第1378回 お念仏によって方向転換する人生(1)

 令和元年 6月27日~

 阿弥陀様は「南無阿弥陀仏」という言葉をもって、私たちのものの考え方や
受け取り方などを変革していくのです。
教えを聞いたら、ものの考え方や構造様式が少しずつ変わっていくのです。
そして教えによって、それか磨き上げられていくわけです。

「南無阿弥陀仏」というのは、「仰せに従う」のですけれど、
この「仰せに従う」ということは「仰せ」がはたらいているということです。
「仰せ」が私を従わせているのです。

なぜかというと、正しいものには権威と安定感、そして明るさというのがあります。
その正しいものに触れた者はこころが明るくなり、そして正しいものの持っている
安定性に憧れるようになるのです。
だから私たちは、絶えず正しいものに触れていく、それによって自分自身が
喚び覚まされていくのです。
こういう経験があるのではないでしょうか。

 親鸞聖人は、「南無」ということは「仰せに従う」という意味でとらえておられます。
「仰せに従う」ということは、「どうぞ、この仰せに従ってくれよ」という
如来様の親ごころが、そこに感じ取られているのです。
これは無理矢理にというのではなくて、「どうぞ、気づいてくれ、こういう
世界がある」という、「気づいてくれ」という仏様の思いに気づかせて
もらうということです。

そういうことになりますと、「帰命せよ」ということは「仰せに従う」
ということでもありますが、
「どうぞ、私の言うことを受け容れてくれよ、私の言うとおりに味わってくれよ」
という、如来様のお願いの表現でもあるのです。

 この意味で親鷲聖人は、「南無」は「仰せに従う」ということと同時に、
「私の言うことに従いなさい」という仏様の慈悲をこめた願いの言葉であると
味わっていかれたのです。
それで「帰命」とは、「如来様が私の言うことに従ってくれ」と願っておられる、
そういう願いの呼ぴかけ、願いの言葉となって私を呼びかけておられるのだと
味わわれたのです。

 そして親鸞聖人は、「帰命とは本願召喚の勅命なり」と言われました。
如来様は「私のいうことを聞きなさいよ」と強制するのではなくて、
お願いをされているのです。
「お願いだから私のいうことを聞いて、そして豊かな人生を、明るく開けた
人生を生きるようになってくれよ」と、如来様は願ってくださっているのです。

「召喚の勅命」とは「召き(まねき)」「呼び返す」ということです。
このような言葉で「南無」という言葉の内容をあらわしていかれたのです。
それゆえ「本願召喚の勅命なり」ということを、『教行証文類』の
「行巻」ではっきりと仰っておられます。

 「本願」は阿弥陀様の願いです。
その願いが言葉となって私に届き、「お願いだから私の言うことを聞いて、
そして私の言うとおりに受け容れ、行動してくれる、そういうものに
なってくれよ」と如来様は願っていらっしゃるのです。

その願いが今、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と私に響いているのです。
そういうふうに親鸞聖人は味わっていかれたのです。
ですから『行』の内容というのは「南無阿弥陀仏」です。
その「南無阿弥陀仏」は、そのまま私の口に「南無阿弥陀仏」の
念仏となってあらわれてくるのです。

          浄土から届く真実の教え 梯実圓師 自照社出版



          


           私も一言(伝言板)