第1342回 正定業

平成30年 10月18日〜

  深川倫雄和上の勉強会で用いられた教行信証ご自釈版を見返していましたら、
本願名号正定業の所に、正決定と 決の字を加え・・「私の将来が決定した」と
手書きしていることに気づきました。

その他の正定のところにも、正決定と 決の字を書き入れています。
和上は、何度も繰り返し、正決定とお話いただいたのでしょう。

 三国照國先生の正信偈入門には、そこのところを「わたくしの救い」として
次のように書かれています。

 わたくしたちは、如来のみ光のお照らしをこうむって、やっと仏法にあい、
そして真宗のおみのりにあうことができました。
しかし悲しいことには、如来の光りかがやく おすがたを見たてまつることが
できません。それなのにどうして仏になる因(たね)をいただくことかできましょうか。

わたくしは仏になるべき一つの善も一つの行も積み重ねることをせず、反対に
まよいの因となる悪い業(おこない)をせっせと積みあげているのです。
このようなわたくしは、どのようにすれば、仏になることができましようか。

 ところが、このまったく救われようがないわたくしを救わんがために、
如来は本願を立ててくださり、わずか三歳のこどもでも耳に聞き、口にとなえ
られるところの名号をもって このわたくしを救おうとされたのであります。
ながいご修行の結果「名号を信じ称えるものをかならず仏にする」という
第十八願をなしとげられたのであります。

 ここに名号は「正しくわたくしたちが浄土に生まれることを決定する業因(力)」
となり、じっとしておらずつねにあらゆる時、あらゆる世界に、その第十八の
本願のとおりに動いて、あらゆる者を信ぜしめ(至心・信楽・欲生我国)、
称えしめ(乃至十念)、わたくしたちをすべて仏にしようとはたらきかけて
いることになります。

すなわち如来は、名号にみずからの光明をはじめとする一切のもっている徳を
のこらず注ぎこまれたのでありますから、名でありながら実は如来そのものに
ほかならず、つねにわたくしたちの身近かにいてくださる「いきた仏」なのであります。

この如来は第十七願に「あらゆる仏がたにわたしの名をほめたたえていただこう」
という誓いを立て、その願いが如来になることによって果たされることと
なったのですから、わたくしがいかなる世界におろうとも、その名号の
ふしぎなお徳をほめたたえられる仏がたの説法の声となって、わたくしの耳に
ひびいてくるのであります。

 釈尊が浄土の三部経を説かれたのは、この名号のおいわれをわたくしたちに
聞かせるためであり、しかもそれをうけ伝えて現在のわたくしの耳にまで
届けてくだされたのは七高僧や親鸞聖人、それから蓮如上人をはじめ、
わたくしにこの教えを伝えてくだされた多くの人々であります。

これらのかたがたのおすすめによって、わたくしがはからいなく名号の
おいわれを聞かせていただいて如来の真実(名号)をわたくしのものと
するとき(至心)、如来のお救いを疑う心や自力のかざり心はすっかり
とれてしまい、ただ与えられたみ名のおいわれを喜び楽しむということに
なります(信楽)。

しかも「信ずる者を浄土に生まれさせよう」という第十八願が成就した
ことにより、わたくしの心に如来のお救いを喜ぶ心がおこってくるので
ありますから、そこには当然いずれ浄土に生まれて仏になることに
まちがいないという心がそなわっているのであります(欲生)。

仏の教えを聞きながらもいっこうに仏になりたいとも浄土へはやく

行きたいとも思いませんが、「わたくしはまちがいなく浄土に生まれ仏に
ならせていただくのだ」という安堵のおちついた心をもつことになるのであります。

 このように人生の荒波にもまれながらも安心立命の境地を現在の心にもつ
ことかできるとともに、最高のさとりを開くべき因をわたくしのものとして
持つことができるのであります。
すなわち如来の名号をいただく信心のところに、菩薩でさえもなかなか
もつことのできない清浄で真実な因を、きたなくいつわりに満ちている
わたくしの心のなかにうえつけられるのであります。

 それによって、わたくしはもはやまよいの世界に趣くところの一切の
悪い因はたち切られ、この命が終わるとき如来と同じさとりを開かせて
いただくのであります。
しかも現実の世において仏になるための一切の因、一切の徳をもたされ、
ただこの生が終わればただちに仏になるのをまつばかりであるから、
菩薩の最上の位である等正覚(五十一位)に定まることとなります。

如来の真実をもたされていながら少しも菩薩らしくもないこのわたくしが、
ほとんど仏に等しいという等覚(とうがく)の位に入り、弥勒菩薩(みろくぼさつ)
と同格ということになるのであります。
仏になることが決定しているなかまに入るので本願では「正定聚(しょうじょうじゅ)」
といい、ふたたびまよいの世界に退くことがないので龍樹菩薩は「不退転」と

いわれております。

 このように、この世においては大菩薩の位に定められ、次の世においては
如来とひとしい最高のさとりを開くことかできるというのも、「定聚に住し、
かならず滅度にいたらずば正覚をとらないであろう」とお誓いになった

第十一願力のおかけであります。 ・・・・

       と お書きいただいています

          


           私も一言(伝言板)