第1386回 宗教と道徳

 令和元年 8月22日~

 私たちが、他の人たちとともに生活していく場合に、社会生活でのルールを
守らなくてはならないのは、いうまでもないことです。
それぞれが自分勝手なことをしていれば、社会生活はなりたちません。
そこに道徳や、倫理という問題が成立します。


 その道徳や倫理の根本には、善や悪という問題があります。
善いことを勧め、悪いことを避けるというのは、いつの時代でも社会生活の根本です。
学校でも、道徳教育の時間があり、きまりを守るということについて、先生方が指導を
されています。

 人間の心には良心というものがあって、あやまちを犯すと、他人が知らなくても、

自分白身がそのことについて悩んだり、苦しんだりします。
そういう良心は、生れつき人間にそなわっているもので、それこそが「道徳の根本であり、
それが神や仏の呼び声だ」と考える人もあります。
宗教というのは、「人間が良心にしたがって正しく生きること」にほかならないというのです。


 正しく生きているなら、幸せに暮らすこともできるし、死んでもよいところへ行けると思い、
善を勧め悪をこらしめることによって、世の中を正しく導いていかなければならないと
考えている教育者は、今でも少なくないかも知れません。


 しかし、良心のはたらきは、それが鋭くなればなるほど、「自分は間違っているのでは
ないか」「正しくはないのではないか」と自らを責めるものであり、自分を正しい人間で
あると誇るものではありません。
そうでなければ、かえって最も強い自己主張に陥ってしまいます。
道徳的な生き方というものは、そこに限界があります。


 親鸞聖人が『歎異抄』の第三条において、

  善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。

 とおっしやったのも、そうした人間の在り方を見通されているのです。

自分は善人だと思いこみ、他の人を裁くということは、私たちが普通にすることですが、
そこには自己についての厳しい反省が欠けています。

自分のうちにいろいろな思いや、よこしまな考え、くらい衝動などがあることに気づくとき、
はじめて宗教の世界がひらかれてきます。
「善人は救われる。悪人は救われない」と考えるのは道徳の立場であり、そこには
自分というものが抜け落ちています。


「正しくあろうとしても、正しくあることができない悪いことを避けようとしても、
避けることができない。なんという情けない自分だろう」と反省するところに、

宗教への道があるのです。
そういう点では、宗教と道徳とは異なった領域です。


         中央仏教学院 通信教育 入門課程 テキスト より


          


           私も一言(伝言板)