第1527回 19願 20願 ~弥陀のまごころ~

 令和4年 5月 5日~

 この世のことは、「まごころ」こめてたちむかえば、
どれほど困難なことがあろうが、どうにかなるものだと
考えている人は少なくありません。
親子・夫婦・友人関係等にしましても、うまくいかないのは
誠意(まごころ)が足りなかったからで、誠意をもってあたれば、
どれほどこじれた関係でもいつかは解きほぐれると信じているのです。

 仏にしても、神にしても、「まごころ」こめて祈れば、
きっと私たちの願いをかなえてくださるはずである。
願いがかなえられないのは、私たちの「まごころ」が
まだ足りないのであって、さらに一層「まごころ」をこめて
祈れば、必ず願いをかなえてくださるにちがいない。

この世の中に、「まごころ」の通じない相手はいないと
思っています。
果して本当にそうでしょうか。

 私たちの相手を思う「愛」の中味も、よくよく考えてみますと、
自我愛(エゴ)そのもの、私たちの仏や神を信じる
という「信心」の中味も、よくよく考えてみますと、
我欲(エゴ)そのものであったりするのです。

 結局、私たちに「まごころ」があるということは、
一種の幻想でしかないのではないでしょうか。

親鸞聖人が、
 浄土真宗に帰すれども  真実の心(まごころ)はありがたし
 虚仮不実のわが身にて  清浄の心(我欲のない心)もさらになし
                    (愚禿悲歎述懐)

といわれたのが、私たちのあり方であります。

 「まごころ」のない私が、阿弥陀如来の「まごころ」
(至心)によって生かされて生きる、そのことを誓って
くださったのが、第十八の願であります。
すなわち、阿弥陀如来の「まごころ」をよりどころに、
この苦難の人生を生きぬけというのが第十八の願であります。
この第十八の願を、私たちが素直に受けとることができたら、
第十九の願や第二十の願はいらないのです。

 本当は、自らの「まごころ」などをふりまわして頑張らなくとも、
すでに、阿弥陀如来の深く大きな「まごころ」に抱かれているのに、
それが受けとれないので、どうしても自らの「まごころ」に
しがみつき、如来の「まごころ」に身をゆだねることが
できないのです。
すなわち、第十八の願を受けとることができないのです。

 なかなか、第十八の願を受けとれない私たちにむかって、
阿弥陀如来は、切り捨てるようなことをされないのです。


 第十八の願が受けとれないのなら、受けとれないでいい。

 自らの「まごころ」を信じるなら、その信じている自らの
 「まごころ」をこめ、功徳を積んで、この人生を生きなさい。
 そうすれば、あなたの臨終には必ず私(阿弥陀如来)が
 迎えにいきます。

と、誓ってくださったのが第十九の願であります。

 どうしても自らの「まごころ」を否定することの
できない私たちすらも捨てることができなくて、
第十九の願を誓ってくださったのです。

 頭から、相手の思いを否定するのでなく、
「それならこうしてごらん(第十九の願)」
「それならこうしてごらん(第二十の願)」と、
相手の思いに従って実践させながら、本人が
気づくのを待ってくださるのです。

 阿弥陀如来の「まこと」(かわることなく私を
ささえてくださるお心)を、なかなか素直に受け取らない
私たちさえ、「もう知らないよ」と見捨てることのないのが
阿弥陀如来であります。
この阿弥陀如来のお心が、第十九の願となったのです。

  人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より

          


           私も一言(伝言板)