第1395回 仏智を疑う

 令和元年10月 24日~

 私たち凡夫には 仏さまの智慧は とうてい わかりませんということで
済ませているということは、まだ仏智を疑っていることなのです。

しかし、仏智に対するこの疑いというものは、実は仏に対する反抗なのです。
だから、ただの無知とか無邪気ではなく、罪の深いことなのだと
いうことを教えてくださるわけです。

なぜかと言うと、仏さまの智慧を疑っているということは、何も信じていない
ということではなくて、何か他のものを信じているということだからです。


自分の罪福心を信じて、仏智を信じない。
罪悪、つまり悪いことをすると良くないことが起こる、福徳という
良いことをすると良いことが起こる。こういう罪福を信じるという心が
人間には抜きがたく根強くあるのです。


私は何も信じていませんと言っても、実は何か善いことをすると良いことが起こる、
悪いことをすると悪いことが起こると、何となく思っております。

こうなれば幸せなのだという心を持っているわけです。

それは、自分の思いを信じ、自分を信じているということでしょう。
仏智を疑っている人は、つまりは自分というものの力を信じている
ということになるわけです。

 つまり、仏さまの智慧を信じないということは、自分を信じているということです。
すべての疑似宗教というものは、一見したところ神に頼っているように見えますが、
実は自分の判断とか分別を信じているのですね。

本当は自分というものを信じて、その自分を外に投影したものが、いろんな神々に
なっているのだと思います。


そういう自力を捨てるということが、仏智にまかせるということです。
だから、仏智を信じるということがなかったら、絶対に助かりません。
聖人は、仏智を信じるか、自分を信じるか、それしかない。自分を信じている限り、
われわれはとうてい助からないことをはっきりとおしゃっています。


 「仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば」とあります。

このことに本当に気がついたなら、ああ私は本当に罪深いことをしていたのだ、

ということがわかります。
そうしたら、「くゆるこころをむねとして」、本当にお恥ずかしいことで
あったという慚愧、懺悔の念というものを元にして、仏智の不思議を
たのむべきだと教えてくださるのです。
つまりは仏智を疑うことの罪深さを教えてくださっています。

   
  召喚する真理 正像末和讃を読む 大峯顕著    p170


          


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