第1380回 念仏と信心によって 浄土の世界があらわれる

 令和元年 7月11日~

 お念仏によって少しずつ動かしていただく。それで阿弥陀様のことも考えなが
生きていく、味わいながら生きていくような、そういうふうな人生です。
ころっと変わりませんが、徐々に変わっていくのです。

そういう仏様の仰せ、如来様の招きと喚び覚ましてくださる仰せを聞いているのです。
そういうふうに受けとめていくこころが開かれないと、念仏は仕方なしに称えている、
念仏なんて称えなくても分かっているというふうになるのです。

ですけど、やはり念仏は称えるものです。
念仏は絶えず称えるようにするものです。それで、如来様のお招きにあずかって
いくということを味わっていく、そういうふうに味わうこころが開かれていると
いうことを「信心」というのです。

 「信心」というのは仏教の教えをまことと受け容れるこころです。
私たちは今まで自分の思いだけがまことだと考えていた、自分の考えていることが
本当だと思っていた、だけどどこかに欠陥がありどこかに怪しいところがある、
そういうことをだんだん気づいてくるようになるのです。

それをどこで確かめていくかというと、教えによって確かめていくのです。
先ほどもいいましたように、如来様の教えはお経の言葉となって説かれる、
その教えの内容は七高僧の教えとなって、ずーっと私たちに伝承されてきている、
これが教えなのです。


 その教えをとおして私たちは浄土の光りを浴びているのです。
そしてお浄土のもよおしに預かりながら、私が生きているのはただの穢土ではなく、
仏様の世界を聞かせていただく道場だというふうに味わって、この人生を力強く
生きていくという、そういうことに気づかせていただくということです。


 この行を疑いなく受け容れて、このお念仏を疑いなく受け容れて、浄土に向かった
人生として生きる人には、やがて阿弥陀様と同じ覚りの境地が、私の前に展開して
いきます。
究極的には浄土の世界があらわれてくるのです。しかもそれはあんまり遠い先ではない、
まあ、あなた方はゆっくりしていてください、私はいつか分かりませんが………


 そしてお浄土とは「証」であらわされます。
この「証」というのは証しです。この信心と念仏がお浄土、つまり「証」の因になるのです。
因があって結果が出て来るのです。
「証」は結果のことです。そして信心と念仏が往生の因にもなっていることが
分かるのです。果となって開くのです。


 ところで、稲の苗を植えたら、苗は次第に成長しお米がしっかりと取れるのは
あきらかなことです。田植えをしてだんだんと稲穂が成長していきます。
あるいは果物の夕ネを植えたら、その芽が出て幹が出てやがて実となって
あらわれてきます。
収穫があらわれてくるのは後のことです。
しかし、その収穫を楽しみにしながら生きるという、因の生き方が問われて
くるのです。実りある結果があるのだから、それにふさわしい生き方が大切なのです。
結果の方がいろいろと教えてくれているのです。
そのことを詳しくお話をしている時間はありませんけれども。


親鸞聖人はこのことを「正信念仏偈」の中で、

本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因とす。等覚を成り大涅槃を

証することは、必至滅度の願(第十ー願)成就なり。

と、こういう詩によってまとめられ讃仰されています。これが「大無量寿経」の
教えなのです。

この『大無量寿経』の教えによって、「南無阿弥陀仏」という名号を頂戴して、
念仏の申せる人生を生きるという、地獄行きの人生とは違って、念仏の申せる人
生を生きるという、そういうことをはっきりと味わうのです。

 浄土をめざしてお念仏を称え続ける、その一声一声のお念仏の中に、如来様が
私を導いてくださる、念仏の声となって導いてくださる、そういう生き方が
く示されているのが「正信念仏偈」です。

              浄土から届く真実の教え  梯実圓師 自照社出版



          


           私も一言(伝言板)