第916回 縁起するいのち 〜生かされいるいのち〜

 平成22年 8月12日〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。

ところで こんな文章に出あいました。
在家仏教協会の月刊誌の巻頭言に 大谷大学の名誉教授 小川一乗さんの言葉です。


 今から 2500年も前に 釈尊によって、私たちの「生死するいのち」は
「縁起するいのち」であると、見定められました。

すべての「いのち」は、他との関係においてのみあり得ているのです。
「私がいて、私が生きる」「私がいて、私が老いる」「私がいて、私が病む」
のではないのです。


もろもろの因縁のままに「生かされている私」がいるだけなのです。


 この「縁起するいのち」への目覚めは、「私が生きている」という自我を
前提とした「いのち」の絶対的な否定です。

自我の存在を前提としなければ、私たちの「いのち」はあり得ないという仮設に立って
「いのち」を問う近・現代の思考を根底から問い直すための、釈尊の「いのち」への
見定めです。


自我を前提として確立されるはずの道徳・倫理が、崩壊を 繰り返している
昨今の現実を目の当たりにして、あらためて釈尊の見定めに同意して、
自己を問うものとなる仏教徒の誕生が一人でも多かれと、そう願う昨今です。



 仏教は、私たちが仏と成るための教えです。仏と成るということは、
自分の思い通りに生きたいという自我が前提となって、愛憎違順する、
その苦悩からの解放を求めて生きる者と成ることです。

「生きていたい、死にたくない」という自我によって、生死の世界は作り出されていきます。
その生死から出離するための「生死いづべき道」を求める者となることです。


そこには、自分の思い通りに生きたいという自我が絶えず否定され続けていくという、
どうにもならない現実があります。



 しかし、「縁起するいのち」への目覚めをもって生きるとき、
「生かされるいのち」尊しと、その現実を引き受けて、「浄土に往生するいのち」を
生きる者となるのです。


そしてそこに、「縁起するいのち」が「涅槃するいのち」として
完結されていく世界が開かれています。
そのような「縁起するいのち」への目覚めを願って止まらないのが、
阿弥陀如来の本願です。この本願こそが、「如来のいのち」なのです。



こういる文章です。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 8月19日に新しい内容に変わります。


         


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