第873回 人間の考えは 邪見驕慢・悪衆生 〜

 平成21年 10月 15日〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとう ございます。

こんな文章に出あいました。

「仏は、人間の考えは <自分> と いうものが 入っているから、
 すべて邪見であると 説かれてある。・・・・・
 人間は 自分の立場と 都合を離れては 決して生活は できないものである。

 ・・・・・うまくいかないのは 人のせい、うまくいったのは 自分の力というわけで、
 いいようのない 邪見驕慢であり 悪衆生である。」

「私共の満足の求め方が いつでも 外に向けられている。仏教は外を
 解決しようとする  方向ではなく、是を 内に求めて満足する道を 説かれる」

「<問題の根は 常に汝自身の中にある> が 仏の仰せである。
  外なる人や 物や事は 縁であって、 因は まさしく自分自身にある。
  問題の解決は 汝自身をひるがえす以外にない、と。
  都合と立場を 固執しているうちは 救いがないぞ、と呼びかけられる」

「南无阿弥陀仏は、そうなったわけが あったということに、素直に
 従うていくんです。
 娑婆の縁が 尽きたときには、ただ <はい> しかない。
 念仏は ただ <はい> なんです。
 ただということは はからいが 入らないんです。ただ <はい> 」

「親不幸な子を 持ったら、私は こういう親不幸な子を 持たねばならん
 わけがあったと、これ南无阿弥陀仏です」

「家内が 何かを言うても、あれは ああいうことを いうわけ < 業 >が
 あって言うとる。
 私はまた 聞かんならんわけ < 業 > があって聞いとる。
 言わんならん者が 言うて、聞かんならんものが 聞いとる。
 それでいい、ちょうどいい」

「病気になったら 平気で病気ができる。
 商売で 損したら平気で 損を受けられる。
 子どもが試験に失敗したら 平気で次の手を打つのが、南无阿弥陀仏である」

「わが身の宿業の向くところ、いいことがあっても 悪いことがあっても、
 人から見たら あんな気の毒な人は おらんというような 境遇になっても、
 それを一つも 苦しんだり 悩んだりする 必要のない心を 頂戴できた姿を、
 浄土真宗では おたすけというんです。」

 とあります。 
 どんな状態であれ それを受け入れることのできる力 それが

 信をいただいた 姿ということを 味わわせていただきたいものです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。 
次回は
 10月22日に新しい内容に変わります。
    (山脇大樹さん一周忌記念出版 慈光)
    亀井鑛 親鸞と歩む 信の群像 大法輪閣出版より


         


           私も一言(伝言板)