第1068回 独り生まれ 独り死し 〜因が同じ 倶会一処〜

 平成25年 7月11日〜

無量寿経に 「独生独死、独去独来」(どくしょうどくし どくこどくらい)
という有名な一文があります。
そのあとに 「行に当りて苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身みづからこれを当(う)くるに、
代わるものあることなし」 とあります。


私たちは 「縁起」 のつながりの中で生きています。自分独りだけの力で
生きているのではありません。

すぐに思い浮かぶだけでも、育ててくれた両親や家族・友人・近所の人々、
あるいは病院や学校など、いろんなおかげを受けています。

食事ひとつをとってみても、多くのいのちのおかげによって、また、生産者の
人たち、流通に関わる人たち、調理してくれた人、実に多くのおかげによって
生かされています。

 「おかげ」とは、漢字で書けば「お蔭」または「お陰」、つまり蔭に隠れて見
えないことを表しています。

目に見えない、気付かないほど多くの「おかげ」によって、今の私が支えられて
いるのです。

 それと同時に「縁起」のつながりは、私という存在が、私ひとりが欠けても
今のあり方が崩れてしまうという、実はかけがえのない存在であることも
教えてくれています。

網は、たった一か所破れただけで、網の役目を果たさなくなります。

 私たちは、そのような 「縁起」 のつながりの中にあるのですが、いざ死を
迎えるとなると、誰も代わってくれるものはいないのであって、すべて、私一人が
引き受けていかねばなりません。

誰も代わってくれる人はいないそれぞれの人生において、してきた行いも、
また、人それぞれであって、してきた行いがすべて同じ人はあり得ないでしょう。

身の振る舞い、口にした言葉、そして心に思ったこと、どんなに仲の良い親子・
夫婦・兄弟でも、まったく同じ行いはあり得ません。そうすると、当然、行き先も
違うのが因果の道理というものです。

そのことを、「行に当りて苦楽の地に至り趣く」と、してきた行ないによって、
苦や楽を受けると述べられているのです。こうなると、死は永遠の別れになる
他ありません。

無量寿経の引文は、今回はここだけを抜粋しましたが、みなさんご存じのように、
無量寿経という経典は、阿弥陀如来の浄土と、その浄土に往生する道が説かれています。

そして、浄土三部経の一つ阿弥陀経では「倶会一処」として、ともに浄土で会える
世界が説き示されています。

してきた行ないが違えば、行き先も違うのが当然の道理なのに、なぜ、浄土でまた
あうことができるのでしょう。それは、同じ南無阿弥陀仏を頂戴するからです。

因が、同じ南無阿弥陀仏ですから、果も、同じ浄土で「倶会一処」。

これが、阿弥陀如来の成就された、救いの因果論というわけです。

                    大乗 8月号 金言礼讃 より

 妙念寺電話サービス 次回は 7月18日に新しい内容に変わります。

  

         


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