策ソフト  9月18日~
第818回 戦争は したくない  9月25日~
第819回 新しい誕生 10月 2日~
第820回 法味愛楽の目 10月 9日~
第821回 信心は 信受 10月16日~
第822回 私 ひとりのために 10月23日~
第823回 ホンマは 私の娘よ 10月30日~
第824回 伝わっていく 11月 6日~
第825回 亡き人の はたらき 11月13日~
第826回 それを幸いに 11月20日~
第827回 小倉山 モミジの葉 11月27日~
第828回 待たれる身 12月 4日~
第829回 最終の目標 12月11日~
第830回 お預かりします 12月18日~
第831回 通過点 12月25日~
      ( 平成21年 )
第832回 無量寿  1月 1日~
第833回 阿弥陀如来の化身  1月 8日~
第834回 お誘いするのは  1月15日~
第835回 如来と共に  1月22日~
第836回 名号を となへんものをば  1月29日~
第837回 お祝のことば  2月 5日~
第838回 二種の回向  2月12日~
第839回 新たな出発には  2月19日~
第840回 如来のはたらき  2月26日~
第841回 自分の心の中に  3月 5日~
第842回 癒しで 止まったら  3月12日~
第843回 八万劫中大苦悩  3月19日~
第844回 聞くべきものを 聞いたか  3月26日~
第845回 共に歩いて  4月 2日~
第846回 こころにも 栄養を  4月 9日~
第847回 目標は  4月16日~
第848回 信ずるは 喜び  4月23日~
第849回 よく見れば  4月30日~
第850回 赤ちゃんを授かって  5月 7日~
第851回 私なりの花が咲く  5月14日~
第852回 自力回向 他力回向  5月21日~
第853回 ブッダの願い  5月28日~
第854回 法然の発見 親鸞の確信  6月 4日~
第855回 二つの宗教  6月11日~
第856回 ギリギリ最後の  6月18日~
第857回 北風と太陽  6月25日~
第858回 みんな輝け  7月 2日~
第859回 お聴聞のご縁に  7月 9日~
第860回 ああ そうか  7月16日~
第861回 リーダーになる  7月23日~
第862回 いつも一緒に  7月30日~
第863回 生まれた意味は  8月 5日~
第864回 目標を持って  8月13日~
第865回 親の願いは  8月20日~
第866回 問題の解決  8月27日~
第867回 一人 ひとり  9月 3日~
第868回 あまえ  9月10日~
第869回 一歩 一歩  9月17日~
第870回 いま はたらいて  9月24日~
第871回 ご本山と同じように 10月 1日~
第872回 ハタと 気づく 10月 8日~
第873回 人間の考えは 10月15日~
第874回 明るくて たしかなくらし 10月22日~
第875回 知恩 感恩 報恩 10月29日~
第876回 頼む 後は頼みます 11月 5日~
第877回 平生業成の世界 11月12日~ 
第878回  第28願 (本 願) 11月19日~
第879回 ローマの休日 11月26日~ 
第880回 二軒屋の譬え  12月 3日~
第881回  私たちのみ教え(浄土真宗) 12月10日~ 
第882回  これも預かりもの  12月17日~
第883回  仏教の基本  12月24日~ 
第884回 朽ちていくもの 萌えるもの 12月31日~ 
     
      ( 平成22年 )  
     
第885回  科学だけでは   1月 7日~
第886回 56億7千万   1月14日~
第887回  多くの いのち と   1月21日~
第888回  仏さまって どんな方   1月29日~
第889回  いつも ニッコリ 笑うこと   2月 4日~
第890回  アア そうか そうなんだ   2月11日~
第891回  不幸の完成   2月18日~
第892回 「昨日の私」 「今日の私」   2月25日~
第893回 なにの分別もなく   3月 4日~
第894回  風船の外側の世界   3月11日~
第895回 決して無駄にはしません   3月18日~
第896回  生老病死の問題   3月25日~
第897回 今 末法の時代には   4月 1日~
第898回  どうぞ お先に  4月 8日~
第899回  ちょうどよい  4月15日~
第900回  安楽浄土に いたるひと   4月22日~
第901回  栄光への脱出   4月29日~
第902回 讃えます  5月 7日~
第903回 可愛い子には  5月13日~
第904回  呼ばれたら   5月20日~
第905回  お浄土のただ中に   5月27日~
第906回  はたらきかけ   6月 3日~
第907回  分別を離れて   6月10日~
第908回  低反発の   6月17日~
第909回 転じられて  6月24日~
第910回  願いにかなった   7月 1日~
第911回  若者に こそ   7月 8日~
第912回 ここは愛敬町  7月15日~
第913回 第二の矢   7月22日~
第914回 あなたは すばらしい   7月29日~
第915回  こころに 唇に  8月 5日~
第916回  縁起するいのち   8月12日~
第917回  見てますよ   8月19日~
第918回  数限りない仏がたが  8月26日~
第919回  遠い国でも  9月 2日~
第920回  見ているもの  9月 9日~
第921回 いそいそと   9月16日~
第922回  骨を砕きても  9月23日~
第923回  親の心を  9月30日~
第924回  子どもと どう向き合えば  10月7日~
第925回 そのうちお世話に  10月14日~
