第1442回 親鸞聖人の御恩
令和2年 9月17日〜
宗祖親鸞聖人のご恩とは、いったい
どのようなものでしょうか?
インドに始まる仏法を、日本まで伝えて
くださった方々には、皆ご恩
中でもその方にしか なし得なかったことに
対して、「ご恩」
さまざまに感謝の法要が勤められて
いるようです。
仏法が伝わりはじめた頃の日本には、
戒律を授ける戒師がいなかった
授かった正式な僧侶がいませんでした。
その戒師の一人である鑑真和上は、日本からの
要請を受けて、命がけで海を渡り、失明と
事態になりながら、日本に正式な僧侶を
誕生させてくださいました。
ここに鑑真和上のご恩があります。
また、親鸞聖人の師匠である法然聖人は、
当時難しい修行ができる「善
阿弥陀さまの極楽浄土に生まれることが
できないと言われて
「悪人」でも「本願を信じ念仏すれば、
皆極楽に生まれて仏
念仏往生の道を教えてくださいました。
では、親鸞聖人が私たちに教えて
くださつたのは何なのでしょうか?
それは、法然聖人の教えてくださった
お念仏が、阿弥陀さまのお喚び
ということです。
そこに、親鸞聖人のご恩があります。
南無阿
思われていた時代に、そうではなく、
仏さまからの喚び声であるということを、
明らかにしてくださいました。
このことを親鸞聖人はご著書『教行信証
(顕浄土真実教行証文類)』
本願招喚の勅命なり
と味わわれています。
お釈迦さまをお手本とし、目標とし、
修行をしてさとりを開くものだ
いる人たちに、「お釈迦さまは、お浄土から
来た仏さまである。
仏法は全て阿弥陀さまの本願のはたらき
であり、他力である。
私の修行
余地は一切ない」と、私たちが仏のさと
開くことができない原因を、煩悩ではなく
自力心であるとお示しく
それまで人々は、お釈迦さまを自分と
同等に考え、お釈迦さまにでき
自分も修行すれば仏になれると歩んできました。
しかし親
私たちを救おうという阿弥陀さまの
おはた
くださり、ご苦労の末に仏となって、
阿弥陀さまのお救いを私たちに伝えて
くださった、お浄土から来たお方であると
教えてくださったのです。
だから、お釈迦さまと同等の修行な
私たちにはできるはずもなかったのです。
聖人は次のように語られます。
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(『浄土和讃』『註釈版聖典』五七二頁)
如来世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の
本願海を説かんとなり(『教行信証』『註釈版聖典』二〇三頁)
お釈迦さまをお手本として修行して
いる人たちは、私の煩悩こそが迷いの
原因であると、煩悩を断ち切るため、
夫婦、親子の縁を絶ち、山に
修行します。
親鸞聖人の比叡山での二十年のご修行も
それでし
仏法は全て阿弥陀さまのご本願のは
たらき、他力であると知らされた親鸞聖人は、
自力でさとりを開く道を
弟子となり、他力のお念仏の道を歩まれました。
そし
生涯をともにされました。
私たちは、阿弥陀さまの、全てのものを
仏にするという、仏さまのは
中にいます。
そのことを告げてくださっているのが、
南無阿弥
南無阿弥陀仏は、「お前を仏にする阿弥陀は、
すでには
なろうとすることはやめ、我にまかせよ」
という、阿弥陀さまのお喚び声であったのです。
このことに出遇った親鸞聖人は、長い問、
阿弥陀さまのはたらきの中にいながら、
迷い続けてきた原因が私の煩悩ではなく、
阿弥陀さまのは
私の自力心であったことに気づかれま
悲しきかな、垢障の凡愚(私たち)、
無際(遥か昔)よりこのかた助正
定散心(自力心)雑する(はたらかせる)がゆゑに、
出離その期なし(さとりを開いて仏になれない)。
みづから流転輪廻を
よって迷い続ける)、微塵劫を超過すれども
(ど
大信海に入りがたし
(『註釈版聖典』四一二頁、括弧内引用者)
煩悩を断ち切らなくても、さとりを開き
仏となる道があったのです。
親鸞聖人はその感動を次のように語られます。
よく一念喜愛の心を発すれば(阿弥陀さまに
おまかせすれば)、煩悩
得るなり(煩悩の日暮らしのまま、臨終にさと
りを開き仏となる)
(『同』二〇三頁、括弧内引用者)
この教えにより、煩悩に苦しむ私たちに、
煩悩を断ち切らずして仏さまになれることを、
自らの生きざまをもって教えてくださいました。
こ
その聖人にお礼申しあげる法要
報恩講なのです。
親鸞聖人のご恩をしみじみとありがたく
感じます。今年も報恩講の季
教えてくださったことをかみしめながら、
ともともにお念仏
いただきましよう。
南無阿弥陀仏
本願寺出版 施本報恩講 阿部信幾師著より
私も一言(伝言板)