第1360回 命日は「いのちの日」

 平成31年2月21日〜

故人が亡くなられた日を命日(めいにち)といいます。
毎月めぐってくる死亡日と、同じ日をさすのが普通です。


 また、同じ月の同じ日を、とくに祥月命日(しょうつきめいにち)といいます。
「祥」の字は、今は「さいわい」とか「めでたい」という意味の「吉祥」の「祥」
(示偏に羊)と書く字を使っていますが、これは儒教から出た言葉のようです。


 また、「忌」とは「いむ」とか「つつしむ」という意味の言葉です。
浄土真宗では「つつしみ」の意味で用い、この日は身をつつしんで

あるいは祖師のお徳をしのび、あるいは亡き人を偲ぶ日ということです。

 ところで、この命日という言葉は、もとは「命を捨てる」と書い
「捨命日(しゃめいにち)」とか、「命が過ぎる」と書いて「命過日(みょうかにち)
とかいかれていたそうです。
それが「捨てる」という字や「過ぎる」という字が省略されて、「命」という
字だけが残ったという説があります。

しかし文字通りでは「いのちの日」です。

 考えてみますと、私たちは日々、「いのち」の大切さをかみしめ、
生きていることのよろこびを感じながら生活しているでしょうか。
ついつい「生きているのがあたりまえ」、「いのちのあるのは当然」
と思い込んでいるのではないでしょうか。

 そんな私たちに、「いつまでもあるいのちではないぞ」、「はかり知れない
多くのいのちに支えられて、今生きているんだよ」、「如来さまの御いのちを思え」と、
私に「いのち」のありがたさ、ほんとうの姿を気づかせるために、亡き人が
設けてくださったご縁が「いのちの日」、すなわち「命日」なのだと思います。

 大切な肉親のかたの死を、ただ悲しむばかりではなく、毎月の命日を通して、
如来さまに「いのち」の本来のありようを聞いて、味わいたいものです。


 では最後に、ご一緒にお念仏巾しましょう。南無阿弥陀仏……。
                                
                                       朗読法話集 第一集より

          


           私も一言(伝言板)