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蓮如上人のお書きいただいた「御文章」には
「たのむ」ということばが、沢山出てきます。
如来をたのむこころの、本願たのむ決定心を たのむべきは弥陀如来
阿弥陀仏を一向にたのむによりて、ただ弥陀一仏をたのむうちに
如来をたのむ身になれば 弥陀をたのむ機を
弥陀をたのめば、
南無とたのむ衆生を
などなどです。
ところが、ここでは弥陀に たのむのではなく、
弥陀を たのむとなっています。
「に」ではなく「を」なのです。
親鸞聖人の教えの中には 弥陀「に」は出て来ずに
みんな弥陀をたのむとなっています。
今 私たちが使っている「たのむ」は 依頼する お願いすると
こちらの希望を頼み込む言葉です。
念仏するから助けて下さいという 取引の心です。
見返りを期待している。信じるから助けて下さい、苦しみを除いて
金が儲かるように、病気が治るようにと・・・・、
ところが、ここでは
こうした依頼の「賴」ではなく、「憑む」という意味だというのです。
さんずいから 一つとって にすいに 馬、その下に心と書く、憑むです。
この「憑む」は、「ああしてください、こうしてください」と
お願いや 注文の心をすべて捨てて、すべて阿弥陀さまに
おまかせし切って安心して日々を重ねることだと言うのです。
思い通りになっても、ならなくても、この人生を
ありのままに受け入れて歩ませていただくということです。
私たちの人生には、よいこともあれば、悪いこともあります。
それを一喜一憂するのではなく、すべて受け取って行こうということ。
歎異抄には、「よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、
ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」
とあります。
よきことも、あしきことも業報におまかせする。
これが本願をたのむ、如来をたのむ、他力をたのむと
いうことなのですが、 私たちは どうしても、わが身を頼み、
力んでしまいます。
それが 迷いの根本であることを教えていただいているのです。
すでにおさめとられている私自身であったと目覚めるさせる、
お呼びかけが「弥陀をたのめ」のみ教えなのです。
第1724回 みんな平等に
令和8年 2月12日~
お寺にご縁の薄い方とお話をしていると、なかなか話が
咬み合いません。どうしてなのか、今はやりのAIに聞きました。
浄土真宗の教えは、能力がある特別の人だけではなく
「すべての人が平等に救われる」という独自の信仰で、
しかも、人間の努力ではなく、仏さまのはたらきで
救われると説かれています。
自己責任や自助努力が強調される中、現代人にとって
理解が難しく誤解されることもあります。
「他力」とは「他人任せ」や「努力しない」という
ネガティブな意味が強いものの、自分の力で悟りを開く
「自力」に対し、阿弥陀如来の慈悲にあふれた力(本願力)
仏のはたらきで救われるということで、自分の力ではなく
「他の力」で、仏さまの力で、これを他力の念仏で
救われるといいます。
阿弥陀如来(阿弥陀さま)の、どんな人でも必ず救う
という願い(本願)は、「南無阿弥陀仏」というお念仏を通して、
私たちに届くといいます。
ですから、阿弥陀如来の本願の話を、繰り返し繰り返し
聞き、南無阿弥陀仏を口にする生活を始めると、生きることの
意味や命の大切さに気づかされていくのです。
そして、日常の苦しみや悲しみを通して、心がだんだんと育てられて、
人生の迷いや不安を、これまでの損得や、勝ち負けの
価値観ではなく、新たな視点で受け止める力が育てられ、
これから私が、進むべき道が明らかになってきて、
こころ安らかな気持ちで日々を過ごせるようになるのです。
普通の宗教のように 私が努力して変わっていくのではなく、
仏さまの話を聞いて、新たなものの見方ができるようになると
世界が変わって見えて来て、悩み苦しみも、乗り越えていくことが
出来るようになるのです。
ですから、病気の人でも、高齢者でも 動けなくても、努力出来なくても
みんな平等に、一人残らず問題を解決することが出来るのです。
聞くだけで 誰でもみんな 安心が得られるのです。
第1723回 迷惑をかけるので
令和8年 2月5日~
「子どもに、迷惑をかけたくない」と、よく聞きます。
子どもたちに遠慮しながら生活している方が多いようで、
年忌法要なども、若い方の姿は少なく、年配者だけでお勤めする
ケースが多いものです。
浄土真宗では、「迷惑」という言葉を、少し違った意味合いで
捉えます。
「人に迷惑をかけたくない」という気持ちも大切にしつつ
誰もが「迷惑をかけずに生きられない」という視点です。
私たちは、生まれてからずっと誰かに支えられ、助けられて
生きています。
赤ちゃんは一人で何もできませんし、成長し自分で食事が
出来るようになっても、他の命をいただいて生きています。
生きるということは、誰かの助けによって成り立っており、
人は一人では生きていけず、知らず知らずのうちに
多くの人に迷惑をかけながら生きている、誰にも迷惑を
かけずに生きることは不可能と考えるのが浄土真宗の教えです。
一方 他の多くの宗派では、自らが修行を行い、戒律を守ることで
煩悩を克服し、悟りを開くことを目指します。
このプロセスの中で、他者に迷惑をかけないように
努力することが重視されるのです。
ある方は、「迷惑をかけるな」と教えるのは道徳
「迷惑をかけている」
と教えるのは宗教であるとおっしゃっています。
ところが、段々と都市化して迷惑を「かけたり」
「かけられたり」することが苦手になっていますが、
老いや病気、死といった苦悩に直面すると、誰かに迷惑をかけたり、
かけられたりする時が必ず訪れてくるものです。
お互いが支え合い生かされている生命であることを、
子どもや孫に、はっきりと教えるのは親の責任であると思います。
子どもたちが将来、あわて悩み苦しむことのないように
ちゃんと伝えておきたいものです。
近頃、葬儀や通夜も、遠慮して密かに行われることがありますが、
この世は、いかに多くの方々のお陰で生かされているのか、
親たちが迷惑をかけ、掛けられた方々を 多くの参列者を通して、
教えることが出来る最後のチャンスが、お葬式だといえるのでしょう。
第1722回 造花? 生花?
令和8年1月29日~
寒い中 多くの方が お墓参りにおいでになります。
月二回 一日と15日とか、大切な方の命日など
枯れ花にならないうちに、連れだってお参りになっています。
浄土真宗では、亡くなった方はすぐに阿弥陀如来のお導きによって
お浄土に往生し、仏様となると考えられています。
そのため、お墓は故人の魂が宿る場所と考えるのではなく、
故人を偲びながら、仏に成った亡き人からの声なき声をご聴聞する、
阿弥陀如来の教えに出会う聞法の場所であり、
教えに照らして自身の生き方を省みる場所として大切にされてきました。
たくさんの命をつないで 私は今ここにいる、
たくさんの命を受け継いでいることを感じ、
命を伝えてくださったご先祖様に感謝し、受け継いだ大切な命を
精一杯輝かせて生きることを誓い、自身の命の有限性を味わう場
とされています。
お墓参りは、日々の忙しさの中で忘れがちな自己や
人生を振り返る貴重な機会であり、自身の命のあり方を
見つめ直す大切な機会といえましょう。
ですから、お墓参りは故人やご先祖様に対して
何かをして差し上げる「供養」というよりは、
阿弥陀様とともに、ご先祖様が仏となって私たちを
見守ってくださっていることへの「感謝」を伝える場であり、
家族の歴史を語り継いだり、つながりを感じるための
大切な場所なのです。
そこで、他宗派で行われるような、故人の魂を清めたり
喉の渇きを癒す意味での墓石への散水や、仏前へのお水や
お茶のお供えすることはしません。
お花や灯明は、限りある命を仏様から教えていただくための
手立てとしてお供えします。
そのために、必ず枯れる生花を供え
「生きて、やがて死を迎える」すべてのいのちの
はかなさと尊さを教えていただくため、造花ではなく
生きている生花をおそなえするのです。
お寺の境内地にあるお墓や納骨堂の場合は まずは、
本堂の阿弥陀如来にお参りしたあとで、墓地に向かいます。
節目節目には、庫裏に立ち寄り ご挨拶をし、お寺を維持する
ためのご懇志をお届けする伝統が、浄土真宗にはあります。
まずは、ご家庭での何気ない会話や行動を通して、
お墓やお寺を身近に感じてもらうこと
特別なこととして構えるのではなく、生活の一部として
幼い頃から一緒にお墓参りに行く お墓参りを習慣化して
自然に接する機会を増やしたいものです。
第1721回 いつも私と一緒に
令和8年 1月22日~
元気だった母親が ちょっと病院に行ってくると出かけ、
帰りが遅くなって心配していましたら、乳がんだと言われたと
はにかみながら帰ってきました。
早速手術ということで、慌てて準備をして入院しましたが、
いつも台所に貼ってあった紙を持っていき、病室の壁に、
母親が貼りました。
岩本月州という、大変お念仏を喜ばれた方の言葉ということです。
「常に居ますを佛という。此処に居ますを佛という。
共に居ますを佛という。この佛を南無阿弥陀仏という。
このいわれを聞いて歓ぶを信心という。
称えて喜ぶを念佛という」。と、そこにはありました。
「常に」「ここに」「共に」ということは、
「いつも私と一緒に」ということなのでしょう。
これから手術、手術はうまくいくのか、どこかに転移はしていないのか、
とても不安な時に、南無阿弥陀仏の如来様が いまここに、共に
涙してくだっていると味わうことで、母は まったく不安な様子を見せず
平然と 堂々とした姿をしているのだろうと感じました。
後は、おまかせするだけ、人間の力では、患者の力では
どうすることも出来ない、専門家のお医者さんに、
そして、阿弥陀さまに お任せするほか 方法はありません。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と ,母親は 不安を乗り越えようと
しているのでしょう。
病院には 沢山の方が 手術や治療を待っています。
ここにいるすべての人が、皆 同じように、今後の不安を
抱きながら 入院していることだろうと思いました。
人間の苦しみ 四苦八苦 どんなに立派な人でも、どんなに
お金がある人でも、若く元気でいる人も、やがては
すべての人が 受け取る苦しみがあるのです。
その苦しみ悲しみを いつも一緒にいて、分かってくださる方が
阿弥陀さまという 仏さまなのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 と耳に聞こえる
仏さまが、いつもここに、いらっしゃると味わい
かずかずの苦しみを乗り越えていくことが出来るのだよと、
母親を通して阿弥陀さまは 教えていただいているのでしょう。
第1720回 お育ていただく
令和8年 1月15日~
浄土真宗の特徴的な言葉の一つに お育ていただくという言葉があります。
今はやりの AIで、聞いてみましたら 次のような内容が出てきました。
「お育ていただく」とは、仏様の教えや はたらきによって、
私たちが宗教的な、人として成長していくことを指します。
これは、親鸞聖人の宗教観をよく表している言葉と言われます。
この言葉には、私たちが自力、自分の力で成長するだけでなく、
阿弥陀如来(仏様)の慈悲深い願いと はたらきによって、
あるがままの私たちが受け入れられ、育まれるという意味合いが
含まれています。
つまり、仏様が私たちを「お育てくださる」という心温まる感覚です。
これを、如来のお慈悲に抱かれるという表現もします。
浄土真宗での「お育ていただく」ことは、単に知識や教養を身につけ、
立派な人間になることではありません。
むしろ、日々のできごとや事柄など、日常の出来事を通して、
「あなたはどんな人間として生きていますか?」といった、
自分自身への問いかけを受け取ることを意味します。
南無阿弥陀仏 と お念仏を口にしたり、仏様の教えを聞こうとする
気持ちが起こるのは、本来の自分にはない姿であり、仏様の純粋な
願いが自分に表れているのだと、親鸞聖人は味わっておられたそうです。
この「南無阿弥陀仏」のお念仏そのものが、如来の願いとはたらきであり、
私たちをお育てくださるものとされています。
幼い頃からお寺とのつながりがあったり、近くにいるお念仏の人
はじめ、多くの人に支えられて、生かされていると感じたりすることも、
お育てをいただくことと関連しています。
特に、人生の節目で出会う人々や、子どもの言葉やまなざしからも、
私たちが育てられていると感じる機会は多いでしょう。
幼稚園での「ののさま教育」のように、幼い頃から合掌や念仏、
礼拝といった行為を通じて、自然と仏様の心が育まれ、
いのちの尊さや倫理観が培われることも「お育て」の一環です
第1719回 未来は 後ろ 過去は 前
令和8年 1月8日~
これから迎える「未来」は 前にあるのか 後ろにあるのか
どちらにあるのでしょうか。
いつも 前を向いて 歩いていますし、車で走っていると
景色は どんどんと後ろに消えていきますので、
これから訪れる未来は 前方にあり 過去は 後方にあるように
考えています。
ところが、言葉の上では 逆で、未来は後ろ 過去は前として
使っています。
「それでは三日後にお会いましょう」とか、「ひと月後には
完成する予定です」などと、これから来る未来は
後 と言っています。
反対に、過ぎ去った過去は、一昨日のことは、2日前といい、
去年のことも、なんと一年前にといっています。
過ぎ去った過去は 後ろではなく 前と表現しているのです。
どうも未来は、前ではなく、後ろにあるようです。
ですから、前を向いて生きている私たちには、過去は見えても
未来は なかなか見えてこないものなのでしょう。
その証拠には、過去のこと、昔はこうだった、あの時は
ああだったとよく憶えていますが、あしたのこと、明後日のことは
まったく見えず、何も分かってはいません。
私たちは、生まれてからこのかた 前向きではなく、
後ろ向きに、後ずさりしながら生きてきたようです。
後ろ向きだったために、人とぶつかったり、人を傷つけたり、
見えないために、迷いの人生を生きているのでしょう。
そんな私たちに 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を聞かせ
進む方向を、目的地を教えていただいているのが阿弥陀さまです。
見えない未来を 迷わないように お念仏で導いていただいているのです。
近頃の自動車には、バックするときには、後ろの様子を映してくれて、
カメラが付いていて、少しは安心です。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は、後ろ向きに進んでいる私たちに
迷わないよう、ぶつからないよう、教えてくれているのです。
目的地は お浄土であることを、お聴聞すると、カーナビのように
間違いなく誘導してくださるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏に お任せすれば、見えていなくても
もう安心です。
どんなに迷っていても、どんな障害物があろうとも心配なし、
間違いなく お浄土へ、父も母も行ったお浄土に、間違いなく
到着することが出来るのです。
第1718回 念仏相続
令和8年 1月1日~
新しい年を迎え、今年も喜び多い一年でありますよう、
お念仏を確かに相続していただきたいものです。
ところで、昨年秋の巡番報恩講には、たくさんの皆さまに
お参りいただきまして、誠にありがとうございました。
その時にもお話ししましたが、近頃「相続」という言葉を
よく聞くようになりました。
相続というと、大切な方を亡くされて、その財産やお金を
受け継ぐことだと思っていますが、元々は「念仏相続」という
言葉から始まったもののようです。
この世に誕生し、生きていくには 財産があろうがなかろうが、
男であれ女であれ、誰もがみな様々な苦難に出あい、それを
乗り越えていかねばなりません。
これは、今生きている私たちだけではなく親や先輩達もみんな、
大きな悩み苦しみを持ち、必死にその問題を解決して、一生を
終わられたことでしょう。
そして、その苦悩を解決するのに、もっとも確かな方法が
あることを知り、それを次の世代の子どもや孫たちに伝えようとして、
お念仏の教えを残していただいたのだろうと味わいます。
すべてのものを必ず救いたいという阿弥陀さまの願いである
お念仏、南無阿弥陀仏を口に力強い生活をしていくことで、
辛い苦しい生活は転じられていき、味わい深い豊かで喜び多い
人生となることを、自分が経験し、それを、私たちに残して
いただいているのだろうと思います。
毎日毎日が、老・病・死と向き合い、これから何が起ったとしても、
南無阿弥陀仏のお念仏さえあれば、間違いない、大丈夫であると、
お仏壇や お寺やお墓を通して、伝え残そうとされているのでしょう。
どうか、税金のかかる財産やお金ばかりを受け継ぐだけでなく
親たちが最も残したかった宝ものを、お聴聞することで、気づき
間違いなく、確かに受け取っていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏さえあれば、心配ない問題なし、希望に満ちた
明るい未来が開かれてくることを、聞き取り、受け継いで
いただきたいものです。
それには、お聴聞を繰り返して、南無阿弥陀仏を口にする生活を
することで、生き甲斐ある味わい深い、喜び多い生活が
はじまるのです。
ですから、お念仏を口にする生活をすることこそが、
最高の親孝行になると思います。
いくら病院に通っても、医療では解決できない問題が沢山あります。
その根本的な人間的な苦し悩みを、お寺に通い間違いなく治して
いただき、今年も力強く喜び多い毎日をお過ごしいただきたいものです。
第1717回 仏さまにないもの
令和7年 12月25日 ~
こんな話を聞きました。
仏さまにはあって、人間にないものはいろいろあるが、
逆に、人間にあって 仏さまにないものは 何ですかとの質問です。
「苦しみ」「欲望」「怒り、不安、病気や老い 生身のカラザ」
いろいろと考えましたが、
答えは、人間には、背中があるが 仏さまには背中がないということだと
いうのです。
善導大師の般舟讃に「仏心円満無背相」 という言葉のことでしょう。
