第1526回 私がここにいるよ ~南無阿弥陀仏のこころ~

 令和 4年4月28日~

如来のお心が明らかになるとは、時代が変わろうが
人が変わろうが、何がどう変わろうが、変ることなく、
「私がここにいるよ、どのようなことがあっても
  私がひきうけてやろう」と呼びつづけてくださる
阿弥陀如来の確かな大慈悲心が明らかになることです。

 どうしたら明らかになるのかといいますと、それは、
ただ聞くことによってのみ明らかになるのです。
聞くことによって はじめて 明らかになるのです。

 信心とは、あてにならない私の心と、変ることのない
阿弥陀如来の確かなお心が明らかになることです。
あてにならない私の心が本当に明らかにされれば、
あてにならない私の心を「私が、私が」とふりまわせ
なくなります。

 確かな阿弥陀如来のお心が明らかになれば、
私が真によりどころにすべきは如来のお心であると、
如来のお心におまかせするばかりです。

 自らの心を「私が、私が」とふりまわさず、
如来のお心に随順するということが「信じて」
ということであります。

 岩もあり木の根もあれど、さらさらと
  たださらさらと水の流るる。

と、うたってくださった先生もありますが、
小石があってもつまづき、小枝があっても
ひっかかっているような私たちが、この人生を
お浄土まで生き抜く道は、あてにならない自らの心を、
「私が、私が」とふりまわさず、阿弥陀如来の
「力いっぱい生きなさい、どんなことがあっても
 私がいます」と呼びかけつづけてくださる大慈悲心に
随順して生きる、信心の道しかありません。

 そのことをよくよく見抜いて、阿弥陀如来が
私たちのために選んでくださった本願が、
第十八の願なのです。それで、親鸞聖人はこの願を、
「選択本願」と呼ばれたのです。


  人となれ仏となれ 藤田徹文師 永田文昌堂刊より 

          


           私も一言(伝言板)