第926回   たった一日のいのち 10月21日~ 
第927回 おかあさん おかあさん  10月28日~
第928回  親指と小指の法則  11月 4日~
第929回  私のために生まれてくれた人 11月11日~
第930回  今がチャンス 11月18日~ 
第931回  目覚めれば弥陀の懐  11月25日~ 
第932回 「今ここ」 の 生き方  12月 2日~
第933回  莫大な遺産  12月 9日~
第934回 見聞が蓄積されても  12月16日~ 
第935回 罪の消滅  12月23日~
第936回 阿弥陀仏の救い  12月30日~ 
     
      ( 平成23年 )  
     
第937回  それまでして   1月 6日~ 
第938回  みちみちて   1月13日~
第939回  母の愛よりも   1月20日~
第940回 生きる意味と方向   1月27日~
第941回  自己満足のためではありません   2月 3日~
第942回  人と宇宙との関係   2月10日~ 
第943回  み教えを あなたと聴く   2月17日~
第944回  いよいよ ご本山の大遠忌法要   2月24日~
第945回 お念仏に生きる喜び  3月 3日~
第946回  命の尊さと喜び   3月10日~
第947回 与えられた いのち   3月17日~
第948回 念仏しなされや   3月24日~
第949回  今大切なもの   3月31日~
第950回 新しい誕生   4月 7日~
第951回 修正プログラム   4月14日~
第952回  いつも人々の中にいて   4月21日~
第953回  迷惑では  ないよ   4月28日~
第954回  ボランテイア   5月 5日~
第955回  アクセス解析   5月12日~
第956回  片思い    5月19日~
第957回  自在の救い   5月26日~
第958回  人生そのものの問い   6月 2日~
第959回  真実の教え  6月 9日~
第960回  限りなき光と寿の仏    6月16日~
第961回  今ここでの救い    6月23日~
第962回 光の浄土   6月30日~ 
第963回  報恩の念仏    7月 7日~
第964回 かならず再び会う    7月14日~
第965回  まずは 南無阿弥陀仏から    7月21日~
第966回 ありがとう、よかった、うれしい    7月28日~
第967回  周りのすべてに    8月 4日~
第968回  VIP待遇    8月11日~
第969回  二泊三日    8月18日~
第970回  人生は 自分のものではない   8月25日~
第971回  無党派層は 無関心層ではない    9月 1日~
第972回  いのち終わっても    9月 8日~
第973回  痛手を受けて  9月15日~ 
第974回  今から練習   9月22日~
第975回  トウガラシ    9月29日~
第976回  自業自得(自因自果)  10月 6日~
第977回  極上の良書 10月13日~
第978回  八方の風に 柳は  10月20日~ 
第979回  本当の慈悲は  10月27日~ 
第980回  ピーコちゃん  11月 3日~
第981回 大いなる恵み 11月10日~ 
第982回 反抗しても 抵抗しても  11月17日~
第983回  南无阿弥陀仏の意義  11月24日~
第984回  前提が違う  12月 1日~
第985回  一水四見  12月 8日~
第986回  二つのグループ  12月15日~
第987回  雑行雑修自力  12月22日~
第988回 何事も 初ごと  12月29日~
     
      ( 平成24年 )   
第989回 泥の中の白蓮華    1月 5日~
第990回 元気が自然に    1月12日~
第991回  野菜づくり   1月19日~
第992回  信心をいただくと  1月26日~ 
第993回   たまたまの出あい  2月 2日~ 
第994回   最高のプレゼント  2月 9日~ 
第995回   生きる基本   2月16日~
第996回  他力本願とは   2月23日~
第997回  さすがあー   3月 1日~ 
第998回  聞く側の問題  3月 8日~ 
第999回  もっと分かる話を  3月15日~ 
第1000回   遠い目標   3月22日~
第1001回  阿弥陀如来=南無阿弥陀仏   3月29日~
第1002回  蓮如上人と 一休和尚   4月 5日~
第1003回  全体を見る    4月12日~
第1004回 三つのよろこび   4月19日~
第1005回   心は 六つに変わる   4月26日~
第1006回 仏さまの拝み方   5月 3日~
第1007回  仏さまのこと  5月10日~
第1008回 生まれてきてくれて ありがとう   5月17日~
第1009回  喜びの言葉を口に   5月24日~
第1010回  呼び続ける親  5月31日~
第1011回  私の一冊  6月 7日~
第1012回 二河白道のたとえ  6月14日~
第1013回  宝もの   6月21日~
第1014回 天与のオモチャ  6月28日~ 
第1015回  桧舞台と味わう  7月 5日~
第1016回 親の片思い  7月12日~
第1017回  素通りしてはいませんか  7月19日~
第1018回  キーワードは 恩  7月26日~ 
第1019回 人生の目的   8月 2日~ 
第1020回  往生の彼方に  8月 9日~ 
第1021回  無くして はじめて   8月16日~ 
第1022回  見えぬものでも  8月23日~
第1023回  迷惑でも  8月30日~
第1024回  声の仏さま  9且 6日~ 
第1025回  ただ念仏  9月13日~
第1026回  百獣の王  9月20日~ 