私たち人間は 都合のよい人には、その正面に向かって和やかに近づき、
頼み事や願いを伝えるものです。
ところが、都合が悪くなると 向き合おうとはせず、すぐに背中を見せて
逃げてしまします。
すべての人を一人残さず救いたいと、はたらき続けておられる仏さまが
あると、聞いても、その仏様に向き合うとはせず、自分には関係無い、
もっと大事な事がある忙しいと、背を向けています。
我を忘れて育ててくれた親に対してでも、いつも背中を見せて
向き合おうとはしていません。
ところが、仏さまは どんな人にも真正面に向き合って、
何としてでも救い取りたいと、呼びかけ、はたらきかけておられると
いうのです。
無視して逃げていくものも その正面に立って、南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏といつも真正面から、呼びかけていただいていると言うのです。
どんなに沢山の人が居るところであっても、この私のためだけに
正面に来て、見守っていただいているというのです。
そのことに気づくことが出来るのか 出来ないか、それで
私の人生は大きく変わってくることでしょう。
誰の世話にもならず、一人で生きていると、我が儘勝手な私ですが、
いつも私の前に 真剣に向き合っていただいている眼差しがあることが
味わえてくると生き方が大きく変わってくるのでしょう。
子どもの頃を思い出してください、演台に立って 発表するとき、
舞台の上で 歌ったり踊ったり演技をするときのように、
私をちゃんと正面から見つめ 応援していただいている方がある、
私は期待され 心配され 感心を持って見つめられているのだと、
そのように味わえてくると、誰も見ていなくても、仏さまだけは
いつも私を正面から じっと見つめ応援していただいているのだと。
どうか緊張せずのびのびと 思いのままに、これまでの成果を 今
ここで 充分に表現していきたいものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏は 私を見つめ応援して
いただいてありがとうございます。
ちゃんと見て聞いていただいて、いかがでしたか
これでいいのでしょうかとの、問いかけでもあるのです。
今日という1日を、この瞬間を 阿弥陀さまの前で 精一杯
自分の出来ることを励みながら、南無阿弥陀仏とともに
力強く、活き活きと生活していきたいものです。
第1716回 忘れてしまっても
令和7年 12月18日~
こんな話を聞きました。
父方の祖母を、家族そろって見舞いました。
90歳を過ぎ、介護施設で生活している茶目っ気な 明るくチャーミングな
祖母を訪ねました。
部屋に入ると、よく来てくれたねと大変喜んでくれるましたが、
しばらくすると、あなたはどちらさんでしたかね。とにこやかに尋ねます。
孫であることを名乗ると ああそうそうと、懐かしそうに喜んで
くれるのですが、しばらくすると、また どなたさんでしたかねと、
質問します。そのたびに みんなが大声で笑います。
笑い声の絶えない明るい時間でしたが、父親だけは窓際に立ち、
外ばかり見て、その会話の輪に入ってはきません。
楽しい面会が終わり、また来ますね。ありがとありがと
また来てねと、明るくお別れをしましたが、
帰りの車の中で、父親がぽつりと言った一言を、忘れることができません。
実の親に、忘れられてしまうのはつらいなあー、その時は、痴呆症になった
実の母親が、自分のことを忘れてしまっていたことが、大ショックだったの
だろうと、受け取っていましたが、今、思い返すと、そればかりでは
なかったのかもしれません。
もし、自分が母親と一緒に生活することが出来ていたならば、
介護施設ではなく、自宅で一緒に生活していたのなら、あのように
自分のことを、忘れることはなかったのではないかと、悔しく
つらい思いをつぶやいたのではないかと、気づきました。
痴呆症になれば、一緒に生活していても、だんだんと分からなく
なっていくものなのでしょうが、息子とすれば、一緒に生活していたなら、
自分のことを忘れずにいたのではないかと、悔やんでの言葉だったのだろうと、
味わっています。
人間は いかに頑張っても 忘れてしまうことがあります。
どんなに可愛い子供のことでも 年を取ると、やがて忘れてしまうものです。
ところが、阿弥陀さまという仏さまは、こちらが忘れてしまっても
決して忘れることのない 仏さまです。
忘れて 無視していても、決して見捨てることのないのが
阿弥陀さまです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 声に聞こえる仏さまが
阿弥陀さまです。
自分で口にし 自分の耳で聞き、阿弥陀さまが、今 ここに
一緒であることを、どこか、遠くではなく、ここに一緒であると
味わいながら喜ばせていただきたいものです。
私が忘れても、忘れずに 私を励まし、導いてくださるのが
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の阿弥陀さまなのです。
第1715回 気づくか 気づかないか
令和7年12月11日~
お父さんに続いて 94歳のお母様が亡くなられました。
一人っ子のお嬢さんが、笑わせて撮られた笑顔の遺影に、
「良い写真ですね」とつぶやいてしまいました。
お父様の法名を見ると 院号が着いています、
「お母様もお父様のように院号頂きましょうね。」と言うと、
従姉妹の方が、「どういう意味ですか」と聞かれます。
ご本山の護持に貢献された方に贈られるもので、法名の釈○○の前に
着いているのが院号です。
お念仏の教えが今後も伝わっていくようにと、宗門の護持発展に
貢献された方に贈られるものです。
自分のお寺が繁栄するための祠堂料に加えて、ご本山もお守りしようとの
有り難い思いの方に贈られる敬称です。
院号は 生前に頂戴される方もありますが、いのち終わって
お浄土へお生まれの時に、今生最後のお布施をされることです。
ところで、同じご懇志でも、境内の墓地を整理して、離檀される方が
あります。
今回は、お子さまの無かった方の甥っ子姪っ子が、遠隔値に
お住まいで、墓じまいをされました。
合同の墓と、永代墓とありますが、どこが違うのですかと聞かれます。
永代墓は、門徒数が減ることで、お寺の維持する人数が減って、
残された皆さまにご苦労をかけますので、今後10年20年分ぐらいの
お布施をまとめてお預けしようという有り難い行いです。
一方 合同の墓は、残されたご門徒の方々への思いやりなどはなく、
これでご縁を終わらせてくださいという、どちらかというと、
自己本位の方のお考えのように思えます。
十個近くあったご遺骨を、合同墓に捨てるように立ち去っていかれました。
お寺の法要によく参加し、ご両親の年忌法要を、ちゃんと勤め
される方がある一方、まったくご縁の無い方もあります。
先祖が立派なお墓を建てていても、こどもや孫達がまったく
ご縁の無い方があります。
ちょんとお勤めをされる方々は、経済的にも精神的にも豊かな
生活をしておいでの方が多いように感じますが、
まったくご縁の方々は、暗く辛い人生の方が多いように見受けます。
ご先祖さまのはたらきかけが、あるかないかの違いなのかとも思いますが、
どうも自分を取り巻く多くのはたらきかけに、ちゃんと気づくことが出来て、
それらに感謝し対応する能力がある方と、損得勘定だけで、
自分に有利な方々には、ちゃんと向き合うものの、
静かにそっとした はたらきかけには気づかず、感謝することもなく
無視して日常を送っておられる方は、やはり、どうも、この世の中でも
うまくいかないのだろうと思います。
亡くなった父母、祖父母は、声もなく過去のことで、気づかず
無視している生活、こんな無味乾燥な生活では、人生は、生活は
うまくいかないのだろうと味わっています。
やるべきことは、ちゃんとやった方が、人生は、豊かで
有り難く喜びに満ちた生活になるもののようです。
第1714回 憶えていますか
令和7年12月4日~
ごく自然に お仏壇の前に座って 手を合わせていますが、
その最初はいつ頃だったか憶えていますか。
きっと、おじいちゃんや おばあちゃんに連れられて、いただいたお土産の
お菓子やお年玉を、お仏壇にお供えしたのが最初だったのかもしれません。
朝、学校に行く前に、仏さまにご挨拶をして、帰って来た時も、
仏さまにご挨拶をと、言われ、通信簿をもらってきたときも、
仏さまにまず報告してと、いつも、仏さまとのご縁を結んでくださった方が
おられたからなのでしょう。
生きている人だけではなく、仏間に飾ってある写真の祖父母 曾祖父母、
そして、顔をしらない多くのご先祖様達が みんな阿弥陀さまといっしょになって
この私を守り、導いてくださっているのだと、いつのまにか知らされていました。
私の人生は、自分の力の及ぶことばかりではありません。
人間の力の及ばないことがたくさんあり、自分で出来ることは一生懸命頑張り
力の及ばないことは、思い通りにならないことは、お任せする
しかないことを、先輩達は教えようとしてくれたのでしょう。
そのことを、知らなければ、自分の努力不足を嘆き、能力のないことを
悔やみ苦しんでいたことでしょう。
世の中には、多くの人がいて みんな違った考えを持って生きています。
しかし、共通する部分は 必ずあるものです。
それを、阿弥陀さまの願いとして、私たちに教えていただいているのでないか
自分の我が儘通りなるのが幸せではなく、みんなが喜べること、
皆が納得いくことがあることを、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の教えとして、
私たちに残してくれているのでしょう。
自分の行いの結果は 必ず自分に帰ってくること、地獄にいくような
生き方をしていても、必ず お浄土へ生まれさせ、仏にして活躍させる。
自分の幸せを優先させるよりも、皆んなが幸せであることが、
本当の喜びと、教えてくれているのでしょう。
自分が努力した以上に 親や兄弟や先輩 太陽や空気や自然、あらゆる力が
私を生かそう 生かそうとはたらきかけていることを、気づかせ感じさせ
感謝できる、喜べる人間に育てようとする、はたらきかけを
気づかせ 味あわせ、感じさせ、喜ばせていただているのです。
気づけ 気づけとの呼びかけが 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の
呼びかけ、はたらきかけ、
私の周りにはいらっしゃった御影です。
有り難いことです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1713回 何を聞くの ?
令和7年11月27日~
浄土真宗は お聴聞の宗教 聞くことが大事、聞くこと一つと言われますが、
いったい何を聞くのでしょうか。
普通 聞くというと これから何をすればいいのか 何が
必要か、ああしなさい、こうしなさいと、私が行うべきことを
聞くことだと 考えます。
ところが、お聴聞というのは、私がやるべきことを聞くのではなく、
私のために、仏さまがすでにはたらきかけていただいていることを、
聞かせてもらうのだというのです。
多くの人が、今さら聞く必要などない、もう充分にやるべきことを
やってきたと、思っています。
そこで
しかし、私がこれからやるべきことではなく、すでに、
私のためにしていただいたことを 私のためのはたらきかけ、
仏さまの願いを、知らせていただくのだというのです、そしてそれを
確認することだと言われます。
例えは余りよくありませんが、これから新たに宝くじを買いましょうではなく、
すでに当選している宝くじをいただいているのに、気づいていない私に
当選くじを持っていますよ、当たっていますよと、教えていただくようなものです。
気づかずにいる私に、すでに、私のためにはたらきかけがあり、
沢山のものをいただき、素晴らしい能力をもっていることを
気づかずにいるこの私に それを教え気づかせていただくのです。
今は人間として悩み苦しんで生きていますが、やがて
必ず 仏になって、すべての人々が 喜び多く 生き甲斐をもって
生きていける、お念仏の教えがあることを、それを伝え知らせることが出来る
仏になるのだと、教えていただいているのです。
ただの平凡な人間と思っていますが、そうではなく間違いなく
やがて仏さまになって みんなのためにはたらく未来があるのです。
そして、先だった先輩達は、阿弥陀さまといっしょになって、ずっと、
はたらきかけていただいている、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 を口にして、堂々と生きていきなさい
あなたはもう 仏になる仲間 間違いなく仏さまになる人なのですようと。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏ですよ。
間違いなく 仏に成る人なのですよと、呼びかけていただいているのです。
第1712回 ぼんやりしないで
令和7年11月20日~
暑さ寒さも彼岸までといいますが、ひと月遅れで やっと
暑さがおさまってきたようです。
急に冷え込んだお陰で、柿の葉やモミジなどの紅葉が、今年はいつも以上に
鮮やかです。
折角の色どりを尚一層輝かせようと、山門に近い一部分だけ
ライトアップをはじめました。
寝る前に その消灯に出て つまざき倒れ、左ひざ頭、手の平、
顔の左ホウの一部を、参道の石畳に、強く打ち付けてしまいました。
しばらく、立ち上がることが出来ずにいましたが、顔が腫れ上がるのは
さすがにみっともない、イヤだなあと思い、なんとか起き上がり、
まっすぐ冷蔵庫に、保冷剤を取り出し、近くにあったマスクを当て、
その上から、顔を冷やしはじめました。
そのうち、だんだんと本当に痛い部分がはっきりとしてきて、
顔よりも、どうも手のひら、左ひざ頭のお皿の部分が最も痛く感じます。
お皿は割れてはいないようですが、その痛い部分を見下ろすと、
ズボンが血で赤くそまっています。
おそるおそる覗いてみると、かなり出血しており、このままでは
布団に入るわけにもいかず、どうしたものかと悩みました。
膝小僧のしわしわの部分に、かさぶたができると、正座したときに
出血しそうで、固まらないように、シワをしぼめたり 伸ばしたり
しながら、眺めていると、どんどんと変化していき、傷があるのは、
三カ所のようで、そこが、黒くなっていき、やがてピンクに変わり、
出血は止まったようです。
膝小僧から、くるぶしまで 流れていた血も、赤から黒に
変化してきて、自分の体が、一生懸命に傷を治そうと頑張っている様子が
有り難く感じられてきました。
自然は、本当に素晴らしいものだと、感じながら、痛さを我慢して
しばらく眺めていました。
そして、いつまでも若いと思うな、つま先をちゃんと上げて
いるつもりでも、上がっていないもの、つまずき易くなっていることを、
改めてハッキリ知らされました。
とともに、この程度のケガですんだことに、有り難く、これが、
阿弥陀さまに守られているということだろうと、深く感じ、あじわいました。
ぼんやりとし、不注意に、行動していることを、痛さとともに
はっきりと味わわせていただき、気づかされ、有り難く、感謝の、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を、傷が治まっていくのをじっとながめながら
お念仏させていただきました。
第1711回 阿弥陀さまのはたらきかけ
令和7年11月13日~
十年半に一度担当しお勤めする 佐賀組の巡番報恩講 先月、
10月の初旬に、五日間お勤めすることが出来ました。
そのお疲れさん、ご苦労さま会を、総代会、壮年会、婦人会の
メンバーに加えて、連日お手伝いしていただいた方々をお招きして、
日曜日の夕方に開きました。
いつものように机に椅子を置いての会では、なかなか交流ができだろうと、
本堂に机を置き それぞれに、オードブルやお寿司 おでんなどをならべて、
各自が自由に取って食べる、立食パーテー形式にしましたが
予想以上に みるみるとお料理がなくなっていき
その食欲のすごさにびっくりしました。
会の途中で、プロのカメラマンに撮ってもらった、
雅楽が入った法要三日目と、稚児が出た4日目の写真、700枚近くを
スクリーンに大きく映して、皆で見ました。
そこには、日頃なかなか見せない笑顔やご法話を聞き入る真面目な顔、
おやつの時間の、にぎやかで楽しい様子などが写っていましたが、
見ていくうちに、気づいたことがあります。
本堂になかなか座っていただけない方が、お手伝いに来て、
活躍しておられる姿が、あちこちに写っているのです。
見慣れたお顔の中に、これまでお寺では、拝見することのなかったが
方々のお顔が、沢山あり、感激しました。
仏さまの御はからいという言葉がありますが、黙々とはたらいて
いただいている多くの姿を見て、私の周りには、いろいろの
はたらきかけがあるのに、それに気づいていなかったのだけだと、
改めて味わいました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 耳に聞こえるお念仏とともに
阿弥陀さまは 数々の多くの人を通して、あらゆるところで、
さまざまに はたらきかけていただいているのに、それを見落として、
まったく気づいていないことがいかに多いのだろうと、感じました。
いつもお世話いただく皆さま、そして、今回初めてご苦労いただきました
皆さま、本当に有り難うございました。
そして、その方々も、自分の力だけではなく、阿弥陀さまの
はたらきかけで、先だった親たちの導きで、こうしてお寺にお参りし、
法要に参加いただいたのだろうと、有り難く有り難く味わっています。
仏さまの多くのはたらきに、気づかせていただき 感激し、
感謝しております。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1710回 おかげさま お影さま
令和7年11月6日~
「ご家族はお元気ですか」と ひさしぶりに会った人から
尋ねられたときに、「おかげさまで元気です」と答えて、
いいものでしょうか。
直接には、お世話になっていないのに「おかげさまで」と言うのは
どうも抵抗を感じる人がいるのではないかとの疑問に
NHK放送文化研究所が調査したところ「おかげさまで」という
言い方に、抵抗があるのはほんの少数で、ビジネスの世界などでも
広く使われていると言うことです。
この「おかげさま」ということばは 近江商人が、
全国に行商する中で、こうして商売をさせていただけるのは
