第1443回 親鸞聖人の他力観

 令和2年 9月24日〜

 親鸞聖人の他力観は、一般の
常識を超えています。

まず第一に、私どもは 念仏しよう
と思ったらすぐにできるといわれ
ますが、だいたい念仏しようとする
気さえも起こらないのが私どもの
本性であるといわれたのが親鸞聖人
でした。

そのような私が 念仏を申すように
なったのは、できることをしている
のではなくて、できないはずのこと
ができているのだといわれるのです。


できないはずのことができている
というのは、じつは私のはからいで

念仏しているのではなくて、
阿弥陀如来さまの本願力が、私を
揺り動かして、念仏申す者に育て
上げてくださったのであって、
念仏は如来さまの本願力が

私の上に救いの花を開かせて
おられる姿なのであるというのが

親鸞聖人の念仏の味わいだったのです。

聖人が「たまたま行信を獲ば、
遠く宿縁を慶べ」と仰せられたのは

その心を述べられたものです。

 第二に、南無阿弥陀仏は
「助けてください、阿弥陀さま」
と救いを願い求める声であると
一般にはいわれますが、
親鸞聖人は、助けてくださる
阿弥陀さまが「かならず助ける。
私にまかせなさい」と呼んで
くださる本願招喚の勅命であると
いわれていました。


だからこの如来さまの仰せを疑い
なく受け容れて、本願力をたのむ
すがたを信心といい、その信心を
賜ったときに往生は決定する。


だから念仏しているすがたは、
「お助けくださって有難うござ
います」とお礼を申し上げて
いるのであるといわれるのです。


 ですから自分が思いはからって
判断し、決断し、行動を起こす
というような自力の念仏ではなく、
本願を信ずる気もなく、念仏する
気も起こらない私を育てて、
本願を信じ、念仏する者に育て
上げて救おうとはたらいているのが

本願力であって、その本願力に
よって、私どもを本願を信じ念仏
する者にならせているのですから、
信心も念仏も如来の本願力の
たまものであって、私の功績は
まったくないと仰せられるのでした。

 そのような本願力のはたらきを
聖人は他力とも他力回向とも仰せ
られたのです。

それはまったく人間のはからいを
超えた、如来さまの智慧と慈悲の

おはからいのたまものですから
聖人は「他力不思議」といわれた
のです。


 もう一度申しますと、ここに
私が念仏を申しているという
一つの事実がある。

この念仏は、私の行いだといえば、
たしかに私の行いです。

表面だけを取れば、私が判断し、
私が行動しているのに違いない
からです。


だから、この念仏は私の行いで
あると受け取る、これは普通の
考え方です。

しかし、このような普通の考え方を、
親鸞聖人は思議の世界だと
おっしゃるのです。


如来さまのおはからいを覆い
隠しているから、その人には
人間しか見えていない、


人間の料簡を中心にして物事を
考えているとおっしゃるのです。

梯實圓師 親鸞聖人の信心と念仏 
          自照社刊


     


           私も一言(伝言板)