第1382回 誤解されたお念仏

 令和元年 7月25日~

 お念仏の教えは、簡単な教えですけれど、簡単であるから誤解しやすいのです。
法然聖人の教えは、じつに簡単ですよ。これはどんな人でも分かる、分かりやすい教えです。
みなさん方も聞いておられるかと思いますが、例えば『歎異抄』で見たら、
「親鸞におきては」と、法然聖人からどういう教えを聞いたかを、ひと言で仰っておられます。


 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひ
  と(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

 と、親鸞聖人は仰ったのです。これだけです。「お願いだから、どうぞお念仏を申して、
お浄土に生まれてきてくれよというのが阿弥陀様の願いだ」。
この願いのお念仏とは仏様の願いのお念仏です。
人間の願いの念仏とは違います。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、
仏様に何かをお願いしようなんていうのは、大変愚かなことなのですよと。まあ、
私たちはこんなことさえも、なかなか分かりにくいのです。みんなそう思っているのと違いますか。


「南無阿弥陀仏」とお願いするのは、私ではなく仏様なのですよ。
仏様は誰を願っているかというと、この私を願っているのです。仏様は私を願ってくれているのに、

私が仏様を願ってどうするのですか、仏様の言葉を私ごとに使ってはいけません。

 だいたい、仏様の言葉を私ごとに使うというのはおかしいですよ。
何でもそうでしょう。公の言葉は公に使わなければいけない。お念仏は公の言菜です。
「生きとし生けるすべての人に、どうぞこの『南無阿弥陀仏』と申して、
そしてお浄土へ生まれてきてくれよ」とお願いくださるから、「有難うございます、
仰る通り、お念仏を申してお浄土へ生まれさせていただきます」と言って、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、皆さんは仰っているのではないですか。
違いますか。もし違っておられたら今日限りあらためてください。
そうでなかったら浄土真宗の門徒ではないですよ。


 そういうことで、お念仏のお謂われというのはこれだけのことです。
善人であろうと悪人であろうと、賢くあろうと愚かであろうと、男だろうと
女だろうと、如来様は分け隔てはなさらない。

戒律を保って清らかな生活をしていようと、ふしだらな生き方をしてそれしか
生きられなかった人であっても、如来さまの願いを聞き入れて「有難うございます。
それではとお願い申して、あなたの所へ帰らせていただきます」と言ったら、
如来さまは一番喜んでくださるのです。
それだから法然聖人はお念仏申しなさいと言われるのです。


 法然聖入のもとに集う在家の信者の方々は、「私みたいなものに、そこまで
言われているのですか」と、出家、在家の区別なく、聖人の温かいお念仏の
お諭しにしばしば感激されていました。
そして法然聖人は、聖人のところからお念仏して帰る人の姿をご覧になって
「ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、
『往生必定すべし』とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき」

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』771頁)と仰っておられます。

にっこりと微笑んで必ず浄土に生まれていくんだ人だなと言われたのです。
田舎の爺さんがお念仏申しながら帰っていったら、法然聖人が喜んで
くださったということが書かれているのです。


                 浄土から届く真実の教え  梯実圓師 自照社出版


          


           私も一言(伝言板)