第1027回  おつとめ  9月27日~ 
第1028回 うらを見せ  10月 4日~ 
第1029回  判断の基準は  10月11日~
第1030回  毎日が 表現の舞台  10月18日~ 
第1031回 生前中は  10月25日~ 
第1032回  なんまんだぶつの子守歌  11月 1日~ 
第1033回 主役は あなた  11月 8日~ 
第1034回 ご縁に 遇えば  11月15日~ 
第1035回  仏教の基本  11月22日~
第1036回 次の世代へ  11月29日~ 
第1037回  ほめ称えずには おれない  12月 6日~
第1038回 追善供養を超えて  12月13日~ 
第1039回  確かな道  12月20日~
第1040回  本願の意味  12月27日~ 
     
      ( 平成 25年 )  
第1041回 み光をうけて   1月 3日~
第1042回  そっとつながる  1月10日~ 
第1043回  学ぶ 喜び  1且17日~ 
第1044回  お念仏の教えは 仏教です   1月24日~ 
第1045回  ナモアミダブツとは、なんですか  1月31日~ 
第1046回  近道すれば 南無の一声  2月 7日~ 
第1047回 親を喜ばせたければ  2月14日~
第1048回 出家と在家をえらばず  2月21日~
第1049回  念仏の行者   2月28日~
第1050回  手を合わせられる   3月 7日~ 
第1051回 今 気づかせていただく    3月14日~
第1052回 いそぎ 仏に成りて   3月21日~
第1053回 過去 現在 未来   3月28日~
第1054回 仏心とは 大慈悲これなり   4月 4日~
第1055回 いただいている名号   4月11日~
第1056回  前に生まれた人は   4月18日~
第1057回 阿弥陀さまの願いの中に   4月25日~
第1058回 往き易くして人なし    5月 2日~
第1059回 花は 菊だけ?   5月 9日~
第1060回 味わい深い人生   5月16日~
第1061回  こころと身体   5月23日~
第1062回  かえると 一茶と あみださま    5月30日~
第1063回  この私には   6月 6日~
第1064回 根本的な治療法   6月13日~
第1065回  なぜ今 「仏教」 なのか   6月20日~
第1066回  今ここでの救い 2   6月27日~
第1067回 幸せの見える人   7月 4日~
第1068回  独り生まれ 独り死し   7月11日~
第1069回 信心と利益   7月18日~
第1070回  本願力にあひぬれば   7月25日~
第1071回  宮殿に生まれて   8月 1日~
第1072回  わたくしの救い   8月 8日~
第1073回  見守られている私   8月15日~


               (平成25年)  
 第1074回 ただ信心の救い   8月22日~
 第1075回 目標がある   8月29日~
 第1076回 彼の岸をめざして いまを生きる   9月 5日~
 第1077回 み仏を よぶわが声は   9月12日~
 第1078回 はたらきづめの 仏さま  9月19日~ 
 第1079回 念仏成仏 これ真宗  9月26日~
 第1080回 ほくほく 生きる 10月 3日~
 第1081回 大好きだよ 10月10日~
 第1082回 ゆらぐ心の支え 10月17日~
 第1083回 お育ていただいた人は強い 10月24日~
 第1084回 行き先が決まった 10月31日~
 第1085回 自力心の否定 11月 7日~ 
 第1086回 失敗のない人生 11月14日~
 第1087回 わが身に驚く 11月21日~
 第1088回 信心 11月29日~
 第1089回 後生 12月 5日~
 第1090回 煩悩 12月12日~
 第1091回 大悲 12月19日~
 第1092回 救うが先手 たすかるが後手 12月26日~
                       (平成26年)  
 第1093回 涅槃  1月 1日~
 第1094回 聴聞  1月 9日~
 第1095回 転じられる  1月16日~
 第1096回 やわらかな眼  1月23日~
 第1097回 願作仏心  1月30日~
 第1098回 千無一失  2月 6日~
 第1099回  六神通の願  2月13日~
 第1100回  恩を感じる能力    月 20日~ 
 第1101回  子どもへのメッセージ  2月  27日~ 
 第1102回  地獄と極楽   月  6日~
 第1103回  法要は どんな気持ちで   3月13日~
 第1104回  お念仏で 何が変わるか   3月20日~
 第1105回  浄土とは どのような世界なのか   3月27日~
 第1106回  天上天下唯我独尊   4月 3日~
 第1107回  近道すれば 南無のひと声   4月10日~
 第1108回  磁石のたとえ   4月17日~ 
 第1109回  願いの方向   4月24日~
 第1110回  聴 と聞   5月 1日~
 第1111回  耳で聞く 如来の慈悲   5月 8日~
 第1112回  迷いのHO   5月15日~
 第1113回 浄土は黄金の大地   5月22日~
 第1114回 お念仏は 誰の仕事   5月29日~
 第1115回 「他力」と「自力」の違い   6月 5日~
 第1116回 大きな視線   6月12日~
 第1117回 頑張り知ってるよ   6月19日~
 第1118回 念仏は 呪文では ?   6月26日~
 第1119回 見えぬものでもあるんだよ   7月 3日~
 第1120回 諸行無常   7月10日~
 第1121回 プラス条件を増やせば幸せか   7月17日~
