第1418回 水の浮力

 令和2年 4月2日〜

 阿弥陀さまのはたらきを説かれた、
こんな文章を読みました。

 海から遠い農村に育った私は、
小学生の頃、水泳ができませんでした。

中学に入って日本男児で泳げないことを
辱められて、必死で練習しました。
そのため、ずいぶん水を飲んだり、 
溺れる思いをしたものでした。


 泳げるようになってからは、手足の力を
抜いて水の上に身体を投げ出しますと、
水の浮力で身体は自然に水面に浮き、
大空の雲を眺めながら休むこともできます。
本来、人間には肺という浮き袋が内蔵
されており、身体全体の比重は水より軽く
浮くようにできているのです。


泳げるようになろうと、懸命に手足を
バタつかせ必死で努力していたのは、
考えてみると一生懸命水に沈むための
訓練をしていたようなものです。
足をバタバタ動かし手で水をかきながら、
浮力に抵抗して水のなかへ自分を沈没
させていたのでした。

阿弥陀如来の本願の前での人為的な
思惑や行為は、讐えてみると泳げない
ときの手足の無駄な運動と一緒で、
ジタバタすればするほど迷妄の深淵に
沈没するのです。

本願の海に入ったら、自分で力む必要は
ありません。両手両足を投げ出して
本願海の浮力にまかせてしまえば、
水を飲んで溺れる苦しみを味わう
ことはないのです。

 本願の海に浮かぶコツを知ったら、
その水の性質を利用して、自由自在に
泳ぎ戯れることができます。
急ぐなら抜き手を切ればいいでしょう。
水球をするのなら、立ち泳ぎをすれば
両手が自由に使えます。
自分で手足を動かして泳ぐのですが、
先の泳ぎを知らいときとは意味が
異なります。

本願海の浮力という法則にかなった
動きであって自分で動作しながら、
本願海が泳がしてくれているとの
謝念となるのです。

無義とは、人為的配慮や行為をいっさい
加えないといういみですが、それは同時に
無疑でもあります。

本願に対して疑うことがないから、
私の側で加えるものが何もいらな
いのです。

人為的な営みがかえってさまたげと
なって、阿弥陀如来の本願を信受する
ことができないのです。

如来の本願の前では わたくし的な
思惑や行為はすべて投げ捨てて、
ただひたすらに「往生のことは如来に
まかせて、念仏申せ」との仰せに
うなずくだけでよいのです。

 やさしい真宗講座
  霊山勝海師 本願寺出版社


          


           私も一言(伝言板)