第1313回 「行く」 のか 「来る」 のか

 平成30年 3月 29日〜

 九州地方の方言の一つに 行くと来るとが、逆転するものがあります。
普通は「僕の家に遊びに来るかい」といえば、「うん、行くよ」でしょうが
相手の立場にたって「うん来るよ」と言うのです。

 九州以外の人には、おかしく感じられるでしょうが、「行く」「来る」の
使い分けは、使っている人の視点の違いにあるのでしょう。
英語でなら、家に来ないかということを
"Would you come to my hous?"と言い、それに対して
"Yes, I will come"となるだろうし、行くのではなく 来ると言うので
九州方言は英語と同じ使い方のように感じられます。

話題の中心に向かうことが「来る"come"」で、話題の中心(目的)から離れることが
「行く"go"」であるようです。

ですから、友達の家が話題の中心ですから、そこに向かうのは「来る"come"」になるのです。
別の言い方をすれば、相手側から見て、自分が近づいて来るのが
「来る」であり。この表現は 相手の立場に立っていることになります。

 これに対して「行く」は 自分の移動のことを表現しているだけである。
自分中心であり、幼児的であるとも言えなくはありません。
相手を尊重するのが大人ですから、「行く」「来る」の表現は、話題の中心を
どこに置くかで区別する思いやりのある言葉だろうと思います。


 さて、相手の立場にたってのこうした言葉遣いは、ことによると浄土真宗の
お聴聞の成果なのではないかと感じています。
お念仏が盛んな地方の独特の言い方なのではないかと。

 阿弥陀如来は 私のところに来てはたらいていただく、真如から現れ来った
仏さまが、如来さまが、南無阿弥陀仏となって、はたらいていただいていると、
繰り返し、繰り返し、お聴聞をすることで、私のために、ここに来て

いただいている、私がゆくのではなく、来てくださっている。

お聴聞することで、そうした感覚が育ってくると、相手への思いやりが強くなり、
行くのではなく、来るという表現が定着してきたのかもしれません。


お浄土へ 生まれると 仏となって すぐに還って来る 行って
しまうのではなく、還ってくる。
九州の方言「来る」は、そう味わうと 有り難い言葉だと思えてきました

 先だった方々は、仏となってここに来て、はたらいていただいている、
私も命終われば 仏となって、この世に還ってくる。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は いまここで、はたらいていただいているのです。


          


           私も一言(伝言板)