第1122回 いま浄土とは・・   7月24日~
 第1123回 おかあさん   7月31日~
 第1124回 「まかせなさい」の南無阿弥陀仏   8月 7日~
 第1125回 供花のこころ   8月14日~
 第1126回 ロボットにも大事  8月21日~
 第1127回 布施のこころ  8月28日~ 
 第1128回 ご法義のお風呂   9月 4日~
 第1129回 いい人が集まると   9月11日~
 第1130回 アミダさまは ナミダさま ?   9月18日~
 第1131回 星は見えない時でも光っている   9月25日~
 第1132回 育ちざかり  10月 2日~
 第1133回 人は「モノサシ」で物を見る  10月 9日~
 第1134回 「嫌いな人」は あなたを映す鏡  10月16日~
 第1135回 あなたを仏さまにする  10月23日~
 第1136回 どんな あなたであっても  10月30日~
 第1137回 地獄と極楽  11月 6日~
 第1138回 心が変わると景色が変わる  11月13日~
 第1139回 バトンタッチ  11月20日~
 第1140回 わかってるー  11月27日~
 第1141回 習っていないのに  12月 4日~
 第1142回 相手のよろこびは  12月11日~
 第1143回 迷惑かけずに  12月18日~
 第1144回 無駄なものはない  12月25日~
                 (平成 27年 )  
第1145回  遊ぶように   1月 1日~
 第1146回 阿弥陀さまのサイン   1月8日~
 第1147回 右と左   1月15日~
 第1148回 傷つける言葉   1月22日~
 第1149回 一人じゃないから   1月29日~
 第1150回 思い上がり   2月 5日~
 第1151回 プレゼント   2月12日~
 第1152回 両手あわせて   2月19日~
 第1153回 流す涙   2月26日~
 第1154回 あなたが大切   3月 5日~
 第1155回 位牌か 過去帳か   3月12日~
 第1156回 お寺にお参りするのは ?   3月19日~
 第1157回 葬儀は 何故するの   3月26日~
 第1158回 お仏壇は なぜ金色なの ?   4月 9日~
 第1159回 お寺の名前の意味は   4月16日~
 第1160回 阿弥陀如来の救い   4月23日~
 第1161回 他人の失敗は   4月30日~
 第1162回 自分が大切なら   5月 7日~
 第1163回 お浄土でまたあえる   5月14日
 第1164回 死後の浄土より 今が大切   5月21日~
 第1165回 生命は   5月28日~
 第1166回 虹の足   6月 4日~
 第1167回 トンボは 水たまりを 池だと思う   6月11日~
 第1168回 鬼は 私のなかにすむ   6月18日~
 第1169回 どのいのちも 生きようとしている   6月25日~
 第1170回 泣きたいときは   7月 3日~
 第1171回 信心の利益   7月 9日~
 第1172回 憶念の心   7月16日~
 第1173回 求めなくても   7月23日~
 第1174回 有ればあったで   7月30日~
第1175回 ほんとうの宗教とは   8月 6日~
 第1176回 必ずお救いに   8月13日~
 第1177回 お恥ずかしい   8月20日~
 第1178回 如来さまのプレゼント   8月27日~
 第1179回 阿弥陀仏の金の鎖   9月 3日~
 第1180回 出てる 出てるよ   9月10日~
 第1181回 一本の藤蔓   9月17日~
 第1182回 智慧のはたらき   9月24日~
 第1183回 人生は価値ある一瞬  10月 1日~
 第1184回 こころの進歩  10月 8日~
 第1185回 「おかげさまで」のこころで生きる  10月15日~
 第1186回 艱難なんじを玉にす  10月22日~
 第1187回 こころを休める  10月29日~
 第1188回 「自分探し」に惑わされない  11月 5日~
 第1189回 生命科学は万能か  11月12日~
 第1190回 食は いのちの基本  11月19日~
 第1191回 「自分が正しい」 ばかりでは  11月26日~
 第1192回 「苦」 は喜びの種  12月 3日~
 第1193回 自分に自信を持つ  12月10日~
 第1194回 老いも尊い  12月17日~
 第1195回 不安の中で生きる  12月24日~
 第1196回 感激する こころ  12月31日~
                   (平成 28年)  
 第1197回 過去から逃げない未来を   1月 7日~
 第1198回 美しく生きる   1月 14日~
 第1199回 この世に生まれてきたのは   1月 21日~
 第1200回 人にまけて信をとる   1月 28日~
 第1201回 母の背中で聞く   2月 4日~
 第1202回 仏さまのお育て   2月11日~
 第1203回 出世本懐   2月18日~
 第1204回 私が如来となる   2月25日~
 第1205回 則我善親友   3月 3日~
 第1206回 報恩 忘恩   3月10日~
 第1207回 にんげんを卒業したら 何になる   3月17日~
 第1208回 私が目覚める   3月24日~
 第1209回 心田を耕す   3月31日~
,第1210回 手を合わすご本尊は ?    4月 7日~
 第1211回 往生浄土の真実   4月14日~
 第1212回 一番良い方向に   4月21日~
 第1213回 聞法の道場   4月28日~
 第1214回 喜んで 勤めて見せる   5月 5日~
 第1215回 祖父母が体験した価値観   5月12日~
 第1216回 乳母車でご案内   5月19日~
