第1416回 聞くということ

 令和2年 3月19日〜

 ものをいただくとき、普通、手で受け取ります。
お土産やプレゼントなどをいただくと嬉しいものです。
ものに託された相手の心が伝わってきます。
しかし、手でいただいたお土産は食べたらなくなりますし、
もらったお小遣いは使ってしまったら後に残りません。

 ものを受け取るのは、手だけではないのです。
形がないので もらったという気がしませんが、
耳で受け取る場合があります。
誰かから、自分の行いや業績をほめられてごらんなさい。
少々の金銭を受け取ったことに倍する満足感を味わう
ことができます。

あるいはまた逆に、自分を侮蔑したり過小評価 
されますと、一生忘れることのできない憎悪となって
私の心のなかに蓄えられます。
このように、人間の精神状態は耳から受け取ること、
すなわち聞くことによって大きく左右されるものなのです。

 如来の慈悲の結晶である名号は、手では受け取れません。

耳で聞いて受け取るのです。
受け取ると言えば能動的に感じられるかも知れませんが、
耳は本来、受動的な器官で、自分の意志とは無関係に
嫌でも聞こえてくるものです。

 耳から入った名号は、貪欲・眺恚・愚痴の煩悩で
濁りきった私の心のなかに、根を下ろします。
煩悩のどぶは、名号にとって極めて適地であります。
どぶを養分としながら、濁りに汚染されない
信心の華を咲かせます。

また、この華はよい匂いを周辺に漂わせます。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の称名は、
信心の華からこぼれ出る匂いなのです。

名号はただの六文字ですが、それは如来の
真実心ですから、底知れない煩悩のなかに入って、
それを信心に変えてしまうのです。

 阿弥陀如来の慈悲である名号は、聞くこと
以外に受け取る方法はありません。
聞くことによって、誰にでも受け取ることができます。
学問の有無、社会的地位の高低、年齢の多少に
関わらず、誰でも聞くことができ、
心に大きな安らぎを得ることができるのです。

 ただ聞くといっても、音波を鼓膜に感ずる
ことではありません。声を通して向こう側の心情を
受け取るのですから、名号は誰のために、どういう
手続きを取って完成されたものであるかを聞いて、
大きなうなずきを得るのです。

ですから、書物を読んでその奥にひそむ心情を

読み取ることも、聞くということができます。
このような営みを聞信、聞即信、あるいは
信心獲得というのです。

 信心といっても、名号のいわれを聞くことの
他にはないのです。

 やさしい真宗講座 み教えに生きる 霊山勝海師

          


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