第1668回 世間か 娑婆か

 令和 7年 1月 16日~

 気になることがあります。
どうも、日頃、「世間では」という言葉をよく使っているようで、ある方から
注意を受けてしまいました。
「世間では」とは この世の中ではとか この娑婆世界では、
宗教心のない人々の生きている世界では、などの意味で使っていたようですが、
その場に居た方からは、世間よりも 娑婆世界という言葉の方が、
仏教的ではないですかとの助言もいただきました。

 そして、注意して下さった人は、若い人をさして みんな世間のことは
よく分かっていますよと、苛立たしくつぶやかれました。
そのことを、他の人に話ましたら、世間知らずだという趣旨で発言している
ように、誤解して受け取られたのではないかとの感想も頂きました。

 世間というよりも 娑婆といった方が、仏教的ではないかと言われても
それもどうも違うように感じます。
娑婆というと、仏教的な知識認識がある人が、この世のことを見て
仏の国、あるいは理想の国に対して、娑婆と表現している言葉のようにも
聞こえます。

世間という言葉は、仏教的な価値観を持つことのない人が、
もくもくと生きている世界、この複雑な人間世界という意味で使っている
言葉であったようにも思います。
中には 刑務所などにいる人が、自由な世界を意味して娑婆に出たら、
ああしたい こうしたいなどという、夢見るイメージがあるなどと、
おしゃる方もありました。

 ところで、浄土真宗本願寺派では、教学を専門に研究する組織があり、
ネットを使って、いろいろお聖教の検索が出来ます。
それを使って、浄土三部経というお経で、娑婆と世間という単語が
説かれている箇所を検索すると、世間が 27回 娑婆が1回。
その中で、これこそ真実の教といわれる、仏説無量寿経では、
世間が24回 娑婆が0回 という結果が出てきました。

 親鸞聖人の書かれた教行信証では、世間が58回 娑婆が29回
蓮如上人の御文章では 世間が10に対して 娑婆が2、断然
世間という言葉が多いことも分かりました。
これは お師匠の法然聖人の選択集では 10件の世間 4件の娑婆
親鸞聖人が 世間を多く使われたのは、この流れによるの
だろうと、思われます。

そして、真宗の聖教全体では、233の世間と 130回の娑婆。
どうも、日常的に使っていた世間という言葉は、お聖教の勉強会などで
講師の先生が、この私たちの生きて居る世界のことを 娑婆というより、
世間、世間ではと、仰っている言葉のオウム返しをして使っている言葉で
あったように感じています。

それにしても、娑婆という言葉よりも、世間という言葉が 浄土真宗の
お聖教では、とても多く使われていることを、改めて知りました。


 

          


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