第1329回 布施のこころ

 平成30年 7月19日~

ただ今、(  )のおつとめをいたしました。この機会にひとこと、
ご法話を(朗読)させていただきます。

「布施」という言葉は、サンスクリット語でダーナ、すなわち
「与える」という意味ですが、仏教では、単に物を人に与えるとい
うことではありません。

 一般に、私たちが、物を人に与えようとするときは、
「人がよろこぶから与える」「人がこまっているから与える」
「物が余っているから与える」というような場合です。

 しかし、仏教でいう「布施」は、必要以上に物を蓄えて、むさぼる
という執着のこころを、取りのぞくための修行なのです。
ですから、布施を行う場合には、なにを与えるかということを、
意識してはなりませんし、だれに与えるのかということも、さらに、
私か与えたというとらわれがあってはならないという、きびしい条件が
ついています。


「物」は本来、善でも悪でもありません。
しかし、私たちの思いが加わるとき、それがみにくいものともなり、
人をよろこばせるものともなるのです。
仏教では、そうした物への執着のこころをいましめて、こころから布施を
行なうことをすすめているのです。


 また、布施は、お金や物が豊富にないとできないものではありません。
「無財の七施」といって、だれにもできる布施があることを教えています。
たとえば、

①人にやさしいまなざしで接する布施、②にこやかに人に接する布施、
③人にやさしい言葉をかける布施、④人に礼をつくして接する布施、
⑤愛情のこもっだこころで接する布施、⑥人に座席をゆずる布施、
⑦人をあたたかく家にむかえる布施です。

 このような布施なら、私たちの心掛けしだいで、いつでもできることです。


 今の世の中、人と人とのあたたかい関係がうすれ、孤独感を味わうことが
多くなってきました。
もっぱら、利害関係が中心になっています。
こんなときこそ、布施のこころは、福祉を支える精神として、最も大切に
しなければならないものでしょう。


 自分の利益のみを追い求めるこころを反省し、少しでも布施の行ないをさせて
いただくのが、仏教者として、念仏者としての、つとめといえるでしょう。


 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

           朗読法話集 第一集 より


          


           私も一言(伝言板)