第1409回 自灯明とは

 令和 2年 1月 30日〜

釈尊は、「どれほど思うようにならない人生の中にあっても、
確かなよりどころをもつとき、人は力のありだけを出しきる
生き方ができるのだ」と教えてくださいます。

確かなよりどころとして「お金」を、よりどころにしている人がいます。

「地位」を不動のものとして、そこに座りこんでいる人もいます。
しかし、「お金」も「地位」も、いつまでもじっとしていてはくれません。
では、自分自身はどうでしょうか、「自分しかこの世でたよりになる
ものはない」と頑張っている人は案外多いようです。


しかし自分自身も無常の世にあって、死にたくなくても死ぬという
かたちで最後は自分自身の期待をうらぎります。
この世に、最後の最後まで、私たちの期待をうらぎることのないものは、
何一つとしてないのです。

 まことに死せんときは かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には
  一つも相添うことあるべからず。(御文章)
と、蓮如上人はいわれています。
悲しいことですが、これがこの世の真実なのです。

 では、「よりどころ」をもたなければ生きることのできない私たちは

どうしたら生きていけるのでしょうか。
一体、釈尊は何を「確かなよりどころ」といわれたのでしょうか。


 それは、釈尊最晩年のことであります。病の床にある釈尊に、
「もし、あなたがおなくなりになられたら、あとに残る私たちは一体
誰をたよりに、何をよりどころとして生きればいいのでしょうか」と、
涙ながらにたずねた一人の弟子がありました。


釈尊は、この問いに
  汝ら自らを灯明とし自らを依処として、他人を依処とせず。
  法を灯明とし法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。
と答えられました。
この自灯明、法灯明の教えは、三十五歳でおさとりを開かれた釈尊の
四十五年間の伝道の結論であります。

 自灯明とは、自分の人生、自分の足でたちなさいということであります。
いくらまわりに、自分にとって都合のいい、大きな強い足があっても、
他人の足は、あくまで他人の足です。最後まで、自分の人生をささえては
くれません。
たとえ、小さい弱い足であり ましても、自分の足でたたなければ、
自分の人生にならないと教えてくださるのです。


 では自分の足で、どこにたてばいいのでしょうか、
それに答えてくださるのが、法灯明の教えであります。

すなわち、どんなことがあっても滅することのない常住なる
法の上に自分の足でたちなさいと教えてくださるのです。

 法の上に自分の足でたつとき、人生は本当に自分の人生となり、

生命のありだけを燃やして生きる人生が開けるのです。
では一体「法とは何か」という疑問をもたれると思います。
この「法とは何か」という疑問が、求法(求道)の出発点なのです。

               藤田徹文著 人となれ、仏と成れ より

          


           私も一言(伝言板)