第1308回 盲亀浮木(もうきふぼく)

 
平成30年 2月22日〜

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」で始まる
礼讃文(三帰依文)が、日頃お勤めする聖典の最初に記載されています。

  人間に生まれることは、とても難しいことであり、仏法に出遇うことは、
もっと難しいことなのに、すでに人間に生まれることが出来ており、すでに
お念仏のご縁にもあえていることを、何の感動もなく、当たり前のように
思って生活しています。


 人間に生まれたことを、本当に喜ぶことが出来るようになるには、実は、
仏法に遇えてお聴聞することで、はじめて気づかされることなのだろうと思います。

お念仏の教えに遇うことができなければ、人間に生まれたことは、喜びではなく、
苦しみ一杯の「一切皆苦」と説かれている、つらい人生で終わってしまうのでしょう。

人間として生をうけることが、とても難しいことの例えとして、
大海の中に落ちている一本の針を探しだすほどに難しいことなのであるとか、
須弥山(しゅみせん)から垂らした糸を、この地上の山麓においた針の穴に
通すことのように難しいことである等と例えられています。

『雑阿含経』の中には、「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえが説かれております。

ある時、お釈迦さまが「大海の底に一匹の目の見えない亀が住んでいて
100年に 1度、浮かび上って、海上に顔を出すとしよう。
その時 1本の流木が漂っていて、その木の真ん中には、1つの穴があり、
浮び上がったとき、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すようなことがあるだろうかと」
お弟子さんに尋ねられました。

いつもお側に仕えていた阿難は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、
お釈迦さまは「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。
しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、
今の例えよりも更にありえぬほど難しいことなのだ」と、
それほど稀な尊いご縁をいただいているのだと説かれていると聞きます。

そして仏法聴聞が出来るという不思議な 稀なうえに、稀なご縁をいただいて
生かされている私であるのに、充実した人生であると感じて、喜びを味わい
人間として生き甲斐を持って生きていると言えるのでしょうか。

折角有り難い人間に生まれ、今すでにお念仏の教えに出遇うことができていますが、
お聴聞をくり返すことによって、さらに味わいを深めさせていただき、もっともっと
喜び多い豊かな人生を、限られたいのちではなく、永遠のいのちをたまわり、
お浄土への道を、一歩一歩歩ませていただきたいものです。

お聴聞をくり返し、お念仏を申しながら、仏さまのはたらきを、味わえば味わうほど、
なんとすばらしい、尊いご縁に合わさせていただいているのかが、もっともっと
味わえてくるものでしょう。

          


           私も一言(伝言板)