第1337回 老いの中で

平成30年 9月 13日〜

 今、「老い」の生き方が、問われています。
お釈迦さまは、「老いること」を、生・病・死とともに、人生の根本苦である、
四苦の一つとしてお説きになっています。

 眼は視力もおち、頭は鈍くなり、気力のおとろえを感じるようになったとき、
なるほどそうだなと、このきびしい現実を認めざるをえません。
社会的にもだんだん周囲からうとんじられ、ときには、ののしられることも多く
なってくるでしょう。


 しかし、顔にしわがよっても、こころにしわがよらないように。
身はこわばっても、こころは頑固にならないように。肉体はおとろえても、
こころは明るく、肉体は老いても、こころは若くありたいものです。
私の人生は、二度とやり直しがききません。
今日は、たった一度かぎりの、「今日」ただ今です。さまざまなご縁によって、

生かされている「今日」です。

 明治の中ごろ、西本願寺の大谷家にお生まれになり、社会事業にたずさわり、
仏教婦人会活動に積極的に取り組まれた、歌人の九條武子さまは、


 「見ずや君 明日は散りなん花だにも 力のかぎり ひと時を咲く」と、よまれています。

 老いるとも、きょうという日は、まだ歩んだことのない元日です。
大切に味わい、大切に生きていかねばなりません。
たとい世間からは、うとんじられるようになっても、私を見護っていてくださる
仏さまがおられます。
さびしい私、ひとりぼっちの私に、その一人ひとりに声をかけて下さるのです。

仏さまの願いに生かされているということが、年をとって見えてきた、
お法がほんとうに聞こえてきたと、おっしやった方がいました。

生をうけた、本当のよろこびを味わうことができたと、しみじみとよろこばせて

いただこうではありませんか。

 人として生まれたことは、まことにありがたいことです。
仏法に遇うことができたのも、まことにありがたいことです。
人として生まれた悲しみを、人として生まれたありがたさに、変えてくださった、
仏さまの不思議なお力に、感謝したいものです。

 最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                         朗読法話集 第一集 より

          


           私も一言(伝言板)