第1388回 念仏は 唯一の道

 令和元年 9月5日~

 恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ
   名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ 

 「恒沙」とは、ガンジス河のほとりにある無数の砂のことです。
宇宙に充満するほどたくさんの諸仏たちは、自力の小さい雑行を捨てて
名号の不思議な力をたのみなさいと、異口同音に他力の信心を勧めて
くださるというのです。

譬えて言えば、諸仏は名医のような存在です。
阿弥陀さまがくださる南無阿弥陀仏という薬は特効薬であると保証して
くださっているわけです。

ぬことに怯えて生きている私たちが本当の命の息を吹き返すのは、
南無阿弥陀仏という薬によってなのだ、と諸仏が口を揃えておっしゃっている。
これが『阿弥陀経』の教えです。

東から始まって南・西・北・下・上の世界の無数の諸仏たちが、衆生は
いずれも南無阿弥陀仏によって助かって往くというお釈迦さまの言葉が本当だと、
証明してくださっているのです。


 信心一つで助かるという第十八願は、第十七願に根拠づけられています。
第十七願は、もし十方の諸仏が南無阿弥陀仏の名を称えることがなかったら、
自分は阿弥陀にならないと誓われた願です。
言い換えますと、十方の諸仏たちによって等しく称えられるような名前、
すなわち真実の言葉にもし自分がなれなかったら、自分は阿弥陀になるまい
という願です。

真実の言葉に自分が成ることが自分の正覚の条件だと、因位の弥陀は誓ったのです。
この第十七願の深い意味を発見されたのは親鸞聖人です。
第十八願は信心を説いていますが、第十七願はそれに先行する行を説いています。

信心と言っても、行というものが根底にないと、単に主観的になります。
「私は阿弥陀さまに助けていただくと思っています」などと言うだけでは、
助かる証拠がありません。

浄土真宗の信心は、個人としての自分が思っているだけの主観的なものではなく、
阿弥陀さまの大行に基礎づけられているから客観的なのです。

各人が心の中で阿弥陀さまのことを一心に思っていればよいということではありません。
私たちが思っていることは、みな我のはからいです。
浄土に往きたいと思いながら、実は地獄へ行くようなことを思っているかも知れません。


諸仏が信心を勧めてくださる根底には弥陀の第十七願があります。
つまり念仏の人の宇宙は、南無阿弥陀仏を称える無数の仏さまたちで
充ち満ちているのです。
たとえば、一人のお年寄りがお念仏をしているのを聞いた若者は哀れみを持って
見るかも知れませんが、それは見当違いです。たとえ小さな声のお念仏であっても、
それは阿弥陀さまの喚び声のこだまなのです。

つまり、私たちのお念仏は、十方の諸仏たちの念仏との合唱として成り立って
るのです。
だから本当に哀れなのは、老若を問わず自分自身が救われて往く道を知らないで
いる人のことでしょう。

              大峯顕著 生命環流 本願寺出版社 より



          


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