第1560回 何事も お念仏の助縁 

令和 4年 12月22日~

 仏教でいう信心、親鸞聖人の信心とは、
「イワシの頭も 信心から」というような、自分勝手な
思い込みや、かたくなになって信じ込むような態度とは、
まったく違う心のありかたです。 

仏教にご縁を得る、仏さまに出遇うということは、今まで
見過ごしていたもの、気づいていなかったことに
気づかされて、ああそうだったなあ、常に仏さまはいらっしゃるのに、
この私は気づいていない生き方をしていたなあ、
という実感を恵まれたところに成り立っていると言えるでしょう。

 同じものが、その時その時、自分が体験することを通して、
今まで気づかなかった深い尊いものとして見えてくる、
知れてくるのならば、私にとって、仏さまに出遇うきっかけと
なったものは何でしょうか。

 身近な所でいえば、仏壇、本堂、名号(南無阿弥陀仏)、
仏像、法座(お聴聞)、最近ならオンライン法話などです。
ところが、ものの見方を変えてくれるのは
そればかりではありません。

 今まで、無駄で、邪魔で、無価値で、無ければよいと
思っていた出来事も、実は、私を気づかせるきっかけになっています。
多くの人にとって、家族との別れ、仕事の失敗・挫折、自分の老い・
病などなど、自分の思い通りにならない事実とのであいが、
目覚めることのきっかけになることがあります。

 さらに考えると、私が念仏を生活習慣として
称える身に育てられていなかったならば、このような深い
実感は生まれてこなかったでしょう。
その時に、苦しみ悩みも 私を育てるものと気づかされます。

「この世のできごとは 何事も何事も お念仏の助縁とおもうべし」
(信
楽峻麿、元龍谷大学学長)〔※助縁=助けとなってくださるご縁〕
という法語を改めて思いおこします。

 この世の出来事 都合の良いことも 不都合な出来事も、
お念仏を称える尊いご縁、助縁となるのです。
お念仏を軸として、お念仏称えることにより、気づかされる
心の世界や生き方が恵まれます。

 そこに先立っていった人びと、思い通りにならない出来事と
改めて出遇いなおしが生まれてくるのではないでしょうか。

           参照 万行寺 本多 靜芳師 


          


           私も一言(伝言板)