第1364回 いつもが臨終法話

 平成31年 3月21日〜

 稲城選恵・本願寺派勧学のことばに こんなところが あります。

 浄土真宗の肝は、いつでも臨終法話にあります。
蓮如さんは「仏法には明日といふことはあるまじき」といわれる。
真宗の法話は臨終の法話だから、いまが終いでも間にあっている。
それが平生業成ということなんです。

 今晩か明日の朝まで いのちがないという人から、
「法話を聞かせてくれ」といって応えられないようなら、
僧侶は袈裟をとらないといけない。
明日にもいのちがない、それでも間に合うくらい充分に
間にあっているのが浄土真宗、それが平生業成です。

 浄土真宗では平生業成を明らかにしないといけない。
平生といったら「いま」。
いつでも「いま」ということ。
明日になったら平生にならない。
平生は昨日でもない「いま」です。

 ですから「教行信証」には、「総序」の終いに「遇ひがたくして
いま遇ふことを得たり」、三願転入の二十願から十八願の転入の
ところに「いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せリ」と
「いま」が二ヶ所でてくる。

 仏法は「いま」を説いている。
死んでからではない。
「いま」といったらわしが居るところ。わしがどこに居るか。
わしが居るところが助かる場所。本願成就だから、
助かるが先に届いて居るんです。

浄土真宗では 臨終法話ができないと僧侶の資格はない。

その臨終とは「いま」ですから。「仏法には明日といふことはあるまじき」
いま助かる法ですからね。


 (インタビュー「先學に聞く」、本願寺教学伝道研究所
     ニューズレター「あなかしこ」第三号)より

          


           私も一言(伝言板)