阿弥陀如来の「御蔭」であると、「おかげさまで」ということばを
大切にしながら全国を巡ったので、この言葉が広まったのだと、
司馬遼太郎さんが『街道をゆく』という紀行文集の中で
おっしゃっています。
また大阪商人は「儲かりまっか」「まあ、ぼちぼちでんな」
という挨拶を交わすと言われますが、昔は「儲かりまっか」と
聞かれると「おかげさんで」と必ず言っていたそうです。
「おかげさんで」とは仏さまのご加護によってなんとか
生きていけることを〈お陰〉と感じて、その〈お陰〉を
感謝する思想なのでしょう。
大阪商人も 非常に宗教的な心をもった人たちであると
思われます、有名な御堂筋は、東西本願寺の別院、御堂が
ある通りのことです。
「おかげさま」という言葉を言い換える 日頃からお力添えをいただき、
誠にありがとうございますなど、 “お力添え”の“お力”は、
相手の力のことを指し、”助けていただいて有り難うございます。
との意味でしょうし、
物事がうまくいっていることを“おかげさま”と同様に、
“ありがたいことに”とも、使っています。
また、スピーチや挨拶状の中では、“ご協力のたまもの”
“ご支援のたまもの”という表現を使って大勢の相手に対して
感謝の意を伝えるために
京都の西本願寺には 阿弥陀堂と 御影堂とがありますが、
御影堂の御影は、「おかげ」とも読めます。
ですから、お陰さまという漢字より、
お影さまの方が浄土真宗では 良いのではないかと感じます。
また「させて頂きます」も、阿弥陀さまのはたらきの「お影さま」と
感じる浄土真宗の教えから生まれた言葉だともいわれます。
第1709回 おまかせ おまかせ
令和7年10月30日~
お寺の坊守さんで 47歳の若さで亡くなった
鈴木(すずき)章子(あやこ)さんという方がおられました。
ガンが見つかって、5年間の闘病生活の後、昭和63年に命終られました。
鈴木さんは、入院してガンの治療に取り組まれましたが、
限られたいのち前では、世間一般の価値観が通用しなくなることに
気づかれて、「お先真っ暗」となり、ここで、はじめて
「生死」の問題と向き合うことになり、悩んでいた時、
次のような手紙を受け取ります。
八十歳を過ぎた実家のお父さんからの手紙には、
「あなたは、一体何をドタバタしているのか。
生死はお任せ以外にはないのだ。人知の及ばぬことは
すべてお任せしなさい。
そのためにお寺に生まれさせてもらって、お寺に
嫁いだのではないか。
生死はあなたが考えることではない。
自分でどうにもならぬことをどうにかしようとすることは、
あなたの傲慢である。
ただ事実を大切にひきうけて任せなさい」とありました。
(『癌告知のあとで』二一頁)
お父さんの言葉に、誰にも代わってもらえない人生であることに
はっきりと、気づいたと言われています。
仏教は、人生の苦悩を克服するために、煩悩をなくしていくことを
本来は 教えるものです。
しかし、煩悩をなくすことなどとても不可能です。
そこで、心の持ち方を転換し、視点を変えることによって、
少しでも苦悩を克服できる方法があると気づかされ、そのことを、
四人の子供達へ伝えるために たくさんの詩を残しておられます。
その中に『変換』と題する詩には
死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が 今生きている
ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています “いのち 日々あらたなり”
うーん 分かります
人間の力の及こと、及ばないことがある。
自分で やれるだけやったら 後は お任せすればいいだけ、
間違いなく
後がないと、残された日を、1日1日 引き算していくのではなく、
毎日毎日を精一杯生き抜くだけ、いのち終わってもすべてが
終わりではなく、
未来があるのです。
大きな 確かな あしたがあるのです。
第1708回 愚者になりて 往生す
令和7年10月23日~
あるお寺の掲示版に
「よい人になろうと、お寺に通ったのに、どうしようもない
人間だと知らされた」とありました。
私たちは、子どもの頃から、よい人立派な人になろうと、勉強し、
社会に出ても一生懸命に頑張ってきました。
お寺に行くのも、よい人、立派な人になれるようにと、足を運びました。
ところが、浄土真宗のお話を聞いていると、これまで気づかなかった、
自分自身の本質に気づかされてくるのです。
あの人のここが問題、あの人は、間違っていると、
周りの人を批判するばかりで、自分自身の姿は見ることは
出来ていませんでした。
親鸞聖人は、関東の門弟たちに、たくさんの消息、お手紙を
京都から書き送っておらえれます。
その中に、最晩年の88歳の時、書かれた中に
故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と
候(そうら)いしことを、たしかにうけたまわり候いし
(今は亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は愚者になって
往生するのです」と言われたことを確かにお聞きしました)と。
親鸞聖人は、29歳から35歳までの若い間に、東山の吉水で聞いた言葉を、
それから50年以上たって大切な教えとして、関東の門弟たちに
伝えようとしておられるのです。
ここで言う「愚かさ」とは、賢いとか愚かという相対的な意味ではなく、
人間、誰もが持つ根源的な愚かさのことを指しています。
たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって
都合の悪いものを排除しようと、他者を傷つけ悲しませたり
するような愚かさです。
「愚者になる」とは、そのようにして生きている自分自身を、
他者を見るように、はっきりと見つめ、愚者の自覚を持つことこそが、
仏の教えに出会え、まことに生きることが出来るのだと述べて
おられるのです。
自分の愚かさを自覚するということはなかなかできることでは
ありません。
私たちは少しでも自分の姿をよく見せようとし、自己弁護して
正当化して、自分自身の本当の姿からつい目を背けてしまうからです。
自分の愚かさを認めるところから、他の人を理解し、人々との
深い関わりを持つことが出来、仏の願いが聞こえてくるようになるのです。
浄土真宗は 立派な人間になって救われるのではなく
愚者になって救われる教えであると知らされると、不安がなくなり
なんと有り難いことかと喜ばれるものです。
南無阿弥陀仏の呼び声に答えて、南無阿弥陀仏とお念仏が口にし
先輩達が勧めて頂いている 真実の教えを、素直に、心ゆくまで
味わわせていただきたいものです。
第1707回 裏のはたらき
令和7年 10月16日~
こんな話を聞きました。
明治時代のことでしょうか、京都の西本願寺にお参りした人が
はじめて、水道というものに出会いました。
ひねるだけで 水が出てくるのに驚いて、旅館の人に尋ねました。
これは、どこで買えるのですかと、これは職人さんが
取り付けてくれましたが、金物屋さんにあるのではないでしょうか。
金物屋さんに立ち寄り、水道の蛇口を幾つか求めて帰りました。
帰ると早速、壁に取り付けて、みんなを集めて、蛇口をひねりますが、
当然、水は出てきません。
水道の蛇口だけで、出るわけかがないのに、それを知らなかった
という話です。
これを聞いて、素直に笑ってはおれません、同じような生活を私たちは
毎日送っているのかもしれません。
まどみちを さんの詩に
「水道のせん」というのがあります。
水道のせんをひねると 水が出る 水道のせんさえあれば
いつ どんなところでも きれいな水が出るものだというように
とおい谷間の取入口も 山のむこうの浄水池も 山の上の配水池も
ここまでうねうねと土の中を はいめぐってきているパイプも
それらのすべてを つくった人も いっさい関係ないかのように
牛乳びんさえあれば 牛乳がやってくるかのように
電灯のたまさえあれば 電灯がともるかのように
水道せんひねると 水が出る
とあります。
(本願寺新報二〇二四年七月二十日号掲載) 高田 文英師
龍谷大学教授 福井県鯖江市・西照寺衆徒を参照しました。
悲しい事件が 起こりました。
外国から技能実習生として日本に来ている 青年が 住まいの近くの人を
傷つけ、殺害するという、どうしようもない悔しい事件です。
今、近くのコンビニの店員さんも、その多くは外国の若い人で
親切、丁寧で 日本人の若者には、とても出来ないほど、
立派な対応をしてくれます。
日本は 現在大変な、労働力不足だそうで、農業 工業 水産業
製造業あらゆる部門で、日本人が働きたくない、
大変な仕事を、彼らが受け持ってくれています。
技能実習法という法律では、「技能実習は、労働力の需給の調整の
手段として行われてはならない」とあるものの、現実は そうは
いかないように見受けます。
残念なことは、生活習慣の違いから、住居地で深夜まで騒いだり、
生活ゴミの出し方で、近所とのトラブルがあったりもするようですが、
受け入れる企業によって、生活の環境は大きく違っているようです。
どうも、私たちは、自分とは関係無い、余所のことだと
無関心で見て見ぬふりをしています。
お念仏の生活とは、自分の立場からだけで世間をみるのではなく
仏さまの目に 気づかせていただくことだとうと味わいます。
日頃、利害関係、知り合いかどうかなどを基準に、
世間を見ているようで、本当に狭い目でしか、世の中を見ていません。
自分に代わって、大変な仕事を、日本人が嫌がって逃れている
ことを、暑い中汗をかき、早朝や深夜、危険な仕事を
外国の若者が、最低賃金で頑張ってくれていることに、気づき、
こころに留め、見守ることが、出来るようになりたいものだと、思います。
私はちゃんと世の中を見て、何でも分かったつもりになって
いますが、仏さまから見れば、自己中心で 傲慢などうしようもない
人間に見えていることでしょう。
悲しい事件でしたが、そのことを私に気づかせてくださるため、
ご苦労だったのだと、受け止めさせていただいています。
観無量寿経が説かれるご縁となった 提婆達多が阿闍世をそそのかして
頻婆娑羅王を害させるという王舎城の悲劇、そのご縁で釈尊が
韋提希をお導きになって、阿弥陀仏の浄土を教えてくださったように
私のためのご苦労くださった方々であったと 味わえてなりません。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
宗教 (教育新潮社)平成十四年 二月号
悲しさが少し消えて 嬉しくなりました。死んでしまったのではなく
おばあちゃんは 生まれたんだと聞いて、浄土真宗は 有り難いですね」
と、手続きをしながら、仰いました。
いつもお会いするご門徒ではなく、まったく関係のない銀行の窓口の
人に、浄土真宗は有り難いですねと、言われて、気づきました。
子供のころから、お浄土がある、仏様になると、繰り返し聞いて
いましたので、当たり前になっていました。
そして、誰もがみんな そのことが分かっている、知っているものと、
思い込んでいました。
しかし、多くの人が そうではなく、亡くなった人はどうなるのか
自分が死んだらどうなるのか、心配しながら生活しておられるのだと、
改めて気づかせていただきました。
近頃 お仏壇の無い家で 子供たちは育っています。
きっと多くの若者が、お浄土があることも、仏さまになった方が
はたらきかけていただいていることも、まったく知らずにいるの
だろうと、思います。
大切な方を亡くした人に、「浄土真宗は 有り難いですね」と言われ、
この言葉が、新鮮に聞こえ、とても嬉しく、有り難く味わわせていただきました。
私たちは、もっともっと 素直に お浄土があることを、
喜んでいいのだと思います。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1664回 良いことをするときには
令和6年 12月19日~
令和6年の正月は、早々に 大きな地震が発生、そこに
救援物資を、繰り返し運んでいた海上保安庁の飛行機が、羽田空港の
滑走路で事故に遭遇し、大変悲しい辛い年明けとなりました。
その事故原因調査が進められていますが、飛行機に設置されていた
ボイスレコーダの解析などから、残念ながら
滑走路手前で待つべきところを、
事故の原因だったようです。
普通は、機長、副機長が管制官からのことばを、再確認するものの
ようですが、被災地へ何度も救援物資を運んでいるこの飛行機を
最優先に、出発できるよう、周りが誰もが配慮してくれているとの、
誤解が、思い込みがあったようです。
人は 自分の為、自分の利益のために努力しているときなど、
どこか後ろめたさがあるためか、充分に配慮して行動しますが、
良いこと、人に為になることに邁進しているときには、どうしても
注意が散漫になることがあるようです。
周りのみんなが、自分と同じように考えて、心配りをしているのだろう
誰もが自分たちと同じ気持ちでいると思い、感じて、突き進んで
しまうことがあるようです。
良いことをするときには、ついつい間違いを起こしてしまうものです。
悲しいことですが、辛いことですが、人間はそのように出来ているようです。
そして、僧侶である自分もまた、仏さまの教え、仏法を多くの人に
知ってもらおうと、良いことをしていると思い、注意を怠り
周りの人や 相手の気持ちに無頓着になって、突き進んでいるのだろうと、
このニュースを聞きながら感じています。
良くないこと、自分にとって有利なこと、少し後ろめたいこと、
恥ずかしいことを 実行するときのように、良いこと、人の為になることを
するときには、油断せずに
かえってマイナスに
心にかみしめています。
何がご縁になるか分かりませんが、力まずに 淡々と お念仏の
味わいを 表現することで、後は 仏さまのはたらきに お任せ
することだと、意気込まないことが大切だろうと思います。
日頃、車で走るときも、横断歩道でないところを、歩行者が横切ろうとして
いるときなど、安慰に道を譲るのではなく、周りをよく注意をして
行動しないと、親切にしたことが、かえって悲しい結果を
もたらす事があるものと思います。
自分が、良いことをしていると思ったときには、慢心にならずに
充分に気をつけて、周りをよく見ながら、誰もが自分と同じ考えではないと
意識しながら、行動することが大事であると 改めて感じています。
第1663回 絵本の読み聞かせ
令和6年 12月12日~
大阪に行信教校という 浄土真宗の専門学校があります。
そこの校長先生だった方が、こんな話をされたことがあると
いいます。
子どもが夜寝る前に 親が絵本を読み聞かせて
寝かしつけることがあります。
その絵本の内容を 子どもに伝えようということよりも、
子どもに添い寝して
ちゃんと母さんは 父さんはここに居るよと
寄り添うことで、子どもは安心して眠りにつけるのです。
浄土真宗のお説教は この読み聞かせと同じようなもの、
辛いこと悲しいこと悩み苦しんでいるこの私に、心配しなくていい
いつも一緒にいるから
南無阿弥陀仏と 阿弥陀さまが
繰り返し繰り返し 聞かせていただくのだと、
教えていただいたと言います。
先日亡くなった 詩人の谷川俊太郎さんが、若いお母さんの質問に
こんな答えをしたと聞きました。
私は、夜になると、一日が終わることと、いつか死ぬことが怖くて
怖くて泣いていた子どもでしたが、娘も同じように「死ぬのが怖い」と
夜な夜な泣く子です。母親として、どんな言葉をかけてやったら
いいのでしょうか、という質問です。
これに対して谷川さんの答えは「抱きしめて、母さんも死ぬのが
怖いと
「大丈夫 大丈夫ではなく、母さんも怖いよと伝えること。
人は誰でも死ぬ。みんな怖いのです。
抱きしめてそのことを、子どもに伝えてあげたほうが良い」と。
詩人の谷川さんは、そんなときには言葉ではなく
しっかりと抱きしめて 一緒に泣いてあげることですよと。
言葉を大事にしている方が、言葉ではなく、寄り添い
抱きしめてあげることですとの意外な回答だったと言います。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏も 阿弥陀さまがいつも一緒だよ
何があろうと、どんなことがあろうと、私が一緒だよと
呼びかけ、私を抱きしめてくださっている、そう味わうことで
どんなことが起こっても、何があっても、この人生は 安心です。
それには、繰り返しお聴聞することが大事なことです。
そして、阿弥陀さまと一緒になって、今は亡き、父も母も
祖父母も私の大切な人が、みんな揃って、私を見守り 抱きしめ
支え続けてくださっていることを、自分でお念仏し、耳で
南無阿弥陀仏の声を
安心して
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は、その呼びかけの声です。
第1662回 ハッピーバースデーだね
令和6年12月5日~
こんな話を聞きました。
とても熱心で、厳しく、しかし誰にでもやさしかった門徒総代さんの
お葬式の時のことです。
開式のアナウンスがあり、全員で合掌礼拝をして、キンを
打とうとした時のことです。
「ハッピーバースデーだね」と 幼いお嬢さんの元気な声が
会場に響きました。
葬儀のお勤めを始めましたが 子どもさんの言葉が、気になります。
確かに お葬式は、お浄土へ生まれた お祝いの会なんだと味わえます。
亡くなった総代さんは、自分が死んで居なっても
お浄土へ生まれて 仏さまになるのだよと、可愛いひ孫さんに
言い聞かせていたのだろうなあと、総代さんの写真を見ながら、
その思いに 気づき だんだんと有り難くなってきました。
お勤めが終わり、喪主の方が控え室へ挨拶にこられて
「先ほどは大変失礼しました。」と謝られます。
「何でしょう」と聞くと 「孫が 大きな声で
あんなことをいってしまって 大変申し訳ありません」と
恐縮しておられます。
「いやいや、きっとおじいちゃんが ひい孫さんへ お話をされて
いたんでしょうね。とても有り難い事ではないですか」と言うと、
「実は つい先日 あの子の2歳の誕生パーティーを
開いたばかりで、そのときにローソクを付けてお祝いしましたので、
今日 またローソクを見て 誕生会のことを 思い出し、
場所もわきまえず 大変申し訳なく思っています」と仰います。
お孫さんは そうだったのかもしれませんが、あれほど熱心に聴聞された
有り難い総代さんのことですから、死んだんじゃないよ、お浄土へ生まれて
仏さまといっしょに、お前達のことを 応援しているぞと、
