第891回 不幸の完成  〜プラスか マイナスか〜

 平成22年 2月18日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

在家仏教協会という 組織があって 全国各地で定期的に講演会を開き、
月刊雑誌を発行していますが 学生時代から仏教青年会で
 活躍された 
外科医の田畑正久さんが 日本外科学会定期学術集会で
 特別講演された
内容が 最新号の『在家仏教』に掲載されていました。


その中にこんなところがありました。

 最近ある患者さんと対話で感じたことですが、私たちは 生きていることが
「当たり前」と思っています。


そして病気になって死んでいくのは、「あの人は運が悪かった」
「交通事故にあって亡くなった」「ガンになって亡くなった」というように 
死ぬのは 偶然と思っているわけです。


だけど仏教はそうは言わないのです。

生きているのが偶然、「有ること難し」なのだ、死ぬのは当たり前、
死ぬのは必然だと考えるのです。

 私たちが生きていることを「当たり前」と考えると、生きていることへの
喜びや、感謝というものはついついなくなってしまいます。
多くの命をいただいて生かされていることを当然として、その上に
さらに「何か良いことないかな」と求めていくわけです。

私たちが考えている 生きるということの意味を、私たちはよく考え直して
みないといけないと思います。

哲学者のソクラテスがこう言っています。
「私たちは 誰からも教えてもらわないのに、みんな幸せになりたいと
思っている」と。

そこで「幸せになる」ということはどういうことだろうかと考えると、
私たちは幸せのためのプラス条件をできるだけ集め、マイナス条件を
できるだけ少なくしていく。

健康はプラス、病気はマイナス価値、役に立つ人間はプラスだ、
役に立たない人間はマイナスだ、迷惑をかけることはマイナスであり、
迷惑をかけないことはプラス、体が若々しいことはプラス、老いることはマイナス、
などといふように考えていく。

そしてプラス価値を集めてみんな幸せになりたいと思って日々生きているわけです。


 しかし、そうやってみんな幸せになれるはずだとがんばってきたのに、
診察現場で接する高齢者の方々が今どうなっているか。

多くの患者さんが「年をとって何もいいことないですね、腰は痛くなり、
目はうすくなり、耳は遠くなる」というふうに愚痴を言うわけです。


 これはどういうことかというと、老病死につかまったときに、
私たちのプラス・マイナスの物差しでいうと、老病死はマイナスのマイナスの
マイナスなのです。

ということは、幸せになりたいと目指しながら行き着くところは「不幸の完成」に

なっていくということに気づかないわけです。

私たちは必ず幸せになるのだ、幸せになっていくのだ、明日こそ幸せになるぞ、
とがんばりながら、結局は老病死につかまったときにマイナスのマイナスの
マイナスですから、「不幸の完成」なのです。

 パスカルは 『パンセ』という本の中で、幸せを目指しながら結局は
「不幸の完成」になるということが分かっているのだが、「不幸の完成」という
現実の前に「幸せ」という立て看板を置いて見えないようにして、結局は
「不幸の完成」を目指してつっぱしっているというのが私たちの生き方なんだと
書いています。・・・・・・・・


 そして ある時 仏教書を読んでいたら 埼玉医科大学の秋月龍aという
禅宗の師家でもある哲学の教授が医学生に

「皆さん方が 今から仕事をしていく医療の世界は、人間が生まれて老いて
病気で死んでいくという生老病死の四苦の課題に取り組むということです。

仏教もその生老病死の
 四苦の課題に取り組んで2500年の歴史があり、
それなりの解決の方法は見出しているのです。医療という仕事に携わる者は、
ぜひとも仏教的要素を
 もってほしい」ということです。

この文章を読んで、自分が仏法を学ぶとうことと、外科医として仕事を
するということは同じ課題に取り組んでいるのだなあと知らされて、
非常に勇気づけられたことがありました。・・・・・と

大変に興味深い お話ですが続きは 次回にご紹介します。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
次回は2月25日に新しい内容に変わります。。


         


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