第1377回 真実の如来の言葉 「大無量寿経」

 令和元年 6月20日~

 覚りの世界から届いた仏様の言葉は、具体的にどういうことかと言いますと、
『大無量寿経』というお経の言葉となって私たちに屈いているのです。

そのお経の言葉は、一口に言えば、「南無阿弥陀仏」という言葉におさまるのです。
その「南無阿弥陀仏」というのは 仏様のお言葉なのですから。
『大無量寿経』が 説法となって私たちにとどいている仏様のこころ、
それを本当に疑いなく受け容れるというこころの視野が開かれた方を
″信心を獲た人″と言っているのです。

信を獲たというのは、仏様の教えが その人の身についたということです。
その意味で、如来様の世界が味わえるようになった人というのです。
親ごころが 分かるようになった人です。

それを親鸞聖人は、「教」によって「行」を「信」ずる身にさせて
いただいたと仰っているのです。
そしてこれを「教」「行」「信」「証」という言葉であらわされたのです。

「教」というのは何かというと『大無量寿経』のことです。
この経は お釈迦様の言葉ですが 阿弥陀様の言葉でもあるのです。
阿弥陀様が お釈迦様となって この世に現れてくださり、私たちにも
わかる人間の言葉に直して、阿弥陀様のこころを 私たちに説いて
知らせてくださったのです。
それが『大無量寿経』というお経なのです。

ですから このお経はどこから出てきたのかというと、お浄土から
出てきたお経なのです。
『大無量寿経』に このことが書かれています。

 浄土の蓮華の華が、一つ一つの華が、それが一体一体の仏様となって、
そして十方の世界に かぎりなく開けていくというのです。
その仏様が、浄土の覚りの光が 仏様となって、十方の世界にあらわれて
くるのが お釈迦様であり、十方の諸仏だというのです。

その仏様たちが、光の言葉を持って 光の世界を人びとに説き、
人びとの暗闇のこころを 明るく開いてくださる、それがお経なのです。
だから お経となって仏様は届く、仏様というのはお経となって届いて
いらっしやるのです。

 私たちが お経を読誦する時は、お経本を頭の前にまず頂いて拝読しています。
ただ本を読んでいるわけではないのです。
私の前に、私のわかる言葉で、仏様のおこころを知らせてくださっている、
仏様のお言葉であるということです。
そのお釈迦様の説かれた『大無量寿経』というお経が、仏様の真実の
言葉となって、それが届けられているのです。

 その『大無量寿経』の内容を言いますと、[南無阿弥陀仏]という
名号を疑いなく受け容れてくださいと説いています。
疑いなく受け容れることを信心と言っています。

名号というのは 仏様の名前で、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀様の名前です。
「南無阿弥陀仏」は 姿も形もありませんが、言葉だけがあるのです。
姿も形もないということは どういうことかというと、私たちには
それを見る眼がないのです。
これは眼を入れ替えなければならないのです。
仏様の言葉、如来様の世界を 私たちが受け容れられる言葉となって、
言葉として 私に届いてくださるのです。

言葉を超えた世界が、言葉となって響いてくるということです。
その言葉をとおして、私たちは言葉を超えた世界に気づかせて
いただくということが大切なのです。
そのために仏様は、名号となってあらわれてくださるのです。
名号というのは名前です。
「南無阿弥陀仏」という名前となって現れて、私に呼びかけて
くださっています。

 「南無阿弥陀仏」とは どういうことかというと、「南無」というのは
インドの言葉で、これは「帰命」という言葉に翻訳されます。
「帰命」ということは、如来様の仰せに従うという意味です。
「如来様の仰せに従って、あなたの仰せのとおりに考え行動します」
ということを仏様に申し上げることが「南無」なのです。


「南無」はインドの言葉では「ナマス」と言います。
その「ナマス」は、今、申しましたように、『仏様、あなたの仰せの
とおりに受け容れ、あなたの仰るとおりにものを考え行動していくようにします」と
表明し、仏様より「本当にそうなのか」の問いかけに、

「はい、そのとおりです」ということが「南無」になっているのです。

それで「南無釈迦牟尼仏」「南無観世音菩薩」「南無大勢至菩薩」
「南無薬師如来」と言いますね、この「南無」ということはそういうことなのです。

                  浄土から届く真実の教え 梯實圓師 自照社出版



          


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