お孫さんの口を通して 教えて頂いたんじゃあないでしょうか。
本当に有り難いことですねと。お話ししました。
お通夜は 娑婆のお別れの会 人間の卒業式とおしゃる方があります。
そして、お葬式は、お浄土の入学式 仏さまの就任式であると、
ですから、確かにお浄土へお生まれになって 仏さまになられたということは
喜びのお祝い ハッピーバースデー に違いありません。
仏さまは いろいろの人を通して そのはたらきを教えてくださっています。
ところが、それに、ほとんど気づかないでいるのが私たちです。
南無阿弥陀仏の声は そうした仏さまになられた方々の はたらきかけ
呼びかけの言葉なのでしょう。
耳を澄ませて 先輩方の呼びかけを 願いを、しっかりと聞かせていただき
生きがいある喜び多い毎日を 南無阿弥陀仏とともに過ごさせて
いただきたいものです。
第1661回 周りに迷惑をかけて
令和6年 11月28日~
仏教では「多くのお陰によって生かされている」と教えてくれています。
植物や動物の生命を奪うことでしか、人は生きることができません。
そのことへの「痛み」があってこそ「人間」であり、痛みを失ってしまえば
人間とはいえません。
(「無慚愧は名づけて人とせず」・慚愧は罪に対して痛みを感じ、
罪をおかしたことを羞恥する心。慚愧がなければ、人と呼ぶことは
できないという意味。涅槃経の言葉を 教行信証に引用)
慚愧がないことは、畜生という主体性を失った生き方(飼い主に
生殺与奪の権利を握られ)、欲に振り回されている存在(餓鬼)に
なってしまうと教えています。
それでは長生きをしても喜べず、むなしく過ぎる人生を送ることに
なるというのです。
私たちはすでに人間として生まれていると思っていますが、
仏教では、多くの「お陰さま」を、感じることができて初めて
人間と言えるというのです。
外見は人間でも、中身が餓鬼畜生のような在り方なら、間柄を
受け取れる智慧の目がないと、人は傲慢なる危険性があり、
相手に迷惑をかけ、苦しめる三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の
世界を生きることになるのです。
「人間」、それは、間柄を生き、あらゆるものと関係をもって
存在しています。
単独の存在を主張する人は、あたかも真空パックの中に
いるようなものです。三分間も経てば酸欠で必ず死を迎えます。
人間のありさまの過去・現在を、あるがままに見ると、
父母をはじめ、あらゆる存在の犠牲の上に今、現に存在して
いるのです。
いくら「誰にも迷惑をかけてない」と、うそぶいてみても、
人は周りに迷惑をかけずには生きていけません。
私たちの分別は、科学的思考を信条としていますが、
戦後の貧しさを克服して、物質的に豊かな国になった成功体験から、
仏教などなくても生きていけると、傲慢になっているのでは
ないでしょうか。
いくら科学・医学が進歩しても、人間は「老病死」を免れる
ことは出来ません。
迷いの人生の苦しみを超える仏教の教え、私たちの分別の
次元を超えた(異質な)仏の世界に触れることによって、
私のあるがままの姿に気づき、目覚めさせられるのです。
仏の心に触れるとき、「人間として生まれてよかった。生きて
きてよかった」という人生を生きることに導かれるのです。
田畑正久著 「生きることを教える仏教」本願寺出版社
第1660回 親の足を洗う
令和6年11月21日~
こんな話を聞きました。
ある会社では、入社試験に毎年、「これから三日の間に、
お母さんの足を洗って、その感想文を提出してください」という
問題を出すそうです。
学生達は、簡単な問題でほっとして、会社を後にしますが、
なかなか母親に言い出すことが、できない人が多いようです。
ある学生は、二日間、言い出せず、やっと三日目、ようやく
母親を縁側に連れて行き、その足を洗おうとし
その足の裏が、あまりにも荒れ放題で、ひび割れて
掌で感じて、絶句してしまったといいます。
「この荒れた足は、自分達のために働き続けてくれた足だ」と、
胸が一杯になり「ありがとう」と、つぶやくと
それまで、ひやかしていた母親は、声を詰まらせ「ありがとう」と
言ったまま
「私はこんなに素晴らしい経験をしたのは初めてでしたと・・・・」
今まで 自分の頑張り、努力したことばかりを意識していましたが、
自分のために、はたらいてくれた親の苦労に はじめて気づきましたと。
親鸞聖人が 29歳のとき、比叡山を降りて法然聖人のもとを
訪ねられたときも それまで、自分の力で修行をすることばかりを
考えていたのに、自分の努力以上の、仏さまの大きなはたらきかけに、
気づかれたのでしょう。
自力から他力への転換です。
お釈迦さまの時代、仏足頂礼 仏前にひざまずき、
仏足を自分の頂にあてて礼拝することを最高の敬意を表すことと
されていたようですが、これも、ことによると、教えを説き、各地へ
休むことなく厳しい旅を続けられて 痛んだその足を拝むことで、
そのご苦労を改めて気づき、味わい、感謝することを意図したのかも
しれません。
私たちは、自分の行いや努力、自分のことしか気づきませんが、
お念仏にあうことで、南無阿弥陀仏を聞くことで、私のために、
いかに多くのはたらきかけが、ご苦労があるかに気づかされ、
感謝する力が育てられていくのです。
感じる力が育ってくると、なんとありがたい人生であったかと
味わうことが出来るのです。
気づくことができないと、自分ひとり苦労して、何もいいことは無かったと
辛い苦しい人生だったとしか、味わえないで一生を終わるのです。
気づくか 気づかないか、感じるか感じないか、それで、まるで
違った人生となってしまうのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を聞く度に だまって私のために
はたらきかけてくださる 多くの有り難いはたらきかけが 力があることに
改めてはっきりと、気づかせていただきたいものです。
第1659回 願いを知る
令和6年 11月14日~
月忌参りをはじめ、本堂での法座では、いつも「正信偈」を
お勤めしています。
お仏事ですから、阿弥陀経などお経をお勤めするのが普通でしょうが、
親鸞聖人のまとめていただいた「正信偈」を、いつも拝読しているのには
大きな理由があります。
お釈迦様の教えは 八万四千の法門といわれるように数多くあると
言われます。
しかし、その多くは 出家して、厳しい修行をし、さとりを
開こうとする、お弟子さん達のために説かれたものと言われます。
ところが、私たちは 出家していません、修行をするような
気持ちもありませんし、また、その能力もありません。
そうした私たちをも、何としてでも救いたいと、阿弥陀さまは、
はたらき続けておられると、お釈迦さまは、教えていただいているのです。
わがままで、自分が生きるためと、生き物のいのちを奪い、
罪の意識もなく平然と生きています。
しかし、その報いで、私は必ず地獄にいく生き方をしているのです。
それなのに、阿弥陀さまは自分の国、お浄土へ生まれさせて、
救いたい、何としても仏にしたいと、南無阿弥陀仏のお念仏となって
はたらき続けておられるというのです。
親鸞聖人自身は 出家して修行をして さとりを得ようと
努力された方でした。
しかし、すでに末法の世、自分で努力しても、人間の力では
決してさとりを得ることの出来ない時代であることを知り、
お念仏の教えでしか、救われないことを、法然聖人に
出会うことで、はっきりと理解されたのです。
これはインド、中国、日本の優れた先輩たちが
自分自身で味わい喜び、伝え残していただいた、有り難い教えであると、
教行信証にまとめていただいてるのです。
ですから、正信偈のおつとめをするのは、数多くの教えがあるものの
今の時代、この私が救われる教えは、このお念仏の教えしか無い。
他の教えでは、助かることは出来ないと教えていただいているのです。
そして、ご和讚で詠んでいただいたように
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきわもなし
お浄土へ生まれて仏と成って、はたらいておられる
両親や 祖父母・多くの先輩の方々は、お釈迦様のように
私のために この教えでしか救わる道はないと勧めて
いただいているのです。
いつも正信偈を拝読しているのは 先だった両親の
遺言を読み直すようなもの、親の願いを聞くことなのです。
なかなか親の願いに気づくことができませんが、
その思いに、願いに出会うことが出来ているのです。
遺言書を 読むように、親の願いを味わわせていただき、
お勧めいただいているとおり、お念仏して、同じお浄土へ
生まれるものとしての生き方をさせていただきたいものです。
第1658回 私は 私でよかった
令和6年 11月7日~
こんな話を読みました。お医者さんでお念仏の人、
田畑正久先生の本で「生きる ことを 教える仏教」
その中の「私は 私でよかった」という内容です。
日常生活で、われわれは 事に当たって 何か判断する時、
私にとって 善か 悪か、損か 得か、勝ちか 負けかを 考えます。
われわれが善いもの、得になるもの、勝ちになるものを
集めようとするのは、そうすることで 自分の人生を
充実したものにしたい
という心が 働いている
からだと思われます。
世間的には 自分を 充実させるもの として、良好な人間関係、
経済的安定、社会的評価や 健康等を 考えます。
しかし、それらは 相対的なものですから、どこまで
手にすれば 満足することに なるか わかりません。
人間を 一番 困らせるのが「 死 」です。
哲学者のフィヒテは「 死というものは、どこかに
ある
のではなくて、真に 生きることの できない人に
対して のみある 」と言われています。
フィヒテの言う「 真に 生きる 」とは、「 足るを知って 生きる 」
「 私は 私で よかった 」「 完全燃焼 できた 」
「
生きてきて よかった 」と いうような 生き方だと 思われます。
江戸時代の思想家で、医師でもあった 三浦梅園の書に、
「 人生 恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華 自ずから 紅なり 」
( 他人が 自分のことを 評価してくれなくても 嘆くことはない。
深山幽谷に咲く花は、誰かに 見られなくても 精一杯
見事な花を 咲かせている )
最後の「 華 自ずから 紅なり 」は、私は 私でよかったという
「 真に 生きる 」ことを 表現した言葉と
思われます。
「
真に 生きる 」ことのできない状態を、仏教では 餓鬼、
畜生と
表現することがあります。
餓鬼とは、いつも
何かを 取り込まないと 満足できず、
常に 取り込もう、取り込もう としている 状態を 示します。
畜生は 家で飼っている ペットのようなもので、
飼い主の顔色を うかがいながら 生きて、主体性が 無い状態です。
自らに 由ってない、自由でない 生き方です。
「
真に 生きる 」とは 足を 知って、主体的に 自由自在に
生きることを示しています。
自分に 与えられた 場を、「 これが 私の現実 」と
受け取れる人は、その場で
精いっぱい 生き切ることが
出来るでしょう。
あとは 安心して「 仏へ お任せ 」になるのです。
田畑正久著 「
生きる ことを 教える仏教 」本願寺出版社刊
第1657回 私が 仏になる
令和6年10月31日~
やがて、「仏に成る」ことが、なかなか理解出来
ないという方があります。
阿弥陀如来という仏さまは 一人も漏らさず必ず仏にしたいと、
宇宙的長い間自分で修行をし、南無阿弥陀仏を口にするものを、
お浄土へ必ず生まれさせ、仏にし 続けておられると、
お釈迦さまは説かれています。
それで、親鸞聖人は 念仏をしようと思うこころがおこった時
摂取不捨の利益、間違いなく仏の仲間であると、言われた
と歎異抄にあります。
仏教は 因果の道理 自業自得が説かれており、
自分でつくった原因は 必ず自分に帰ってくると。
そこで、生き物を殺さないこと、(不殺生)、盗みをしない(不偸盗)、
よこしまな姓の交わりをしない(不邪淫)うそをいわない(不妄語)、
酒を飲まない(不飲酒)など、慎むべきことが説かれています。
生き物を殺すと、その報いを受けることになると。
しかし、皆やっていることで、生きていくためには必要なことだと
何の心配もしていませんが、その報いを受けることは間違ないのです。
そこで、地獄にしかいけない自分であると、気づき、
仏さまの助けが必要であり、 阿弥陀さまは この私のために
お念仏を与えていただいたと、理解し、味わえるように
なったものを、真実に気づいた人、目覚めた人を、本当の人間、人間になったと
いうのでしょう。
私たちは人間に生まれ、すでに完全な人間になっていると
思っていますが、実は、そうではなく、いつも満足出来ずに、
欲望を追い求めて飢餓の状態、餓鬼の毎日であり、
動物のように養われ、本能のままに生きている畜生の生活、そして
絶えず対立し闘争する 修羅の人生、まさしく六道の餓鬼、
畜生、修羅、地獄のような苦しみの生活をおくっているようです。
自分の行いの報いで、自分の行き先は 間違いなく地獄であると
理解できたとき、阿弥陀如来のはたらきでしか、救われることは
ないのだと味わえて、南無阿弥陀仏と、お念仏を口にしようとするとき、
はじめて人間になったということなのでしょう。
親鸞聖人は、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は
一定すみかぞかし。」とおしゃっていたと。
この私は、地獄にしか行くところがない 南無阿弥陀仏の
はたらきでしか、救われることはないのです。
本当の人間になり、お念仏を口にすることができれば、やがて間違いなく
お浄土へ生まれることが出来る、お念仏の人は もう仏の仲間であると。
私たちは、私、私と 自己主張をしていますが、
私の字から 人を引くと 仏になると 漢字ではみえます。
のぎへんから -(マイナス) 人 は、にんべんとなります。
私は 仏になれるのです。
本当の人間に成り、やがてお浄土で仏になる、それは
私の力ではなく、仏さま 阿弥陀さまのはたらきのお陰なのです。
そして今、感謝報恩のお念仏が出来る 仏の仲間の生活を
送っているのです。
今の状態から、もっとよくなる浄土へ生まれるのではなく、
地獄へ行くべき所を 救われてお浄土へ生まれ仏になれるのです。
第1656回 救われる私
令和6年10月24日~
こんな話を聞きました。
祖父の33回忌法要のために、四国に帰り、祖父が
長年書き綴ったものを、見るご縁がありました。
戦前のこと、成績が良かった長男に期待して 地元の学校ではなく、
海を渡った広島の学校に入学させ、その成長を楽しみにしていました。
ところが、昭和20年、原爆が投下され、広島の親戚が、探し回り
被爆して横たわっている長男を発見し、連れ帰ってくれましたが、
30分もしないうちに「おやすみ」と、一言残して息絶えてしまった
ということです。
電話も手紙も通じず、やっと、6日の後、遺骨になった我が子と
対面することになりました。
見取ってくれた親戚に、自分たち父や母のことを、何か口にしなかったかと、
何度も確かめましたが、「おやすみ」の言葉だけで、他には何も
言わなかったと聞かされ、子どものためと思って、遠い広島の学校に
一人で出してしまって淋しかったのではないか、恨んでいたのではないかと、
悔やまれ、それからは悲しく苦しい毎日だったとあります。
この子がどんなところにいようとも、なんとしても
助けなければいけない、救ってやらねばならないと、それからは
お聴聞を繰り返す生活をしていましたが、あるとき、ふと気づかせて
いただいたと。
自分が救おう、自分が仏となって救おう、救ってやろうと思っていたが、
あの子のご縁で、こうしてお聴聞させていただいているのである、
救われなければならないのは、若くして亡くなった子どもではなく、
この子をご縁として、私こそが救われているのではなか。
救う側ではなく、自分は救われる側であったと、
味わえるようになったと書かれていました。
本願寺第十四代ご門主 寂如上人は
引く足も 称える口も 拝む手も
弥陀願力の 不思議なりけり
こうして、お仏壇の前に座り、本堂にお参りし、おつとめをして
お聴聞し、お念仏を口にし、手をあわすという尊いご縁は、
私の力ではなかった、阿弥陀さまのはたらきのお陰であったと。
そして、そのご縁を結んでいただいたのが、若くして亡くなった
あの子であったと味わえるようになったと。
第1655回 後になって 気づく
令和6年10月17日~
あるお寺の掲示板に 「後になって気づく ことばかり」と
ありました。
あの時、ああすれば良かった、こうすればよかったと、後になって
悔やむことがあります。
歳を重ねてくると、若いころ気づかなかったことに、あれは
ああ、そうゆうことだったのかと、有り難く感ずることも
多くなるものです。
前もって 気づくことが出来ればいいのですが、後になって、
反省したり、悔やんだり、感激したりしています。
ネットに 前もって気づくには、どのようにすればいいですかと、
尋ねると、「経験者や先輩に聞くこと」との返事が返ってきました。
そういえば、親鸞聖人は 教行信証の最後に中国の道綽禅師の
『安楽集』の言葉「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。」
と書かれています。
「前に生まれた者は後に生きる人を導き、後の世に生きる人は
先人の生きた道を問いたずねよ」という呼びかけです。
訪え、尋ねることを、とぶらえ(訪え) 訪問する家庭訪問の訪の字が
使われています。
訪ねていって聞くということでしょう。
仏教は、お釈迦さまが説かれた教え、人生を深く見つめて悟られた内容を
多種多様に説いていただいています。
その神髄を、800年前の親鸞聖人は インド中国そして日本の優れた
先輩が理解し味わわれ、解釈していただいた内容を、教行信証に
まとめて表し、私たちに残していただきました。
そこで、仏法を聞く、お聴聞するということは、訪ねて
先人に、経験者に訪ね、聞くことなのです。
このお念仏の教えに遇うことが出来れば、後になって気づく
のではなく、今、前もって気づかせていただくことが出来るのです。
失敗し後悔するのではなく、気づいていなかった親切や思いやり、
温かい はたらきかけにも 気づかせていただくのです。
良いことも悪いことも、後で気づくのではなく、今 前もって
気づかせていただける、それが、お念仏に生きる人の特徴だと
