第1419回 死と往生の違い

令和2年 4月9日〜

 一般に、人の死を往生と表現する習わしが
ありますが、人が死んだからといってみな

往生するとは限りません。

往生とは阿弥陀如来の浄土に行くことであり、
涅槃界に仏として生まれ変わることです。
当然、そこには往生するための手続きが必要で
あって、その手続きをとらない者が、この世の
いのちが終わったからといって往生できる
はずはありません。


 すなわち、煩悩悪業そのものである私を
浄化し、涅槃界に導くエネルギーとしての
号が私自身に定着して初めて、死に臨んで
浄土に生まれ変わることができるのです。


 阿弥陀如来の名号を聞き、それを確かに
受け止めた者にとって、浄土は想像の世界で

はありません。

それは、即物的に見たり触れたりすることは
できませんが、法則的に確実な存在として
心眼に映るのであります。
浄土往生は単なる願望や期待ではなく、往生

こそが最も確実不動のものなのであります。

 その往生が死を契機とするものですから、
今生の別れという愛別離の悲嘆を避けることは
できませんが、それは永遠の決別ではありません。


 この煩悩繁き肉体が死んで、ふたたび泣いたり
別れたりすることのない光の国、浄土に生まれる
のですから、内容的にはまことにめでたい
門出であります。
と同時に、それは人間的愛情の限界に泣いた者が、
阿弥陀如来の大慈悲のはたらきに参画するのであり

ますから、そこには不安も恐怖もなく、安らかに
死に臨むことができるのであります。


 阿弥陀如来の本願を信ぜず、名号を受け取らない
人にとっては、浄土は存在しません。

それは夢想の世界であり、架空のものであります。

その人にとっては、現実ここにいる自分こそが確実な
存在で、したがって死は無の世界への帰着です。
無の世界とは、光なき暗黒であります。
暗黒の底に引きずり込まれていく死は、恐怖と
不安以外の何ものでもありません。
このような暗黒の世界を地獄というのです。


 このように浄土に往生するためには、必ず
身体的死を契機としなければなりませんが、

死は必ずしも往生ではないのです。
このように言いますと、往生は完全に死の向こう側

のようですが、ひとたび名号を受け止めた者に
とっては、浄土は向こう側の世界でありながら、
同時に現在、感応同交することができるのです。


身体という煩悩そのものを断ち切ったのでは
ありませんから、即座に浄土に往生はできませんが、
念仏申しつつ、心ばかりは浄土を感じるのであります。

この世を先立って浄土に往生した人と境界を
異にしながら、同じ阿弥陀如来の大慈悲のなかに
抱かれてある一体感を味わうことができるのです。


 本願寺出版社 霊山勝海師 やさしい真宗講座

          


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