第1406回 迷える者は道を問わず

 令和2年 1月9日~

親鸞聖人の教えを大変喜ばれた西元宗助(1909 1992)先生が、
軍隊に召集され台湾におられた時のことです。
十数名の先頭に立って、町外れの熱帯植物園を目指して
歩いていましたが、どうしても目的地に着けないのです。


その時、若い兵隊の一人が、街角のタバコ屋のおばさんに道を
尋ねたそうです。

すると、おばさんは、親切に道順を教えてくれ、無事たどり着く
ことが出来たということです。

道を聞いた若い兵隊が、「迷える者は道を問わずやな」と笑った。
その若い兵隊に、この言葉を誰に教えてもらったのか尋ねたら
地べたに指で「迷者不問道」と書き、

「僕は田舎の小学校しか出ていない、知っている漢文はこれだけや、

  高等小学校を卒業の日に、受け持ちの先生が言われた。
  この中には、上の学校に進まず、実社会に出る者もいる。
  諸君の将来をアレコレと想い、昨夜は眠ることが出来なかった。
  諸君に一つ、卒業のはなむけの言葉として差し上げようと思う。」
といって黒板に大きく書かれたのがこの、迷える者は道を問わず、
の文字でした。


「よいか、この言葉を忘れないで、つねに謙虚に心をむなしうして、
 分からないことは何事も、信頼のおける人々に問い尋ね、教えを
 こうことが大切です。

  このような心がけさえ持ち続ければ、実社会がそのまま生きた
 本当の学校になります」と、言われたのです

と、目を輝かせながら、自慢げに、その若き兵隊が話してくれたのです。

この話を聞かれた西元先生は、知ったかぶりをして道を尋ねようと
しなかったご自分を大いに恥じ、小学校の先生の「迷える者は道を問わず」
という言葉に、深く心を打たれたとおっしゃっています。


私たち人間は、少しばかり知恵や知識が身についてくると、何もかも
分かったような顔をして、人に問い尋ねることをしなくなります。

はからい心が、驕慢心(おごり、たかぶり、自惚れ)が邪魔をするのです。

つまり、「迷える者」とは、そういった驕慢心に振り回され、
知ったかぶりをしている人のことを言うのでしょう。

なぜなら、自分は迷っていると気付けば、正しい道を問わずには
おれなくなるのに、迷っていることが分かっていないので道を
問おうとしないのです。

わずかばかりの知識をひけらかして、まじめに道を問い尋ねる
こともせず、迷いに迷いを重ねているのが、私たちなのです。


これは、仏法をお聞かせいただく場合も同じです。
親鸞聖人のお作りになった『正信念仏偈』には

邪見慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

意訳すれば、お念仏の教えは、はからい心(おごり、たかぶり、
よこしまな心)を以ってしては、信じることは不可能である
ということですが、まさに心をむなしくしなければ、教えは
耳に届かないのです。


また、教えを聞くことで今一つ大事なことは、人の言うことを
ただ聞きさえすれば良いというものではないということです。

小学校の先生も、信頼のおける人に聞きなさいと念を押して
いるのです。


文明社会と言われながら、いっこうに迷信があとをたたないのも、
おかしげな宗教がはびこるのも、何が正しいのかという
見極めをせず、安易に人の言説を信じるところにあるのです。


何が正しくて正しくないか?
仏法を聞く上で、これが一番大事なことだと思います。 

          


           私も一言(伝言板)