第1420回 往生と成仏 

    お浄土の道は渋滞中?


令和 2年 4月16日〜

 「往生する」という言葉を聞いて、
どのようなことを連想されるでしょう。

例えば、テレビのニュースなどで、
「高速道路が通行止めとなり、料金所を
先頭にして数十キロにわたって、
立ち往生しています」というふうに
アナウンスされていることがあります。

この場合、「立ち往生」は、「その場で
身動きが取れない」という意味で
用いられています。

 さらに、「立ち往生」と聞いて、
思いあたるものはないでしょうか。
それは、歌舞伎十八番といわれる
演目のひとつ、『勧進帳』で有名な
武蔵坊弁慶の最期の姿でしょう。

主君の源義経を守るために、
その身を挺して、数多の敵兵から
無数の矢を受けてもなお、薙刀を
持って「立ち姿で、往生する」
という逸話です。

歴史的事実かどうかは別として、
「立ち往生」は、一般的に
「その場で、立ち姿のまま、息絶える」
ことであると理解されわれる
ようになったともいわれています。 

そうしますと、「往生する」
ということは、「困りはてる
(止まる)」「死ぬ」というふうに
考えてしまいそうですが、実は、
どちらも誤っているのです。

なぜなら、[往生する]という
言葉は、「(迷いの世界である
此岸から、さとりの世界である
彼岸に)往き生まれる」という
ことをあらわす動詞であるからです。

このように、「往き生まれる

(往生する)」という言葉には、
文字通り、「往く」「生まれる」と
いう意昧がありますから、
まったく逆の意味となってしまうでしょう。

 また、「成仏する」という
言葉についても、「往生する」
という言葉と混同して、どちらも
「息絶える」という意味で
使われていることがあります。

 ところが、「成仏する」という
言葉は、「仏(陀)に成る」と

いうことを表したものですから、
さとりを開く」という意味で
あるのです。すでに私たちは、
この世で成仏している方、
釈尊(釈迦牟尼仏)を知っています。

そして、その説法を通して、
阿弥陀仏の教え を聞いて
いるのではなかったでしょうか。

 私たちは、「(この世で)成仏する」
ことができるほど、勝れた
心のもち主ではありません。
ですから、釈尊は、「(阿弥陀仏の浄土に)
往き生まれる」ことを勧め、
そして、「(浄土に生まれると、
たちまち)さとりを開く」ことが
できるという浄土真宗の教えを
お説きになっています。

 そこで、親鸞聖人は、私たちの
「往生」「成仏」の道が、阿弥陀仏の
はたらきのうちに開かれている、
ということを明らかにお示しに
なっているのです。

本願寺出版社刊 佐々木義英師著 なるほど浄土真宗

          


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