第1676回 籠を水に

 令和7年 3月13日~

 「私は、仏さまの教えを聴いている時は、なるほどその通りだ、
ありがたいことだなあ、と思っているのですが、すぐにそのような
気持ちを忘れてしまいます。
まるで、穴だらけのかごで水を汲もうとしているようなものですね。」
と蓮如上人に言った人がいました。

 それに対して、「かごで水を汲もうとするから大変なのでは
ないだろうか? かごを持ち上げずに、水に漬けっぱなしで
いたらどうだろか」と言われたと伝えられています。

 ここでいう仏さまの教えとは、なんのことでしょうか。

私たちの心が、自分中心で自分勝手な、物差しを持って
我が儘に生きていることを教えてくださっているのです。

本堂でお聴聞している間は 自分のこの心の問題を知らされて

これではいけないと想っていても、いったん日常生活に戻ると
すぐ忘れてしまい、損得勘定で自分勝手な生き方、判断を
していることに気づいたからなのでしょう。

 ここでいう「籠」とは、私のこと。
そして水とは仏法のこと。聴聞を重ねて仏さまの教えを
自分にため込もうと思っても、私が籠のように穴だらけなので、
そこから法がもれ落ちてしまう。
これではいつになっても法の水をためることができず、
自分はちっとも成長できない。どうしたらいいでしょうかと
いうことを 聞きたかったのでしょう。

それに対して蓮如上人は、
 その籠を水につけよ、
つまり、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水に
ひたしておけばよいのだ」と答えられたよ。

 阿弥陀様の光は、いつでもどこでもみんなを照らしてくれています。
お寺で聴聞している時だけじゃなくて、ごはんを食べてる時も
テレビを見ている時も、友達とけんかしている時も、いつもいつも
照らしてくださっている。

私が忘れていても、私を忘れない阿弥陀様がいらっしゃる。
その光に、阿弥陀様のお慈悲にいつも心をよせることが、
「籠を仏法の水にひたす」ということなのでしょう。

どんなに聞いてもいい人にはなれない、そんなだめな自分にこそ
阿弥陀様の願いがかけられているのだよ。
そのまま来いよとの願いを聞いて、
阿弥陀様にお任せしていくこと、それを
蓮如上人は「籠を水につけよ」と教えてくださっているのでしょう。


          


           私も一言(伝言板)