第1316回 遇えて はじめて

平成30年 4月19日〜

お母さんが亡くなられたことを機に、お念仏とのご縁を頂だかれた方から
こんな話を聞きました。

ご住職に勧められて法座に出かけましたが、最初聞いた時は、専門用語ばかりで

素人を相手に、何でこんな意味のわからない話をするのかと、疑問を持ちました。
世の中では出来るだけ多くの人に理解してもらおうと、工夫をして

わかりやすく説明しているのに、一般の人から遊離して、昔ながらの進歩のない
専門家だけが分かる説き方に、よく今まで続いてきたものだと感じたものです。

 まだ人々が素朴な時代には、伝統的な旧来の説き方で良かったのでしょうが
今情報化が進んだ時代、このままではやがて仏教は絶えてなくなるのでは
ないかと、批判的にお話を聞いていました。

 もっと分かりやすくするには、どのような表現が出来るか、自分で考えながら
聞いていましたが、何度かお話を聞くうちに、専門用語を使わずに説明するのは
とても難しく、返って混乱をもたらすのではないかと、思えるようになりました。

とともに、今まで自分が持っていた価値観とはまるで違っている、というより、

まるで逆の価値観が説かれているのだと思えてきました。

お釈迦さまが求められたものは、現代人が求めているものとはまるで逆であり、
我々が認めている価値を全部否定されたのだと聞こえてきました。
愛情や財産や権力、これらを全部捨てて道を求められたのが

お釈迦さまだったと気づきました。

 そう気づくと、自分はこれまで、仏教を間違って理解していたこと、
社会の一部、表面だけを見て、すべてがわかっているつもりでいたのだと
少しずつ納得し、お話の内容が少しつづ、見えてきたように思います。

現代は自分の都合のよいところだけを見て、それを実現するのが幸せだと
しかし、人間は生まれてくれば、みんな年齢をとり、病気になり
やがては命が終わるのに、それを見ないように気づかないようにして
ごまかして生きているのだと思い至りました。

都合のよいことだけではなく都合の悪いことも見て、感じて、受け入れといく
それが出来なければ、いつの日か突然に絶望が訪れて、何のために生きているのか
何を目指して生きているのか見えなくなることを、仏教は教えているのだと。

そう思えるようになるとお聴聞が非常に楽しく、お話の内容がよく理解できる
ようになってきました。
そしていま、仏さまのお話を聞くのが実に楽しく、いそいそと法座へ通っています。

このような喜びは、会社勤めをしていたときには味わったことのない充実感です。
そして、それは、勝った負けた、損した得したとの一喜一憂の感動ではなく、
すべての人が誰でも同時に喜ぶことの出来る、非常に有り難い感動だと思っています。


南無阿弥陀仏のお話は、今まで喜んでいたこととは大きく違った、いつでも、
どこでも、誰でもが、どんなときでも、敵も味方もなく同時に喜びを感じ、
大きな感謝の気持ちが持てて、自分ほど幸せ者はいない、なんと多くの力に
支えられて生きているのかと気づかせ、感動を与えるものだと感じています。

今思うのは、もっと早くこうしたお話を聞くチャンスがあれば、
人生の深みを、感動を若いときから味わうことが出来たのに、もったいないことをしたと
思っています。
でも、母が亡くなることをご縁にはじめて遇えてのですから、母親からの
プレゼント、残してくれた真実の喜びだろうと味わっています。

是非、自分の子供や孫、ご縁のある人に一日でも、早く気づいて受け取って
味わってもらえれば、うれしく思うばかりです。
でも、私自身が今まで出合えなかったことを思うと、ご縁があるのか、ないのか、
遇えない人は遇えず、遇える人だけが遇える、尊い有り難い価値観だと思っています。
お念仏にあえてはじめて、私の人生は、意味のある素晴らしものだ
思えるようになりました。

どんなに専門用語を使い、なかなか理解できなくても、
遇える人は遇える、遇えない人はどうしても遇えない、いただきものだと、
だから2500年消えずに残ってきた、伝わったきたのですねと・・・・・。

こういうお話をしていただきました

          


           私も一言(伝言板)