第1454回 素晴らしい発見

 令和 2年 12月10日〜

 浄士真宗の教義で、[往生浄土]
ということが言われてきましたが、

これは今日の言葉で言い換えますと、
人間が本当に生きる道ということです。


本当に生きるということですから、
死んでから極楽へ往ってそこで
生きるということではありません。


往生という字は、順序から言うと、
往って生きる、往生と書いてあるから、

まず往ってそれから生きるんだろうと、
こういう具合に思いがちですが、

しかしいったいどうしたら浄土に
往けるのですか。


これがそもそも問題なのです。
この世を本当に生きた人が
浄土に往けるのです。


この世を本当に生きた人、
そういう人が往生であります。

だから、向こうへ往ったら
生きられるだろうではなくて、

その前に今、この世で。本当に
生きたということがなかったら、

その人は浄土で仏にならない、
と親鸞聖人はおっしゃっています。


 これを教義の言葉で言ったら、
信心がなかったら、決して浄土へは
往けないということです。


信心というのは、本当に生きる、
ということです。

「信心の定まるとき往生また
定まるなり」という言葉は、

『末灯鈔』第一晝簡に出てくる
有名な言葉です。


これは、親鸞聖人が浄土真宗の
根本をおっしゃったみごとな
言葉です。


いったい往生、往生と言うけれど、
往生ということはいつ定まるのか。

死んでから定まるのでなくて、
仏を信じた時に定まるのです。

つまり、凡夫がこの世で、大きな
如来のいのちに自分をまかせた時に、

もう往生が定まるということです。

極楽へ往って生きるのでなくて、
本当に生きた人が極楽へ往ける
わけです。

だから、順序は反対ですね。

往って生まれるのではなく、
生まれて往くのだという具合に
考えるのが本当でしょう。


親鸞聖人は、
「信の一念で往生が決まる」
とこうおっしゃっているのです。

信心の瞬間に水遠が顕れる。

信のこの一念に、永遠というものに
出遇うという経験が、信心決定と
いうことです。

時間の中で水遠の今に、出遇う
ということです。


「信心の定まるとき往生また
定まるなり」、このことを

「現生の正定聚」とおっしゃって、
その永遠のいのちに触れることが、

あの世じゃなくて、この世に
生きている時だと言うことを
強調されたのです。


これが親鸞聖人の素晴らしい
発見です。


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      本願寺出版社


     


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