第1609回 里帰り 「あら お帰り」

 令和 5年 11月30日~

 西本願寺の朝のおつとめ、ご晨朝をユーチューブで拝見し、
こんなご法話を聞きました。

 あるお寺の掲示板に こんな言葉がありました。
「里に帰れば 親がいるのではない 親が居るところが 里である。」
 里とは ふるさとのことで、親というのは、両親はじめ 
  お世話になった なつかしい方々のことでしょう。

 父親が亡くなって、実家には 母親が一人で 住んでいました。
その母が、ひと月ほど入院したことがありました。
その時、実家に帰り、ゴミ出しや掃除をしていて、母のいない実家は
いつもと違って、とても淋しく感じたものです。

 コロナ感染症の流行する以前のことで 病院は自由に見舞える時でした。
病室を訪ねると
「ごめんね、忙しいのに、こめんね ごめんね」と、何度も口にしながら
迎えてくれました。

 何度か病院を見舞ったある日のこと、母親は穏やかな顔をしていましたが
私の顔を見るなり「あら、お帰り」と声をかけて、笑いながら、
「ここは 病院やったね、おかしかね」と。
「こめんね」の言葉より、「お帰り」の言葉に、こころ和みました。

 私は、顔を会わした時だけしか、母のことを思っていませんが、
母の方は いつも私のことを思っていてくれていて、
帰ると、「お帰り」と おやつを出してくれたことを思い出しました。

 この母親とおなじように、阿弥陀さまは
私が忘れていても、いつも私のことを心配し、思って
くださっているのだといいます。

 母を亡くした今、「お帰り」と迎えてくれるのは、
故郷ではなく、お浄土にいる親たちでしょう。
こちらが忘れていても、私のことを思い、そして、お帰りと
迎えてくれる 母が、父が 祖父母が 待ってくれている
お浄土があることを 有り難く感じています。

「里に帰れば親がいるのではない、親がいるところが里である」

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏とお念仏するとき、
阿弥陀さまは そして、お浄土の親たちは いっしょに 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけ
私が元気に活き活きと生活していることを、よろこんで
お浄土で、待っていてくれることでしょう。

          


           私も一言(伝言板)