第1398回 聞の宗教

令和元年 11月14日~

 仏教とは、「悟りへの道」を説いた教えといえますが、その方法として四諦八正道が
示されています。それは、まずはじめに、人間自身と人生の本当のすがたを正しく
見るーー 正見からはじまります。

 それに対して、「浄土真宗は聞くひとつで救われる」といわれますように、
浄土真宗の教えは「聞」にはじまり、まさに「聞」にきわまるといってよいでしょう。


 しかも、これには、深い意味があるといわねばなりません。
「聞くひとつで救われる」とは、地位や名誉や生れたところに関係がない、
まして老人とか若者、男とか女に関係なく救われるということなのです。


 そして、それは、「すべてのものを、いつでも、どこでも、へだてなく救う道で
る」ことをいいあてています。
いま、これを「すべてのものに開かれた真実の教え」といい、また「宗教の
公開性をあらわす」といっておきたいと思います。


 ここに、「聞くひとつ」とは、開かれた真実の宗教への道をいいあてていることを
最初に確かめておきましょう。

 さて、一般に「聞く」というと、耳で聞くということになります。
では、ここでいう「聞く」も、ただ右の耳から左の耳に音が通りぬけることを
いうのでしょうか。

そうではありません。「聞こえた」とは「教えが受けとれた」ということです。
の身にも心にも、「ひしと受けとれた」ということであります。


 それでは私たちは、浄土真宗や仏教の教えを聞かせていただいて、
何をどのように受けとることができるのでしょうか。

親鸞聖人は、その著『教行信証』の「信巻」で、

 衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。

  〔意訳〕私たちが、阿弥陀仏の本願の起こり(本)と、その成就された結果(末)
         とのいわれを聞いて、疑いの心がまじわることがないのを「聞く」という。

と示されています。


 ここで、聖人は「生きとし生けるすべてのものは、阿弥陀仏の本願が起こされた
由と、その本願の完全なはたらきの始終を受けとって、本願の救いが間違いないと
いえなくなった状態を聞という」といわれているのです。

 そこでは、まず「阿弥陀仏が、なぜ本願を起されねばならなかったのか」(生起)を、
疑いなく受けとることを述べられていますが、このことはきわめて大切なことです。
なぜかといいますと、私たちは「仏」とか「本願」といいますと、「私と私の人生には、
およそ関係がないこと」「遠い彼方のこと」のように思いがちだからです。


 ところが、いま聖人は、「仏の本願を起こさせたもの、起こさせた原因を
ありのまま受けとれ」といわれています。
まさに、その仏の本願を起こさせたものこそ、この
私であり、私の人生でありました。

              中央仏教学院 通信教育 入門課程 テキスト より


          


           私も一言(伝言板)