 第1217回 手の温もり   5月26日~
 第1218回 阿弥陀如来の本願は   6月 2日~
 第1219回 オキシトシン   6月 9日~
 第1220回 散華楽(さんげらく)   6月16日~
 第1221回 金箔の輝き   6月23日~
 第1222回 正座は 僧侶だけ   6月30日~
 第1223回 老いのよろこび   7月 7日~
 第1224回 私でよかった   7月14日~
 第1225回 世界は誰のために   7月21日~
 第1226回 親のよび声   7月28日~
 第1227回 万人平等の   8月 4日~
 第1228回 人生のもしもしコーナー   8月11日~
 第1229回 自力ということ(聞法のいとなみ)   8月18日~
 第1230回 本願招喚の   8月25日~
 第1231回 還相の菩薩   9月 1日
 第1232回 本当の姿を知る   9月 8日~
,第1233回 精いっぱい生きた いのち   9月15日~
 第1234回 「ナモアミダブツ」 は   9月22日~
 第1235回 目覚まし   9月29日~
 第1236回 条件をつけない  10月 6日~
 第1237回 自分を優先  10月13日~
 第1238回 好き嫌い  10月20日~
 第1239回 欲を拝んでいた私  10月27日~
 第1240回 苦しみからの解放  11月 3日~
 第1241回 熱気球の世界大会  11月10日~
 第1242回 あなたがいて 私がいる  11月17日~
 第1243回 自分は自分の主人公  11月24日~
 第1244回 信心の利益  12月 1日~
 第1245回 空蝉の家  12月 8日~
 第1246回 釈迦の本概  12月15日~
 第1247回 老苦の解決  12月22日~
 第1248回 人間の知恵 仏の智慧  12月29日~
                (平成 29年)  
 第1249回 甚難信   1月 5日~
 第1250回 闇を破る   1月12日~
 第1251回 おそだて   1月19日~
 第1252回 感じる力   1月26日~
 第1253回 法蔵菩薩と阿弥陀仏   2月 2日~
 第1254回 他力は 超・大回転   2月 9日~
 第1255回 わが身ひとつ   2月16日~
 第1256回 憂いも悩みもない世界   2月23日~
 第1257回 完全燃焼の生き方 ー南無ー   3月 2日~
 第1258回 おつとめする意味   3月 9日~
 第1259回 優しい心遣いに応える言葉   3月16日~
 第1260回 独りじゃない場所   3月23日~
 第1261回 四門出遊 ~お釈迦さまの出家~   3月30日~
 第1262回 お葬式と浄土真宗の救い   4月 6日~
 第1263回 報恩講の赤い蝋燭   4月13日~
 第1264回 みな漏れず往生すべし   4月20日~
 第1265回 むなしさを超える   4月27日~
 第1266回 念仏の声   5月 4日~
 第1267回 二種の回向   5月11日~
 第1268回 降誕会とは どういう意味ですか?   5月18日~
 第1269回 本願寺 Q&A   5月25日~
 第1270回 仏教の「救い」とは ?   6月 1日~
 第1271回 一緒性   6月 8日~
 第1272回 仏教の「救い」とは ②   6月15日~
 第1273回 仏教の「救い」とは ③   6月22日~
 第1274回 念仏は 喜び   6月29日~
 第1275回 人身受け難し   7月 6日~
 第1276回 教行信証総序 その一   7月13日~
 第1277回 教行信証総序 その二   7月20日~
 第1278回 南無阿弥陀仏とは   7月27日~
 第1279回 お通夜の席で   8月 3日~
 第1280回 仏教への先入観 ?   8月10日~
 第1281回 仏教への先入観 ②   8月17日~
 第1282回 門徒葬後の朗読法話   8月24日~
 第1283回 他者のしあわせを   8月31日~
 第1284回 夢と希望と喜びを   9月 7日~
 第1285回  誰の、私のお寺   9月14日~
 第1286回 いのちのふるさと   9月21日~
 第1287回 わかりゃいい   9月28日~
 第1288回 乾杯というよりは  10月 5日~
 第1289回 「蜘蛛の糸」の後に   10月12日~
 第1290回 お育ていただいて  10月19日~ 
 第1291回 信心獲得とは  10月26日~
 第1292回 みんな仏に成れるのか  11月 2日~
 第1293回 若い二人に(結婚式での挨拶)  11月 9日~ 
 第1294回 私が私になる  11月16日~ 
 第1295回 引力 浮力 磁力 本願力  11月23日~
 第1296回 生きる喜びに  11月30日~ 
 第1297回 新しいいのちを聞く み仏の声  12月 7日~
 第1298回 至極最上の教え  12月14日~ 
 第1299回 三つの生き方  12月21日~
 第1300回 ただ法を聞く  12月28日~ 
                (平成30年)  
 第1301回 むなしく過ぐる 人ぞなき   1月 4日~
 第1302回 おつとめする意味   1月11日~ 
 第1303回 他力本願とは   1月18日~
 第1304回 今や 稀少な教えに   1月25日~ 
 第1305回 ご先祖が最も喜ぶのは   2月 1日~
 第1306回 お墓や納骨堂は   2月 8日~ 
 第1307回 お礼をする   2月15日~
 第1308回 盲亀浮木(もうきふぼく)   2月22日~
 第1309回 親の七光り   3月 1日~
 第1310回 もらったこと   3月 8日~ 
 第1311回 おばあちゃんのように   3月15日~
