第1319回 私の心に入って

 平成30年 5月 10日〜

 親鸞聖人は 私たちが南無阿弥陀仏とお念仏申すことを、阿弥陀さまの
説法ととらえておられるのです。南無阿弥陀仏は説法なのです。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるのは、阿弥陀さまに聞かせるなり、
亡くなった人の供養のために称えるという感覚で受けとめておられる方が

おられます。

 ところが、阿弥陀さま自身はそうではないとおっしゃっているのです。
「私は生きている人の中にあって説法をしています。ライオンが吼えるように
人びとに説法をしています」と。

「それでは、その説法というのは何ですか」と言えば、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
という念仏の声が説法であるとおっしゃっているのです。

どうか「南無阿弥陀仏」が仏さまの説法であると信じ、一度称えてみてください。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と自分でお念仏をすると、
今まで響いていなかった念仏が、あるときには自分の心に響いてきます。
それが、あるときはブレーキになったり、あるときはアクセルになったり、
私をコントロールするのです。

「こんなことを考えながら、私は生きてきた。浅ましいことだな」と。
「おかげさまでこんなことに気づくことができた。尊いことだ。よかったな」と。
ですから、仏さまというのは、お念仏になられて私の体と心のただ中に入って
私の人生のコントロール機能になってくださるのです。

それでもなかなか言うことをきかない頑固で、ものの道理がわからないな私ですが、
常づね「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお仏壇の前、またお仏壇の前でなくても
出来るだけお念仏申させていただく。
そのときに、仏さまの慈悲を感受し、「これこそ大事なことだな」
「仏さまって大事だな」と、そういうことを私に告げておられるのだという
意識を持つのです。


 その意識を持って生きさせてもらうことで、ボーツと生きなさるなと、
ボーツと生きれば、ボーツとしたままで終わっていきますよ と、
阿弥陀さまはお念仏を通しておっしゃってくださっているのです。

きわめて鈍感で、きわめて自分勝手で、浅ましい私ですが、「私は仏さまを
大切にし、私はこういう正しいものを心にいただき、そういうものに
導かれながら、この人生を生きさせてもらいました」と。

「私の人生は仏さまに対して誇ることが出来、尊いものに遇わせていただくことが
できました。仏さまにお礼を申すことのできるような人生でした」と受けとめるとき、
仏さまに対して、「おかげさまで」と言える心が少しは開けてきませんか。


それを私たちに伝えようとされたのが、親鸞聖人というお方だったのです。
私たちに正しい生き方、まことの生き方、そういうことを告げようとし、
知らせようとしてくださったのが仏さまであり、それを現実に我々に取り次いで
くださったのが親鸞聖人であります。

それゆえに、その親鸞聖人のご苦労と尊さをご恩として受けとめていくべきでは
ないでしょうか。

                  恩に気づく生きかた 自照社出版 天岸浄圓師ご法話より


          


           私も一言(伝言板)