第880回 二軒屋の譬え 〜善人・悪人の家〜

 
平成21年 12月 3日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章に 出会いました。
清沢満之さんのことを 解説した本で 父親と娘との会話形式をとった
亀井鑛さんの本です。

その中に
二軒屋の譬え話 暗愚無能の自覚という 項目がありました。

明治34年7月、三重県四日市で関西仏教青年会の夏期講習会があって
清沢先生がお話された その中に

「・・・・そうして この境界 というのは 絶対無限、他力隋順の
本来なる自己のあり方のことだ、これに到達するには、むろん修養練磨が
必要だけれど、中でも注意しなくてはならないのは、内観反省のこと。

古人が、“三省”とかいって、自己省察を教えているのはこれです。
宗教の境地がわからないのは、要するにこの内観ということをしっかり
やって、自分の立脚地を省察しないのに原因があるのです。

じゃ、内観を凝らし、自己を省察したらどうなるかといえば、第一に
感知されることは、自分が暗愚無能であること。よくいわれる罪悪生死の
凡夫の自覚ということ。・・・・・

そうすると、自分を暗愚無能と自覚するのは、大へん屈辱的で、つらい、
やり切れないと思われるかもしれないが、決してそうでありません。

ここに二軒の家があって、一軒では、毎日家族がけんかばかりしている。
一方はしごく仲がいいというので、けんかばかりの家の主人が、仲良しの
家を訪ね、どうして仲良くできるのかの秘訣をたずねた。すると、

あなたの家はきっと善人ばかりのご家族でしょう。わが家は悪人ばかりの
集まりですから、それで けんかがないのです。という返事。

どうも意味が わからぬまま帰った翌る朝のこと、隣の仲の良い家で
大さわぎしている、
どうも馬が家の中へ飛び込んであばれたらしい。これはけんかがはじまるぞと、
覗きにいくと、そこのおじいさんが「私が悪かった。ゆうべ、馬のつなぎ方が
不注意だった。そのせいでこんなことになった」という。

と、おばあさんが
 出てきて 「この私が不注意でした。私が悪いのです」という。
すると、若い主人が出てきて 「年寄りは早く寝て当然。この私が若いくせして
不注意でした」といっていると、その奥さんが「いいえ、私が悪かったのです」と
いいあっているのをみせつけられて、やっとけんかの家の主人がうなずけた。


「なるほど。わが家は悪人ばかり集まっているから、けんかにならない。
お宅は善人ばかりだから、けんかばかり、と教えてくれたのは、このことだったのか。
わが家も見習って、悪人ばかりの家にしたいと思います」と喜んでお礼をいって
帰りました。


これでわかる通り、何事も自らの責任をとって、悪人の私と暗愚無能を自覚する者の
住む所は、おのずからに、恭順和楽の天地を構成するものであります」

とお話を結んでおられる。

暗愚無能の自覚のところには、おのずと恭順和楽の世界、人間関係がひらかれる。
それを、お釈迦さま以来、ナモアミダブツといってきたんではないかな。

暗愚無能の自覚ということが南無、恭順和楽の天地というのが阿弥陀仏。
このお話は、清沢満之の南無阿弥陀仏の六字釈だと、お父さんは受けとめて
いるんだよ。ここでみごとに人間の生き方の公式、法則が明快に示されている。

という文章です。

罪悪深重の凡夫ということが わかっているつもりでも いざそれを素直に
認めることは 勇気がいること屈辱的なこと でも 南無阿弥陀仏と口にすることは 
それを実践することに通ずることではないかと 味わえます。


ありがたく 読ませていただきました。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。次回は
12月10日に新しい内容に変わります。

  「父と娘の清沢満之」 亀井 鑛著 大法輪閣出版

         


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