第1408回 煩悩を持ったままで

 令和 2年 1月23日〜

 あの人は出世した、出世頭などと、「出世」という言葉があります。
社会的にも経済的にも、他の人より抜きん出た人のことを
指していますが、出世とは、元々「出世間」という仏教の言葉で、
仏さまが人々を救うためにこの世に現れることを意味していました。


また、悩み苦しみの多い現実世界を抜け出して、道を求め
出家すること指した言葉でもあったと言われます。

出家して覚りをひらくとは、地位、名誉、財産、家族もみんな捨てて、
仏道修行をはじめることです。

ですから、出世の意味は、現在とはまったく違っていたようです。
自己中心的な生き方をし、競争社会の中で生きていくために
苦しみ悩みがどんどんと増していくものですから、そこから
抜け出す、そのためには、厳しい修行をして、煩悩を無くすことで、
おだやかなこころが手に入るというのが、仏教の基本だったのです。


 ところ、浄土真宗では、在家のままで、煩悩を持ったままで、
救われるという仏教の基本から逸脱した教えのように思えます。

蓮如上人は 御文章に

「煩悩を断ぜずして涅槃をう」と・・・・
 この義は、当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して
 かくのごとく沙汰あるべからざるところなり。よくよく
こころうべきものなり。とあります。


 どうして、出家もせず、修行もせず、煩悩をもったままで
救われるのか疑問を持つ人が多いことでしょう。

それは、仏さまの願いをお聴聞することで私が変化して
いくというのです。

仏さまの大きな願いを聞くことで、そしてその願いの通りに、
南无阿弥陀仏のお念仏生活をすることで、修行して悟った人々と
同じ境地に到達できるのです。

その一つのキーワードが 浄土真宗のもっとも大事な法要
である報恩講、この恩を味わう力を身につけることで、
新たな価値観、喜び、生きがいを手にいれることが出来る
というのです。


「恩」の思想は、お釈迦さまが説かれた縁起の法によります。
今、ここに生きている我々は、ありとあらゆる恩を受けて
生かされている。

見えるものだけでなく、目に見えない因縁にまで思いを
寄せることができるようになれば、過去の全ての人々が
歎異抄にある「世々生々の父母兄弟なり」と言える
味わいが出てきます。


今まで受けてきたさまざまな「恩」を知り、「恩」を感じて、
生きることが出来るようになれば、「有り難い、もったいない、
おかげさま」の気持ちがわいてきて、譬え年齢を重ねても、
病気になっても、喜び多い人生を受け取れることが出来るのです。

南无阿弥陀仏は 、その力を育て育むはたらきがあり、
素晴らしい人生を与えていただき、また感じ取れる力をもつ
能力が開発されていくのです。


          


           私も一言(伝言板)