第1392回 空過か 勝過か

令和元年 10月3日~

 人間は たいてい未完結な思いで  一生を終わるもの。
もっと  長生きをしたい  と思っていたのに、今 死ぬ ことになれば、
どこか 未完の思いが  ともなうものでしょう。
「 私は もうこれで満足した 」と、終わる人は 少ない。


人生というのは  どんな幸運な人生でも  未完結で終わる。
お金を もう少し欲しかった。もっと いい夫婦だったら、
頼りになる息子だったら。もっとよい仕事につきたかった。


 どんな人生も  本質的には 未完結で 終わらざるをえません。
それでは、自分があまり惨めだから、いや、これだけ頑張ったのだからと、
自分で  自分に言い聞かせて  死ぬほかないのが、普通の人々です。


もし、お念仏に会えなかったら、結局 自分で自分を 何とか説得する
ほかありません。
あの人に比べたら  まだ幸せな方、   そう言い聞かせても、
自分より もっと幸せな人を 思うと、自分を なかなか 説得できないものです。
それで結局 自分を  ごまかして しまうことになります。

未完結で 死ぬのに、完結したように  自分に 思い込ませて
誰でも 必ず死ぬのだから、まあ仕方がないかと 死んでいく。

 生死の大問題は、自分と相談しても どうにもなりません。

ところが、お前を 必ず仏にすると 誓われている阿弥陀さまの
お慈悲の中に 生かされているのだと 知らされると、 
どんな人生も お念仏で 完結するのです。


私が 帳尻をあわせて、完結するのではなくて、仏さまが完結させて
くださるのです。

どんなに 若く死んでも、どんなに貧乏でも、どんな不幸な環境の 中で
死んでも、天涯孤独で一人ぼっちで 死んでも、お念仏があれば それで
この一生は 完結するのです。


私の人生を  完結させてくださるのは  阿弥陀さまの力、
お念仏の力であって、私の力ではありません。


「 本願力に あひぬれば むなしく すぐる ひとぞなき 」と  
如来の本願力に 会えば  むなしく過ぎるということはない と
親鸞聖人は  おっしゃっています。

お念仏に 会えた人生は、どんなに辛く 短かい人生であっても
空しく過ぎることはない。「 空 過 」ではなくて、すぐれて過ぎる一生
「 勝 過 」の人生だということです。

「 勝 過 」という言葉が『 浄土論 』に出てきます。

南無阿弥陀仏によって 充実した人生か、それとも 線香花火のように
終わるのか、私たちはみな  勝 過 と 空 過、この二つの 可能性を
選択出来る場に、今、立だされているのです。

念仏のない人生は、どれだけ にぎやかに 華やかに 見えても、
流れ去る一生。全部きれいに流れ去る 空しい人生なのです。

                浄土の哲学 高僧和讚を読む上 大峯顯著



          


           私も一言(伝言板)