 第1312回 小さな石に お花が   3月22日~
 第1313回 「行く」のか 「来る」のか   3月29日~
 第1314回 会葬御礼    4月 5日~
 第1315回 凡夫はわたくし   4月12日~
 第1316回 遇えて はじめて   4月19日~ 
 第1317回 自力と他力   4月26日~
 第1318回 恥ずかしい   5月 3日~ 
 第1319回 私の心に入って   5月10日~
 第1320回 智慧の念仏   5月17日~ 
 第1321回 人生が変わる   5月24日~
 第1322回 みほとけとともに   5月31日~
 第1323回 断捨離   6月 7日~
 第1324回 面白い 楽しい   6月14日~
 第1325回 信心の本質   6月21日~ 
 第1326回 ありのままに見る    6月28日~
 第1327回 足るを知る    7月 5日~
 第1328回 自らを灯明とせよ    7月12日~
 第1329回 布施のこころ    7月19日~
 第1330回 憍慢のいましめ   7月26日~
 第1331回 倒懸 とうけん   8月 2日~
 第1332回 悪を転じて 徳とする   8月 9日~
 第1333回 人生と念仏   8月16日~
第1334回 願以此功徳   8月23日~
第1335回 あみだくじ   8月30日~
第1336回 お願いごと    9月 6日~
第1337回 老いの中で   9月13日~
第1338回 相続すること   9月20日~
第1339回 聴聞のすすめ    9月27日~
第1340回 法を聞く 10月 4日~ 
第1341回 仏さまのおこころ 10月11日~
第1342回 正定業 10月18日~
第1343会 み仏は共に悲しみたもう  10月25日~
第1344回 つなぐ 受け継ぐ  11月 1日~ 
第1345回 帰すべきところ 11月 8日~ 
第1346回 のんのさま  11月15日~
第1347回 恵まれた念仏  11月22日~
第1348回 お念仏のこころ  11月29日~
第1349回 「相続メモ」の手引き 12月 6日~
第1350回 私たちのちかい  12月13日~ 
第1351回 「聞く」 ということ 12月20日~
第1352回 信心正因のおすすめ 12月27日~ 
            (平成 31年)  
第1353回 南無阿弥陀仏のおいわれ    1月 3日~
第1354回 念仏の生活   1月10日~
第1355回 慚愧と歓喜    1月17日~
第1356回 悪を転じて徳とする   1月24日~
第1357回 人生と念仏   1月31日~ 
第1358回 チューリップの花    2月 7日~
第1359回 法名と戒名   2月14日~
第1360回 命日は「いのちの日」   2月21日~
第1361回 年忌法要   2月28日~
第1362回 光顔巍々   3月 7日~
第1363回 先哲のことば    3月14日~
第1364回 いつもが臨終法話   3月21日~
第1365回 私の側 仏さまの側   3月28日~
第1366回 努力の質が問題    4月 4日~
第1367回 毎日を仏法という鏡に   4月11日~
第1368回 自己中心の心   4月18日~
第1369回 いつも見守っていてくださる   4月25日~
          (令和 元年)  
第1370回  逃げている私を   5月 2日~
第1371回 次の世代に引き継いでいく   5月 9日~
第1372回 ご先祖をしのんで   5月16日~
第1373回 仏弟子として   5月23日~
第1374回 供花のこころ   5月30日~
第1375回 念仏往生こそが真実の教え(1)    6月 6日~
第1376回 念仏往生こそが真実の教え(2)    6月13日~
第1377回 真実の如来の言葉 「大無量寿経」    6月20日~
第1378回 お念仏によって方向転換する人生(1)   6月27日~
第1379回 お念仏によって方向転換する人生(2)   7月 4日~
第1380回 念仏と信心によって浄土の世界があらわれる   7月11日~
第1381回 聞法の道場に    7月18日~
第1382回 誤解されたお念仏   7月25日~
第1383回 往相回向・還相回向に集約される浄土真宗   8月 1日~
第1384回 ねがいの歌    8月 8日~
第1385回 今すぐに聞く   8月15日~
第1386回 宗教と道徳   8月22日~
第1387回 宗教と科学    8月29日~
第1388回 念仏は 唯一の道    9月 5日~
第1389回 阿弥陀経は 名医の言葉    9月12日~
第1390回 諸仏に護られる    9月19日~
第1391回 もうあう   9月26日~
第1392回 空過か 勝過か   10月 3日~
第1393回 世界の宗教と民族宗教   10月10日~
第1394回 後生の一大事  10月17日~
第1395回 仏智を疑う  10月24日~
第1396回 苦悩は なぜおこるのか  10月31日~
第1397回 苦悩を解決する道 (縁起をみる その1)   11月 7日~
第1398回 聞の宗教  11月14日~
第1399回 予告編   11月21日~
第1400回 老病生  11月28日~
第1401回 信心あらんひと  12月 5日~
第1402回 「なも」か 「なむ」か  12月12日~
第1403回 一時停止は 南无阿弥陀仏  12月19日~
第1404回 忙しいので   12月26日~
(令和 2年)  
第1405回 南无阿弥陀仏は   1月 2日~
第1406回 迷える者は道を問わず   1月 9日~ 
第1407回 内定通知    1月16日~
第1408回 煩悩を持ったままで    1月23日~
