1412回 48願の最初の願は

令和元年 2月20日〜

 お釈迦さまの説かれたお経の一つ、仏説無量寿経には、
すべての人々を救いたいと、一人の国王が修行者となって
立てた48願が説かれています。
そしてその最初の願は、


もし、わたしが仏になるとき、自分の国に地獄・餓鬼・畜生の
三悪道があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

という願です。 では、

○ 地獄とは、他人を責めつづける鬼と、自己をかえりみる
   ことのないものの住む世界。
○ 餓鬼とは、欲望(貪欲)に自己を見失ったものの住む世界。
○ 畜生とは、自己と自己の行為を恥じること(漸愧)のない
   ものの住む世界をいいます。

 私たちは、人間に生まれ、人間の世界に住み、人間として
生きているということに何の疑いももっていません。
しかし、本当に私たちは人間なのでしょうか、本当に私たちは
人間の世界に住んでいるのでしょうか。

 急に、おかしなことをいいだしたと思われるかも知れませんが、
縁起をとく仏教では、地獄・餓鬼・畜生にしましても、そして
人間にしましても不変のもの、固定したものとは考えないのです。
それらは生き方によりいつでも変ると考えているのです。

ですから、人間に生まれても、鬼のような生き方をすれば、
姿は人間のままであっても、その人は間違いなく鬼なのです。
普通はそういう場合、「人間が鬼のようなことをしている」
といって、人間であるという前提は変らないように思っています。

しかし、仏教では「鬼が人間の姿をしているだけのこと」と
受けとるのです。

 他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても
間違いなく鬼であり、自己をかえりみることのないものは
すでに地獄の亡者であり、共に人間の世界に住んでいるつもり
であっても、本当は地獄に住んでいるのです。

他人を責めつづけるという生き方によって、自己をかえり
みることのないという生き方において、自から地獄の世界を
つくり、その中で鬼として、また亡者として存在するのです。

ですから、私をぬきにして、地獄という世界を考えるならば、
それは単なる空想の世界でしかおりません。

「地獄なんかあるものか、そんなものがあるなら見せて
ほしい」という人がいます。
そんな人にかぎって自己をかえりみることもなく、他人を
責めつづけて今生においてすでに鬼となり、亡者となって
地獄に住んでいる人です。  (つづく)

       人となれ仏となれ 藤田徹文師著 永田文昌堂刊

          


           私も一言(伝言板)