第1318回 恥ずかしい

 平成30年 5月 3日〜

一般社会では、普通、教育 という言葉 を  よく使っています。

これに対して 仏教 では 「 教 化  (きょうけ) 」 という言葉を 使います。
教育 については、学校教育というように、教え によって、その人が
育っていき、 変わっていくのです。

これに対して、仏教の 教化は、 教えても らったことで、自分自身の生き方に
変化が 出てくるということです。 この生き方に 変化が出てこなかったら、
教えが 教えに なっていない 証拠です。


仏さまの 教えによって 教化、つまり 変化が 生じて 凡夫という自覚を 持つことが
出来たとします。そうなることで、恥ずかしいという 事柄に気づき、 さらには
必ず 恥ずかしくない 生き方につなげていく という、さらなる 変化が 起こってくるのです。


恥ずかしいという気づきは、 恥ずかしくないようにという意志となり、
それを 行動に つなげていくことが 大切なのです。 それがなければ、
恥ずかしいという言葉は、 言葉だけに 終わってしまいます。


ところが、恥ずかしいという事実は、気づくまで  わからないものです。
顔の汚れ、衣服についたゴミや ストッキングの伝線、ズボンの開いたチャックなど、
気がついた途端、恥ずかしくなる。 恥ずかしいとなれば 次は 必ず、
目立たないように さまざまに 工夫します。


気づくまでは 平気で歩いていたのに、気づいた途端に 恥ずかしくなって、
慌てて 隠そうと 苦労するのです。

気づくまでは 恥ずかしいと 思わないのです。

 ところが、もっと 恥ずかしい 事柄を、私たちは 持っています。
それは 仏さまの慈悲 」 人のことを 大事にするとか、人の悲しみを
わがものとして 受けとめて、人を 楽にさせてあげるという慈悲の心に 対して、
「 今どき   そんなことを言っていたら、 この世の中を 生きて行けるか
などと言うのです。

これは 恥ずかしさもなく、傲慢なだけです。

しかし、その傲慢な私が、ご縁があって、この仏さまの 慈悲の尊さというものを
聞き受けるようになった。そして この尊さというものを自覚して 
生きるようになったとき、その自覚は 「 自らが凡夫である 」という 気づきに
つながっていきます。


そうすると その凡夫が、ただ単に 凡夫で 停滞するのではなく、 凡夫でない方向へ
向かおうとする、方向転換が 生じるのです。

しかし、一時に 完全な方向転換は 出来ません。凡夫の生涯が終わるまでは
完全な転換は あり得ないでしょう。
でも コントロールしよう という気持ちは 起こってくるはずです。


昔風に言えば、少しでも 慎もうという思いが出てくるのです。
そして、今までの人生は 傲慢であった、あやまっていたという意識も出てきます。

そういうところに、人が正しく「 まこと 」というものを 心に宿して、
それを 拠りどころにして 生きて行くという 変化が 生じてくるのです。

そして 尊いと 思っている 仏さまは、 凡夫の自覚を 持った  その人を讃えてくださいます。
「 よくがんばった 」 「 よく仏さまの言葉を聞いた 」「 よく それだけの 思いを
 持って 生きてきた 」 と讃えてくださるのです。
そしてさらに、仏さまは 私に届いて、 そのことを 常に言い続けていてくださるのです。
            
             恩に気づく生きかた 自照社出版 天岸浄圓師ご法話より


          


           私も一言(伝言板)