いえましょう。
そして訪ねれば、訪ねるほど、有り難くなり、喜びがましてくるのです。
後悔や 反省することよりも、感謝の思いが深く味わえてくるのです。
何事も当たり前になって、気づいていなかった
仏さまのはたらきを、はっきりと感じ、味わえ、喜ばせて
いただけるのです。
それが、お念仏の生活、南無阿弥陀仏に遇えた人生です。
第1654回 ハチドリのひとしずく
令和6年 10月10日~
こんな話を聞きました。
「ハチドリのひとしずく」という 物語です。
森が燃えていました
森の生き物たちは、われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは
行ったり来たり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
と言って笑います
クリキンディは、こう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」
南米のアンデス地方に伝わるお話だといいますが、
この物語を翻訳し出版されると、大きな反響があるようです。
多くの小学校では、この森の火事はこの後、どうなったのでしょうかと
子どもたちに問いかけると ほとんどの学校では
「ハチドリの姿を見て、森の動物たちも、火を消すことをはじめ、
森の火は、やがて消えました。」との回答がほとんどだといいます。
純粋な子どもたちは、先生の問いかけに、授業の時間ですから、
正しい答えは何かと考えて、そのように回答するようですが、
世間の現実を知っている、大人の世界では、はたしてどうゆう
答えが返ってくるのでしょうか。
大きな出来事だけではなく、身近な問題、小さな出来事でも
自分の出来ることを、無理だと思っても、無駄だと思えても
ほんの小さなことでも行動し、活動し続けていきたいものです。
そして、浄土真宗の門徒の私たちは、まず出来ることは、何か、
それは、声にだして、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と口にする
ことなのかもしれません。
その声が、少しでも聞こえてくると、やがて、仏さまの仲間が
増えていき、仏さまの願いが、はたらきが味わえる人の輪が、広がって
世界は少しづつ、変わっていくのだろうと味わいます。
ほんの小さな声の南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏でも、
仏さまのはたらきかけ、
くることでしょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1653回 墓 友 ~この世からの仲間~
令和6年 10月3日~
お墓を維持していくことが出来なくなったと、墓所を
整理する人が増えています。
少子化で、後を見る人がいなくなったとか、地方の
出身者が都会へ出て、もう故郷には帰って来ないなど、お墓が
あることが負担となっている人が増えてきたようです。
先祖から受け継いできたもの、粗末には出来ないものの、
なかなかうまく維持できず、どうすればよいのか、関係者に
とっては、お墓の存在は 切実な問題のようです。
また、お墓を持たない人は、お骨を海にまく散骨や、
樹木の元に納める樹木葬などが注目されてはいますが、
なかなか、そこまでは踏み切れず、それといって、新しく墓を
ひとりで建てるのは無理だと、仲間でお墓を
お墓に一緒に入る仲間を募って、お墓を
あるようです。
死んでからだけではなく、同じことなら、生きている間に
親しい仲間になろうではないかという、墓友の会というのがあると
テレビで放送していました。
親子や兄弟などの血縁関係ではなく、友達で一つの墓を建てようと
いうお墓の友だち、お墓の仲間・グループです。
お稽古事や、趣味の仲間、友だちは、元気で、生きている間だけのこと、
墓友は、生きている間だけではなく、いのち終わっても
ずっと一緒の仲間であると、まったくの赤の他人が、あの世までも
一緒しようという話です。
このテレビの内容を聞きながら、浄土真宗のご門徒は、みんな
墓友ではないかと思えてきました。
同じお墓ではないものの、同じお寺の境内の墓地に入り
そこに留まるのではなく、みんなお浄土で仏さまになる。
そして、仏さまとして、人々を救うはたらきをするのです。
テレビでは、墓友という新しい仲間づくりをする、斬新な発想と、
紹介していましたが、
存在していました。
この世だけではなく、お浄土でも共にはたらく仲間、それが、
浄土真宗の門徒ではなかったかと、味わっています。
そして、浄土真宗の仲間は、いのち終わっても
一緒に、よろこびをもって はたらく仲間です。
しかも、時代を超えて 両親や祖父も、ずっと前の多くの祖先とも
再開し、共に同じ 喜びと生きがいをもって、活躍できるのです。
そして今、やがて仏となる仲間と一緒に、生きているのです。
みんな一緒にお聴聞をし、御斎を共にし、共におつとめをし、
共に歌い、共に笑って、共に泣き生きているのです。
限られたこの世の短い間だけではなく、末通って、共に生きる仲間、
それが浄土真宗の門徒なのです。
第1652回 法座 & フォークソング
令和6年 9月26日~
ご法座の多くは 午後の1時半から始めていますが、
お彼岸法要と門信徒総会・降誕会の時だけは
午前中にスタートしています。
親鸞聖人の降誕会では 斎のあと それぞれが日頃鍛錬した
かくし芸や、カラオケを披露しあって楽しんでいますが、
彼岸会ではここ数回、福岡県甘木市から 石井太郎さんの
ギターとボーカル、
三原奈津子さんのピアノの、お二人を招いて
昭和時代の懐かしいフォークソングを聞かせていただいています。
午前中の法座だけで帰られた方もありましたが、
40人ほどの方が残っていただき
ドップリとしたって
その歌詞の多くは、周りの親切や思いやり、純粋な愛に
気づかずに、悩んでいた青春時代、歳を重ねて、少しずつ気づかせて
いただけるようになると、みなさんに支えられた有り難い時代を
生きてきたことを
本堂の椅子に、体を揺らすこともなく座って、静かに聞く姿を
見ていましたが、中には、眼を閉じて、歌詞に合わせて、
唇を動かす方が
なつかしい、なじみの曲を、一緒に口ずさんでおられるようです。
その姿を、じっと見つめながら、お念仏を喜ばれた有り難い
先輩の方々を思い出しました。
ご法話を聞きながら、いつもお念仏を口にされたいた懐かしい方々です。
未来への不安や思い通りにならない悲しく苦しかったのが青春時代、
それに対して、お念仏の人は 明るい未来と安心を
お念仏を口にしながら確認し味わっておられたことでしょう。
あるご婦人が、こころが洗われるような、心地よさを味わわせて
いただきましたと、お礼を言っておられましたが、
南無阿弥陀仏のお念仏もまた、心からの安心と喜びを味あわさせて
いただくものだと感じています。
こころにしみる音楽と、こころに新たな喜びを与えてくれる
ご法話、南無阿弥陀仏のお念仏、私に元気を与え、生きていく力を
与えてくれるところに、共通点があるように感じています。
第1651回 はじめての道 はじめての人生
令和6年9月19日~
山登りが大好きなご住職に、こんな話を聞きました。
学生時代は 高い山に登っていましたが、近頃は、そうもいかず
時間をつくっては、近くの山によく登っているとのことです。
慣れ親しんだ山であっても、別れ道では、右だったか、左だったか、
よく悩むものだそうです。
でも、そんなところには、テープでの目印や、岩にペンキで矢印が
書かれてあったり、迷うことがないようにと山の仲間が、ちゃんと
心配りをしてくれているのだそうです。
一歩一歩、登っていくのは大変ですが、新鮮な空気、眼に鮮やかな
赤や、緑、眼下に広がる豊かな自然に、なんとも言えない喜びがわいてきて、
どうしても、登山はやめられないものだそうです。
そして、山登りは 人生と同じように、荷物が軽いと軽快ですが、
どうしても捨てきらず、ついつい沢山の荷物をしょいこんでしまうと、
その道のりは、とてもきつく苦しいものになるといいます。
登頂まで何日もかかる高い山ですと、専門の案内人を付けないと
とても無理ですが、日帰りできる山でも、道案内や標識がなければ
迷ってしまうとても危険なものです。
ところで、この人生も、私にとっては、はじめての経験です。
どこへ向かっていけばいいのか、どこが目的で、どう行けばいいのか、
まったくわかってはいません。
その道を知った人に、経験した人に尋ねることができれば、少しは
安心ですが、尋ねることもなく、自分勝手に、どんどんと歩んで、
苦しんでいる人が多いものです。
人間について、深く深く考え抜いたお釈迦さまが説いていただいた、
そして、それを私たちにわかり安く、紹介し解説してくださった
親鸞聖人が示してくださった確かな道が、行き先があるのだと
先輩が先祖や親たちが、私たちに伝え残してくださって
いるのです。
ところが、それを知らず、気づかず、振り向かないで、一人悩み
苦しんでいるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏の教えに遇えれば、自分でやれること、仏さまに
任せておけば、大丈夫なこと、この限られた人生だけではなく、
いのち終わっても大丈夫な世界、有り難い価値観があるのだと
聞かせていただけるのです。
初めての人生、初めての道 知らない危険な山に登るのと同じことです。
重い荷物を背負い込んで、自分ひとりで悩み苦しむのではなく、先人たちの
経験を、教えを素直に聞く耳を持ち、豊かな有り難い人生を
喜びながら、一歩一歩、歩みたいものです。
第1650回 自分の姿を鏡で見る
令和6年9月12日~
近くの県にある親のお骨を近くに移したいが、どうしたら
良いのでしょうかと、美容師の方が、相談に来られました。
そこで、美容院と お寺 多くの共通点があるように思います。
定期的によく美容院に通われる方と、まったく無関心な方があるように、
お寺も定期的に、よくお参りいただく方と、まったく
ご縁のない方があるものです。
美容院にいくと、頭が軽くなり、こころも明るくなってくるものですが、
お寺も、お参りして仏さまのお話を聞くと、すっきりとして、
心も明るくなるものです。
お墓に花をあげただけで、帰る方がありますが、それでも、
少しは気持ちが
しかし、これはちょうど、美容室の花瓶に花をさし、
待合室で雑誌を見ただけで帰るようなもので、カットや髪を洗って
セットして
それと同じように、お寺も、ただ墓にお参りするだけではなく、
お話を聞いて、新たな価値観を、新しい視点を受け取ることがなければ、
余り有り難いものでは、ありません。
美容院の鏡で、素敵になった自分の姿を見たときのように、
仏さまの話を聞くことで、心の中が、新鮮な喜びを、感じられてきて、
すっきりとして、うれしくなってくるものです。
浄土真宗では、特に恩ということをいいます。
親鸞聖人の御命日を報恩講といい、よく歌ううたも、恩徳讃、恩という
言葉がよく聞かれます。
これまでいかに多くの方々の力、支えがあったかを気づかされて、
心の中が喜びでいっぱいになり、生きていく力がわいてくるものです。
美容院を出るときのように、世界が変わって見え、未来が明るくなるものです。
とはいえ、しばらく時間がたつと、その喜びは薄れてくるものです。
髪も伸びて、気持ちが悪くなるように、心もだんだんと重たくなって
どんよりとしてくるものです。
そこで、美容院に行って、綺麗にしていただくように、浄土真宗の方は
仏さまのお話を聞くことで、心の喜びがよみがえっていくものです。
ですから、ただお骨を預けるだけではなく、それをご縁に
お話を聞くことができる所に、ご相談されることをおすすめします。
第1649回 あんたが悪い
令和6年 9月5日~
こんな話を聞きました。
「あんたが悪いと指さした
下の三本は自分を向いている」
仏教のことばが書かれた掲示板がお寺にはあります。
これは、山の断崖の大きな岩のくぼみに建てられた奥院
国宝の「投入堂」で有名な鳥取県三朝町(みささちょう)にある
天台宗の三佛寺(さんぶつじ)境内にある自動販売機に
掲げられていたことばだそうです。
自販機に掲示板というのは、なかなか斬新な有り難い発想です。
お前が悪いと 一方的に批判しているのが私たちです。
相手を指さし非難していますが、その手をよくみると、
人差し指は相手をさしていても、折り曲げられた中指、薬指、
小指の3本は、自分の方を向いているものです。
人を指している指は自分の目からよく見えますが、自分を指している
3本の指は意識しないので視界にはあまり入って来ません。
相手の悪いところが 見えたとき、気づいたことは、私の方には、
その三倍の問題があるのだと、教えてくれているようです。
相手の悪い部分と同じようなことを 自分もしていることに
気づいていないのが、私たちです。
もし、相手に怒りや憤りを思えたときには 一息入れて
自分の方には、気づいていない三倍の 悪い点を 回りに見せていると
理解した方がよいようです。
中国の善導大師は
経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。
しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。
『観経疏』序分義
仏法は 鏡に映すようなものだと言われていますが、
誰かの悪が見えたとき 自分自身の姿を 鏡に映すように
点検してみることが、重要なようです。
「あんたが悪いと指さした
下の三本は自分を向いている」
第1648回 まだ仕事は残っています
令和6年 8月29日~
「老いて聞く 安らぎへの法話」という 本の中に
最後の仕事という項目が ありますが、
その一つで、「まだ仕事が残っています」というお話です。
本願寺派に雑賀正晃というとても立派な布教使さんが
おられました。
そのご法話で こういうお話を聞いたことがあります。
雑賀先生のお寺の檀家総代 Yさんが老齢で入院され、
もう末期になられた。
雑賀先生がお見舞いに行かれると、目に涙をためて、
「先生、もう私は何もできません。この家内と看護師さんの
お世話になるばかりで・・・・」と細い声で言います。
「いや、Yさん、あなたには まだ大事な仕事が残っています。」
「仕事って、どんなことですか」
「『ありがとう』って言うことですよ。奥さんにも、先生にも、
看護師さんにも、お見舞いの人にも『ありがとう』とお礼を言うのが
あなたの仕事です。もし声が出なかったら、手で、眼で
言ってください」
「あぁ、そうでした、そうでした。本当ですね。『ありがとう』
ございました」
「それにね、Yさん。どのようになっても、お救いくださる
阿弥陀さまにお礼申しあげることが第一ですよ」
「あぁ、そうでした、そうでした。なもあみだぶつ、
なもあみだぶつ、・・・・」
藤枝宏壽著 老いて聞くやすらぎへの法話より 自照社出版
まだ、まだ先は長いと思っていますが、明日がしれないこのいのち
大切な人に、そして阿弥陀さまに ありがとうございますと
お礼をする一日でありたいものです。
第1647回 さいごの仕事
令和6年8月22日~
あるご門徒さんが言われました。
「わたし、歳がいったらもう何もできません。
あかんもん(だめなもの)になってしまいました」と
そこで私は「いや、いや。まだ大事な仕事が残っていますよ」
と、言って次のようなお話をしました」
大阪府吹田市の光徳寺さんの掲示板にこういう詩がはってありました。
病気になって 気付く 空の青さ 空の高さ 空の広さ
直海玄洋師
ある日、中年の女性が、この人は薬剤師さんでしたが、
この詩を見て感動します。
実はガンの宣告を受けて、悩んでいたのです。
さっそく住職の直海先生にお会いしてお尋ねします。
「私は、余命いくばくもないと宣告されてから、身の回りの
整理をしましたが、どうしても心の整理がつきません。
人間、何のために生まれてきたのでしょうか」
すると直海先生が、
「仏法を聞いて、仏の世界に生まれ、仏のさとりを
得るために生まれてきのです」
と答えられます。
女性は目の前が明るくなるのを感じました。
それから、彼女は何回も仏法を聞かれましたが、
ついにこの世のご縁が尽きて亡くなられました。
すると、ベッドの下から遺書が見つかりました。
私は間に合ってよかった。
みんな、手遅れにならない中に、仏法に遇うておくれ。
彼女は、自分自身のいのちの行き先をハッキリするという
大仕事をやり遂げ、さらに遺された若い人たちをも、
その人生の行き先に導くという さいごの仕事をされたのでした。
藤枝宏壽著 老いて聞くやすらぎへの法話より 自照社出版
第1646回 お母さんの 一言
令和6年8月15日~
阿弥陀さまのお話をユーチューブで繰り返し聞きながら、
何故か、子どもの頃に見たモノクロの映画のことを断片的に思い出しました。
当時、「母もの映画」といっていたようですが、三益愛子という
俳優さんがいつも母親役で、食料事情も良くない戦後まもなく、
その日 その日、食べることにさえ苦労していた、大変な時代のこと、
苦労して苦労して一人息子を育てていた母親。
しかし、子どもの方は、その親の心が分からず、反抗し悪い仲間と
つるんで問題ばかり起こして、心配をかけつづけていますが、ついに
警察につかまってしまいます。
それでも見捨てることのできない母親、連行されていく子どもが、
そこに母の姿を見て、はじめて「おかあさん」と、呼んだ時、観客は、
みんな一斉に涙を流していたのを思い出しています。
「お母さん」との息子の言葉、涙する母親、一緒に泣いている
満員の観客。
どの母もの映画を見ても みんな同じような物語だったように思います。
今思えば、脚本家か監督か制作者なのか、浄土真宗のご法話を聞き
阿弥陀さまのはたらきに、反抗する人が、その有り難さに気づいて
南無阿弥陀仏と口にお念仏するそのことを、母と子の関係で
表現したのではないかと、味わっています。
反抗し 反抗し 困らせ続けた息子が 最後に一言 お母さんと
声に出す、それは、母親の苦労、心配に気づいて 有り難く
感じてた瞬間だったのでしょう。
出来損ないの息子が、親のきもちに触れて、お母さん と
呼んだときと同じように 南無阿弥陀仏と 声を出したとき、
こころから喜んでくださる方あることを、改めて味わっています。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 私を思い よびかけ続ける
大きなはたらきがあることを、そして、その有り難さを