第1409回  自灯明とは   1月30日~
第1410回  よかったね   2月 6日~
第1411回 お念仏の人は    2月13日~
第1412回 48願の最初の願は   2月20日~
第1413回 地獄はあるのか   2月27日~
第1414回 ありがとう   3月 5日~
第1415回 終活で一番大事なこと    3月12日~
第1416回 聞くということ   3月19日~
第1417回 価値観の転換   3月26日~
第1418回 水の浮力   4月 2日~
第1419回 死と往生の違い   4月 9日~
第1420回 往生と成仏   4月16日~
第1421回 一切の聖教章の大意   4月23日~
第1422回 雑行・雑修自力の心   4月30日~
第1423回 ほんものの念仏   5月 7日~
第1424回 少しずつマシに    5月14日~
第1425回  怠け者   5月21日~
第1426回 人生を導く教え   5月28日~
第1427回 念仏は 目的   6月 4日~
第1428回 他力のお育て   6月11日~
第1429回 天眼通の誓い   6月18日~
第1430回 天耳通の誓い   6月25日~
第1431回 お世話され 上手になろう   7月 2日~
第1432回 お仏壇って 要りますか ?   7月 9日~
第1433回 仏様の視点   7月16日~
第1434回 発事とは   7月23日~
第1435回 常識を超える教え   7月30日~
第1436回 明るい未来が 開ける   8月 6日~
第1437回 誰に感謝するのか   8月13日~
第1458回 ともに   8月20日~
第1439回 宗教的目覚めを求める叫び   8月27日~
第1440回 命の長短を 超える   9月 3日~
第1441回 取り扱い説明書に気づく   9月10日~
第1442回 親鸞聖人の御恩   9月17日~
第1443回 親鸞聖人の他力観   9月24日~
第1444回 後生の一大事  10月 1日~
第1445回 磁石のたとえ  10月 8日~
第1446回 信心の行者  10月15日~ 
第1447回 すべては如来のお育て  10月22日~
第1448回 大悲還相   10月29日~
第1449回 歯医者さんの言葉   11月 5日~
第1450回 見て聴いてください   11月12日~
第1451回 怖さを知らずの皆様  11月19日~ 
第1452回 おまかせして生きる   11月26日~
第1453回 私の歩む道  12月 3日~
第1454回 素晴らしい発見  12月10日~ 
第1455回 信心は 如来の心  12月17日~
第1456回 最強のワクチン   12月24日~
第1457回 還相回向の菩薩方  12月31日~
                令和  3年  
第1458回 念仏の人を護る    1月 7日~
第1459回 二艘の船    1月14日~
第1460回 健康も病も    1月21日~ 
第1461回 好きか 嫌いか    1月28日~
第1462回 喜びを感じる力    2月 4日~
第1463回 老病死 と 老病生    2月11日~
第1464回 仏さまも 南無阿弥陀仏    2月18日~
第1465回 聞くこと    2月25日~ 
第1466回 待たれていた私    3月 5日
第1467回 小さな針箱    3月11日~
第1468回 言ってしまった一言    3月18日~
第1469回 母が植えた花     3月25日~
第1470回 頭がさがる人生     4月 1日~
第1471回 お念仏に 違いは    4月 8日~
第1472回 見守られている私     4月15日~
第1473回 愛敬父母     4月22日~
第1474回 人生の目的を    4月29日~
第1475回 人形を抱く 母    5月 6日~
第1476回 いつも見守る親    5月13日~
第1477回 私一人が苦労して    5月20日~
第1478回 二の矢を受けない     5月27日~
第1479回 今 よかろうか     6月 3日~
第1480回 声に余言をあらはさず    6月10日~
第1481回 お寺の近くに    6月17日~
第1482回 感じ 味わう力を     6月24日~
第1483回 背番号 17番     7月 1日~
第1484回 浄土真宗は 出会いの仏教    7月 8日~
第1485回 ありのままの自分との出会い    7月15日~
第1486回 声の仏さま 「南無阿弥陀仏」    7月22日~
第1487回 親鸞聖人を知ろう    7月29日~
第1488回 「阿弥陀さま」 との出会い     8月 5日~
第1489回 阿弥陀さまとの出会いを伝える    8月12日~
第1490回 たった2泊3日だけ?    8月19日~ 
第1491回 名前を呼ぶ    8月26日~ 
第1492回 本当の姿を映す鏡    9月 2日~
第1493回  お寺は どんなところ    9月 9日~
第1494回 「おぶっぱん」    9月16日~
第1495回 期待され 待たれている私    9月23日~ 
第1496回 お念仏は 讃嘆のことば     9月30日~
第1497回 今や 貴重な教えに   10月 7日~
第1498回 ご縁で人生は変わる   10月14日~
第1499回 平等な はたらき   10月21日~
第1500回 願いが届いたところ   10月28日~
第1501回 思い通りに    11月 4日~
第1502回 教信行証か 教行信証か   11月11日~
第1503回  温泉とお念仏   11月18日~
第1504回  みえないものでも あるんだよ   11月25日~
第1505回  釈尊も 南無阿弥陀仏   12月 2日~
第1506回  ご本尊は お釈迦さま 阿弥陀さま   12月 9日~
