第1320回 智慧の念仏

平成30年 5月17日〜

 智慧の念仏を得るということはどういうことなのでしょうか。
そして、智慧と慈悲のおこころを私が頂戴していくということは
一体どういうことなのでしょう。

今まで見えなかった世界を、我執にとらわれて今まで気づかなかった世界を、
自分中心にばかり見ていた世界を、仏さまのおこころや智慧のおこころを
頂戴していく中で、なかなか我執は破れませんけれども、その我を抱えた
ままで、自分中心の思いを抱えたままで、生かされている世界、
願われている世界、認められている世界、力一杯生き抜いていく世界が、
この私の上に拡がっていくということではないでしょうか。

 もがいて、もがき続けているけれども、いのちをいただいてよかったな、
仏法に遇わせていただいてよかったな、お念仏の教えに遇わせていただいて
よかったなと、思うこころが聞法のお育てにより、如来さまのはたらきにより
起こってくるのです。

そういう教えを、街の中で、みなさんがお仕事をしておられる中で、毎月
毎月のご法座の世界で、報恩講のご縁で、お盆の法座で、お彼岸の法座などで、
聞法させていただき、その深いおこころを頂戴していくということになるのです。


 浄土真宗では、こういうことをあまり申しませんけれども、仏法に遇われる前と、
仏法に遇われるようになってからは、ものの考え方や見方、生き方が……
どうでしようか、少しずつ変わってきているのではないでしょうか。

何にも変わらないのですとおっしゃる方もあるかもしれませんが、それは
「何も変わらないということに気づかせていただいたのです」。

今までは当たり前だと思っていたことが、仏法のご縁に遇わせていただく
ことによって、自分の我が出たときに、「これでよかったのかな、自分の
ことばかりしているけれども、相手のことも考えないといけないのじゃ
ないかな」と考えられるようになれるのです。

あるいは、次つぎと悲しいことや、つらいことが起きて、どうしてなのかと
思うけれども、「やっぱり、つらいことや悲しいことの中で、如来さまの
ご縁の中で、お育てを受けていくということもあるな」ということを、
一つひとつ私たちが頂戴していくということになるのです。

 親鸞聖人は智慧の信心や慈悲の信心とおっしゃっておられます。
一つは、生活の中での、ものの考え方や生き方というものを、常識的な
考え方とは違うところから、それぞれを大事にしていくということ。

もう一つは、死というものには、深い意味があって、最後は往生浄土の
問題を通しながら、帰するところは親鸞聖人のみ教えを頂戴し、頷いて
いくということになるのではないでしょうか。

そして私たちの周りには、そのみ教えに生きた方が沢山おられます。
いろいろな方々から、少しずつでも、そういうことを頂戴したいものですね。
お念仏をよろこばれる方が沢山おられまして、「そうだなあ、そうだなあ」と
日々教えていただきたいものです。

               お浄土を願って生きる 浅井成海師法話より

          


           私も一言(伝言板)