感じたときに、口から漏れ出る 大きな願いのことばなのでしょう。
仏さまが、親たちが 最も喜んでいただくことば、安心することばです。
第1645回 未来は 前か 後ろか
令和6年8月8日~
こんな話を聞きました。
私たちは、未来へ、あしたへ向かって精一杯生きていますが、
未来は 明日は、どちらの方向にあるのでしょうかとの質問です。
多くの人が、前に進む 前向きに生きると 未来は自分の前にあると
イメージしています。
「眼の前に広がる」のが未来であり、「後ろは振り返らない」などと、
うしろにあるのは、過去のことです。
未来は 自分の前にあり、過去は、自分の後ろにあるものと思っています。
しかし、「この後のご予定は」等と言うとき、私たちは
未来を前ではなく「あと(後ろ)」に置いています。
三日後にまたお会いしましょうとか、五年後にはこうなるとか、
未来は 前ではなく、 後ろにあるように話しています。
そして、三日前に、一年前は などと、過去のことは 前と表現しています。
日頃使う言葉では、過去のことは 前方にあり、未来のことは 後ろ、
後方で表しているのです。
ですから、「以前」は、前は過去で 「以後」、後ろは、未来のことです。
私たちの気持ちの上では
前が未来で 後が過去なのですが なぜか 言葉では
逆の 未来を後ろ 過去を前の 表現をしています。
ヨーロッパの国では、過去は前にあり、全部見えるが、
未来は 自分の後ろにあり、何も見えないという表現をするところが
あるようです。
蓮如上人のお手紙である 御文章にある 後生の一大事 も
後生とは、これから先、未来のことを意味します。
見えているようで、見えないのが未来です。
浄土真宗では、お釈迦さまが説いていただいたように
精一杯生きている人は、必ずお浄土へ生まれさせ
自分と同じはたらきをさせる仏にすると、阿弥陀さまは、はたらきかけて
いただいている、後は任せればいいのだと、受け取っています。
これから、老病死 沢山の苦難が訪れるものの、心配はいらない
かならず、お浄土へ、そこには両親をはじめご縁のあった
多くの方々が、待っていていただく世界へ 生まれていくのですと、
呼びかけてくださっているのです。
その呼び声が 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
見ることの出来ない未来 阿弥陀さまにおまかせして
今できることを 精一杯 生きていきたいものです。
お盆が近づきましたが、地獄へ落ちた人は、地獄の釜の蓋が開く
13日に、お帰り頂くのでしょうが、お浄土の人は いつでも
私のために、遠くではなく、今、ここではたらいていただいているんです。
第1644回 気づかない 私が
令和6年8月1日~
大阪のおばちゃんが、左足のしびれが出始めて、病院にいきました。
診察したお医者さんは、「うーん、これは残念ながら、高齢のためですね」と
告げました。
「でも、先生、この右足も同級生ですぜ」と、返事しました。
先生も負けず、「心配せんでええ、まもなく右足もしびれてきます」と。
同級生という表現でいえば、右足だけではなく、私の手も頭も口も
心臓もみんな同級生なのです。
ところが、頼みもしないのに、みんなだまって働き続けてくれています。
夜になれば、私自身は、眠って休んでいますが、
一日も、一刻もやすむことなく、働いてくれた同級生も沢山います。
心臓はその一つです。
頼みもしないのに、やすむことなく働づめで私を生かしてくれています。
私が気づかないところで多くの臓器が、精一杯、黙々と働いて
くれていたのです。
そればかりではないといいます。
頼みもしないのに、阿弥陀さまは、この私のためにずっと
はたらきかけ続けていただいているというのです。
気づかないだけ、知らなかっただけで、私のために多くの同級生と
一緒になって、私を生かし続けていただいているのです。
そう気づくとき、感謝しても感謝しきれないことが、いかに多いかが
知らされてきます。
当たり前になって気づかないことが、なんと多いことか、南無阿弥陀仏は
その多くのはたらきかけに、気づき、心から、感謝することばであり、
仏さまが、そして私の体のすべてがもっとも喜んでくれる言葉なのです。
何事も当たり前では、何の感動もなく不平不満のつらく苦しい毎日になりますが、
多くのはたらきかけに気づき、味わうことができれば、なんと
ありがたく喜びいっぱいの、豊かな人生を味わうことができるものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は、その喜びを、感謝を表す言葉、
「ありがとうございます」という言葉にもよく似た、親たちが受け継いで
残してくれた 有り難いことばです。
私に、多くの はたらきかけがあることに気づかせてくださる
仏さまの言葉です。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
第1643回 感じ取る力
令和6年 7月25日 ~
「学仏大悲心」という大きな額が、講堂の正面に掲げられている
学校があります。
善導大師が説かれた、仏の大悲心を学ぶという言葉です。
学ぶということは
勉強する。学問をする。
教えを受けたり見習ったりして、知識や技芸を身につける。
習得する。経験することによって知るという意味がありますが、
そればかりではなく、 まねをするという意味もあります。
何をまねるのか、それは苦悩するものを必ず摂取して捨てないと
はたらき続ける仏さま、阿弥陀さまの大悲心を学び、それを、ほんの
少しでもまねることだと言われます。
お念仏の教えは、仏さまの話を聞くこと、お聴聞することが大事と
いわれますが、これは、仏の大悲心、仏さまのはたらきを聞く
ということです。
それは、頭で理解したり、何かを覚えたりすることではなく、
全身で、仏さまのはたらき、仏さまのお慈悲のぬくもりを
感じとることを意味します。
必ず救う、ひとり残さず救うという、摂取不捨の光明に
照らされていることを、この身に感じることが出来るように
育てられていくことなのです。
そうした、大きなはたらきかけがあることを、感じることが出来る
ようになると、自分ひとりで生きているのではなく、
実は、生かされているのだという、大きな喜びと安らぎを感じることが
出来るようになっていくものです。
いくら仏教を深く学んでも、お慈悲のぬくもりを感じることが出来
なかったら、なかなか喜びは味わうことが出来ません。
仏さまのはたらきを、感じることが出来ると、そのはたらきの
まねをさせていただくこと、ところが、自分中心の私には、とても
とても、仏さまのようには、できないということに、気づかされて
いくと、人生は大きく変わってくるものです
仏さまのはたらきは、目にはなかなか見ることはできませんが、
仏さまのお話を繰り返し、繰り返し聞くことによって、仏さまのはたらきを
ほんの少しずつでも感じることができるようになっていくものです。
仏さまのはたらき、真実が、ただ一つのことば、南無阿弥陀仏となって
私に絶えず、喚びかけてくださっていることを、感じ取れていくのです。
第1642回 誰の安心のためか
令和6年 7月18日~
ある布教使さんから、こんな話を聞きました。
近くのお寺に招かれて、ご法話にいったとき、
控え室でお茶をいただいていると、帽子をかぶった紳士の方が、
お参りになる姿が見えました。
その姿をじっと見ていると、坊守さんが、あ、あの方の奥様はとても
有り難い方で、今日もお参りになりましたねと、おっしゃいました。
本堂でご法話中、その紳士がうなずきながら熱心にお聴聞されており、
隣の奥様も、にこやかな笑顔でお聴聞いただいていました。
うらやましいご夫婦と拝見していましたが、一席を終わり休憩のあと、
本堂にいくと、その紳士の隣には、別の女性が座っておられます。
どうゆうことだろうと、気になっていましたが、その女性は、
どちらかと言えば、暗い顔をして、あまり反応がないを方でした。
控え室に帰って、ご住職に聞きました。
あの紳士の奥様は、最初に横に座っておられたかたですよね、
後半、横に座った方はどなたですかと聞きますと、住職さんは
どなたのことですかね。聞き返されます。
帽子をかぶった立派な紳士の奥様のことですよと、言いますと、
いえあの方の奥さんは、もう何年になりますかね、ご往生されましたよ。
大変有り難い方で、婦人会の役員もしておられましたが、
ガンにかかられて亡くなられました。
奥様が元気なころは、ご主人は、まったくお参りになりませんでしたが、
病気になった奥様が、私がいなくなったら
必ずお寺でお話を聞いてとご主人に頼まれたそうです。
あまりにも熱心なので、わかったわかった、私がお寺に行けば、
あなたは安心出来るのでしょうから、必ず参りますよと、返事を
されたそうです。
そうすると、奥様は、私が安心するのではなく、残された貴方が
安心できるから、どうか、お参りしてくださいと、真剣に頼まれたそうです。
その奥様のことば通りに、あの方はお寺でお話を聞かれるように
なったのです。
亡くなっていく人を安心させるのではなく、生き残った自分のことを
心配してくれた奥さんのご縁で、お聴聞されるようになりました。と
お念仏の教えは、先立つ親や、連れ合いを安心させる教えではなく、
自分自身が安心を得られるもの、この人生を堂々と生き抜く力を
与えられていくのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は、心配しなくていい、間違いなく
お浄土へ生まれさせ仏にするぞ、一緒に仏として はたらいてくれと
真剣に呼びかけ、はたらきかけていただく仏さまの言葉です。
誰の安心のためなのか、この私の安心のための教えです。
第1641回 いつも一緒の阿弥陀さま
令和6年 7月11日~
近頃 ご門徒のお宅へお参りするのがとても
楽しくなりましたと、いうご住職に会いました。
どうしてなのか、「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくると ああここにも、
阿弥陀さまが はたらいておられると味わえるようになったからですと。
朝目覚めたとき 南無阿弥陀仏とお念仏して、ああここに阿弥陀さまが
顔を洗いながら 南無阿弥陀仏 ここにも阿弥陀さまが、
食事のときも、着替えのときも、おつとめをするときばかりではなく、
南無阿弥陀仏といつも私と一緒の 阿弥陀さま。
ご門徒のお宅にお参りすると、お経さんの本をちゃんと
準備して、待っていただいており、一緒に合掌し、いっしょに声を出して
おつとめをしていただくと、ああ、このお宅でも阿弥陀さまは
間違いなく はたらいておられるのだと、確認出来て有り難く
嬉しくなり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
自分の口から出た 南無阿弥陀仏は勿論ですが、近くの
どなたかの口に南無阿弥陀仏が出て、聞こえてくると、
阿弥陀さまのはたらきが、なお一層はっきりと、感じられます。
日差しが 暑い中、境内のお墓参りにおいでの方を見ても、阿弥陀さまが
あの方を、お墓まで導いていただいていると、
法座の時に、沢山の方が本堂に座っていただくと、目でも見えて
とても心強く、頼もしく、お堂いっぱいに南無阿弥陀仏が聞こえてくると、
有り難く嬉しくなってくるものです。
ところで、若いころ、親しい友と また明日ねと 別れる時など
バイバイ、グッドバイといっていましたが、その意味を訪ねてみると
実は、「神様があなたと一緒にいますように!」とか、
「神さまの御加護を!」という意味なのだといいます。
いつも、神様があなたを守ってくださいますように、
というキリスト教の祝福の言葉だったというのです。
そういうことなら、浄土真宗では、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は
いつも阿弥陀さまが一緒という意味なので
別れの時、「では、またあした 南無阿弥陀仏」でいいはずです。
私たちが 気づいていなくても、忘れていても、阿弥陀さまは
いつも私のことを見守り、励まし、導いてくださっているのです。
寝ても覚めても、居ても立っても、嬉しいときも悲しいと時も
悔しいときも、悲しいときも、いつも阿弥陀さまがいっしょ
阿弥陀さまは、私といっしょに、はたらき詰めであります。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏となって。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
第1640回 浄土真宗にないもの
令和6年 7月4日~
築地本願寺の晨朝のご法話で、こんな話を聞きました。
京都でタクシーに乗ったら、運転手さんが話しかけてきました。
京都は、どこへいってこられましたかと、聞かれ
本願寺ですと答えると、そうですか、それでは突然ですが
クイズですと。
京都には 数多くのお寺さんがありますが、他のお寺にあって
東西本願寺さんだけにないものがあります。
それは何でしょうかとの問題、質問です。
お寺には必ずあるのに、本願寺だけにないもの、それはなにか。
浄土真宗には、戒律はない、座禅はしない、たたく木魚はない、などと
つぶやいてみましたが、
運転手さんは いえいえ、外からすぐ見えるものです。
思いつかずに、黙り込んでいると、
正解は 入り口の門に、敷居が無いことです。
確かに、山門を入るときに敷居をまたぐことなく、スムーズに
門をくぐって入っています。
多くの人は 門の前で立ち止まり、軽く頭をさげてから、
入っていかれますが、足下を気にするはありません。
お参りの方は、年配者が多く、安全のために 敷居をなくしたのだろう、
今はやりの「バリアフリー」の先取りなのではないかと思っていましたが、
どうも、それだけではないというのです。
普通の寺院は、山門から中は 別の世界、一段高い敷居は、
外の世界と境内を分ける結界であると言うことです。
また木造建築では、敷居は、強度をたかめるためには重要なはたらきを
しているものだそうです。
そこで、またいで通るもの、踏みつけて劣化させないためにも敷居は、
踏まずに、またぐものだといわれるそうです。
山門をくぐって神聖な別の世界に入っていくのが一般の寺院ですが
浄土真宗の寺院だけは ひとり残らず、一人漏らさず
必ず救うという阿弥陀さまの教えを伝えるお寺であるために
結界である、敷居はないのだそうです。
当たり前になって、気づきもしませんが、敷居のないのが、
浄土真宗である 他力のお念仏の教え、そして、浄土真宗の
お寺であると、教えていただきました。
よくお寺は敷居が高いといいますが、浄土真宗のお寺には
敷居がないのです。
いつでも自由に入ってこれるのが、開かれた貴方のお寺なのです。
第1639回 かっこいい大人に
令和6年6月27日~
東京都知事選挙に、異色の候補者が登場し、善戦しています。
ユーチューブという動画配信を使い、情報発信をして有名になった
広島の安芸高田市の市長だった石丸伸二という青年です。
街頭演説では、「かっこいい大人になってください」と、
歩道いっぱいに集まった人々に呼びかけています。
一人ひとりに投票権があり、政治に直接参加できるのに
投票したところで、どうせ変わりはしないと諦めています。
しかし、みんなで投票することで、東京を動かし、日本を動かして
いきましょう。
東京のみなさんは いま日本全国から期待され注目されているのです。
かっこいい大人の姿を、子どもたちに見せてやってくださいとの演説です。
その言葉を何度も何度も、ユーチューブで聞きながら、浄土真宗の
お念仏の教えも かっこいい大人の姿を、次の世代に見せ、
残していくものではないかと、感じました。
多くの人が、死んだら終わり、死んだらすべてなくなると
思い込んで生きています。
しかし、阿弥陀さまは 私たちを、自分の国お浄土へ生まれさせ、
一緒に はたらいてほしいと、呼びかけておられるというのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にする人に 仏に成って
すべての人のために、はたらいてくださいと願われているのです。
生きていくためには、どうしても自分の家族や仲間のために、
努力せずにはおれず、利己主義にならざるを得ません。
しかし、やがていのちが終り、仏になったら、
みんなのために はたらいてほしいとの仏さまの願いとは、
いったい何を意味しているのでしょうか。
一人ひとりが、損得ぬきに、自分の出来ること、勤めをはたし
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口に、にこやかに喜びながら、
いきいきと、堂々と生き抜いていく。
お金や財産などすぐに消えてしまうものだけではなく、
おかげさまでと感謝して、楽しく自信にあふれた、
かっこいい大人の姿を見せていくことが、次の世代に対しての
最高の贈り物となることでしょう。
かっこいい大人になる これがお念仏に生きるということなのでしょう。
第1638回 因を知り 感じる力
令和6年6月20日~
仏教では、因果の道理が説かれています。
因果とは、原因の「因」と結果の「果」で、行いや考え方に
よって、それに応じた結果が出るというのです。
子どものころから、勉強しなければ良い結果は出ない、
努力することこそが大事だと、教えられて頑張ってきました。
病気になるのも、歳を取るのも、自分自身で
その原因をつくっているのだと思い込み、精一杯生きています。
ところで、今、私は、将来のために行動し、様々な原因、
因をつくっていますが、因果関係でいえば 今、結果、果も
受け取っています。
ご恩という言葉がありますが、恩という字は、原因の因と、心と書きます。
現在は 結果であるとすれば その原因を、因をはっきりと知り、
感じとることを、恩を知るということなのでしょう。
今この状態を、なにもかも当たり前と思っていますが、
数多くの人々のご苦労やご縁により、今ここにいるのです。
因果関係を 過去に遡って正しく見つめ、感じる力が
育てられてくると、私の人生は平凡ではなく、とても素晴らしく
有り難いことと味わうことが出来るものです。
これまで育て導いてくださった、両親をはじめ、
気づいていない沢山の人々、いのちを投げ出して、食物となった
動物や植物、そして自然、感謝しても感謝仕切れるものではありません。
どうかご恩を味わう力を持ってほしいと、先輩達は、南無阿弥陀仏の
お念仏を伝え残してくださったのでしょう。
私たちは、明日のこと、将来のことを心配しているにもかかわらず、
