第918回 数限りない仏がたが  〜幼い子どものお葬式〜

 平成22年 8月26日〜

暑い中 わずか 11か月で この世を去った女の子の 年忌法要でした。

ご両親や 小学生の姉や兄 祖父母 叔母さん 従妹たちが集まる中でのお勤めです。
幼稚園に通う 小さな従兄弟たちは 何のために集まったのか その意味がよく理解できず 
本堂の中を元気に 走り騒いでいます。


どうして こうした法要を 執り行うのか。
それは 先だった人たちが 願っていることを 聞き取り 残されたものが
どのような生き方をすればいいのかを 知るためのご縁だと味わいます。

お祖父ちゃんや お祖母ちゃんの年忌法要の場合であれば 先輩たちの願いを
聞くということは 理解できます。

しかし、大さわぎする従妹よりも もっと若い、どの参加者よりも幼い その人を 
尊いご縁とする法要は なかなか その意味がはっきりしないようです。


どうしても 可愛そうな幼子を 悼むような 慰めるような感情になりがちです。

親鸞聖人が これこそが 私の為に説かれた教えと言われる 浄土三部経
阿弥陀如来の願いが説かれた 無量寿経には 

  わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
 さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜
 びに満ちた清らかな心となリ、 
 わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。・・・・


阿弥陀如来のお浄土に生まれた人は それまで どんなに自己中心であった人も、
幼い子供であっても 自分だけの喜びや楽しみを求める 自利ではなく

仏としての利他の はたらきができる そうした力を得られると説かれています。

そしてお浄土は 地獄や餓鬼や畜生のものがなく、また 命を終えた後、
ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることなく

お浄土の人々がすべて金色に輝く身となり 人々の姿かたち
がまちまちで、美醜がなく・・・・・


すべての人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることができると。

そして、すべての世界の数限りない仏がたが、みな阿弥陀如来の名をほめたたえている
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏が 響き渡る世界 そうした理想の世界があることを 
はっきりと味わいたいものです。


残された 人々が 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 口にしていただくことが
先だった人が仏として はたらいていただいていることを 感じることだろうと 思います。

あの幼い子供を ご縁として 南無阿弥陀仏の生活が はじまれば
まちがいなく 仏さまとして はたらいていただいていると 味わうことが
出来ることでしょう。

悩み苦しんでいるのは 可愛そうなのは お浄土へ生まれた人ではなく 
残された この私たちであることを はっきりと 確認したいものです。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を聞くことです。


妙念寺電話サービス 次回は 9月3日に新しい内容に変わります。


         


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