第1301回 むなしく過ぐる 人ぞなき

平成30年 1月 4日〜

浄土真宗の通信教育の機関誌に、こんな文章に出会いました。


 毎年、連休になると、多くの人たちが休みを利用して旅行に出かけます。
皆さんの中にも、連休中旅行を楽しまれた方々も多いと思います。

その時には、事前に目的地について調べたり、旅先で何をしようかと
相談したりすることが、実際の旅よりも楽しい時間だったりもします。

 どこかに出かけようとする時、私たちは事前にいろいろと調べた上で出かけ
ていきます。
ところが、日頃、自分の人生の行く先についてどれだけ考えることがあるでしょうか。
旅行とは違って、自分の人生の目的や行く先を問わないまま何となく生きて

いることが多いのではないでしょうか。

 仏教はよく「転迷開悟」の教えであると言われます。
では、仏教で言う「迷い」とは何なのでしょうか。
それは「貪欲・瞋恚・愚痴」の煩悩に閉ざされた私たちのあり方で
あるとよく言われます。
少し分かりやすく言い換えると、「ほしいほしい」といろいろなものに執着し、
ありのままの現実を見つめず「くやしい」と他を責め、
自分を省みることを忘れ「知っている」と思い上がっている私たちのあり方が、
迷いの相です。

それは、虚仮不実なものに惑い、今生きている自己の本当の拠りどころを
見失っている人生の旅だと言うことが出来ないでしょうか。

 親鸞聖人の「高僧和讃」に、「本願力にあいぬれば むなしくすぐる
ひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(「註釈版聖典」
580貞)というご和讃があります。

現代語訳すると、「阿弥陀如来の本願に出遇ったならぱ、人生がむなしく
過ぎるということはありません。
大海の水が隔てなく満ちているように、阿弥陀如来のおはたらきは、
煩悩にまみれた私たちにも分け隔てなく満ちわたるのです」という意味です。

親鸞聖人は、自己の本当の拠りどころを見失って生きている私たちに向かって、
「阿弥陀如来の本願に出遇った念仏者の人生は空しく過ぎることはないのです。
如来のはたらきは、煩悩にまみれた私たちを満たす真実のはたらきです」と
仰っています。

親鸞聖人の教えは、迷いの中に生きている私たちに、その人生の目的、
拠りどころとなる真実を明らかにされています。
日頃の学びを通して、その阿弥陀如来の本願の意味を深く一人ひとりが聞き
開いていくことが大切です。 

          嵩 満 也 師  (龍谷大学教授:宗教担当)

          


           私も一言(伝言板)