第1394回 後生の一大事

令和元年 10月17日~

 日本の知識人の多くは、宗教の問題になると「私はいっこうに無信心でして」と
言ってあいまいに笑っていますけれども、無信心ということはこの世の生存しかない
という信仰のことですから、「私は自分の人生の行方がわかりません。私は地獄に堕ちます」
と言って笑っているのと同じことでしょう。

なぜなら、何も頼むものがなくてひとりで棺桶の中に入る自分を誰も助けてはくれない。
死は怖くて仕方がないから、そういう自分の現実をごまかして死んでいく。
こういう心が地獄です。

そうすると現代人にも地獄は決してなくなったわけではありません。
蓮如上人は、如来さまを信じない人は三途の川をひとりで行くことになると、
『御文章』第一帖第十一通に書いておられ


  かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふこと
   あるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこ
   そゆきなんずれ。 (『註釈版聖典』}一〇〇頁)

 とあります。
こう教えられても、「死んだ後に山も河もあるものか」などと見当ちがいな

抗弁をしたりする。
しかし、たったひとりぼっちで、どこへも行くところがないという
お先真っ暗の心が、とりもなおさず地獄ということではありませんか。

 地獄というのは、別に死後に空間的に実在する他界のことをいっている
のではなくて、絶望的な自分の心をいっているわけです。

三途の川も、閻魔さまも、鬼も信じないと言うのですけれども、何も信じ
られないという不安でお先真っ暗な心は地獄以外の何ものでもありません。

生前に自分がたよりにしていたものはことごとく自分をはなれ、自分を

裏切るわけです。
これさえあれば大丈夫と思っていたのに、こんなはずではなかったと思って
お棺の中に入る。

しかし、この自分は一体どこへ行くのかわからない。
仕方がないからそのことを自分にごまかして、何が何だかわからない
うちに人生を終わってしまう。
これが地獄でなくて何でしょうか。

だから、現代人にも地獄は依然としてあります。

死後の他界としての地獄ではなく、死ねば何もないという無の地獄です。
後生の一大事は、依然として永遠の真理であります。


これほどの真理はないということを、蓮如上人はおっしゃるのです。

われわれは、仏さまが教えてくださった生死の一大事という真理を、
耳をそばだてて聞かなければなりません。
それ以外にわれわれの救いはどこにもないのです。

 宗教の問題というのは、人類の未来はどんなだろうとか、何千年後に
どんな宗教が出るかとか、そんなことではありません。
私たちの命は今夜終わるかもしれない。
人類の未来どころか、今日明日もわからない命を生きている、
この私というものの緊急問題なのです。

宗教は各人の今ここの問題をいうのです。

お棺の中には、平生有用だったものは一つも入っていません。
人間は何も頼るものがなく終わってゆく。
その孤独な私を捨てないとおっしゃってくださるものに出遇わなければ、
われわれは何のためにこの世にやってきたのか、わからないことになります。

どんなことがあっても、お前を捨てることはない。
お前がお前自身を捨てても、私はお前を捨てない。
こうおっしゃっているのが、阿弥陀さまのご本願です。
そのご本願の招喚の声を本当に聞いたら、私たちははじめて安らかになります。

             召喚する真理 正像末和讃を読む 大峯顕著 p166



          


           私も一言(伝言板)