知らず知らずに地獄へいくような悪い原因ばかりをつくり続けて
いるといわれますが、心配はない。大丈夫だよ。
南無阿弥陀仏の人は 間違いなくお浄土へ生まれさせ仏にする、
すでに、阿弥陀仏がその原因を完成されているので、心配はないと。
阿弥陀さまは、あなたの未来は大丈夫、任せておきなさい
それよりも、いままで気づいていない、数々の因や縁を、感じ取る力を、
ご恩に気づき 今を喜び、感じ取り、味わえるように
なってほしいと、呼びかけ、はたらきかけていただいているのです。
南無阿弥陀仏は、将来ではなく、今を喜ばせていただく、
報恩のことばです。
第1637回 かんしゃくのくを 捨てて
令和6年 6月13日~
かんしゃくの く(苦)を捨てて 日を暮らす
かんしゃく から、くをとると かんしゃ(感謝)になります。
ご本山の常例布教に出講中のご講師が、ご本山にいる間は
腹を立てることもなく、有り難い日々を送らせていただいています。
何故かというと、それは 腹を立てる相手が近くにいないからですと、
にこやかにお話くださいました。
自分の不甲斐なさに立腹することもありますが、多くの場合
そこに相手がいて、自分と違った主張をしたり、行動したり
思い通りにならないことに、イライラしてしまうものです。
その相手がいなので、腹の立てなくていいとの意味でしょう。
一方 かんしゃくの苦を取った感謝の方は、そこに相手が
居ても居なくても、しかも現在だけでなく、過去も未来も、
有り難く感じ味わうことができるものです。
食事の前の、食前のことば 「多くのいのちと みなさまのおかげにより
この御馳走を 恵まれました。深く御恩を喜び ありがたくいただきます。」
この言葉を通しても、食事の度に 感謝することもできるものです。
ネットで 「感謝する」と検索してみましたら、
日本予防医学協会という
「人生は 感謝するだけで 好転する」とありました。
外国の心理学者の実験で、「小さなことでよいので、感謝できることを
5つ書き出す、それを続けてもらうと、感謝することを毎日考えた
グループは、何もしなかったグループと比べてみると、
感謝することで、幸福度が高まる 体調がよくなる
人間関係がよくなる 生産性が高まる、よく眠れるなど、
様々な良い効果が期待できるということです。
また感謝すると体内で何が起っているのか
科学的研究の結果から、感謝することで、セロトニンや
ノルアドレナリン(情動や感情に作用)、サイトカイン(抗炎症および免疫力)、
コルチゾール(ストレスホルモン)、血圧、心拍数 、血糖値など、
様々な体内のシステムのバランスが取れる、そして、心身の多くの
機能に好影響を与えてくれることが分かってきたと書かれています。
昔から、感謝することは大切!と言われていましたが、心身の健康に
大きな影響を及ぼすことが科学的に実証されてきているのです。
そして、お聴聞をしている人にとっては、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の
お念仏は、感謝を表すことば です。
先輩達は 感謝することで こころと体に、いい影響があることを知って、
私たちに、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏のお念仏を残して
くださっているのでしょう。
第1636回 まずは 仏さまに
令和6年6月6日~
こんな話をききました。
子どもさんが持ち帰った算数のテスト用紙をみていると、
×が、ついたところがありました。
理解出来ていないのはどんなところかと、問題をみてみると。
りんごを4つもらいました。
お友だち三人で分けたら、一人、何個づつになるでしょうか
という問題に、答えを 1個と書き ×がついていました。
一個と3分の一、分数や小数以下のことが 理解出来ていないと
思い、子どもに聞いてみました。
子どもは こう答えました。
「お友だち三人で 一個づつ分けて、一個は仏さまにあげたので、
みんな一個づつだよ」と、いいます。
「だって、もらったリンゴだから、仏さまにあげなきゃ
いけないでしょう」との答えです。
算数の問題だから、仏さまのことは、考えなくて
いいのと言おうと思いましたが、
なんだか こころが温かくなり、そうだね、いただいたものは
まずは、仏さまにもあげなきゃねと、
そのままにしました。
理科の時間に 氷が解けると何になりますかの問いに、
「氷がとけたら 春になる」と答えた子どもがいたという
話を聞きます。
同じように、頂いたリンゴは 仏さまに、まずはあげるのだという
子どもに 嬉しく有り難く感じました。
近頃 仏壇のある家では、子供たちは育っていません。
自分たち家族だけ、生きている人間中心の生き方を
していては、気持ちのやさしさや 思いやりのある子どもは
なかなか育ってこないのではないでしょうか。
氷がとけたら 春になるとの答えと 同じように、
いただいたものは、まずは ほとけさまに上げるとの
答えも、正解にしたい、こころ暖まる、有り難い答えだと味わいました。
子どもの純粋なこころを、大人たちがだんだんと、損だ得だ、
勝った負けた、比較し競争していくことを教え込んでいます、
例え損をしても、負けても、間違いと言われても
思う存分、心豊かに生きる力を、持ち続けてほしいものだと
思っています。
それを、先輩たちは 仏さま お仏壇 お墓
などを通して、伝えようとして
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏も そうした
先輩たちの願いのこもった ことばなのでしょう。
第1635回 孫たちのために
令和6年 5月30日~
目には見えない 仏さまの はたらきについて こんな話を聞きました。
家には 大きな梅の木があり、毎年その実で、梅干しをつけています。
食卓にいつも置いてある梅干のその実は 父親がまだ小学校高学年の頃に、
おばあちゃんといっしょに植えたものだといいます。
おばあちゃんとお寺参りした帰りに、苗木屋さんの出店に立ち寄った時、
おばあちゃんが選んだものだといいます。
杖をつき背中が曲がった ばあちゃんが、梅の苗木を選んでいると
店のおじさんは 「桃栗三年柿八年、梅はすいすい十三年、・・・
梅は実が付くまで時間がかかるから、ばあちゃんが
生きているうちには
実はならんよ、こっちにしておいたら」と、桃の苗木を進めたそうです。
おばあちゃんは わしのためではなく孫たちのために植えるで
これでええよと、梅の苗木を買ってかえり 一緒に植えたのだと、
父親に何度も聞かされました。
写真でしか見たことのない ひいおばあちゃんが、
植えてくれたものが 梅干しになって、いつも食卓におかれているのです。
ずっと昔の 遠い遠い ひいおばあちゃんが 今でも 私たちのために
はたらきかけていていただいているのだなあと、食べる度に思います。
そう考えてみると、庭にある柿の木も 桃の木も 数多くの花も、
私の知らない 多くの先輩方が、孫やひ孫のために、植えて育てて
くれたものばかりなのでしょう。
そして、この建物も、掛け軸も 置物も、陶器も、敷物も
昔からあって、みんな当たり前で、有り難いなどと感じてはいませんが、
私の周りには、仏さまになった多くの先輩方の思いが、
今でも 生きて はたらきかけ続けているのです。
こうして今、お寺にお参りし、お念仏をしているのも
私自身の力だけではなく、多くの先輩のご縁によって、はたらきかけ、
その力によって、手を合わせ 南無阿弥陀仏と口にしているのです。
仏さまのはたらきかけは 目で見ることはできませんが、
私が気づかないだけで、いつでもどこでも、私のために
体の外からだけではなく、内側からも、はたらきかけ よびかけ
続けていただいているのでしょう。
ぼんやりと生きている私に、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
と呼びかけ、そのはたらきかけに気づかせて
いただいているのです。
気づかなければ 当たり前で、何の感動もない平凡な毎日ですが、
多くの方々の、大きな思いに包まれていると気づかせていただくと
本当に有り難いことばかりです。
ありがとうございます。みんなみんな御蔭さま
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏です。
第1634回 お任せします 有り難うございます
令和6年 5月23日~
朝のおつとめの後、なにげなく外を見ると、
紙袋に、ちり取り、そしてゴミはさみを手にした近所のおばあさんが
道路のゴミを 拾っておられる姿が見えました。
まだ、朝の出勤前で、人通りの少ない時間、捨てられたたばこや
紙くず、ペットボトルなどのゴミを、つまみ取り紙袋に入れながら、
歩いていかれます。
近頃、通りが綺麗になったと思っていましたが、こうして、
一人もくもくと掃除をしていただく方があったからだと、気づきました。
この方は、お念仏とご縁のある方ではないようですが、
すると赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。もう最悪の状況です。
彼は思いました、「ああ最悪のバスに乗ってしまった。」すると、
その泣き声が近づいてきました。
赤ちゃんを抱いたお母さんがバスを降りようと、入口近くにいる
彼に近づいているのです。
「
バスの運転手が下りようとしているお母さんに聞いたそうです。
「その赤ちゃんはどうされたのですか?」
「熱があって泣いているのです。」
「でも大学病院はバス停が3つ先ですよ。」
「この子が大泣きして迷惑をかけているので、ここから病院まで
歩いて行こうと思うのです。」
こんな会話がすぐそばの彼に聞こえてきたそうです。
するとバスの運転手は、やおらマイクで乗客に語りかけました。
「この赤ちゃんは熱があるそうです。あと3つのバス停で病院です。
それまで我慢していただけませんか?」と。
その後バス内は大拍手が起こったそうです。
お母さんは泣きながら乗客達に有難うとお礼をしたそうです。
その時サラリーマンは思ったそうです、
「自分は最高のバスに乗った。」と。
この運転手の言葉の働きが仏法です。
視点が変わると世界が変わるのです。
仏法の視点を持つ時、今までとはまったく異なる世界が広がります。
閉塞した世界が広い世界に転じられるのです。
みなさんも通信教育で仏教を学びませんか。
家事やお仕事をされながらでも学ぶことができます。
まず、いつでもどこでも短時間で仏教・真宗が学べるようにと、
スマホやタブレットで学習できる入門課程を用意しています。・・・・と
損得勝ち負けだけの価値観で生きていますが、
仏教の教え、お念仏の教えに出会うと、違った世界が見えてくるものです。
お聴聞 お聴聞といいますが、新たな価値観を知らされていくのです。
それがお念仏の教えです。
別室で、おときを準備いたしておりますので、そちらへどうぞ、
こほりおほきにみづおほし
(『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)
氷が多ければ多いほど とければ水が多いように、渋が多い渋柿の方が、
甘柿にくらべて甘みが強くなるものです。
私たちも 悩み苦しみ悲しみ、怒り腹立ち煩悩が多い人ほど よろこび多い
人生へと転じられて、味わい深い人生に変えられていくことでしょう。
仏さまのはたらきを 光であらわしますが、干し柿も 光や風のはたらきで
大きく変化させてもらうのです。
氷も 光や風 暖かさでとけてくるものです。
仏さまの大きなはたらきを 繰り返し聞かせていただき お念仏の生活を
はじめてみると、煩悩一杯の私が、渋一杯の柿が、少しづつ甘みが強くなる
よ
渋が甘みに変えられていくように、煩悩が喜びに変えられていくこの教えを
素直に受け取って 悩み苦しみ悲しみから 転じられ、有り難い充実した
人生を 南無阿弥陀仏とともに 送らせていただきたいものです。
「アンパンマンのマーチ」一節です。
その歌の出だしは
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも とあります。
人生は それぞれの受け取り方で大きく違ってくるものです。
何が しあわせで 何が よろこびか
探し求める 一生を みんな送っているのでしょうが、
それが分からずにいる人が 現代は 多いのではないでしょうか。
先輩たちは それを 宗教で確認していたのでしょうが
本物の宗教を知らない人が多い 現代の人々は
一生わからないまま 終わっているのではないでしょうか。
「終活」という言葉が、よく聞かれます。
「子どもに迷惑を かけないように」と、自分の世代で
すべてを解決して終わらせておこうということでしょうが、
一番大事なことは 子どもたちに しあわせとは何かを
確認する方法を しっかりと残え残しておくことでは
ないでしょうか。
いろいろの宗教がありますが、自分の親たちが口にした
南無阿弥陀仏の教えを 子どもたちに、伝え残すことが
父や母、そして祖父母や 多くの先輩が最も喜んでくださる
ことではないでしょうか。
お念仏の人は 死んで終わりではなく お浄土へ生まれ
仏となって この私をずうつと導いてくださっているのです。
それに気づかずにいる私ですが、お聴聞をすると、
仏さまのお話を聞くと、そのことを
繰り返し 繰り返し 教えてくださいます。
それは 先輩たちの呼びかけ、阿弥陀さまと一緒になって
私が進むべき方向を、目標を 生きる目的を知らせていただいて
いるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞くことで
何のために生まれ 何が幸せかを はっきりと確認し
生きるよろこびを ほんとうのしあわせを 知ることが出来るのです。
【仏教のことば】
「生苦」は「生まれる苦」と言いましたが、
…「誕生」がどうして苦なのでしょうか。
仏典は主に二つの理由を挙げます。まず、
①
「誕生は後の苦(老・病・死など)の原因となるから」です。
もう一つは、②「誕生はそれ自体、苦痛を伴うから」です
(岡本健資『季刊せいてん』124号P58)
【仏教のことば】
「〈わかる〉ではなく〈聞く〉である」と聞いても、
それを聞かずにわかろうとしてしまうのが「わからない!」
の理由です。
(石田智秀『季刊せいてん』126号特集「信心がわからない」P48)
9月13日
【仏教のことば】
われ称(とな)え われ聞くなれど 南無阿弥陀
つれてゆくぞの 親のよびごえ
【仏教のことば】
辛いとき、悲しいとき、嫌なとき、嬉しいとき、
あらゆるときに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と
念仏するならば、それによって私たちは真実に
呼び覚まされていく。
絶えず呼び覚ましを私たちにもたらす声が念仏である
(梯實圓『浄土教学の諸問題』上P71)
【仏教のことば】
あらゆる悪と人々を救ふ世界を見出したのが浄土真宗である
…仏を信じたとて、病気が回復したり、貧乏が金が
儲かつたりするやうな利益はない。
されど如何なる境遇にありても「安らかさ」と
「ゆたかさ」とが恵まれてある。 (梅原真隆『人生と宗教』P18)
9月16日
【仏教のことば】
経典にも「仏心とは、大慈悲心これなり」と出ているように、
「慈悲の心」とは、一切衆生を平等無差別に救わずには
おかないという、末通った深い愛情ひとすじの「仏の心」である。
(花岡大学『親鸞へのひとすじの道』P208)
··
【仏教のことば】
阿弥陀仏は私の心に信心の喜びを与えてくださるばかりでなく、
更に、私の寿命のある限りは称名念仏の声として、
私の生活の中にいつでもどこでも現われましょうという
お慈悲から「乃至十念」の称名をお誓いくださった
ものであると味わわれます
(灘本愛慈『やさしい安心論題の話』P177)
今回も 本願寺派総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。
【仏教のことば】
念仏の行者とは、わたしを念仏の行者たらしめている
本願力の不思議を信知し、感動しているもののことである。
(梯
實圓『教行信証の宗教構造』P72)·
2023年8月7日
【仏教のことば】
「この源空(法然聖人)の信心も、阿弥陀さまからいただいた
信心じゃ。そして、善信さん(親鸞聖人)の信心も、
阿弥陀さまからいただいた信心。だったらまったく同じ、
一つと言うべきでしょうな…」
(『いつでも歎異抄』P71「後序」意訳) 2023年8月8日
毎年のご正忌報恩講で 親鸞聖人ご伝絵をご紹介していますが、
法然聖人のところで、先輩同僚と 信心についての論争のところです。
自分の努力で起こす信心ではなく、阿弥陀さまからいただいた信心
そこで、師匠の法然聖人の信心も、お弟子の信心もみな一緒のくだりです。
【仏教のことば】
ほんとうの宗教はこの自分の中に最も危ないものを
蔵していることが知らされることであります。
浄土真宗の御念仏とは正しくこの私の中に鬼を
見出すことといえます。
危ないことを危ないと知らされると、危ないことに
気をつけることとなります。
(稲城選惠『人生の道標』P158)·
2023年8月9日
【仏教のことば】
浄土真宗の仏事は、阿弥陀仏のお徳を讃えるとともに、
亡き人を、阿弥陀仏と同じさとりを開かれた仏さまとして敬い、
そのお徳を讃えるということでもあるのです。
追善供養ではないからといって、亡き人への思いを
軽んじるということではありません。
『季刊せいてん』115号P52) ·
2023年8月11日
【仏教のことば】
仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。
仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、
私をみまもっていてくださる。このお盆を縁として、
すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。
(『拝読 浄土真宗のみ教え』P53) ·
2023年8月12日
【仏教のことば】
「…私が死んだらお浄土へまいらせていただきます。
…けっして遠いところへ離れていくのでもなければ、
子供と別れていくのでもありません。
ほんとうのさとりの身となって永遠に子供のうえに
生きることができるのです…」(山本和上のお母様の言葉)
(山本仏骨『親鸞人生論』P222) ·
2023年8月14日
第1597回 さるべき業縁のもよほさば
令和5年 9月7日~
