第1446回 信心の行者
令和2年 10月15日〜
私どもを、本願のみ言葉を疑いなく
受け入れる者に育て、仏のみ名を称える
念仏の衆生に育て上げて、浄土に迎え
取ろうと誓願され、そのとおり現に
はたらいておられる如来さまであると
受け取っていかれたのが親鸞聖人でした。
わけてもそこには、「若不生者、不取正覚」、
もし生まれずは、正覚をとらじと
誓われているます。
十方の衆生、生きとし生けるすべての
者に向かって如来さまは、もし、あなた方を、
本願を信じ念仏する者に育て上げて、
私の国(仏陀の領域・浄土)に生まれ
させることができないようならば、
私は正覚を取りませんと、ご自身の正覚、
言い換えれば仏陀としてのいのちをかけて
救いの成就を誓われている。
これが阿弥陀如来さまの根本の願い、
本願というのです。
この願いが完成し、願ったとおりに
人びとをお念仏申す者に育て上げて、
そして浄土へ迎え取り、さとりを
開かせる力(本願力)が完成したとき、
法蔵菩薩は阿弥陀仏となられたのでした。
第十八願において願ったとおりに
人びとを救済するはたらき、力が
完成していることを本願力というの
ですから、阿弥陀仏とは、本願の
とおりに一切の衆生を救いつつある
本願力の活動を表すみ名だったのです。
そして、『大無量寿経』はそのことを
説いていますから、本願の始終(因と果)
をもって阿弥陀仏の名号にこめられている
救いのいわれを説き表したお経と
言われるのです。
そのことを親鸞聖人は、「如来の本願を
説きて経の宗致とす、すなはち
仏の名号をもって経の体とするなり。
(註釈版135頁)と言い
本願をもって名号のいわれを説き
明かされた経ですから、この経の法義は
南無阿弥陀仏という名号に収まると
言われたのです。
また、名号を聞くということは、
阿弥陀仏の本願のおこころを聞いて、
私をお救いくださる阿弥陀如来さまの
ましますことを信知して喜ぶ
意味していました。
親鸞聖人が本願成就文の「その名号を
聞いて信心歓喜せん」と言われた
お言葉を解釈して。
「聞」といふは、衆生、仏願の
生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。(註釈版251頁)
と言われていますが、それはその心を
表されたものです。
ですから、南無阿弥陀仏という
言葉を聞いたら、「私は如来の
お救いのめあてであったんだなあ」
「私は今まで気がつかなかったけれども、
阿弥陀如来さまの大きな救いのはたらきが
私の上にはたらきつづけていてくだ
さったんだな」「そのことをかたくなな
私に気づかせるために、南無阿弥陀仏と
名告りつづけ、喚びつづけていてくだ
さったんだな」と思い知らされるのでした。
そのことを知らせるために、親鸞聖人は
「本願の名号」「誓願の尊号」、あるいは
「誓いのみ名」というようなお言葉を
使われたわけです。
そして、この誓いを聞いて感動し、
仰せを疑いなく聞き受けて、如来に
すべてをおまかせしていく人を。
信心の行者というのです。
親鸞聖人の信心と念仏 梯實圓師
自照社出版