第1507回 すべての仏さまが 讃嘆される   12月16日~
第1508回  ご縁のある人 ない人   12月23日~
第1509回 人間の力の限界   12月30日~
        令和 4年  
第1510回 伝絵には 比叡山が    1月6日~
第1511回 よろこぶこころ 身にうれば     1月13日~
第1512回 のんのさま    1月20日~
第1513回 遇い難くして 今遇う    1月27日~
第1514回 平生業成    2月 3日~
第1515回 信心正因    2月10日~
第1516回 信心を いただくということ     2月17日~
第1517回 総代さんのお通夜    2月24日~
第1518回 総代さんへの弔辞     3月 3日~
第1519回 念仏者の生き方     3月10日~
第1520回 選択称名の願     3月17日~
第1521回 第17願     3月24日~
第1522回 限られた情報だけでは     3月31日~
第1523回 新しい会を 開きたいと    4月 7日~
第1524回 考えに 考えて 選ばれた道    4月14日~
第1525回 こころ ころころ     4月21日~
第1526回 私が ここにいるよ     4月28日~
第1527回 19願 20願     5月 5日~
第1528回 お寺 楽しいーん     5月12日~
第1529回 仏縁を結ぶ     5月19日~
第1530回 初めての道を行く     5月26日~
第1531回 浄土真宗は 讃嘆の教え     6月 2日~
第1532回 あじさいの花     6月 9日~
第1533回 一番上等のお供え    6月16日~
第1534回 ただ 「今」 を 生きる     6月23日~
第1535回 歩くカラス     6月30日~
第1536回 命の代表選手     7月 7日~
第1537回 サラダ記念日    7月14日~
第1538回 半 眼    7月21日~
第1539回 仏さまになって    7月28日~
第1540回 かくれんぼ    8月 4日~
第1541回 大丈夫は 優しい言葉    8月11日~
第1542回 見えないぬくもり    8月18日~
第1543回 人の為は 偽    8月25日~
第1544回 知ろうとすること わかろうとすること    9月 1日~
第1545回 いつも一緒のアミダさま    9月 8日~
第1546回  健康寿命日本一    9月15日~
第1547回 お世話したのか されたのか     9月22日~
第1548回 驚いたこと     9月29日~
第1549回 お母さんの写真が   10月 6日~
第1550回 しあわせな人生    10月13日~
第1551回 かけがえのない君へ   10月20日~
第1552回 朝のどまんなかに   10月27日~
第1553回 片道か 往復か   11月 3日~
第1554回 誓いと 願い   11月10日~
第1555回 言葉で 救う   11月17日~
第1556回 人間にわかる言葉で    11月24日~
第1557回 お念仏は 公の言葉    12月 1日~
第1558回 伝え 伝えて   12月 8日~
第1559回 お仏壇の前で   12月15日~
第1560回 何事も お念仏の助縁   12月22日~
第1561回 遇い難くして 今遇う   12月29日~
            令和 5年  
第1562回 深い 深い 思い    1月 5日~
第1563回 最も確実な親孝行は    1月12日~
第1564回 酔っぱらって    1月19日~ 
第1565回 親は 子どものために     1月26日~
第1566回 最も度し難いのは この私    2月 2日~
第1567回 はたらき続ける仏さま     2月 9日~
第1568回 お浄土への道     2月16日~
第1569回 等しく ~すべてのものを~    2月23日~ 
第1570回 還相の菩薩さま方     3月 2日~
第1571回 願いを伝えていく   3月 9日~ 
第1572回 お育ていただくと     3月16日~
第1573回 合格通知が届きました   3月23日~
第1574回 お浄土も人手不足か    3月30日~
第1575回 信心喜ぶ そのひとを     4月 6日~
第1576回 すれ違い 行き違い   4月13日~
第1577回 法事の参拝者は    4月20日~
第1578回 親のよび声   4月27日~ 
第1579回 問題は 内側に    5月 4日~
第1580回 葬儀をなぜするの?    5月11日~ 
第1581回 お経を聞くと アルファー波が   5月18日~
第1582回 忘れなければ 生きていけなかった   5月25日~ 
第1583回 新しい領解文   6月 1日~ 
第1584回 仏前結婚式での ご法話   6月 8日~ 
第1585回 頼まないのに 呼びかけ   6月15日~
第1586回 ちゃんと見られている   6月22日~
第1587回 人は 誰しも いつかは   6月29日~
第1588回 きく・菊・聴く・聞く    7月 6日~ 
第1589回 仕合わせな人生を    7月13日~
第1590回 仏教のことば    7月20日~
第1591回 しあわせ 幸せ 仕合わせ   7月27日~
第1592回 仏法は 聴くべきもの    8月 3日~ 
第1593回 この世に 無駄なし    8月10日~
第1594回 受け継がれていくもの   8月17日~ 
   
   





               妙念寺



記載者 住職  藤本 誠

 
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