第1430回 天耳通の誓い

  令和2年6月25日〜

 聞こえるはずの耳を  もっていても 
聞く耳を  もたない人がいます。
自分の思いを  相手に おしつげることが
あっても、 相手の言うことに  まったく
耳をかさない人が います。


また、自分の都合の いいことだけは
聞くが、それ以外のことは  一切聞かない
人が います。

これは、他人のことではないのです。
この私が そうなのです。

何でも 聞いているつもりで、何も
聞いていない私は 闇の世界に さまよい
込んでしまっているのです。


 闇の世界、即ち 無明の世界では、
自分をとりまく すべての人が
自分を利用しようとしている人間、
もしくは 敵に 見えるのです。


だから、どれほど自分のためを思って
話してくださっても素直に 受けとれ
ないのです。

言葉の裏に何かある。
下手に のせられたら  ひどい
目にあう。


本気で 聞くと危い、と 耳を塞いで
しまうのです。

結局、私たちは 疑いによって
心を閉じ、耳を塞いでいるのです。

即ち、疑いによって  闇の世界に
住むのです。


 しかし、長く闇の世界に
住んでいると、自分が闇の世界に
いることが  わからなくなり、
どうせ この世は 食うか 食われるか、
騙すか 騙されるしか ない世界だと
割り切り、 その中で 一喜一憂
しながら  疲れ果てて淋しく
生命終って  いくのです。


どうしたら 闇の世界から
でることができるかということが、

闇の世界に 住むものの一番大事な
課題、即ち一大事なのです。


 耳を塞ぐから 闇の世界を
さまようのです。

耳を 開けばいいのです。
どうすれば 耳を開くことが
できるでしょうか。


疑いが  耳を塞いで いるのです。
疑いが  晴れれば  耳は開きます。
では、どうすれば  疑いが晴れる
でしょうか。


疑いようのない 真実に 遇わない限り、
疑いは 晴れません。

どんなことがあっても 裏切ることも、
あざむくこともない

真実に 遇う以外、疑いの  晴れる道は
ありません。


 逃ぐるものを 追わえとり、
どんなことが あっても捨てることのない
摂取不捨の本願に遇って、はじめて

閉じた心が 開き、塞いでいた 耳が開き、
疑いが晴れるのです。


騙されても いい、利用されても いい、
私には  どんなことが あっても  捨てる
ことのない如来が おってくださるのです。


「 騙されては 」と、きばる 必要もない、
「 利用されては 」と、力む ことも
ないのです。


耳に 届いてくるものを そのまま
聞こうと耳が 開き、疑いの  晴れるとき
闇は  消えるのです。 

摂取不捨の本願に  遇い、いいも 悪いも
如来に任せて 精一ぱい 聞いて、
精一ぱい 生きようという 信において、

私の耳は すべてのことを 自由に
聞くことのできる天耳通と なるのです。 


天耳通を得るとき、耳に 入ってくる
すべてのものが私を 生かそうとする
慈悲の言葉となって、我が身に

届いてくるのです。

木村無相師は『 念仏詩抄 』の中で、親鸞聖人の
「 ご和讃 」をよろこんで、

 ナモアミダブツを となふれば 
 十方無量の 諸仏は

 百重 千重 囲繞して 
 よろこび まもりたまふなり

 わたしを とりまく一切が 
  諸仏であると 今しった
 一切諸仏に まもられて 
  今日ある わたしと  今しった   

と、うたっておられます。


今まで、私たちは 自分をとりまく人々が
諸仏であるなどと 思ったことは ありません。

諸仏と 思うどころか、皆 敵だと思って、
油断は できない、気は 許せない、と
かたくなって 生きてきました。


そうではなかったのです。
わたしを とりまく一切が  諸仏で
あったのです。

やさしい諸仏も、厳しい諸仏も、あたたかく
見護ってくださる諸仏も、重い試練を
あたえてくださる諸仏もいてくださいます。


 やさしく励まして くださる説法も、
厳しく叱責してくださる説法もあります。

それぞれが 身にしみ、忘れることの
できない説法であります。


私たちは 諸仏にとりまかれ、諸仏の説法を
聞き続けて、今日一日、今日一日を
生き抜かせて いただくのです。

すべてが  阿弥陀如来の本願の中での
できごとであります。

人となれ仏となれ 藤田徹文師著 
        永田文昌堂刊



          


           私も一言(伝言板)