今回もご本山総合研究所からの【仏教のことば】のご紹介です。
どの言葉を見ても、お念仏の教えに遇えた人の有り難い言葉です。
【仏教のことば】
人間というのは自分が思っているほど一つに決っていない。
固定的な善人、悪人というようなあり方にはなっていない。
…状況や環境次第で、この私自身がどちらにでもころぶのである。
(相馬一意『本物に出あう』P138)
新聞やテレビで見る容疑者を見て、悪人と批判していますが、
一歩間違えば 誰もが同じ過ちを犯すのかもしれません。
【仏教のことば】
経典を読む(読誦)ということは、本来、清らかな悟りの世界から
ひびいてくる仏陀のよび声を聞くことであり、それによって
真実の何たるかにめざめしめられることである。
(梯實圓『浄土教学の諸問題』下P278)
【仏教のことば】
よく、成仏というと死ぬことだと思われていますが、それは違います。
「仏に成る」ことを成仏と言うのです。
(松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P22)
【仏教のことば】
必ず浄土に往生する人生を生きるということは、尊い命を
生きるということです。
そこには感謝と喜びをもって生きることができる、これこそが
浄土のこの世におけるはたらきといってよい、私はそう思います。
(勧学寮編『今、浄土を考える』P70)
【仏教のことば】
諸行無常という言葉を、知らない方はいないと思います。…
しかし、それは知識として知っているだけではないでしょうか。
本当にこの世は諸行無常なのだということの納得がなかなかできないのです。
(淺田恵真『お念仏の真実に気づく』P91)
第1596回 疑り深い私のために
令和5年 8月31日~
私たちは 疑い深い性質を持っています。
常識の範疇だと素直に受け入れるものの、常識を超えていると
そんな馬鹿な だまされるものかと、疑い拒否します。
そんな私を 何とか信じさせようと、
お釈迦様は いろいろと苦心して 教えを説いて
いただいています。
仏説無量寿経の中には、
これまで沢山の仏さまが、この世に出て多くの人々を
救っていただいたこと、そして世自在王仏という
仏さまの時代に 一人の国王が、すべての人々を一人残らず
救いたいとの大きな願いを建て、
その理想の国をつくるために 多くの仏さまの世界を
手本にしたいと、さまざまな仏さまの世界を見せてもらったこと。
その数が 10や20ではなく、210億もの仏さまの国を
見せてもらい、その中から特に優れたものを選び取るのではなく、
疑い深い 私たちのために、五劫という長い長い宇宙的時間
考えに、考えて、48項目の設計図を建て、その完成のために
また宇宙的長い間修行して これまでにない最も優れた
お浄土が完成したと説かれています。
その設計図の17番目には すべての仏さまが、
自分(阿弥陀仏)のことを、誉め讃えるような 最もすぐれた
はたらきができる仏に成りたいというのです。
過去の仏さま 現在の仏さま すべての仏さまが
実現できなかった、努力出来る人も出来ない人も、すべての人を、
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」の名号を口に
するものを 自分の国・お浄土へ生まれさせ 仏にしたいと。
ですから、私がご縁を頂いて 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
お念仏するとき、もう仏さまと同じ はたらきをしている
ことになります。
阿弥陀さまの偉大さ、そのはたらきが、分かっていなくても
お念仏する私は もう仏さまと同じ阿弥陀仏を讃嘆する
はたらきをしていることになるのです。
疑り深い私がどう思と お念仏する時は、もう
仏さまと同じように 阿弥陀さまを讃嘆するはたらきを
しているのです。
ですから、今は 悩み多い人間ですが、やがて いのち終われば
お浄土に生まれ 引き続き 阿弥陀さまを讃嘆する仏さまの
はたらきをさせていただくのです。
もう 今は 仏さまの仲間なのです。
第1595回 物差しを変える
令和5年 8月24日~
今回も本願寺派の総合研究所のツイッター【仏教のことば】のご紹介です。
【仏教のことば】
信心を得る以前は いわゆる常識という物差しで社会を生きてきました。
しかし信心を得るというのは、いままでの常識の物差しを捨てて、
法という新しい物差しの世界へ生まれ変わるのであります。
(霊山勝海『聖典セミナー親鸞聖人御消息』P86)
配信 · 2023年7月26日
私たちは 学校で長年教育を受け、社会での経験を元にした常識で
今まで生きてきました。
しかし、学校教育では ○か×か、採点できることが中心であり
社会では 損得勘定を基本にして、いかに上手に生き抜くか、
老病死を嫌い否定する、価値観で生きてきました。
しかし、現代の科学ではなかなか評価、証明出来にくい、
先輩たちが受け継いできた、大人の智慧、仏法があることを
知らないままでこれまで生きて来たようです。
キリスト教を基本とした西洋的な考え方、ものの見方を
現代人は常識として生きているようです。
そうした、世間の常識を超えた価値観が日本には存在していたこと、
そうした物差しを知り、その世界を体験し、生きていくこと、
それが仏法という新しい物差しの世界に生まれ変わることなのでしょう。
すべてのものを救いたいという仏さまの願い、はたらきを
繰り返し聞き、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞き
どこへ向かうのか、それはお浄土へ向かって力強く生きていく
世界があることを、教えていただいているのです。
【仏教のことば】
仏道を歩むとは…人間の逃れられない根源的な苦悩を乗り越えていく道を
目指すのであり、仏陀の説かれる「苦悩を除く法」とは、「生老病死」の
苦悩を除く法なのである。
親鸞聖人が目指された仏道も、生老病死の苦悩を乗り越えていく道であった。
(勧学寮篇『親鸞聖人の教え』P14)
医学や科学が進み、あたかもこれが万能であるとの誤解があります。
「生老病死」の苦悩を除くには、薬を飲む、手術を受けるなど、
外側からの何らかの治療を受けることでしか、解決法は
ないと信じこんでいます。
しかし、先輩たちは、科学だけに頼るのではなく、仏法を通して
内側からの、精神的な解決法を受け継いできたのです。
そうした世界があることを 教えていただいているのです。
【仏教のことば】
死の問題の解決こそ、同時に生の問題の解決でもあるわけで、
ほんとうの幸福とは、お念仏によって生死の問題を超えさせて
いただく以外にはないと思うのです。
(村上速水『道をたずねて』P27)
ともありました。
第1594回 受け継がれていくもの
令和5年 8月17日~
お盆の間 境内にあるお墓に 子ども連れの見知らぬ若い家族の姿を
多く見受けました。
本堂にお参りする家族、直接お墓にお参りする家族さまざまですが、
年配者が一緒ではなく、自分たちでお参りしているのを見ると、
子どものころに大人に連れられて 参拝していた世代が、
夏休みに帰省して子ども連れでお参りしているのだろうと思います。
大人と一緒に 本堂にお参りしていた家族は、本堂へ上がり
お墓だけの家族はお墓だけ帰る、こうして次の世代に受け継がれて
いくのだろうと、感じています。
さて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所【公式】から
送られてくる【仏教のことば】に
こんな内容がありました。
【仏教のことば】
わが身の善悪にとらわれて、これで助かるだろうとか、
こんなことでは救われまいと思いわずらうことを、
自力のはからいというのです。
そのはからいをやめて「必ず救う」のおおせ一つをあおいで、
おおせに安んずることを安心とも信心ともいうのです。
(梯實圓『妙好人のことば』P226) ·
2023年7月21日配信
【仏教のことば】
仏教というのは世界の見方を変えてくれる教え…
その教えに一度出会うと、出会う前のものの見方に戻ることはありません。
毎日、大量に消費され廃棄されていく情報とは違う、
出会うとその人の人生をも変えてしまう…それが「仏教」です
(松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P4)
·
2023年7月23日配信
【仏教のことば】
仏教は道徳ではありません。
私の窺い知る(うかがいしる)ことのできない「仏の世界」を
学ぶのです。道徳と同じレベルで学べば大きな誤りを犯します。
(淺田正博『生かされて生きる―どうして人を殺してはいけないのですか?―』P28)
2023年7月24日配信
【仏教のことば】
本堂においては、すべて本尊を中心にして語られる。
前後、左右というのも、本尊の前後、左右…であって、
私から向って左右ということではない。…あらゆることがらを
自己を中心として考え、行動している日常的な意識が
本
7月25日配信
第1593回 この世に無駄なし
令和5年 8月10日~
毎日送られてくる 【仏教のことば】 そこに こんなことばが
ありました。
【仏教のことば】
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
この世に無駄なしということなのですね
(鈴木章子『癌告知のあとで―なんでもないことが、こんなにうれしい』P134)
2023年7月17日配信
北海道のお寺の坊守さんで 癌で亡くなられた鈴木章子さんの残されたことばです。
(※摂取不捨=摂(おさ)め取って捨てずという、阿弥陀如来の救い)のことですが、
私たちは 役にたつもの、有益なものだけが 有り難く感じていますが、
この世には 何一つ無駄なことはなく、私たちが忌み嫌っている、老病死も
みんな平等に訪れてくるもの、それをどう捉えることができるかで
人生は 大きく変わってくるものでしょう。
限られたいのち、毎日毎日をどう味わって生きるかで 私の人生は素晴らしいものに
転じられていくのです。
長い命だけが素晴らしいのではなく、健康だけが素晴らしいのではなく、
何一つ 無駄なことはない、ひとつひとつ 味わい深い毎日を
送らせていただきたいものです。
またこんなことばも 送られてきました。
【仏教のことば】
「自由」とは何でしょうか。多くの人は、「自分の思い通りになること」と
考えるでしょう。しかし、仏教では、「自分の思い通り」とは、欲望という
煩悩に支配された「不自由」に過ぎないと見ます。
(『いつでも歎異抄』P51)
【仏教のことば】
慈悲深い両親だからといって、その両親の前で悪事を行って、はたして喜ぶだろうか。
嘆くに違いなく、それでも見捨てないだろう。
また、大切に思ってくれても、悪行については許せない思いのはずだ。
如来の思いも、まったく同じである。(法然聖人の言葉)
(『季刊せいてん』110号P54)
第1592回 仏法は 聴くべきもの
令和5年 8月3日~
毎日 ご本山の総合研究所からツイッターで送られてくる
「仏教のことば」その中に こんなことばが ありました。
【仏教のことば】
世界はこんなに苦しいけれど、解決していく道はきっとある。
月並みな言葉ではありますが、仏の教えというのは、
この苦しい世界での希望なのです。
(松﨑智海
『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P52)
仏教は 生老病死の苦しみを解決するために説かれたとも言われます。
生きるということは 苦しみの連続 その苦しみを解決するために
お釈迦さまが説かれ 多くの先輩たちが その味わいを
具体的に説き 伝えていただいたものが 仏の教えなのでしょう。
先輩が残していただいた、折角の教えに 気づかないでいることは
もったいないことです。
浄土真宗は お聴聞 その教えを 聞くことが大事だといわれます。
【仏教のことば】
「仏法は毛孔(けあな)から入るものである」ならば、
わたしの心身をあげて聴くべきものであろう。
わたしの生活行動を通して、教えのまことを確認する
という意味を含むであろう。
(村上速水『親鸞教義の誤解と理解』P112)
【仏教のことば】
「本尊」とは帰依尊重する本仏をいう。
この本尊が教法の根源であり、また礼拝の対象である。
(『浄土真宗本願寺派「宗制」解説』P43)
【仏教のことば】
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、
煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火(ともしび)となる。
この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」
「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
(『拝読
浄土真宗のみ教え』P3)
【仏教のことば】毎回 短いことばですが、お念仏の教えを
味わうには 誠に貴重なことばです。
ユーチューブで全体を
妙念寺
電話法話一覧表へ (平成9年)~
掲載者 妙念寺住職 藤本 誠
| 第1550回 しあわせな人生 | 10月13日~ |
| 第1551回 かけがえのない君へ | 10月20日~ |
| 第1552回 朝のどまんなかに | 10月27日~ |
| 第1553回 片道か 往復か | 11月 3日~ |
| 第1554回 誓いと 願い | 11月10日~ |
| 第1555回 言葉で 救う | 11月17日~ |
| 第1556回 人間にわかる言葉で | 11月24日~ |
| 第1557回 お念仏は 公の言葉 | 12月 1日~ |
| 第1558回 伝え 伝えて | 12月 8日~ |
| 第1559回 お仏壇の前で | 12月15日~ |
| 第1560回 何事も お念仏の助縁 | 12月22日~ |
| 第1561回 遇い難くして 今遇う | 12月29日~ |
| 第1648回 まだ仕事が残っています | 8月29日~ |
| 第1649回 あんたが悪い | 9月 5日~ |
| 第1650回 自分の姿を鏡で見る | 9月12日~ |
| 第1651回 はじめての道 はじめての人生 | 9月19日~ |
| 第1652回 法座 & フォークソング | 9月26日~ |
| 第1653回 墓友 ~この世からの仲間~ | 10月 3日~ |
| 第1654回 ハチドリのひとしずく | 10月10日~ |
| 第1655回 後になって 気づく | 10月17日~ |
| 第1656回 救われる私 | 10月24日~ |
| 第1657回 私が仏になる | 10月31日~ |
| 第1658回 私は 私でよかった | 11月 7日~ |
| 第1659回 願いを知る | 11月14日~ |
| 第1660回 親の足を洗う | 11月21日~ |
| 第1661回 周りに迷惑をかけて | 11月28日~ |
| 第1662回 ハッピーバースデーだね | 12月 5日~ |
| 第1663回 絵本の読み聞かせ | 12月12日~ |
| 第1664回 良いことをするときには | 12月19日~ |
| 第1665回 浄土真宗は 有り難いですね | 12月26日~ |
| 令和 7年 |
| 第1666回 私の宝ものです | 1月 2日~ |
| 第1667回 これもご報謝 | 1月 9日~ |
| 第1668回 世間か 娑婆か | 1月16日~ |
| 第1669回 マルテンを見ると | 1月23日~ |
| 第1670回 大丈夫 大丈夫 順調 順調 | 1月30日~ |
| 第1671回 良かったね 母さん | 2月 6日~ |
| 第1672回 今 ここに 生きる | 2月13日~ |
| 第1673回 鏡で見ると | 2月20日~ |
| 第1674回 アリガトウ | 2月27日~ |
| 第1675回 対治 と 同治 | 3月 6日~ |
| 第1676回 籠を水に | 3月13日~ |
| 第1677回 いつもいっしょ | 3月20日~ |
| 第1678回 私と 仏さま | 3月27日~ |
| 第1679回 自分自身を 採点すると | 4月 3日~ |
| 第1680回 相続していますか | 4月10日~ |
| 第1681回 知恩報徳 | 4月17日~ |
| 第1682回 実を結ぶために | 4月26日~ |
| 第1683回 よいいっしょ 良い一生 | 5月 1日~ |
| 第1684回 何が起ころうと 大丈夫 | 5月8日~ |
| 第1685回 グッドタイミング | 5月15日~ |
| 第1686回 期待され 待たれている私 | 5月22日~ |
| 第1687回 因果応報 自業自得 | 5月29日~ |
| 第1688回 言えば 良かった | 6月 5日~ |
| 第1689回 呼びかけ続ける | 6月12日~ |
| 第1690回 安心して堂々と生きる | 6月19日~ |
| 第1691回 尊いご縁で | 6月26日~ |
| 第1692回 ヨシ 間違いなし | 7月3日~ |
| 第1693回 水道の蛇口 電灯のたま | 7月10日~ |
| 第1694回 未来を開く ことば | 7月17日~ |
| 第1695回 感じる力 知る力 | 7月24日~ |
| 第1696回 無駄な いのちは 一つもない | 7月31日~ |
| 第1697回 見ていない 見えていない世界 | 8月7日~ |
| 第1698回 有り難い方の お通夜で | 8月14日~ |
| 第1699回 スパイスをきかす人生 | 8月21日~ |
| 第1700回 感謝・喜びの効果 | 8月28日~ |
| 第1701回 見る 感じる力 | 9月4日~ |
| 第1702回 誰で皆 86,400 | 9月11日~ |
| 第1703回 あなたは どち ら | 9月18日~ |
| 第1704回 世界中が雨の日も | 9月25日~ |
| 第1705回 みんな一人残らず | 10月 2日~ |
| 第1706回 無税の相続 | 10月 9日~ |
| 第1707回 裏のはたらき | 10月16日~ |
| 第1708回 愚者になりて 往生す | 10月23日~ |
| 第1709回 おまかせ おまかせ | 10月30日~ |
| 第1710回 | |
| 第1711回 |
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