第1034回 ご縁に遇えば 〜すでに遇えた慶びを〜

 平成24年 11月 15日〜

 人は もし、まったくめざめの縁もなく宗教的な感性もめぐまれなかったら、
一年間どのような言葉を口にして過ごしてしまうのかと、ふと思った

ことであります。それについて、次のような言葉を想い出しました。

 夏になると 冬がよいといい

 冬になると 夏がよいといい
 狭い家に住めば 広い家に住む人がうらやましいといい
 広い家に住めば こぢんまりとした狭い家がよいという
 独身の頃には早く結婚したいといい
 結婚すると やはり独身時代が気楽だったという
 それじゃ どこにも幸福はあるまい         (日々の糧)

 この普通一般の言葉のどこに問題があるのでしょうか。

 それは、この言葉には「今」の「自身」をみつめ、「今」の「自身」を

いただくという発想がないということです。

もう一点は、反対のものと比べて、自分が満足したいという考えです。
いかがでしょうか。夏になれば冬、冬になれば夏、広い家に住めば

ご機嫌がよいのかといえば掃除がめんどうで狭い家がよい……。

反対のものがよく見え、今、手に入らないものが、うらやましくなる、
というのであります。



 ところで、親鸞聖人は「いつ」「何」をよろこばれたのでありましょうか。

  ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の
  師釈に、遇ひがたくしていま遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに
  聞くことを得たり………ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを
  嘆ずるなりと。               (『教行証文類』)


  本願力にあひぬれば  むなしくすぐるひとぞなき

  功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし  (『高僧和讃』)

 と述懐されております。

この聖人の世界には、過ぎ去った時間への執われである後悔はありえません。
また、夢、まぼろしの未来だけへの希望的観測という心境でもありません。

過去をおもい、未来をひらく「今」をいただき、すでに遇いえたことの

慶びを告げておられるのであります。


           (中西誓海師 「今、遇うことを得たよろこび」より)

 南無阿弥陀仏に遇えると、過去をおもい、未来をひらく「今」をいただき、
すでに遇いえたことの慶びを味わうことが出来るのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、11月22日に新しい内容に変わります。


         


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