第1367回 毎日を仏法という鏡に

 平成31年4月11日〜 

 経教はこれを喩ふるに鏡のごとし
  しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す
                    善導大師「観経疏」

二つの「見る

 「今日、鏡を見ましたか?」と聞かれたら、多くの人は、「はい、見ました」
と答えるでしょう。
続いて「どうでしたか?」と聞かれたら何と答えますか。


「どうでしたか?」と言われても困ってしまいますが、「別に、普通でした」
か、「少し髪の毛に寝癖がついていました」などと答えるでしょう。
まさか「家の鏡は四角かったです」と答える人はいないでしょう。
でも、それも鏡を見ていることに間違いはないのです。


 「鏡を見る」と「桜を見る」では、同じ「見る」でもその意味が違います。
「桜を見る」と言った場合は「桜」を見ますが、「鏡を見る」と言った場合は、
普通、「鏡」ではなく「鏡に映った自分」を見ることを意昧します。

 実は。仏法を聞くということは、この「鏡を見る」ということに近いのです。
仏法を聞いた時、仏さまの教えは、こんな教えなのかと、客観的に教えの内容
理解しただけでは、本当に仏法を聞いたとは言えないのです。
仏法を聞けば聞くほど、自分の姿が見えてくる。
そんな聞き方をしないと本当に聞いたとは 言えないのです。



 映し出される自分

善導大師は「観経疏」の中で、「お経に説かれた仏さまの教え(仏法)は、
鏡のようなものです。いくども読み、いくどもその心を尋ねるならば、智慧を
生み出します」と言われています。

 仏法という鏡に映し出された自分の姿とはどのような姿でしょう。
真実に目覚めた者の教えによって映し出された自分は、自己中心の心から離れられず、

煩悩に振り回されている愚かな自分に違いありません。
しかし、自分の愚かさが知らされたということは、真実のあり方・自分の
目指すべき方向が知らされたということでもあるのです。


 つまり、仏法を聞くということは、自らの愚かさが知らされると同時に、
らの目指すべき方向が知らされるということなのです。

なお、「いくども読み、いくどもその心を尋ねるならば、智慧を生み出します」
というお言葉は、自分が智慧を体得するというより、仏さまの智慧が届いて、
真実に導いてくださると受け取った方がいいでしょう。


 毎日、仏法という鏡の前に立ちたいものです。

           本願寺出版社発行 いのちの栞 小池秀章師より


          


           私も一言(伝言板)